[35654]で いわゆる「大東京」市(35区)発足(1932年10月1日)直前の荏原郡 17町2村を列挙して、その中の荏原町だけが荏原区になり、現在は更にその一部だけが 品川区荏原(1~7丁目)として「荏原」の地名を残していることを記しました。
遡れば、中世の豊島郡と荏原郡の郡境は平川でした
[35725]。
そこで、近世における荏原郡・豊島郡の境界を、伊能図により補足します。
伊能大図第90図部分の右端・東海道沿いの測地線は芝の増上寺と高輪大木戸の間で、古川(図示されず)が境界です。
図の左端には大山道沿いの境界が見えます。これは、現在の渋谷区・目黒区の境。
日本地図センターの近くです。
甲州街道が玉川上水を渡る
代田橋付近は、豊島郡(渋谷区)・荏原郡(世田谷区)・多摩郡(杉並区)の境界です。現在の道路で言うと、国道20号と環七との大原交差点。
この境界は、明治になってからも同じで、明治16年の五千分一を見ると、薩摩藩邸跡地
[35013]にできた三田育種場付近に「荏原郡」の字が見えます。但しこの頃は同じ地図に記されている東京府「芝区」の時代になっており、荏原郡であることは有名無実であったと思われます。
[33692]の後書き参照。
さて、せっかく
[35654]で荏原郡の 19町村を列挙したので、その中に登場する合成地名を拾い上げ、現在の使用状況を調べました。いずれも1889年の明治合併で生まれた合成村名です。
碑衾(ひぶすま)村:もとの地名は、碑文谷(ひもんや)村と衾(ふすま)村。碑文谷は目黒区の町名として現存します。
衾町という町名は消滅しましたが衾町公園(八雲)に名をとどめています。合成地名の碑衾は完全消滅したようです。
入新井(いりあらい)村:もとの地名は、不入斗(いりやまず)村と新井宿村。現在大田区の町名には残っていないが、大森駅の南側の入新井特別出張所や小学校など公共施設名として使用されています。
旧村名の不入斗と新井宿は消滅した模様です。
この「不入斗」は難読地名です。「税金がかからない」という意味で、鈴ヶ森八幡=磐井神社の社領に由来する地名です。
不入斗という地名は、横須賀その他にもあります。
松沢(まつざわ)村:もとの地名は、松原村と上北沢村。
都立松沢病院(世田谷区上北沢)は有名です。上北沢・松原は共に世田谷区の町名に残り、駅名(京王線・東急世田谷線)にもなっています。
本邦初公開(正確には7月の釧路に次ぎ2回目)の全国伊能大図展示中
[35754]の日本大学文理学部の近くにも、都立松原高校と区立松沢中学があり、江戸時代からの旧村名と明治の合併で生まれた行政村名とを伝えています。
おまけ
六郷(ろくごう)村の由来には、合併した村域の八幡塚、高畑、古川、町屋、道塚、雑色の六郷を総称したとする説もあるようですが、これは“合成”とは言えないでしょう。
伊能図にはこれらの旧村名と共に六郷川の名が見えますから、直接には川に由来すると考えます。