都道府県市区町村
落書き帳

トカラ

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[24269]2004年1月29日
hmt
[24278]2004年1月30日
太白
[24282]2004年1月30日
hmt
[39936]2005年4月17日
ふぁいん
[40005]2005年4月18日
hmt
[40012]2005年4月18日
ふぁいん
[40016]2005年4月18日
Issie
[40026]2005年4月18日
hmt
[40032]2005年4月19日
作々
[40061]2005年4月19日
白桃
[56190]2007年1月12日
hmt
[56242]2007年1月15日
hmt
[56250]2007年1月16日
hmt
[58582]2007年5月20日
役チャン
[65126]2008年5月15日
むっくん
[65138]2008年5月16日
hmt
[65152]2008年5月17日
むっくん
[65174]2008年5月18日
hmt
[65194]2008年5月20日
むっくん
[65198]2008年5月20日
88
[68484]2009年1月27日
Issie
[70670]2009年6月30日
にまん
[70677]2009年7月1日
k-ace

[24269] 2004年 1月 29日(木)23:43:49【2】hmt さん
伊豆諸島が日本でなかった53日
[24187] では 明治11年(1879)の東京府移管まで しか記しませんでしたが、伊豆諸島の帰属を巡っては、まだとんでもない履歴がありました。
島庁、支庁の設置、都制施行は さておき、なんと 伊豆諸島が日本でなかった時期があったのです。
1946年1月29日(たまたま今日と同じ日付ですね)、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書 「特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件」 により伊豆諸島全域が 日本政府の統治領域から外されてしまいました。
戦後の混乱期とはいえ、3月22日に日本に復帰するまでの53日、下田よりも北にある伊豆大島が 日本でない時期があったとは!
しかも この間に伊豆大島では 独自の憲法草案まで作られたというから驚きです。
復帰の日付は 菅田正昭さんの「島風とシマ神」[24183]によりましたが、同じ著者の 「日本の島事典」(三交社1995)[22569]には、昭和21年1月29日から3月12日とあるので 43日になります。どちらかがミスプリントでしょう。

なお、伊豆諸島といっしょに日本でなくなった トカラ列島 下七島 (北緯29度と30度の間) の復帰は 1951年12月5日で、これにより 鹿児島県大島郡には、1946年に北緯30度線で分断された際に 日本に残った上三島と共に 2つの十島村(じっとうそん)が存在することになりました。翌年2月10日には上三島が 三島村(みしまむら)に、下七島が 十島村(としまむら)になり、同名は2ヶ月で解消しました。現在は両村共に 鹿児島郡。
北緯29度以南の奄美諸島復帰は、トカラ下七島復帰から2年後の 1953年12月25日になりました。

なお 小笠原諸島の日本復帰は1968年6月26日。沖縄復帰は1972年5月15日。北方四島は未復帰です。
[24278] 2004年 1月 30日(金)09:56:16【3】太白 さん
十島村(としまむら)
[24269] hmt さん
[24274] Issie さん
伊豆大島の帰属の話を大変興味深く読ませていただきました。
でも、反応するのは以前から興味があった「トカラ」ネタの方です…。

(hmtさん)
トカラ列島 下七島 (北緯29度と30度の間) の復帰は 1951年12月5日で、これにより 鹿児島県大島郡には、1946年に北緯30度線で分断された際に 日本に残った上三島と共に 2つの十島村(じっとうそん)が存在することになりました。翌年2月10日には上三島が 三島村(みしまむら)に、下七島が 十島村(としまむら)になり、同名は2ヶ月で解消しました。
十島村のHPによれば、「トカラ」の由来は、「トハラ」(奄美方言で沖の海原を表す)、アイヌ語の乳房を意味する「トカプ」、「宝島」の「タカラ」など、諸説あるようです。それが、近世に三島村を含めた有人十島全体が「じっとうそん」と呼ばれるようになり、現在は「としまむら」となっています。
すなわち、「とから」→「じっとう」→「としま」との変遷を経ているわけですが、通称としては現在も「トカラ」の名が根強く生きていることになります。

余計なお世話ですが「十島村」という名称は、「名は体を現していない」典型ですね。村のシンボルマークも「7つの島の団結を示したもの」になっています。

以下は十島村の年表です。

文治元年(1185年)壇ノ浦の戦いで敗れた平家一族が十島列島にも落ち延びて定住(伝説)
嘉禄3年(1227年)十島は川辺郡に属し、平氏系統の川辺氏が支配
宝永元年(1704年)口之島、中之島、宝島に薩摩藩異国船番所、在番を設置。七島の島役は郡司、横目。
文政7年(1824年)宝島でイギリス坂の戦い(英捕鯨船が牛を欲しがったため)
→幕府の外国船打払令のきっかけ
明治4年十島村は廃藩置県の対象外とされ、在藩が引続き郡司・横目と共に行政を担当
明治8年在藩引き揚げ。口之島・中之島・宝島・硫黄島に戸長を置く。副戸長は全島。
明治18年川辺郡十島のうち、下七島は川辺郡帰属のまま金久支庁(翌年大島県庁)管轄、
上三島は大島郡金久支庁西之表出張所管轄となる
明治22年上三島を再編入。市町村制施行から除外され、中之島の戸長が十島全体を統治(?)
明治30年川辺郡より分離、大島郡十島となる。
明治41年「島峡町村制」が施行され、十島村発足。
大正9年本土並みの市町村制実施
大正15年大島県庁を廃し大島支庁を置く。
昭和21年GHQ指令により北緯30度で上三島(竹島・黒島・硫黄島)と分離され軍政下に
昭和26年現十島村で本土復帰運動が起こり、1,970人が署名
昭和27年2月4日に十島村が本土復帰、2月10日に十島村(としまむら)発足(上三島は三島村として同日発足)
昭和31年役場所在地を中之島から鹿児島市に移転し、中之島に支所設置。
昭和35年中之島・口之島に電話開通
昭和48年十島村は大島郡から鹿児島郡へ帰属変更

十島村といえば、「村内に役場が無い」ということで有名(?)なわけですが、歴史をみる限り、少なくとも明治41年以降昭和31年に至るまで、十島村の行政中心は中之島にありました。それが、昭和31年に鹿児島に移転しており、島外の役場設置は「必然」とはいえません。むしろ、電話も電気もなかった昭和20年代以前に、しっかり中之島に行政中心があったわけです。
ただし、村のHPを見ると、
県本土とのかかわりは、益々緊密の度合を増していったことから、昭和31年4月1日から役場庁舎を鹿児島市へ移転した。
とあり、竹富町のように、島相互の交通の便が悪いことによるものではないですね。島の開発を陳情しやすいように県庁近くに役場を置いたことを示唆しています。

また、重箱レスですが、十島村HPの年表によれば、下七島の復帰は昭和27年2月4日とあり、同10日に十島村発足(上三島は三島村として同日発足)とありますので、同名期間はない(ないし6日間)ではないでしょうか? >hmtさん

【訂正機能にて追加】
明治19年から大正15年までは「大島県」というのが存在したようですが、その後「大島支庁」になっていることから、どうやら他の「府県」とは位置づけが異なるようですね。
[24282] 2004年 1月 30日(金)11:30:04【1】hmt さん
七島なのに十島村とはこれいかに?
[24278] 太白 さん
十島村HPの年表によれば、下七島の復帰は昭和27年2月4日とあり、同10日に十島村発足
私が参照したのは名瀬市の「奄美群島日本復帰50周年」 http://www.city.naze.kagoshima.jp/museum/museum/hukki-3.html 記載の年表でした。その1951年のところに
連合国最高司令官覚書により北緯29度以北(十島村の下七島)が日本復帰(12月5日)(大島郡十島村(じっとうそん)が二つ存在することとなる)
とありました。SCAP覚書の日付と現実に復帰した日付のズレかもしれません。

旧十島村(じっとうそん)の一部である三島村の硫黄島(鬼界ヶ島)と竹島は、[24108]等で言及した鬼界カルデラ(6300年前に大噴火)の北縁にあたります。

「トカラ」の表記は漢字が正しいのだろうと思いますが、入力の便宜上カナにしてしまいます。
十島村HPでさえも カナ表記が見られるので、地元も許してくれるでしょう。
【1】補足
[19907] 般若堂そんぴん さん 、[19914] U+3002 さん に教えていただいた表示法を試る機会だったかもしれませんが。

表記と言えば、[24269]では「奄美諸島復帰」と書いてしまいましたが、上記名瀬市のHPにあるように、当時の用語としては「奄美群島復帰」が正しいですね。訂正しておきます。
[39936] 2005年 4月 17日(日)14:36:41【2】ふぁいん さん
昭和25(1950)年沖縄県人口の謎&明治12(1879)年主要都市人口について
[39935] 白桃 さん

沖縄県がHPで発表している市町村別の国勢調査人口を齟齬が生じないように慎重に入力しております。
ただし、1947年はありません。
ただ、占領時下に沖縄でも国勢調査は行われていたのですかね?
記録があるから、間違いではないと思いますが・・・

やはりそうですか。私も沖縄県のHPを参考にしてデータを作成しています。
しかし、沖縄県発表の昭和25(1950)年のデータがどうもしっくりいかないのです。
各年代・国勢調査報告第1巻の付表2 都道府県の市区町村の推移によれば、

昭和25年の沖縄県
市区町村数:86
市数:6
町数:12
村数:68
県人口:914,907人
となっています。

沖縄県発表の場合は、66市町村・698,827人です。

残りの20市町村・216,080人はどこに行ってしまったのかなぁと・・・・
そのため全国の合計人口も合わないし。
戦後の一時期のみ、他にも沖縄県を名乗っていた地域があったのだろうか。
とても不思議に感じております。

白桃さんは、このことにお気づきだったでしょうか?


[39897] 両毛人 さん
これは私からもリクエストいたします!
[39896] ken さん
またそれは、金沢が4位だった時のデータについても、可能でしょうか?

残念ながらありません。おおよその人口位しかわかりません。
金沢の人口を「約」12万人としたのもそのためです。
少なくとも明治4(1871)年の調査までは、金沢には約12万人いたそうです。
その他、富山が当時全国9位。

注:[39658] では、明治維新以後、国内の都市で人口ベスト10入りしたことのある都市として、
22都市あげておりますが、富山が抜けておりました・・・

この年代についても、可能な限り調査したのですが、詳細なデータらしきデータが全くなかったのです。
私が明治中期・明治初期・江戸後期の詳しい都市人口を知りたいのは、このためなんです。。。

明治12(1879)年の主要都市の人口のデータなら持っていますので記載します。
(私が現在所有する最古の人口データとなります)

東京 761,335
大阪 291,565
京都 232,683
名古屋111,783
金沢 107,876
広島 76,589
和歌山62,080
仙台 55,035
横浜 46,187
福岡 45,480
熊本 45,032
神戸 44,368
新潟 36,591
岡山 33,028
長崎 32,815
赤間関26,502
函館 22,088
伏見 22,011
札幌 8,782

その他、
富山 約55,000~60,000
堺 約40,000
福井 約40,000
松江 約35,000
鳥取 約32,000
位となります。
上記5都市は様々な資料を参考・調査した結果の推測人口です


[39882] 愛比売命 さん
一番くびれている立科町なんて,ほとんど道路一本でつながっているような状況。

へぇ~~~~これはすごい。ホントに見事なまでに道路一本でかろうじてつながっていますね
最も細いところで、東西約100mといったところでしょうか・・・・
どのようにして、このような町域になったのか経緯が気になりますね・・・
ということで、少し調べてみました。

長野県北佐久郡立科町(全国市町村名変遷総覧・日本加除出版より)
S30.4.1 北佐久郡芦田村・横島村・三都和村の3村が合併し、北佐久郡立科村となる
S33.10.1 町制施行
S35.4.15 北佐久郡望月町(大字茂田井の一部)を編入


芦田という地名が立科町北側にある(町役場も立科町芦田ですし・・・)ので、そこらへんが旧芦田村かな?と思ったら、
なんと南側の白樺湖付近も「芦田」八ヶ野という地名が・・・・
横島、三都和という地名も既に現存しておらず、ここでギブアップ。

旧3村はどんな形をしていたのでしょうかね・・・
おそらく、北側が旧芦田村域で間違いないと思うが。
[40005] 2005年 4月 18日(月)19:34:45【1】hmt さん
沖縄・奄美・トカラ・上三島
[39936]ふぁいんさん 昭和25(1950)年沖縄県人口の謎
216,080人はどこに行ってしまったのかなぁ

大筋としては、[39953] 229 さん の「奄美諸島」関係説で正しいと考えますが、細かく言うと、トカラ列島を含む「当時の奄美群島」が関与しているようです。

総務省統計局の時系列データでは、昭和25年の沖縄県人口として914,937人が掲載されています。
しかし、昭和25年当時「沖縄県」が存在している筈がないので、これは本質的に誤りですね。昭和30年~昭和45年についても同様。「沖縄返還」は昭和47年(1972/5/15)です。

となると、琉球独自の“国勢調査”[39962]紅葉橋瑤知朗さん による人口が正しいと思われます。
そこで [39965]Issieさん に教えていただいた、琉球政府公報を探したのですが、何故か該当文書はpdfで白紙が現れて確認できず。

それはともかく、[39936]ふぁいんさん にある“沖縄県発表の698,827人”に、[39962]紅葉橋瑤知朗さん の“奄美諸島人口(216,110人)”を加えると、統計局の数字 914,937人ピッタリになります。

というわけで、前記の統計表では明示されていなかった 914,937人の根拠を推察することができたと思います。
しかし、「存在しなかった沖縄県」を「現在の沖縄県に相当する地域」と解釈しても、鹿児島県に属する奄美の人口を含んだ数字なので、二重の誤りと言えます。
総務省統計局がこの有様では、後は「白桃都市人口研究所」に期待するしかないか。

ところで、この“奄美諸島人口(216,110人)”の意味する地理的範囲が曲者です。

実は、北緯29度以南の「奄美群島」本体が復帰する前の1951/12/5(実質的には1952/2/4か)に日本に戻ってきた、北緯29度から30度の間にあるトカラ列島(下七島)[24278]太白さん[24282]hmtの存在を考慮する必要があります。
昭和25年国勢調査は、「トカラ復帰」よりも前のことでした。だから、前記“奄美諸島人口 216,110人”には、トカラ列島の人口が含まれていると考えられます。
【補足】トカラ列島を含むという推測は外れていました。[40026]参照

総務庁「日本長期統計総覧」による男女別人口の昭和27年の注を見ると、
昭和26年12月に復帰した鹿児島県大島郡十島村(トカラ)の人口2,968人(男1,449 女1,519)を含む。
とあり、更に昭和29年の注には、
昭和28年12月に復帰した鹿児島県奄美群島の人口201,132人(男93,269 女107,863)含む。
とあります。こちらの「奄美群島の人口」は、トカラを含んでいない数字ですね。
この統計表の注記を見ると、人口統計もいろいろなことを考慮しないといけないことがわかります。

[39953] 229 さん
1950年の国勢調査の鹿児島県のところを見ると大島郡には十島村しかありません。

当時の大島郡「十島村」(じっとうそん)は、現在の鹿児島郡十島村(としまむら)=下七島ではなく、鹿児島郡三島村(みしまむら)=上三島ですね。
【補足】
現在のデータの十島村人口は、上三島の人口に復帰前の下七島の人口が加算されている可能性があります。[40026]参照

上三島の硫黄島と竹島は、縄文時代に起こった鬼界カルデラ大噴火[24108]の跡です。
上三島は、戦前はトカラ列島(下七島)と共に「十島村」を作っていましたが、種子島北部と同緯度のため、1946年に日本の統治から外された特定外周領域[24269]にはならず、3島だけで「十島村」として日本に残りました。
約6年後「トカラ復帰」は実現したが、北緯30度線で分断されていた村は「南北統一」せず、三島村と十島村になりました。
両村共に鹿児島市に村役場があることは、[357]以来 度々話題になっています。1973年には両村共に大島郡から鹿児島郡に変更。やはり、奄美ではないようです。

ところで 「奄美諸島」か「奄美群島」か。
現在の地図では「奄美諸島」という表記が多いように思いますが、「奄美群島復帰」(1953/12/25)当時以前には、「奄美群島」の方が普通のようです。
例により、帝国書院の「復刻版地図帳」[25914]により記載状況を調べてみます。1934年版は「奄美群島」、1973年版では「奄美諸島」。そして、問題の1950年版はというと、アジアの図に初登場の南西諸島[38249]が小さく出ていますが、奄美はありません。
この時代の中学・高校生( hmt自身)は「日本でなかった奄美群島」について学習していなかったのでした。
[40012] 2005年 4月 18日(月)21:38:15【1】ふぁいん さん
奄美群島20市町村の人口は・・・・・・
[40005] hmt さん
[39962] 紅葉橋瑤知朗 さん
[39958] 229 さん

どうもありがとうございます~
私も残りの20市町村が奄美群島の市町村であることを確認しました。
なんとしかも昭和25(1950)の人口の補足として、「奄美群島(市数1、町数5、村数14)は沖縄県に含め、鹿児島県から除いた。」
と記載されているではありませんか。ばかな奴でございます・・・
皆さんの指摘がなければ、おそらくずっと気がつかなかったかもしれません。

しかし、ここでもうひとつの問題が・・・
問題となっている「奄美群島」20市町村の1950年・国勢調査人口は謎のままなのです。
合計人口が216,110人とわかっても、各市町村の人口が不明のまま・・・・
私の手元にある、現在の市町村域に当てはめた市区町村別人口推移によると、
問題となる奄美群島の各市町村の昭和25(1950)年当時の人口は、

 
              人口     昭和25(1950)年当時の市町村名
名瀬市 38,724 名瀬市・三方村
大和村 6,374 大和村
宇検村 7,615 宇検村
瀬戸内町 28,985 西方村・実久村・鎮西村・古仁屋町
住用村 4,490 住用村
龍郷町 9,704 龍郷村
笠利町 12,083 笠利村
喜界町 18,352 喜界町・早町村
徳之島町 22,575 亀津町・東天城村
天城町 13,043 天城村
伊仙町 17,716 伊仙村
和泊町 13,259 和泊町
知名町 15,049 知名町
与論町 8,141 与論村
奄美群島計 216,110

その間一度も境界変更がなかったとすれば、合併していない
大和村・宇検村・住用村・龍郷村・笠利村・天城村・伊仙村・和泊町・知名町・与論村の10町村の
1950(昭和25)年国勢調査人口は、
上記の人口で確定となります。
しかしその間、境界変更があったとすると、意味が無いですけどね。
このまま奄美群島各市町村の人口がわからないままになるのでしょうかね・・・・



私も[39965]Issieさん 紹介の「琉球政府公報」を見ようとしたのですが、
[40005]hmtさん同様、該当pdfが白紙状態で見れませんでした。
[40016] 2005年 4月 18日(月)22:25:54【1】Issie さん
続・琉球政府の国勢調査
[39962] 紅葉橋瑤知朗 さん
1950年のみ12月1日現在、それ以外は本土と同じく10月1日現在でした。

琉球政府公報に掲載された各告示によれば,琉球政府の行った「国勢調査」は次の5回です。
・1950年12月1日実施「1950年国勢調査」
・1955年12月1日実施「臨時国勢調査」
・1960年12月1日実施「1960年国勢調査」
・1965年10月1日実施「1965年臨時国勢調査」
・1970年10月1日実施「昭和45年国勢調査」

1955年以降は,琉球政府の立法機関である「立法院」(ただし,より上位の立法権を米民政府が持つ)で立法された「統計法」(1954年立法第43号)を根拠に行われましたが,琉球政府の発足(1952年4月1日)以前に行われた1950年の調査は1950年10月18日付の 琉球列島軍政本部軍政府布令第25号 を根拠に行われています。

1920年以来“日本本土”で行われていた「国勢調査」という呼称を引き継いだものの,前3回が12月1日現在で実施されているように,「本土」とは“独立”に行われていたものなのでしょうね。
「日本」の国勢調査に引かれるデータは,「参考値」というところでしょうか。

[40005] hmt さん
何故か該当文書はpdfで白紙が現れて確認できず。

私のところではどういうわけか,1ページ目が白紙で出てくることがしばしばあるのですが,2ページ以降は大丈夫です。

で,1952年10月13日に告示された「1950年国勢調査」の確定値によれば,
現住人口(含外国人:左3列)および「琉球に本籍を有する者」(右3列)は

--
全琉球914,947429,432485,505906,854423,715481,679
沖縄群島580,233271,450308.773576,389269,392306,997
奄美群島216,110100,524115,586213,62499,210114,252
宮古群島74,61835,65238,96674,32135,49738,824
八重山群島43,98621,80622,18042,68221,07621,606

という数字だそうです。
※註によると
--------------------------------------------------------------------------------------
本表に於ける外国人は
日本人,比島人,支那人,朝鮮人,アメリカ合衆国人,南米人,其の他よりなる。各群島市町村別における外国人もこれに準ず。
--------------------------------------------------------------------------------------
とのこと。

掲載されている市町村は以下のとおり
◎沖縄群島
▲北部地区:
01 国頭村,02 大宜味村,03 東村,04 羽地村,05 屋我地村,06 今帰仁村,07 上本部村,
08 本部町,09 屋部村,10 名護町,11 恩納村,12 久志村,13 宜野座村,14 金武村,
15 伊江
▲中部地区
16 石川市,17 美里村,18 与那城村,19 勝連村,20 具志川村,21 越来村,22 読谷村,
23 嘉手納村,24 北谷村,25 北中城村,26 中城村,27 宜野湾村,28 西原村,29 浦添村
▲南部地区
△都市地区
30 首里市,31 那覇市,32 真和志村
△農村地区
33 小禄村,34 豊見城村,35 糸満町,36 兼城村,37 三和村,38 高嶺村,39 東風平村,
40 具志頭村,41 玉城村,42 知念村,43 佐敷村,44 与那原村,45 大里村,46 南風原村,
47 仲里村,48 具志川村,49 渡嘉敷村,50 座間味村,51 伊平屋村,52 伊是名村,
53 粟国村,54 渡名喜村,55 南大東村,56 北大東村

○奄美群島
60 名瀬市,61 三方村,62 大和村,63 宇検村,64 西方村,65 実久村,66 鎮西村,
67 古仁屋町,68 住用村,69 龍郷村,70 笠利村,71 喜界町,72 早町村,73 亀津町
74 東天城村,75 天城村,76 伊仙村,77 和泊町,78 知名町,79 与論村

○宮古群島
80 平良市,81 城辺町,82 下地町,83 上野村,84 伊良部村,85 多良間村

○八重山群島
90 石垣市,91 大浜町,92 竹富町,93 与那国町

そこで,奄美群島所属20市町村の確定人口は次の通りですが,文字がつぶれていて判読しづらいところがあります。
上と同様,左が「(外国人を含む)現住人口」,右が「琉球に本籍を有する者」。

60名瀬市28,97028,037
61三方村9,7549,713
62大和村6,3746,345
63宇検村7,6157,579
64西方村4,2264,174
65実久村5,3235,290
66鎮西村7,4507,415
67古仁屋町11,98711,796
68住用村4,4904,421
69龍郷村9,7049,659
70笠利村13,08312,026
71喜界町10,99910,958
72早町村7,3537,309
73亀津町12,43512,216
74東天城村10.14010,024
75天城村13,04312,896
76伊仙村17,71617,546
77和泊町13,25913,072
78知名町15,04914,890
79与論村8,1418,099

とりあえず,こんな数字で如何ですか。

あ,ついでに…
1965年確定人口の表には「全琉」という表現があります。
[40026] 2005年 4月 18日(月)23:51:53hmt さん
そうだとすると、トカラの人口は?
[40012]ふぁいん さん
「奄美群島(市数1、町数5、村数14)は沖縄県に含め、鹿児島県から除いた。」と記載されているではありませんか。

“20市町村、人口 216,110人”には、十島村(トカラ列島)は含まれていなかったのですか。
[40005]hmtでは、「トカラ復帰」よりも前の昭和25年国勢調査だから、「トカラは奄美と同様の扱いになっていた」と推測したのですが、外れていたことになります。

そうだとすると、新たな疑問が…。
つまり、昭和25年国勢調査には、まだ鹿児島県に復帰しておらず、沖縄県に含めた20市町村にも含まれていなかったトカラ列島(下七島)の人口はどこに行ったのか?

ここから先はまた推測ですが、復帰前の下七島の人口は、昭和25年国勢調査当時は上三島だけだった鹿児島県十島村の人口に加算されて、「現在のデータが作り上げられている」のではないでしょうか。
私はデータを持っていませんが、昭和25年国勢調査の十島村(じっとうそん)人口が、トカラ復帰後の昭和30年国勢調査における十島村(としまむら)人口と三島村(みしまむら)人口との合計に近いものになっておれば、この推測が当たっていると考えます。

[40005]の関係する個所には、本記事を参照する補足を加えておきます。
[40032] 2005年 4月 19日(火)00:31:42【1】作々 さん
吐喝喇の人口
[40026] hmt さん
そうだとすると、トカラの人口は?
角川の地名辞典によると、昭和25年の上三島(現三島村)の人口が1,484人、下七島(現十島村)の人口が2,871人だそうです。
因みに昭和30年で三島村が1,352人、十島村が2,658人となります。

昭和25年の人口が何処から出たものかはちょっと調べきってませんが、数は合っているのでしょうか?
[40061] 2005年 4月 19日(火)02:14:15白桃 さん
多事総論
筑紫さんのとは少し字が違うかも・・・
まず、40000番到達おめでとうございます。
そして、Issieさん、ふぁいん学部長、hmtさん、他のみなさま有難うございました。昨夜の「奄美」の人口の件については、「確か、国会図書館で昭和30年の国勢調査鹿児島県編を書き写しているときに、補足として掲載されていたナ・・・」とあわてて帰宅しそのノートを調べたところ、昭和29年3月1日の人口とメモしてました。私の1950年人口データーでも、青字でした(確信が持てない場合など、色をかえてます)。これでは白桃都市人口研究所も看板を返上しないといけませんね。
[40014]半鳥人さん
「人口20万人を超える小田原市」と言っていました。何を基準にしたのか分かりませんが、「超える」と断言しても良いのでしょうか。微妙です。
今年3月1日現在推計では198798人で、20万人を割り込んでいるのはまず間違いないと思われますが、2000年国勢調査時点では20万人を超えていたのも事実ですから、まぁ、そのテレビ局を許してあげても良いかな、とも思いますが・・・。せめて、「20万都市、小田原」ぐらいにして欲しかったですね。

[40009]右左府さん
それにしても、問一の共通解は一体……。皆さん拍子抜けしているようで、私もその気分を味わいたいです。
昨日やっと出来た(といってもまだ採点はしていただいておりません)私が申し上げるのも変ですけど、これが、いっちゃん学園の小学校入学問題程度であると、最初からわかっておれば、自分ももうチート早く解けていたかナと思います。白桃なんか、一番最初に答えたときは―もちろん、それは不正解―本気で花火大会のある市かと思ってました。EMMさんではありませんが、47都道府県すべて、漢字で書けなくても、ただ、口に出して言える人なら誰でも・・・、おっと私はヒントを出す権限はありません。ま、みんな寝静まっているからいいか。(笑)
と、思っていたら皆さん元気にまだまだ書き込んでいらっしゃいます。もう、健康のために早く寝ましょう。という私は、これから昨日公表された岡山県3月1日現在推計人口を整理します。(笑)
[56190] 2007年 1月 12日(金)18:15:48【1】hmt さん
日本から政治的行政的に分離された「外周領域」
[56162]で、第二次大戦の末期に、硫黄島を含む小笠原諸島から、民間人の強制疎開が行なわれたことを記しました。
実は、小笠原からの住民引揚は、これが始めてのことではなかったのでした。

既に[26683]で書いたことなのですが、幕末の1861年(文久元年)に老中安藤信正は外国奉行水野忠徳を咸臨丸で派遣して小笠原を回収させ、翌年には八丈島からの移民を送り込み開拓を始めました。
ところがその1862年に起きた生麦事件[54415]の賠償金をめぐり、英国との間に確執があり、真っ先に攻撃される虞のある小笠原は、早々に開拓を放棄して本土に引き揚げてしまったのです。
この時には、旗本の奥方の疎開騒ぎ[33902]があったくらいで、江戸が襲われることも心配されました。
小笠原は、明治8年になってようやく再回収され、翌1876年には日本の小笠原領有が国際的に認められました。

19世紀の話はこのくらいにして、本題である第二次大戦の敗戦によって失なわれた「日本の外周領域」のことに入ります。

小笠原諸島では、1944年に軍属以外の6886人が本土に引き揚げ[56162]
優勢な米軍は、1945年2月に硫黄島に上陸。栗林部隊2万人が必死に抵抗するも3月には玉砕。
当時の大本営発表では「いおうとう」でした。国土地理院の「いおうじま」や米軍の「Iwo Jima」と違うのは、厚木(あつき)[22152]や物干場(ぶっかんじょう)[38388]のような軍隊方言のせいでしょうか?
父島・母島の生存者は、8月の日本敗戦によって本土に送還されました。

沖縄での地上戦は、3月26日の慶良間諸島(4月1日 沖縄本島)上陸に始まり、6月23日に組織的な戦闘が終了しました。
「鉄の雨」が降り注いだ3ヶ月間に、多数の民間人を含む20万人の犠牲者を出し、日本の行政機能は事実上壊滅ました。

敗戦後、戦場になった沖縄と小笠原を含めたいくつかの島々の行政が、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書(指令のMemorandum)によって日本から切り離されます。

「特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件 Govermental and Administrative Separation of Certain Outlying Areas from Japan」というタイトルで、SCAPIN-677 と呼ばれています。SCAP=連合国軍最高司令官(日本の新聞では「マ元帥」と表記)の Instruction Noteという意味です。

この覚書の第3条の中で、「日本の地域から除かれる地域」として列挙された3項目の中に
(b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆、南方、小笠原および火山(硫黄)列島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島
があり、“北緯30度以南の琉球列島”の中には、沖縄、奄美群島、トカラ列島の「下七島」が含まれます。

(b)項において、伊豆諸島も日本の地域から除かれています。これに関連して、2004年1月29 日(SCAPIN-677発令58周年)に、[24269]「伊豆諸島が日本でなかった53日」という記事を書きました。この記事に対する Issieさんのレス[24274]にあるように、 SCAPIN-841 による修正によって、伊豆諸島が日本に戻りました。

(b)項には、南方諸島[53392]の名も見えます。(対日講和条約第3条や小笠原返還協定 第1条第2項では、小笠原を含む広い意味で使われています。)
沖縄県に所属するものの、「大東島群」(沖ノ鳥島やパラオ列島に連なる)は、別に挙げられています。
幻の「中ノ鳥島」([26266]の末尾)が、顔を出しているところはご愛嬌。

(a)鬱陵島、竹島、済州島や(c)千島列島、歯舞島群、色丹島が日本に含まれていないことは、領土問題についての韓国やロシアの主張の一つの根拠になっているのでしょうが、もともと SCAPIN-677 は、第6条に明記されているように、最終的な帰属を定めるものではない暫定的な性格のものだから、領土問題にこれを持ち出すのは筋違いということになります。
ついでに言えば、 SCAPIN-677 によれば、鬱陵島・済州島は、第4条の朝鮮とは区別された存在ですね。

原文を読もうと思ったら 画像 がありましたが、読みにくい。
外務省HPの中の 日露領土関係文書IIIの12番目は、全文ではありませんが、よく読めます。

1946年(昭和21年)1月29日に発令された SCAPIN-677 は、2月2日にGHQの民間情報教育局(CIE)から発表され、奄美復帰年表 では、「二・二宣言」と呼ばれています。
昭和21年2月3日毎日新聞(大阪)には、「日本領域マ司令部指定」という記事がありますが、読んでみると、“日本領域として特に指定された島嶼に 千島諸島 および北緯30度以北の琉球諸島を含んでいるが…”とあります。
これは明らかな誤報です。電話送稿で「対馬」と「千島」を取り違えたのでしょう。
[56242] 2007年 1月 15日(月)22:32:21hmt さん
十島村(じっとうそん) と 十島村(としまむら)
日本は、第二次大戦に敗れた 1945年の秋に「進駐軍」に占領されました。
年が明けた1946年になると、マッカーサー司令部から発せられた覚書 SCAPIN-677 によって、日本の施政権が及ぶ範囲は、 “四主要島嶼(北海道、本州、九州、四国)と、対馬、大隅諸島を含む約1千の隣接小島嶼” に限定されることになりました [56190]

実は、この文中で“大隅諸島”と書いた部分は、原文では“北緯30度以北の琉球(南西)諸島”なのですが、種子島・屋久島などのことを“琉球諸島the Ryukyu (Nansei) Islands”扱いにしている原文は誤解しやすく、かつ冗長なので、あえて原文に使われていない“大隅諸島”を用いました。

日本の施政権から外された地域には、沖縄、小笠原、竹島、千島などの他に、東京都の伊豆諸島と、奄美諸島、それにトカラ列島(鹿児島県十島村)の北緯30度以南が含まれていました。

屋久島と奄美大島との間に位置するこのトカラ列島。1889年に「町村制ヲ施行セサル島嶼」として指定された当時は「鹿児島県管下薩摩国川邊郡」であり、「川邊十島」という呼び名もあるのですが、1897年に奄美と同じ「大島郡」に編入されました。同時に「大隅国」に変更されたようです。
戦後の1973年には鹿児島郡に所属変更。この時は国界変更はない筈ですから、大隅国のまま鹿児島郡。

郡の境界付近で、新羅(新座)郡→入間郡→(新座郡統合後の)北足立郡→入間郡 と出入りを繰り返した針ヶ谷[41711]を紹介したことがありますが、同じ土地が 川辺郡→大島郡→鹿児島郡と、全く異なる3郡(2国)を渡り歩いたのは、珍しい事例だと思います。

郡の話はさておき、トカラの島々は、1908年の島嶼町村制による十島村(じっとうそん)を経て1920年に「本土並み」の村になっていたわけですが、前記のように、思いがけず村内の「北緯30度」に境界が引かれることになりました(1946年)。

このために、境界線よりも北の「上三島」(硫黄島、黒島、竹島)は日本に残り、北緯30度以南の「下七島」(口之島、臥蛇島、平島、中之島、悪石島、諏訪ノ瀬島、宝島)は奄美などと共に日本から切り離されました。
村外で起こった政治力学の影響により、十島村は完全に分断されたわけです。

5年余を経た 1951年9月にサンフランシスコ講和条約が調印されましたが、この条約 第3条の信託統治条項により、北緯29度以南はそのまま日本から分離されることになりました。
しかし、北緯29度と北緯30度の間のトカラ列島「下七島」だけは、日本に復帰することができたのです。

「下七島」の日本復帰にあたり、1946年以来、実質的には「上三島」だけになっていた「十島村(じっとうそん)」では、旧十島村を復活させるか、分村するかの議論になり、住民投票の結果、圧倒的多数で分村することになりました。出典

こうして従来の「十島村」と、「下七島」復帰により新たに生まれる「十島村」。
この「2つの十島村」は、どのような経過で現在の「三島村(みしまむら)」と「十島村(としまむら)」になったのか?

実は、この件に関しては、1946年に一時的に日本から切り離された伊豆諸島の復帰を 3年前に話題にした際 に触れたことがあります。
[24269] では、「奄美群島日本復帰50周年」の年表 に基づいて、連合国最高司令官(SCAP)覚書による1951年12月5日の日本復帰で、「2つの十島村(じっとうそん)」ができ、翌年2月10日に現在の「三島村」と「十島村(としまむら)」になり同名が解消されたと書いたのですが、[24278]太白さんから、“十島村HP の年表によれば、下七島の復帰は昭和27年2月4日”とのご指摘がありました。

今回、市区町村変遷情報の「十島村」 を調べてみると、1952/2/4はポツダム政令(昭和27年政令第13号)の官報告示日であり、“変更日 1952年2月10日”となっています。
# 十島村に関する暫定措置に関する政令(昭和26年政令第380号)も存在します。
見ていないのですが、便宜上「南十島村」と呼ばれていたとか。(1951/12/5から正式復帰する1952/2/10までの間?)

確認のために、変遷情報の「三島村」 を見たら、なんと! “従来の大島村の境界”を北緯30度以北とする変更と、「三島村」への名称変更を内容とする総理府告示第132号の日付が“1952/5/14”と、3ヶ月も後になっているではありませんか。

もっとも、“変更日 1952年2月10日”となっているので、告示が遅れただけで、2月10日に正式復帰した「下七島」が「十島村(としまむら)」になると同時に、「上三島」の「十島村(じっとうそん)」は「三島村」に改称し、「2つの十島村」は同時には存在しなかったものと思われます。

# 官報告示には読み仮名が付いていないようですが、この時に「じっとうそん」から「としまむら」に変わったと考えるのが自然でしょう。

# 1952/5/14の告示では、“従来の大島村”と記されていますが、もちろん“従来の十島村”の誤記と思われます。
[56250] 2007年 1月 16日(火)16:36:00hmt さん
海賊キッドが財宝を隠した宝島
「2つの十島村」[56242]を話題にしたついでに、トカラに関するトピックスを少々。

[56242]で記したように「川邊(かわなべ)十島」=「上三島」+「下七島」ですが、後者に含まれていた臥蛇島(がじゃじま、4km2)は、生活環境の過酷さから1970年7月に全島民が集団移住し無人島となり、現在の十島村では「有人七島」(口之島,中之島,平島,諏訪之瀬島,悪石島,小宝島及び宝島)と称しているようです。入れ替わりに七島の仲間に昇格したのは1km2の小宝島。

鹿児島県離島の概要 を見ると、早くも明治18年に奄美大島の「金久支庁所管の下七島」と種子島の「西之表出張所所管の上三島」とに分離され経歴をもつようです。 十島村略年表pdf によると、川辺郡のまま大島の金久支庁の管轄になったとのこと。
生活圏としては、昔から南北に分離していたのでしょう。

上三島に属する硫黄島(鬼界ヶ島)と竹島は、[24108]等で言及した 鬼界カルデラ の北縁にあたります。
6300年前に起こった大噴火は、南九州の縄文早期文化を壊滅させました。
この「鬼界ヶ島」は、平家物語に登場する流刑地(卒塔婆流し・俊寛)と推定されている地の一つであり、平安時代には「日本の南端」[49028]でした。

下七島に移ると、北緯30度線にかかる口之島の南の中之島が最大の島(35km2)で、1956年に鹿児島市に移転するまでは、村役場がありました。なお、村役場を鹿児島市に移したのは、現・三島村の方が先です。旧・十島村役場のあった中之島が切り離されたので、仮役場を鹿児島市に設けたのですね(1946)。八重山の竹富町役場(石垣市所在)と共に有名な存在です。

中之島の南西にある諏訪之瀬島は、日本有数の活火山です([23902] [23960]の106)。1813年(文化10年)の噴火では、溶岩流に襲われ、全島民が避難して無人島になりました。彼等は結局島に戻ることなく、奄美大島や県外からの移住者が再入植したのは明治になってからでした。

その次が悪石島ですが、2009年7月22日の11時前の皆既日食に際して、皆既継続時間6分30秒という好条件で注目されていることが、最大のトピックでしょう。ここのメンバーで訪れる方もあるのでしょう。
過去には、1944年8月に沖縄から長崎に向かう学童疎開船「対馬丸」が、悪石島の北西で撃沈された 事件 がありました。

悪石島と小宝島の間の海底には、「トカラギャップ」と呼ばれる深い谷があります。これは、大陸の長江の川筋から連なる海底谷で、氷河時代に海面が低下した時代に大陸と地続きになった琉球と日本との間に河口を開き、動物が行き来することを阻んでいました。
奄美にいるバブは日本に侵入することができず、ニホンジカは琉球に渡れなかった。
生物地理学上では「渡瀬線」と呼ばれている有名な境界線ですね [5943]

トカラ列島最南の有人島は宝島です。
この島の歴史には、[24278]太白さんが紹介されている文政7年(1824年)「イギリス坂の戦い」なんてのもありますが、ここでは17世紀の海賊、 ウィリアム・キッドが隠した宝のありかというお話をしておきましょう。
1936年にアメリカの雑誌に掲載されたキャプテン・キッドの地図と現代の宝島の地形図とを並べて示した ページ をご覧ください。
2006年、日本テレビ系列恒例の24時間テレビでの宝探し。キッドの財宝は未発見に終わりました。まだ埋まっているのかもしれません。
[58582] 2007年 5月 20日(日)19:44:29【2】役チャン さん
十島村のレントゲン船
鹿児島県十島村の有人7島にすべて上陸して来ました。

十島村については[56242] [56250]でhmt さんが紹介されていますので改めて説明する必要はないと思いますが、村営船であるフェリー十島が、普段は夜鹿児島港を出て翌朝から順に7つの島に寄航し夜名瀬に着き、折り返し南から各島に寄り鹿児島に戻る形で週2往復しています。ところが年に1度、各島に約2時間づつ停泊し島民のレントゲン検診をし、このときは途中の島に停泊し3日がかりで名瀬に行く、レントゲン船というのが運行されます。
鹿児島港近くにある十島村役場には私は3年前に行っており、公共交通機関による全国市町村役場めぐりのルール上は公式訪問として問題なく、1件としてしっかりカウントしているのですが、せめて島影だけでも見ておきたいと予てから思っており、奄美に行くならこの船で行こうと思っていたのでした。

別の地理的チャレンジをしている友人3人と一緒に乗船したのですが、医療関係のスタッフの他この機会を逃すまいと、電力会社の人や島に設置した防災機器を点検する技術者、学校の視察なのか教育委員会風、保健所風の人達、それに一般の旅行者などで定員200人の船には150人ほどの乗船客がありました。郵便貯金が目的の人も20人くらいいました。

まず5時15分に最初の口之島に着くと、埠頭にはレントゲン検査を待つ島民が集まっていました。2台のレントゲン・バスを船から降ろし島民の検査が始まります。上陸したい客は名前を書いて下船します。島中の車が全部来たのではないかと思われるほど軽自動車が集まっていて、用事のある人はそれに乗って夫々の目的地に仕事をしに行きます。我々のような遊びに来た者は急坂を歩いて島内見物をするだけです。この時間はまだ郵便局は開いていないので郵チャンもすることがありません。停泊予定時間は概ね2時間となっていますが、検査の進行状況によって変動するので出航の30分前に長声2笛が鳴ります。船に戻ったら自分の名前にチェックを入れます。前年には置いてきぼりを食った客がいたそうで管理を強化しているそうです。

このようにして順に7つの島を巡るのですが、最初からどんどん時間が繰り上がり次の中之島では郵便局がオープンした9時に汽笛がなり,港から歩いて15分ほどの郵便局では時ならぬ大勢の貯金客の対応で大変なようでした。しかし局側もこの日のために訓練でもしていたのか、大変手際が良かったとのことです。

その後平島、諏訪瀬島と寄航した後、当初は翌日の予定だった小宝島へ明日は天候悪化が予想され接岸できなくなるかも知れないとのことで繰り上げ寄航、その後悪石島に逆行するような形で行き本日はここに停泊しました。小さな温泉が大混雑となりました。船で寝れば宿賃も浮く旅でした。
再度小宝島に寄航したった一人の客を降ろした後宝島へ行き、名瀬には13時半頃着きました。
私は主に役場の支所や出張所、学校、発電所を見たいと思っていたのですが、悪石島以北はいずれも火山島でどこへ行くにも急坂を登らなくてはならず、平島などは最初から行く気をなくすような光景でした。小宝島以南は隆起島だったので、比較的楽にそれらを見ることができました。なお郵便局があるのは口之島、中之島、宝島の3島だけです。

人口が50人から100人台の島ばかりで、どこも過疎なんていう生易しいものではない、いつまで有人を続けられるのだろうかと正直思ったものでした。いろいろデータも入手できたので、いつかまとめたいと思っています。

私はこの後未訪問だった奄美大島から更に徳之島まで行き島歴、港歴を大幅に更新するとともに、役場の累計も平成の合併前基準で2258まで伸ばしました。

離島に興味があり、長期の休みが取れる方にはお勧めの十島村レントゲン船です。
[65126] 2008年 5月 15日(木)03:52:53【2】むっくん さん
鹿児島県大島郡十島村
[65108]88さんのご説明を読んで、鹿児島県大島郡十島村の事例を思い出しました。


最初に、本論に入る前段階として、十島村が三島村と十島村に分離するまでの沿革を紹介します。

十島村は第二次世界大戦後、
(1)昭和21年1月29日の連合国覚書「特定外国領域の行政分離に関する件」(南西諸島などは日本政府の行政権から分離)
(2)昭和21年2月2日「連合国覚書宣言」(二、二宣言)(北緯30度以南においては日本の行政権は及ばなくなる)
(3)昭和21年2月28日内務省告示第22号(十島村のうち竹島、黒島、硫黄島の3島が正式に鹿児島県管轄となる)
の3段階を経て、十島のうち三島のみで十島村を形成することになります。

その後、(4)昭和26年12月5日付け「連合国最高司令官覚書(若干の外かく地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する件)」で北緯29度から30度間の十島村のうちのいわゆる下七島も日本に復帰することになります。この覚書に関連して、鹿児島県大島郡十島村の区域に適用されるべき法令の暫定措置に関する政令(昭和26年政令380号)が公布され、昭和26年12月5日から適用されます。
さらにその後、(5)昭和27年2月4日の政令第13号(ポツダム政令)で、北緯29度から30度間のいわゆる下七島が(新)鹿児島県大島郡十島村となり、地方自治法が適用されることになります。
そして(6)昭和27年2月10日に、いわゆる上三島は三島村となり、いわゆる下七島が十島村となります。


さてここからが本論なのですが、三島村と十島村とに分裂したときの経緯が以前の議論でははっきりしていなかったような記憶があります。鹿児島県市町村変遷史(著:鹿児島県総務部参事室、出版:鹿児島県、1967)110頁に、昭和27年2月4日の政令第13号(ポツダム政令)から同年2月10日までの経緯が載っていましたのでここに紹介します。
ポツダム政令(注)の結果、上三島の十島村は自動的に分村した結果になったので、その手続としては、昭和二十七年二月七日、分村及び村の名称変更の条例を制定、知事に許可を申請して、二月九日知事はこれを許可し、昭和二十七年二月十日から「三島村」として発足した。
と書かれています。(注:原文では“この政令”とあるのを引用者がポツダム政令と改めた)

この記載はまさしく
(2) 当該地方公共団体は条例で定める(第3条第3項)
(3) 当該地方公共団体は条例制定(または改廃)後、直ちに都道府県知事に変更後の名称及び名称を変更する日を報告(第3条第5項)
にあたります。


最後に補足説明です。
(4)と(5)の間について、鹿児島県市町村変遷史109頁には
事実上、大島郡十島村が二つ存在することになったが、下七島の十島村については、鹿児島県知事が国の機関として一時的にその行政を行うことになった。
と説明されています。

以前、名瀬市の「奄美群島日本復帰50周年」記載の年表[24269]hmtさん)と十島村HPの年表([24278]太白さん)の食い違いが問題となっていましたが、おそらく(4)の解釈が原因で相違が生じたのでしょう。
[65138] 2008年 5月 16日(金)12:22:22hmt さん
村の中に「国境線」が引かれてしまった十島村
[65126] むっくん さん
鹿児島県大島郡十島村の事例を思い出しました。

本論に入る前に、88さんに連絡。
明治41年内務省令第1号により、沖縄県及島嶼町村制が 鹿児島県大島郡に施行された結果 誕生した 大和村、名瀬村… 十島村(じっとうそん) の16ヶ村は、長崎県対馬国の13ヶ村と同様に「市制町村制施行時の情報」として記載されるべきものではないでしょうか。ご検討願います。

それはさておき
大正9年(1920)に「本土なみ」の「町村制による村」になった十島村(トカラ列島)ですが、敗戦後の1946年になると マッカーサー司令部覚書 によって、思いがけず村の中を通る北緯30度に「国境線」が引かれてしまいました。
当然のことながら、村は 奄美と共に日本の施政権から外された「下七島」と、鹿児島県に残された「上三島」とに分断されました。

1951年9月調印のサンフランシスコ平和条約では、北緯29度以南の南西諸島(奄美・沖縄)のアメリカによる信託統治を受け入れざるを得ないことになりましたが、29度と30度の間にあったトカラ下七島の日本復帰が決まりました。
平和条約に基づくトカラ復帰の具体的な手続きは、[65126]で(4)として記されたSCAP覚書と暫定措置に関する政令で行なわれ、とりあえず昭和26年(1951)12月5日に、変則的な「自治体でない十島村」が誕生しました(鹿児島県市町村変遷史109頁)。
下七島の十島村については、鹿児島県知事が国の機関として一時的にその行政を行うことになった。

2ヶ月後には 鹿児島県大島郡十島村に関する地方自治法の適用及びこれに伴う経過措置に関する政令(昭和27年政令第13号) が制定され、1952年2月10日から施行されたので、変則的な制度はごく短期間で終りましたが、この約2ヶ月は、「自治体でない十島村」(下七島)と「自治体である十島村」(上三島)と、異なる制度の下の2つの「じっとうそん」が共存していたのですね。

参考までに、小笠原諸島復帰に伴う暫定措置により、「自治体でない小笠原村」が設置されたのは 1968年6月26日 で、こちらは議員と村長の選挙により「自治体たる小笠原村」が実質的に発足した 1979年4月22日まで10年以上も変則的な状態が続きました[53248]

ポツダム政令(注)の結果、上三島の十島村は自動的に分村した結果になったので、

ポツダム政令というのは、“「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ聯合国最高司令官(SCAP)ノ為ス要求ニ係ル事項ヲ実施スル為特ニ必要アル場合ニ”法律事項であっても緊急勅令などの命令で定めることを可能にした占領下の特別な制度の一種でした。
リンクした条文
この政令施行の際現にその区域に適用されている法令の規定によりその区域に置かれている村は、その区域をもつて、地方自治法の規定による鹿児島県大島郡十島村となるものとする。
から明らかなように、…暫定措置に関する政令(昭和26年政令380号)により置かれた「自治体でない十島村」が、その区域(下七島)のまま、自治体の「十島村」になるという内容であり、上三島が“自動的に分村”するということではありません。

[56242]でリンクした 《特定外周領域》の淵源とその系譜 には、
下七島の復帰によって、上三島では旧「十島村」を復活させるか、新たに分村するか、で議論となって住民投票した結果、675票中651票の賛成で「三島村」として独立することになり、
と記されていることからも、「自動的に分村」ではなく、上三島の住民は、ポツダム政令によって新しく設置される「十島村」と復縁する(合併する)か否かを投票によって決めたものと思われます。
「新たに分村」という言葉を使っていますが、既に1946年に強制的に分離させられた村が「元の鞘に戻らない」という意味ですから、「分村」の適切な用法ではありません。

分村及び村の名称変更の条例を制定
と鹿児島県市町村変遷史に書かれているそうですが、条例で制定したのは、新しい自治体として生まれる下七島の「十島村」と同じ字になることを避けるために「三島村」にする名称変更(2月10日実施)だけでしょう。
「分村」を村条例で定めるのは手続きとしておかしいし、以前から存在している自治体なのだからその必要もないと思われます。

下七島の「十島村」も、新発足にあたり、「としまむら」と呼ぶように変えました 十島村HP
旧・十島村(じっとうそん)と区別するためでしょう。

最後に、トカラ列島に関するトピックスを記した過去記事を一つ紹介[56250]
皆既日食も1年少し後に迫りましたね。
[65152] 2008年 5月 17日(土)14:24:08むっくん さん
十島村
[65138]hmtさん

私も昭和27年政令第13号を読んで
上三島が“自動的に分村”
との表記はおかしいのではないかと思いました。本来的には、上三島が“事実上分村”と書くべきところなのでしょう。
#「分村」という言葉の適切な用い方ではないことは私も分かってはいますが、「分村」以外の適切な語が思い浮かばなかったのでここでは「分村」という言葉を用いています。

しかしながら、この記載の若干前には、その前の昭和26年政令380号を受けて
事実上、大島郡十島村が二つ存在することになったが、下七島の十島村については、鹿児島県知事が国の機関として一時的にその行政を行うことになった。
との記載があります。この“事実上、大島郡十島村が二つ存在することになった”との表記との関係上やむを得ずこういう表記をしたものと考えました。


次に、
下七島の復帰によって、上三島では旧「十島村」を復活させるか、新たに分村するか、で議論となって住民投票した結果、675票中651票の賛成で「三島村」として独立することになり、
と記されていることからも、「自動的に分村」ではなく、上三島の住民は、ポツダム政令によって新しく設置される「十島村」と復縁する(合併する)か否かを投票によって決めたものと思われます。
ということに対しては賛同できません。住民投票はあくまでも“参考”だと思います。

もしも「十島村」と復縁する(合併する)か否かを投票によって決めたなどと言うと、住民投票という直接民主制で決めたことになります。これは現在の日本の法体系である間接民主制(法的効力のあることは議会においてのみ決定する)に反することになります。
おそらく当時の「自治体である十島村」においても、住民の代表機関であり、議決機関でもあるのは十島村議会のみであり、住民の代表者からなる議会においては住民の意思の発動と思しき住民投票には一切拘束されずに決定されたものと推測します。
もちろん法的拘束力のない住民投票の結果を見て自らも心情的に納得し、自らの意思で分村に賛成した村議会議員が大半なのでしょうが。

この住民投票に関して、鹿児島県市町村変遷史(著:鹿児島県総務部参事室、出版:鹿児島県、1967)109頁では
二十六年七月二十日近く下七島の日本に復帰する情勢もみえたので、三島においては、この際分村すべきであるとの声があったので、参考までに住民投票を行った結果、分村票が多数を占めていた。
と、“参考までに住民投票を行った”と記述しています。
[65174] 2008年 5月 18日(日)14:24:56hmt さん
直接民主制
[65152] むっくん さん
現在の日本の法体系である間接民主制(法的効力のあることは議会においてのみ決定する)に反することになります。

今更言うまでもないことですが、日本国憲法は直接民主制の考えを否定しているわけではありません。
日本国憲法の改正の国会発議は、国民投票による過半数の賛成による承認を必要とすることがよく知られています(憲法96条1項)。
また、一の地方公共団体のみに適用される特別法は、住民投票による過半数の同意を得なければ制定することができません(憲法95条)。

地方自治について言えば、“普通地方公共団体の議会が議決すべき事件”は地方自治法96条において限定的に列挙されており、“法的効力のあること” の「すべて」ではありません。

「合併しない」ことを住民投票により決めることは、普通に行なわれています。

2001年の 第153国会衆議院総務委員会会議録 に、市町村合併と直接民主主義の問題に関する質疑応答(重野委員)があったので、ご参考までにリンクしておきます。

この中にも出てきますが、町村議会そのものを置かずに、町村総会を設けることもできます(地方自治法94、95条)。
その実例が 東京都宇津木村(八丈小島)[35748]いっちゃんさん でしたが、1955年の八丈町への合併により直接民主制村政は挫折しました。
なお、合併後、八丈島との格差が拡大した八丈小島は、1969年に集団移住によって無人島になりました。

2005年には 長野県木曽郡王滝村議会に、村議会を廃止し代わりに「村民総会」を設置する条例案が 議員提案 されましたが否決されました。

トカラ列島の件について言えば、当局(鹿児島県?)は、返還される下七島を含めた十島(他に無人島)を一つの村として復活させる意向であったと思われます。返還される下七島に「七島村」でなく「十島村」という名を付けたのが、その何よりの証拠です。

“参考までに住民投票を行った”(鹿児島県市町村変遷史)結果、上三島の数百人の有権者の圧倒的多数が示した「下七島と合併しない」という意思表示は、当局にとっては予想外の結果だったのでしょうね。
住民投票の実施は“参考まで”だったかもしれませんが、その結果に反する合併は強制できず、合併議案を出しても十島村議会を通る筈がありません。

十島を一つの村として復活させる意向だった当局者としては、合併拒否がわかっていたならば、返還された下七島を直接に鹿児島県大島郡(1951年当時)十島村に編入するテもあったのにと思ったかもしれません。
しかし、変則的な鹿児島県知事(国の機関)の直轄行政期間を設ける暫定措置に関する政令(昭和26年政令380号)の準備も既に進んでいるなどの事情もあり、変更するわけにはゆかなかったのでしょう。
[65194] 2008年 5月 20日(火)16:34:59むっくん さん
Re:直接民主制
[65174]hmtさん
御教示ありがとうございます。
中央政府においても地方自治においても、あくまでも間接民主制は原則であるだけで、直接民主制も例外として認めていることは承知していました。(e.g.国民審査(憲法79条2項)長の公選制(憲法93条2項)長の解職請求(地方自治法81条)議会の解散請求(地方自治法76条)議員の解職請求(地方自治法80条)

しかしながら、hmtさんが挙げられた議決事件(地方自治法96条) 町村総会(地方自治法94条) 町村総会に町村議会の規定の準用(地方自治法95条)の存在を完全に失念していました。

というわけで[65152]拙稿での
現在の日本の法体系である間接民主制(法的効力のあることは議会においてのみ決定する)に反することになります。
との記載は誤りと断ぜざるを得ません。


さて、私が失念していた地方自治法94条、95条の直接民主制の規定に関連してです。

地方自治法94条、95条の規定は、人口がわずかしかいない神奈川県の芦之湯村や東京都の宇津木村などを念頭に置いて制定されたもののようです。(参考
地方自治法施行されてから現在までに、地方自治法94条、95条の規定が使われた自治体としては、昭和20年代の東京都宇津木村及び鳥打村の2例があるだけのようです。
その後、有名無実化していた地方自治法94条、95条の規定は、
2005年には長野県木曽郡王滝村議会に、村議会を廃止し代わりに「村民総会」を設置する条例案が議員提案
されることで再び日の目を浴びかけました。しかし王滝村議会で否決されたことで、これら規定は従前通りの有名無実化した規定のままです。
果たして、これら規定に再び日の目を浴びる日が来るのか、それとも廃止されてしまうのかは、今後も注視する必要があるのかもしれません。


最後に本来の十島村についてです。
上三島の数百人の有権者の圧倒的多数が示した「下七島と合併しない」という意思表示は、当局にとっては予想外の結果だったのでしょうね。
第二次世界大戦前の時点で、上三島で一つの経済圏をなし、下七島で別の一つの経済圏をなしており、十島村全体で一つの経済圏をなしていたわけではありませんでした。そのため下七島の日本への復旧にあたり、十島村が2つの村に分離する可能性がゼロでないとは当局も把握していたことでしょう。
とは言え、原状復旧する方向ではなく2つの村に分離する方向に賛意を示す上三島の住民が圧倒的多数にのぼった事は、やはり当局にとり想定外の事態だったものと思われます。
[65198] 2008年 5月 20日(火)20:35:59【2】88 さん
市区町村変遷情報 沖縄及び島嶼について
[64955][64956] むっくん さん
沖縄県・島嶼の自治制度に関する整理をありがとうございます。
制度史については、基本となる市制・町村制については自分なりにある程度整理したつもりなので、残るは沖縄、島嶼、北海道、大都市だと自覚し、順次取り組んでおります。島嶼については私も調べていたのですが、[64955] むっくんさん
しかし内地と同じ町村制が施行されたにも関わらず、この時点では島根県管下隠岐国及び長崎県対馬国の町村は明治22年勅令第1号の『町村制ヲ施行セサル島嶼指定ノ件』の指定からは外れません。
といった矛盾を整理できず袋小路でした。[64955][64956] むっくん さんのおかげですっきり整理できました。これらについて表形式で整理すると次のとおりだと思います。ホントは村名・島名、勅令・内務省令を組み合わせようとしたのですが、表が複雑かつ膨大になるので割愛しました。すべてではありませんが、大半の勅令や内務省令は確認済みです。

小笠原(*1)小笠原(*2)伊豆(*3)伊豆(*4)伊豆(*5)伊豆(*6)伊豆(*7)隠岐国対馬国大島郡(*8)大島郡(*9)沖縄県
M22.4.1
M37.5.1町村
M41.4.1沖島
M41.4.1沖島
M41.4.1沖島沖島沖島
M41.10.1沖島
T8.4.1町村
T9.4.1島嶼島嶼町村町村町村
T12.10.1島嶼
S15.4.1町村町村町村町村町村
S22.5.3地自地自地自地自地自地自地自地自地自地自地自
S43.6.26地自

*1*2を除く全部
*2北硫黄島,南硫黄島,南鳥島,中ノ鳥島,沖ノ鳥島
*3大島
*4八丈島(青ヶ島を除く)
*5利島,新島,神津島,三宅島,御蔵島
*6八丈島(青ヶ島)
*7八丈小島
*8大隅国大島郡大島,徳ノ島,喜界島,沖永良部島,与論島
*9薩摩国川辺郡硫黄島,黒島,竹島,口之島,臥蛇島,平島,中之島,悪石島,諏訪ノ瀬島,宝島、M30(1897).4.1に大隅国大島郡に

各府県の市制町村制施行時に「町村制ヲ施行セサル島嶼指定ノ件」により町村制を施行しなかった島嶼等
沖島「沖縄県及島嶼町村制」施行
島嶼「島嶼町村制」施行
町村「町村制」施行
地自「地方自治法」施行
これらをまとめて、M22(1889).4.1からM23(1890).2.15にかけての45府県における市制町村制施行以降の、沖縄・島嶼において、郡区町村編制法などから新たに町村制あるいはそれに相当する近代地方制度を新たに導入し、市区町村変遷情報市区町村変遷履歴情報 市制町村制施行時の情報に記載すべき情報は次のとおりと考えています(北海道を除く)。なお、タイトルや説明文等は追って修正したいと考えています。[65138] hmt さんでご指摘のあった、鹿児島県大島郡に施行された沖縄県及島嶼町村制(16村)を含みます。
年月日地域内容備考
M22(1889).4.1~各府県市制町村制(順次)
M29(1896).4.1沖縄県沖縄県区制(2区)
M37(1904).5.1隠岐国町村制(1町11村)
M41(1908).4.1沖縄県沖縄県及島嶼町村制(1町48村)
M41(1908).4.1東京府大島沖縄県及島嶼町村制(6村)
M41(1908).4.1長崎県対馬国沖縄県及島嶼町村制(13村)
同上鹿児島県大島郡沖縄県及島嶼町村制(16村)
M41(1908).10.1東京府八丈島沖縄県及島嶼町村制(5村)
T8(1919).4.1長崎県対馬国沖縄県及島嶼町村制→町村制*
T9(1920).4.1鹿児島県大島郡,沖縄県沖縄県及島嶼町村制→町村制*
T12(1923).10.1東京府利島,新島,神津島,三宅島,御蔵島島嶼町村制(10村)
S15(1940).4.1東京府小笠原(大半),八丈島(青ヶ島)町村制(6村)
同上東京府伊豆大島・八丈島島嶼町村制→町村制*
S22(1947).5.3東京都八丈小島地方自治法
同上全国市制町村制→地方自治法*
S43(1968)6.26東京都小笠原復帰地方自治法(北硫黄島等には初)

注)*は制度の変更によるもので、市制町村制等「施行後」とみなし、個別には記載せず、説明書き等で対応しようかと思います。[65018]むっくんさんご指摘のように、個別情報で対応しようとすると、例えばS22(1947).5.3の地方自治法施行について、全市町村を変更しなくてはならなくなるからです。

これには、奄美群島や沖縄などが日本政府の統治から離れたり復帰したりの動きを反映していません(小笠原に関しては、北硫黄島等が島嶼町村制等を施行することなく地方自治法施行となったので記載したのに過ぎません)。伊豆諸島([24269] hmt さん)やトカラ列島([56242] hmt さんほか)の取扱いも含めて、何らかの記述が必要かとも思いますが、後日とします。

私が未確認なのは、これらの制度施行と同時に従来の町村が合併したので良いのか、ということ。
[64956] むっくん さん ご紹介の鹿児島県大島郡に沖縄県及島嶼町村制を施行した際の件は、鹿児島県令を確認していただいているので同日付けで間違いないようですが、例えば島根県隠岐国の町村制施行に際しては、諸文献ではM37(1904).4.1に各町村が合併するとともに町村制施行、とあります。合併もM37(1904).5.1付けと考えるのが他の例から鑑みると自然だとは思いますが、島根県令を確認していないので推測どまりです。また、同様の件は沖縄県や北海道でもあります。
作業の省力化のため、同日付けで合併・新制度施行とみなして入力し、その後誤りがあれば修正しようかとは思っていますが・・・・。

【訂正記録】2009.9.12
[71887]hmtさんの指摘により88さんからの依頼で表の一部を修正(計5カ所)
[68484] 2009年 1月 27日(火)21:11:46【1】Issie さん
テト
[68471] 伊豆之国 さん
今日は旧正月、中国でいう「春節」。

ベトナム語の「テト:Tet」(旧正月)って,「節」という漢字の音(日本語では「セツ」)をベトナム語読みしたものなのだそうですね。
そんなわけで,昨日(1月26日)は“月の暦”で“黒い月=新月”が立つ「つきたち」,つまり 1月1日(ついたち)。なので,月の影がインドネシア辺りの地球表面に落ちて日食(金環食)が見られたそうです。
「6月1日」(太陽暦では7月22日)には,いよいよ十島村で皆既日食が見られますね(月の数があわないと思ったら,今年は“閏5月”があるのでした)。

十島村はちょっと行きにくくて…
と思っていたら,ここ によると 2012年5月21日(←これは太陽暦)の朝に福島県以南の太平洋岸で金環食が見られるのだそうです。しかも“日食の中心線”が東京の真上を通過する…。
東京では,朝の6時16分に太陽が欠け初め,7時27分に金環食が始まり,7時30分に食の最大,7時32分に金環食が終わって,8時55分に日食全体が終了する。5分間も金環食が続くのですね。

それにしても,近いうちに日本付近で起きる金環食と皆既食がこんなにあるなんて…
でも,そもそも日食自体は結構頻繁に起こっているのですね(ただし,新月の日以外は決して起きません。つまり,日食が起こり得るのは,ひと月のうちで1日だけ)。ただ,地球の半分(夜の部分)で一斉に見ることのできる月食と違って,地球表面に月の影が落ちる“的(まと)”がとても小さいので,ちょうどその場に居合わせるチャンスがとても少ないのでした。
ここ では,日食の起きている地球を宇宙から見た写真が見られます。

そんな中で,2012年の日食。
皆既食でないのが少しだけ残念ですが,十島村よりもずっとアクセスがいいし,泊まるところもたくさんあります。
たった3年後です。金環食を見に,東京にお出でになりませんか?
[70670] 2009年 6月 30日(火)23:43:48にまん さん
旧暦6月1日
氷室の日とは直接関係ない話題ですが、旧暦6月1日ということで思い出しました。

今年の旧暦6月1日は、太陽暦で7月22日、そう「皆既日食の日」です。日食が起こるのは新月の日ですから、旧暦では必ず1日なんですね。

私はさすがに日食を見に遠出するほど余裕もないのですが、(というか引越し準備の真っ最中の予定)埼玉でもかなり欠けるとのことですので、ちょっと観察してみようかなとは思ってます。

皆既日食が見られるのは日本では、種子島の最南部、屋久島から奄美大島北部にかけてということで、小笠原も母島ではぎりぎり皆既にならず、硫黄島まで行かないと駄目なようです。日帰りは無理だし、宿泊施設はほとんどないし、正直言って見に行くにはハードルが高いですね。
遠征する方はいらっしゃいます?
[70677] 2009年 7月 1日(水)08:29:56【2】k-ace さん
皆既日食、日田市
おはようございます。k-aceです。
今日から7月。前回の政令指定都市岡山市誕生記念の十番勝負から2ヶ月経ったわけですが、今月25日にはいよいよ第二十三回・十番勝負が開始になるわけですね。

さて今月といえば、22日(ちょうど3週間後)の昼前の皆既日食。日本では北海道の一部で観測されて以来46年ぶりだとか。
[70670]にまんさん
日帰りは無理だし、宿泊施設はほとんどないし、正直言って見に行くにはハードルが高いですね。
時間的、金銭的余裕がないと無理でしょうねぇ。トカラ列島ツアーの場合なんて二、三十万円ぐらいしてたはずですから(場所が場所だけに、もちろんそれなりの日数で)。
トカラ列島の悪石島では皆既日食の時間が6分25秒と今世紀最長の皆既日食となるため注目されているようですが。
関西でも8割以上欠ける部分日食にはなるみたいですし、私の場合、観測するにしても兵庫県で、ということになるでしょう。
次回は、2035年の能登半島から茨城県にかけての皆既日食ということで、「これなら」と思うわけですが。
なお、2012年の金環食については[68484]Issieさんが触れられています。

今月の皆既日食が観測できる日本の自治体は以下の通りになるようです。
南種子町の一部(種子島南端部)、屋久島町(屋久島、口永良部島)、十島村(トカラ列島の各島)、喜界町(喜界島)、奄美市の一部(旧笠利町の全域と旧名瀬市の一部)、大和村の一部、龍郷町(奄美大島北部)、小笠原村の一部(北硫黄島、硫黄島、南硫黄島)

今回皆既日食が観測できる島でも、[70625]hmtさんの記事(hmtさんのは自治体名ですが)のタイプ1=「の」を書かない「○△」口永良部島。タイプ2=「之」を書く「○之△」口之島、中之島、諏訪之瀬島に分かれます。


昨日の報道ステーションの大雨被害情報を見ていて思ったこと。
日田市天瀬町の天ヶ瀬温泉(玖珠川増水により川岸にあった露天風呂が水没)
町は「ヶ」が入らないのに、温泉は「ヶ」が入る。
他にも日田市中津江村、日田市上津江町が映っていて、中津江だけ2002年サッカーワールドカップの影響で「村」を選択したんだよなぁと思って見ていました。


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