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落書き帳

鎌倉街道

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[22929] 2003年 12月 20日(土)18:38:49【1】KMKZ さん
東山道武蔵路
[22877]愛比売命 さん
東山道という区分も個人的には気になります。まあこの地方区分が有効だった時代といえば、江戸という巨大都市が無かった頃の話でしょうが。。。
武蔵国は、奈良時代の宝亀2年(771)に東海道に所属替えされるまでは、東山道に所属していました。その為に、現在の両毛地方にあった東山道の新田駅と足利駅の中間点付近から武蔵国府(現東京都府中市)まで支線のような道が作られていたそうです。(研究者の間では、この道のことを東山道武蔵路と呼んでいるようです)都からの使者は上野国府-新田駅-武蔵国府-(武蔵路を戻って)-足利駅-下野国府と、遠回りなルートを辿っていたようです。一方、東海道は、相模国府-三浦半島-(海路)-房総半島-上総国府-下総国府のルートだったのが、新たに陸路ができて相模国府-後の江戸付近-下総国府-上総国府のルートになり(総国の上下が逆転)、武蔵国府はこの新東海道に近いので武蔵国は東海道に所属替えとなったようですね。

ところで、以下の地図、
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.49.58.814&el=139.27.6.563&la=1&fi=1&sc=3 東山道武蔵路の名残?
中央に所沢市の市域が細長く狭山市に突き出しているのがわかりますが、この部分、現在は林だそうですが、ちょうど、古代の東山道武蔵路のルートに当たるらしいとのことで、この延長線上の南北に東山道武蔵路の駅跡らしき遺跡が、発見されています。
また、脇の道は鎌倉時代に堀兼道と呼ばれた北(両毛地方?)へ向かう古い道だったそうで、東山道武蔵路を継承した道と考えられているようです。

どうも現代人は江戸・東京を中心に考えてしまいますが、街としての鎌倉が衰退する室町時代中頃までは両毛地方から武蔵国府(府中)ー相模国府(海老名)ー鎌倉へと向かうルートが重要だったのでしょう。新田義貞が鎌倉を攻めた時の古戦場は、小手指(所沢)、久米川(東村山)、分倍河原(府中)と、やはり、昔の主要ルートに沿っていますね。

PS
どうしても都合がつかずオフ会に参加できませんでした。
[26305] 2004年 3月 17日(水)16:45:41湾岸太陽族 さん
7 Ways to Love
[26262] みやこさん
七叉路探してみました。 コレ、はまりますね~。 微妙なものも含まれてますが、リストしてみます。

小樽市 オルゴール堂前
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=43.11.18.379&el=141.0.39.830&la=1&sc=2&CE.x=236&CE.y=278
「入船七叉路」「メルヘン交差点」等の呼び名があるみたいです。

狭山市 奥州道交差点
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.51.50.423&el=139.24.4.512&la=1&sc=3&CE.x=289&CE.y=249
ちょっとずれてるかな…。

小平市・東村山市 八坂交差点
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.44.27.380&el=139.28.11.988&la=1&sc=2&CE.x=313&CE.y=241
以前は「九道の辻」と呼ばれ、江戸街道、引股道、宮寺道、秩父道、御窪道、清戸道、奥州街道、大山街道、鎌倉街道の九本の道が交差していたそうです。
また、元弘の変ではここで新田義貞が鎌倉への道に迷い、後に鎌倉街道沿いに一本の桜の木を植えて道しるべにしたとの伝承も残っているそうです。(「迷いの桜」と呼ばれたとか)

渋谷区 恵比寿駅東口交差点
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.38.33.756&el=139.42.56.172&la=1&sc=2&CE.x=256&CE.y=254

渋谷区 渋谷駅南口
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.39.14.117&el=139.42.14.828&la=1&sc=2&CE.x=263&CE.y=224
これはかなり怪しいです。

既出がございましたらごめんなさい。
[32596] 2004年 9月 6日(月)10:11:44【2】KMKZ さん
八国見山、八国山
[32509]今川焼 さん
八国見山 はちこくけんざん 神奈川県秦野市
関係国は不明です、標高319mで8ヶ国も見えたんでしょうか?
秦野の八国見山の由来は存じませんが、同じ関東の東京都東村山市と埼玉県所沢市との境界となる狭山丘陵の東端には標高89mの山というよりは丘のような八国山と呼ばれる緑地があります。
近くには西武ドームや富士コレクションの荒幡富士がありますが、この山名は、上野、下野、常陸、安房(伊豆とする説もある)、相模、駿河、信濃、甲斐の八ヵ国の山々が眺望できたことに由来するとのことです。
関東の山々が望めるのは当然として、富士山が望めるから駿河・甲斐が挙げられるのはわかりますが、信濃の山とはどの山なのでしょう。手前の秩父の山々が邪魔をして日本アルプスなどは望めない筈なので、もしかして20年ぶりの噴火で注目を浴びた浅間山でしょうか?埼玉北部からは浅間山を見ることができるのですが。

秦野の八国見山も同じ発想で付けられているのならば、八ヵ国の山々が眺望できるからでしょうか。それとも、八国とは江戸時代には関八州とも呼ばれた関東の八ヶ国(上野・下野・常陸・武蔵・相模・上総・下総・安房)のことで、実際に八ヵ国見えるというよりは八国=関東の意味で関東平野が一望できる程、眺めがよいとの意味かもしれません。

ところで狭山丘陵の八国山は、所沢市在住の宮崎駿監督の映画「となりのトトロ」に登場する七国山のモデルとして知られています。主人公であるさつきとメイの母親が入院している病院が七国山病院で、映画のラスト近くでは猫バスの行き先が「七国山病院」に換わるシーンがありました。

近年の発掘の成果として東山道の新田駅・足利駅の中間地点から分岐して武蔵国府へと到る奈良時代の官道、東山道武蔵路[22929]が八国山の東部を貫いていたことが判明しています。東山道武蔵路のルート(東京都内のルート)
下って鎌倉時代末には新田で挙兵した新田義貞が鎌倉へ進軍する途中で八国山に登り、旗を立てたとの言い伝えがあります。八国山の将軍塚
[32662] 2004年 9月 7日(火)07:55:52KMKZ さん
多摩丘陵の七国山と狭山丘陵の八国山
[32611] 音無鈴鹿 さん
いったいどこの7国がみえるんでしょうか。
HP七国山周辺によれば、「相模・甲斐・伊豆・駿河・信濃・上野・下野の七つの国が見渡せた」のだそうです。
[32616]でむじながいり さんが紹介された多摩市から見える山には多摩市から南アルプスが見えると書いてあるので信濃は南アルプスのことでしょうね。
狭山丘陵の八国山から見える信濃の山も南アルプスなのでしょうか。

ところで、多摩丘陵の七国山と狭山丘陵の八国山は、どちらも直ぐ近くを鎌倉街道が通っていて新田義貞の軍勢が鎌倉を目指して進軍したルートに当たるようです。
[34159] 2004年 10月 13日(水)22:24:31hmt さん
秋葉原・小手指ヶ原・勝瀬原・安達ヶ原
秋葉原
[34126]EMM さん
鎮火神社自体が明治2年にできた比較的新しい神社なのだそうです。
なるほど。明治2年の大火を機に、江戸時代から神田川北岸にあった空地の他に 新たな火除地を設け、翌年 ここに秋葉大権現を勧請したというわけですか。切絵図になかったわけです。
神社→秋葉原駅の住所は第五大区→神田区→千代田区ですが、「台東区秋葉原」という町名があります。[34129]の分類では、(2)ですか。
[34120]を書いた後で「あきばっぱら」という呼び方があったことを思い出したのですが、これも秋葉原の歴史にありました。
学生時代、当時総武線の終点だった御茶ノ水駅で、千葉県から来る「担ぎ屋」によく出会ったものですが、あのオバサンたちは正統的な「あきば」という呼び方をしていました。

小手指ヶ原
埼玉県入間地方で最も有名な「原」は、「小手指ヶ原」でしょうか。1333年に新田義貞の鎌倉めにおける幕府軍との合戦場として歴史に残っています。西武の駅名は「小手指」で、駅前の所沢市小手指町など、地名としては「原」が付いていないようです。もちろん古戦場付近も原野のままである筈はなく、畑になっていましたが、始発電車が多い通勤好適地なので、宅地開発が進んでいることでしょう。

勝瀬原
知名度からいうとゼロに近い存在ですが、実はhmtの地元では、「富士見市勝瀬原特定土地区画整理組合」が、1986年から事業を進めています。東武東上線の「ふじみ野駅」が1993年に開業したのもその一環です。
たしかに区画整理事業開始前は、原野に近い状態でした。これが本来の「勝瀬原」か? いやいや、これは自然の「原」ではなく、将来の開発を当て込んだ土地投機により、耕作放棄状態になっていた土地と思われます。
「勝瀬原」という名前自体、区画整理事業開始前には聞いたことがありませんでした。どうやら都市化を前提とした事業のために新たに作られた「原」地名のようです。

安達ヶ原
コレクションに入れないような「原」ばかりでは申し訳ないので。
「原コレクション」に安達ヶ原(福島県本宮町)がありますが、鬼婆伝説で知られる「安達ヶ原」は、二本松市にあります。
本宮町にも同じような伝承があるのかな?

その他「相模原市・相模原台地」からの連想で「伊勢原市」とか、「中津原台地」とかも浮びましたが、接尾語の付かない単独の「原」地名としては、もう一つですね。
まあ、「相模原」も 「相模原町」発足の時から普及した地名で、それ以前は、むしろ「相模野」だったような気がするのですが。
[34193] 2004年 10月 14日(木)15:30:59【1】hmt さん
こてさしがはら・ぶばいがわら・…ききょうがはら・こがねはら
[34185]KMKZさん
小手指ヶ原では1352年にも足利尊氏と新田義宗、脇屋義治との間で合戦が行われています。

小手指(こてさし)は、馴染みのない方には難読地名かもしれません。小手を指し上げ前方を望んだのは日本武尊の故事とか。
それはさておき、小手指ヶ原は狭山丘陵を背にして鎌倉を守る防衛拠点で、元弘3年・正平7年と繰り返し合戦が行なわれたのも、その立地のなせるところなのでしょう。
背後の狭山丘陵と言えば、新田義貞が狭山丘陵東端の八国山に登ったこと、この山が「となりのトトロ」の七国山のモデルであるという[32596]KMKZさんの記事がありました。

元弘3年(1333)に戻ると、戦場は小手指ヶ原のあと、久米川・分倍河原・関戸と南下して、稲村ヶ崎から鎌倉に迫るのですが、分倍河原(ぶばいがわら)で また「原」が出てきました。多摩川沿いには南武線の駅名だけでも、分倍河原・宿河原・武蔵中原・向河原があり、京王線を加えると中河原・上石原(1959年 西調布と改称)もありました。

駅名の「原」に飛んだついでに、hmtの地元で過去に信号場の名に使われた「ききょうが原」を挙げておきます。[22008]「ふじみ野」の記事で触れましたが、これも過去帳入りした地名です。[34159]で触れた「勝瀬原」も、この記事にありました。

あと、習志野原[34165] から連想するのは、その北にある広大な「小金原」です。
団地の名前や松戸市の町名としては使われていますが、「原コレクション」に収録する地名としては現役と言えるでしょうか?
相馬氏が「先祖,下総国居住の節,小金原に於て野馬追仕り候。」と伝えた平将門の戦力の源であった由緒ある牧場で、江戸幕府も直轄の牧場として経営しました。


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