[34380]では、「原」地名として一般的に通用しそうな段丘を相模川水系の上流山間部で3つ挙げました。
「原」の第一義は「適当な広さが見渡せる平地」であり、山間部では川沿いにある昔の氾濫原がこれに該当すると考えます。
山間部における貴重な平地は、耕地等として利用されているのが普通であり、広辞苑のように“特に耕作しない平地・原野”に限定する必要はないと思います。
草原が畑になっていても、見通しを妨げないうちは「原」で良いのですが、樹木や建物が多くなって適当な広さが見渡せなくなると、平地であっても「原」という風景から離れてくるようです。
「野」も「原」と同じようなイメージですが、一般に「原」よりも広範囲の呼び名のような気がします。広い「野」は、「原」のように一目で全体を見渡すことができず、平地林によって視界が遮られる部分があっても許容されると思われます。
武蔵野は、もともと “草よりいでて 草にこそ入れ”
[34120] という草原でした。しかし、その風景は時代と共に変ってゆきます。
国木田独歩は 「今の武蔵野」 (1898年発表当時の題名) で次のように書いています。
“昔の武蔵野は萱原のはてしなき光景を以って絶類の美を鳴らして居たように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といっても宜い。則ち木は主に楢の類で冬は悉く落葉し、春は滴る計りの新緑萌え出づる…”
開拓民が薪炭や落ち葉を得るために育てた人工林が、「武蔵野」にとって欠かすことのできない要素になっていたことがわかります。
「相模野」も同じような落葉平地林のある広い 「野」 だった筈で、林の間には局所的に見通しの利く 「原」 が、たくさん存在したことでしょう。
明治15年の地図を見ると、大部分は「畑及桑」と「楢」と記された林で占められ、「草」と記された草原は僅かしか残されていないことがわかります。
実は、このフランス式彩色地図が作成される前年1882年に、この場所のすぐ南西に陸軍参謀本部測量課(後の陸地測量部)が
相模野基線を設けています。私達が日常利用している日本地図を作る全国三角測量網の、文字通りのベースラインになった記念すべき場所です。「見通しの利く平地」は、このような面でも利用されてきました。
相模野基線の名から、明治時代には陸軍も「相模野」と呼んでいたことがわかりますが、1937年に市ヶ谷台から移転した士官学校(本科)等の陸軍施設をかかえた軍都が開発されるに伴なって、「相模野」の北部は「相模原」と呼ばれるようになってゆきました。駅名(小田急1938年、横浜線1941年)、そして2町6村の大合併で生まれた町の名として(1941年)使われるようになったことが、地名「相模原」の普及に決定的な役割を果たしました。
南部では、その後も相模野海軍航空隊(1942年)、海軍航空技術廠相模野出張所(後に高座海軍工廠)など「相模野」が使われました。戦後も相鉄線に「さがみ野」駅が1975年に開設。
「〇〇原」が 駅名や行政地名になることは、逆に自然地名としての「〇〇原」を忘れさせることにもなります。かつては「小田原」とか「伊勢原」とかいう「原」が存在したのでしょうが、現在でも残っているのかな?。
「相模原」や「小金原」
[34193]のように広大な「原」もあるのですが、「原」は局地的な地名として使われることが多いように思われます。例えば
地形図・座間を見ると、北原・上原・中原・下原が並び、そして東名高速道路の南にまた上原があります。
古く「柴胡の原」と呼ばれた地も、相模野の一部でしょう。ミシマサイコというオミナエシに似た黄色い花が秋に咲き、根は解熱剤として利用されたそうです。
[22588]Issie さん
大雑把には「上段=相模原面」「中段=田名原面」「下段=陽原(みなはら/みなばら)面」
には、田名原・陽原という名が出ています。但しこれらは、「中津原台地」
[34159]と同様に接尾語が付いた地理用語であり、純粋の「原」地名ではないのかもしれません。
[18930]ken さん
本来、「野」地名は、耕作不可能な原野、に付けられる「不毛の地」を示す地名ですね。
台、とか、原もそうですが。水利が悪く、開墾しにくい場所をに付けられる地名。
たしかに、平地であっても一面の水田地帯には「原」や「野」はあまり使われず、かつては水利が悪かった高台が多いように思われます。従って
[19012]ken さん
そもそも「~久保」は「~野」にはゼッタイなり得ないわけなのですが。。。
ということになるのでしょう。
しかし、現実には水利の悪い「原」や「野」も開墾されてきたことは、各地で見られる通りです。開墾といえば、小説「宮本武蔵」に登場する「法典ヶ原」なんてのもありましたね。「船橋法典」という駅名がありますが、法典ヶ原は現存する地名でしょうか?
また、新しい時代の氾濫原である「田島ヶ原」や「徳丸ヶ原」(現在は高島平)
[34089] のような用法を見ると、「原」は、必ずしも水利が悪い高台とは限らないようです。
相模川水系の上流山間部に戻ると、本流が山梨県に入ったところに「上野原」があります。駅のある桂川の谷から数十m高い
上野原段丘は、市街地化こそしていますが、山間地帯にあって広々とした見通しの利く 名実共に備わった「原」ではないでしょうか。
上野原から支流の鶴川を遡ると、かつて日本でも有数の長寿村だった 棡原(ゆずりはら)があります。ここはお年寄りが元気に山や野良の仕事をしていた「日本のフンザ」だったのですが、バスが開通した1954年以降、食生活が激変して下界と同様に成人病に侵されてしまったようです。地図で見ても「原」と言えるような平地は見当たりませんが、何故か名前だけは「棡原」。
上野原と同様に、「代々木上原」も 本来は駅のある谷底ではなく、坂を登った台地上(駒場公園前に 代々木上原 バス停)です。