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落書き帳

社寺参道

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[25343] 2004年 2月 25日(水)02:26:36今川焼 さん
「口」つき「道」つきバス停
[25304] いっちゃん さん
「語末の口つき」はまだまだ募集中です!
語頭の口つき地名で、北近畿ルーツ説?を展開しましたが([18464] 今川焼)、語末の口のつくバス停も北近畿地方にはいっぱいあります。いちいち挙げるとキリがないのですが、たとえば兵庫県の氷上郡の場合、神姫バスのバス停121ヶ所のうち、口つきが17ヶ所と14%を占めています。

それから語末の「道」ですが、こちらは京都市内のバス停にいっぱいありますね。清水道や銀閣寺道の他に、調べてみると、
修学院道、修学院離宮道、南禅寺・永観堂道、神宮道、東福寺道、苔寺道、長福寺道、等持院道、壬生寺道、大徳寺道と有名社寺のオンパレードでした。(もっとあるかもしれません)
[10399] 2003年 3月 4日(火)19:12:13N-H さん
Re:東住吉区矢田が細長い理由
[10393]start さん

これには同和問題が関わっているようです。

じつは、私もそうかな、と以前思ったことがあるのですが、原因はどうも違うようです。
この細長い区域は阿麻美許曽神社の参道となっていて、そこを神社と一帯として大阪市にしているようです。

神社仏閣の神域と自治体との関係は、時として飛び地や不自然な境界を生むことがあります。
富士山の中腹、富士吉田市の中に勝山村の飛び地がありますが、これは浅間神社の神域です。山梨県には身延山関連でも飛び地があったような気がします。
あと、有名なのは恐山ですね。宇曽利山湖の周囲と北側だけがむつ市の飛び地になっています。
[10402] 2003年 3月 4日(火)19:37:38深夜特急[北大阪急行] さん
矢田
[10330]まがみさん
でもやっぱり、大阪市でしたら東住吉区矢田七丁目は外せませんね。個人的に「注射針」と呼んで親しんでいます。
[10399]N-Hさん
この細長い区域は阿麻美許曽神社の参道となっていて、そこを神社と一帯として大阪市にしているようです。

今日、図書館に行ったついでに吉田地図社の住宅地図で見てきましたが、拡大して見ると圧巻ですね。やはり、この注射針のつけ根のところにある阿麻美許曽(あまみこそ)神社というのが関係しているのでしょうか?

蛇足1)この道をバスが通ってるんですが、大阪市バスではなく日本城バスというそうです。
蛇足2)この東住吉区矢田七丁目と平野区長吉川辺四丁目(こちらもぽこっと出ていて松原市にくい込んでいる)は大阪市内で唯一(二?)、電話番号の市外局番が06ではない(072)ですね。
[25644] 2004年 3月 2日(火)17:52:21【2】みやこ♂[みやこ] さん
誠に感謝,感謝。
[25632] 愛比売命 さん
す、スゴイですね!!まだまだこんなにあったとは!!
はい。多いような,でも少ないような・・・。とはいえ,そもそも愛比売命さんの一挙6件ご紹介で責任を感じたことが,本調査のエネルギー源でした。ありがとうございました。
[25603][25599] 稲生 さん
ドドーンと7件ご紹介,ありがとうございます。笛吹川,名古屋界隈という相当限られた地域でこんなに出るとは,想定していながら想定外でございました。ただ,今回調査については河川といえど,「一点で交わること」を決まりとさせて頂いておりマシタので,誠に恐れ多いことながら,「残念組」とさせてください・・・スミマセン。まぁ,そもそも市町村界なんて,人間が勝手に線を引いたものですから,ご紹介いただいた事例だって本当は当選でもいいはずのものです。例えば,
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.21.22.051&el=138.44.4.490&la=1&sc=3&CE.x=292&CE.y=316
これって,いかにも4線1点集中を嫌って富士市が遠慮したように見えます。また,
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=43.46.22.141&el=143.39.49.739&la=1&fi=1&sc=4
これは,いかにも集中を狙ったような気がしますよねぇ!なんとも,地図の背後でうごめく人間の葛藤が見え隠れする図面たちであることよ!
いずれにいたしましても,「きっとまだある。でも平成の大合併で・・・」というのが,今回のお遊びの感想でございます・・・。

残念組落ち穂拾い・・・(3市町と,飛び地ですけど)
福井県福井市西南(いかにも神社とその参道にこだわった区画でございます.)
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.59.37.058&el=136.2.12.771&la=1&fi=1&sc=4

※追加書き込み 拙稿[25588]の「№76.福岡市博多区附近」は,1/8000図面では「当選扱い」になります。
[31628] 2004年 8月 9日(月)23:19:47【1】hmt さん
社寺地がらみの飛地
[24206]太白さん
日本で一番本体から離れた飛地(?)
[31596]清い26号さん
なぞの京都府内の飛び地

現在、府民スポーツ公園がある三郷山の飛地ですね。確かに久御山町本体から見事に離れています。
ここは古来から久御山町大字佐山にある雙栗(さぐり)神社の宮地で、佐山・佐古・林三郷の共有するところでした。この山1里四方は古くより年賦がなく、国守・地頭といえども侵すことのできない聖域であり、ここに降臨する神を迎えにゆくための神幸の行事が行なわれていました。
京都国立博物館『学叢』創刊号参照

このような社寺地がらみの飛地については、既に[10399]N-Hさんが言及されています。

神社仏閣の神域と自治体との関係は、時として飛び地や不自然な境界を生むことがあります。
富士山の中腹、富士吉田市の中に勝山村の飛び地がありますが、これは浅間神社の神域です。山梨県には身延山関連でも飛び地があったような気がします。
あと、有名なのは恐山ですね。宇曽利山湖の周囲と北側だけがむつ市の飛び地になっています。

上記の身延山関連について補足すると、身延山の西にある七面山で、山梨県早川町の南部に位置しますが、七面山敬慎院のある山頂一帯は、身延町の飛地になっています。日本200名山。 http://www.irorimura.com/tosi/tosiharu-91.htm

恐山(おそれざん)のむつ市飛地は、霊場一帯がむつ市の中央部にある円通寺を菩提寺としているための寺社領飛地です。宇曽利山湖は、pH3.2~3.6の強酸性の水であるにもかかわらずウグイが生息し、魚類の生息する酸性湖として世界的に知られるそうです。

飛地ではありませんが、
[24072]みやこさん
飯豊山 の「登山道の幅だけ福島県」の例は,登山者の間ではけっこう有名
も、飯豊山神社の参道管理のためですから、社寺地がらみの類例と言えます。
[53600] 2006年 8月 24日(木)13:47:24hmt さん
淀に突出する久御山町域は、雙栗神社に由来
[53584] k-ace さん
余談ですが、京阪は微妙にK府K町を通っていますね。

この記述だけでは気が付かなかったのですが、[53591] 矢作川太郎さんがリンクしてくれた地図を縮小してみたら、問題の地点(ある時期の淀の船着場でしょう)を先端とする京都府久御山町の突出域の元と思われる施設が見えてきました。
それは、5kmほど南東、久御山町大字佐山にある雙栗(さぐり)神社です。
この神社、日本で一番本体から離れた飛地[24206]太白さん に関係していることを、[31628]に書いたことがあります。

[10399]N-Hさん
神社仏閣の神域と自治体との関係は、時として飛び地や不自然な境界を生むことがあります。
と指摘されているように、雙栗神社は、東方にある三郷山の飛地だけでなく、北西方の淀川にも触手を伸ばしていたのでした。
[10531] 2003年 3月 6日(木)13:16:43ken さん
飯豊山の福島県境
[10123]uttさん
[10516]ぷりぷりさん

[10516]ぷりぷりさん
飯豊山の福島県境は気になりますよね。
詳しい方がいらっしゃったらご教示ください。
たしかに、異様ですよね。
Googleで、飯豊山_福島県_県境で検索をかけたら、
http://www.town.yamato.fukushima.jp/yamato_history/heso.html
こんなページ見つけました。
ご教示、ではありませんが、何故あの形になったか、このページで経緯はわかります。
私も今まで知りませんでしたが、結構面白い話です。
[24052] 2004年 1月 23日(金)00:43:24ペーロケ[愛比売命] さん
惜しい「四叉路」
[24027]太白さん
また、旧国名(明治初年以後)だと、陸中国と陸奥国の「国境」で、陸中国の飛地部分(小坂)と陸中本体が点で接していて、境界部分が陸中2つ+陸奥+羽後の交差点になっているように見えるのですが、いかがでしょう。
 八幡平(はちまんだいら、ではありませんよ)ですね。私もここは思い浮かびましたが、惜しいんですよね。市町境界が旧国界と一致するかどうかは詳しくないので分かりませんが、(ここは確かずれてますよね?)、仮に一致するとすれば、安代町(陸奥国)と田沢湖町(羽後国)が接していて、両・陸中は離れているのですよ。すなわち、完全な「飛び地」なのです。

http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=25000&el=140%2F51%2F24.908&pnf=1&size=500%2C500&nl=39%2F57%2F16.542

 そうそう、惜しい例を他にも見てきましたが、一番感動した場所は飯豊山。細長くせり出した福島県山都町がさりげなく新潟県新発田市に接しているのです。なお、飯豊山の細長い境界の経緯については、[10531]にてkenさんがさりげなく紹介されているサイトに詳しいです。

http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=25000&el=139%2F41%2F05.278&pnf=1&size=500%2C500&nl=37%2F50%2F38.104

[24035]今川焼さん
岡山県東部の、吉井町、佐伯町、英田町、柵原町の4町が300メートルほどずれていますが接しています。
 西宮市と伊丹市が接している場所にも似た風景ですね。
[24072] 2004年 1月 23日(金)12:38:11みやこ♂[みやこ] さん
G.J.転じて「四叉路」
[24052]愛比売命 さん  飯豊山は,「盲腸」の先端,三国岳付近が「四叉路」のようですね。1こ増えました。ここの「登山道の幅だけ福島県」の例は,登山者の間ではけっこう有名なのですが,その先までは気づきませんでした。毎度ながら脱帽です。
今回,皆様にお尋ねするまで「たくさんありそうだけどなかなか無くて,にもかかわらず全く無いわけではない」という感じでいました。全国で2~30カ所くらいかなぁ,と。しかし,既に10カ所近く「発見」されたことを思うと,もっとありそうな感じですね。
仮に50カ所くらいあるとすると(予想外に標高の低いところに多いようですし),「日本百名山完登」みたいに「日本四叉路全カ所伏寝!」なんて人がでるかもしれません(そんなわけないか)!かえって低い方が「ここを境にしましょうね」とし易かったのかもしれませんね。那須の三本槍岳みたいに(もっともこれは高山だし,3つの藩ですが)。
ところで「精度」の話ですが,これを突き詰めていっても厳密な規定は無理ではないかと思うのです。実際に公図は字や大字単位ですから,市町村を跨げば一枚の図面に収まっていないはずです(昔,字Aの図面ではレンコンみたいに穴がいっぱい空いていて,そこに周辺の字B,Cの図面の離れ小島がはまり込む状態なのを見たことがあります)し,山の上の方では延びが大きくて形状も現場に合致しません。
ですので,通常目にする1/2.5万図や1/1.0万図などで,作図者が「意識してずらしている」もの以外は「四叉路」と「認定」すべきなんだろうな,と考えています。
ただ,後方羊蹄山【しりべしやま:後方(しりべ)+羊蹄(し)+山】の場合には明確な人の意志が働いているように見えますので「認定」するまでもない希有な事例なのでしょう。

それにしても,パラパラマンガで明治以来の市町村合併を見てみたいものです!ある出版社にその旨投稿したのですが,ボツみたいです。
これに関連してちょっと話は変わりますが,ヨーロッパでの各国領土変遷のソフトが市販されていますよね。西暦1000年から1997年までを1年10枚の歴史地図で(約10000枚!)表現した,「CENTENNIA」というソフトです。すごく楽しい。1000年前のポーランドが,現在とほぼ同じ位置・形状で出てきたのにはびっくりしました。WWⅡの後,大きく西に移動したことしか知りませんでしたから(リンクがうまく行かなかったので,ご興味のある方は,お手数でも「チェンテニア」又は「CENTENNIA」で検索してみてください.)。

蛇足:過去の書き込みの訂正
[24039]で「みかも市」を安易に「三毳市」としましたが,藤岡町の西北部はかつて「三鴨村」でした。よもや「三鴨市」なのでは?
ちなみに三毳山というのは,佐野藤岡ICから佐野SAあたりまで,東北自動車道と並んでいる細長い山です。ショッピングモールからもよく見えます。そう書けば,「あ,見たことある」という方も多いのでは?線の柔らかい,いい山です。ICのあるあたりは今でこそ佐野市(もうすぐ消え去る旧・安蘇郡内)ですが,大昔は都賀郡だったそうです。
[23985]の海山列ネタで「神武・綏靖・・・大正・明治」と書きましたが,もちろん,「・・・明治・大正」ですよねぇ。何回かチェックしたつもりでしたが。恥ずかしい限りです![24062]月の輪熊 さん,これは地理ネタですよね。
[69172] 2009年 4月 10日(金)14:07:24hmt さん
飯豊山に奇妙な県境が誕生するまで
福島・新潟・山形の3県が境を接する飯豊山。そこにある奇妙な姿の県境は、この落書き帳にこれまで何回も登場してきました。
またかという気もしますが、NHK教育テレビ「県境の謎」(火曜日朝05:35に再放送)にもちょっとだけ登場した機会[69164]をとらえ、「登山道の幅だけ福島県」[24072] という県境誕生の過程を記しておきます。

最初に、現在の地図を出しておきます。Mapion
画面中央付近の三国岳の南東側が福島県の本体で、陸奥国(明治以後は岩代国)でした。ここから三尺幅の登山道が北西に伸びて、画面上部の飯豊山神社奥宮に達し、山頂から更に西の御西岳に至ります。

約8kmもある臍の緒のように細長い尾根の周辺だけが福島県喜多方市の領域で、南西側の谷は新潟県東蒲原郡阿賀町、北東側は山形県西置賜郡小国町という3県の境界地帯。更に御西岳の西側、喜多方市の臍の緒の先端では新発田市と僅かに接しているので、4市町の点接触(グレートジャンクション)もどき [24052]

futsunoおじさんの 「県境の交通路」コレクション 07福島県-15新潟県 で確認すると、始点は喜多方市・新発田市・小国町の3県境点で、新潟県はすぐに(0.0km)阿賀町に移ります。三国岳までの臍の緒県境の距離は 8.1km。

「国界」が示されている 20万分の1地勢図で確認すると、福島県だけでなく、岩代国も越後と羽前の間の稜線沿いに伸びています。つまり、臍の緒の南東端の三国岳では、越後・羽前の両国は隣接しておらず、三国境ではないということのようです。みやこ♂さんの 「三国」コレクション においても、地名を尊重して三国岳の地図をリンクしながら、“厳密には御西岳”という注釈が加えられています(#3)。

落書き帳で、6年前にこの奇妙な県境を最初に持ち出したのは、自称ビジュアル系のペーロケ[utt]さんでした[10123]
これに答えた ken さんの記事[10531] には、福島県耶麻郡山都町のHPがリンクされており、そこには、このような県境が生まれた経緯が記されていました。
しかし、残念なことに2006年に行なわれた 合併 に伴なって、このサイトは閉鎖されてしまいました。

リンクが切れてしまった現在、この県境が福島県庁の郡山遷都騒動に端を発していたとことは、落書き帳の中では、[10575]に名残を留めるだけになっています。
というわけで、旧山都町が残してくれた情報を埋もれさせないためにも、この県境誕生の概要を、改めて記しておくことにします。

飯豊山信仰は、会津だけでなく、中通り・置賜・東蒲原の各地に及び、神仏習合の時代から信者獲得のためには、熾烈な管理権争いもあったようです[10575]。白山を巡る対立抗争史[68519]を思い出しました。

明治6年以来、飯豊山神社は若松県の郷社として、麓宮(拝殿)のある耶麻郡一ノ木村(山都村を経て喜多方市)の管理下にありました。地図をスクロールさせて少し下を見ると、鳥居のマークと一ノ木という注記が見えます。

飯豊山神社のあった若松県北部は、岩代国耶麻郡の西にある越後国東蒲原郡をも領域としていました。明治9年に福島県・磐前県と統合した後もその状態は続き、巨大な福島県の県庁所在地である信夫郡福島町は、現在以上に偏った位置にありました。

そんなこともあり、明治16年(1883)になると、県庁を県の中心に近い安積郡郡山町に移転する建議が福島県会に提出され、明治18年には可決されるに至りました。
しかし、遷都反対派は猛烈な運動を展開。遂に内務省を動かして、福島からの県庁移転を阻止しました。

その決着の際、越後国東蒲原郡は新潟県に移管されたのでした。明治19年勅令第43号
どのような経過を経て、県庁移転を東蒲原郡移管にすり替えることができたのか興味のあるところですが、詳細は知りません。
福島県の枠組みを変え、県庁所在地の偏りを是正するとでも強弁したのか?

鬼県令と呼ばれた三島通庸が福島県令だったのは明治17年までですが、いずれにせよ福島県がまだ完全な地方自治体でなく、内務官僚による強圧的な地方支配が行なわれた時代であったと理解しています。
参考までに、東蒲原郡移管は、三多摩移管[33700] [54421]の7年前のことでした。

こうして、福島県庁移転問題に端を発した動きが、東蒲原郡の新潟県移管という思わぬ展開を見せた結果、明治初年から耶麻郡一ノ木で収まっていた飯豊山の領有争いが再燃しました。

すなわち、新潟県になった東蒲原郡実川村(明治22年から豊実村)は、早速明治20-21年に飯豊山の領有と山頂の飯豊山神社を東蒲原郡郷社にする願いを出したのです。
これまで飯豊山神社を管理していた耶麻郡山都村一ノ木も、負けているわけにはゆきません。
証拠文書を集めて反論。拝殿のある麓宮から山頂の奥宮までの登山道(巡礼道)を境内地に編入することを願い出て(明治31,33年)、明治38年には内務大臣の編入許可を得ています。

このように既成事実を作りながらも、主張と証拠の応酬が20年も続けられ、その結果、明治40年に現地査定が行なわれ、引き続き査定報告と協議の会合が開かれました。
協議会には、当事者である一ノ木と実川の総代、山都村と豊実村の役場組合長、福島県耶麻郡と新潟県東蒲原郡の郡長代理、宮城と長野の大林区署【注】が出席し、飯豊山頂の境内地と登山道が福島県側の山都村一ノ木に帰属することが認められました。

明治19年の東蒲原郡移管以来続いていた「境界未定」の状態に、ようやくピリオドが打たれ、奇妙な姿の福島県境が確定したのでした。

臍の緒のような形の県境は、地図で見る形だけでも興味をそそりますが、その背後には、県庁移転問題・東蒲原郡移管・一ノ木と実川の領有争いという20数年に及ぶ一連のストーリーが存在したのでした。

【注】大林区署とは、国有林の管轄者だと思います。現在は福島県も新潟県も関東森林管理局管内です。
[32231] 2004年 8月 28日(土)22:03:57【1】hmt さん
♪ここはどこの細道じゃ? 弁天様の細道じゃ
[32189] みかちゅうさん
弁天島は見た目で西側は陸続きだと思われますが、いかがでしょう。

「陸続き」と疑われた不忍池(しのばずのいけ)の細道は、弁天様の参道です。
1:25000地形図によると、大正7年と昭和6年の間にできています。
昭和12年1:10000地形図で詳細を見ると、南西からの参道が池の中央に至り、短い橋を渡ると弁天島です。池の中央からは更に短い橋を経て北西、北東の両方向に分れる道があり、Y字形参道を形成していました。

戦争中は食糧増産のために、不忍池は田んぼになりました。
1951年(昭和26年)、不忍池端に水上動物園(現在の上野動物園西園)が開園しました。
この時に、北東方向の参道がなくなり、動物園の領域を区切る弁天橋が架けられている現在の姿になったものと思われます。

ついでに「池中参道」ができる前の地形図を見ると、西岸からの参道はまっすぐ弁天島に向かう橋でした。
更に明治17年地形図まで遡ると、この橋もなく、不忍池の水面は現在の西園の陸上部分にも及んでいたことがわかります。

この「池中参道」のような細い陸地を「陸続き」として扱うべきか? それが問題です。

[29533]で紹介しましたが、海上保安庁が日本の「島」の数6852 を数えた時には、「橋・防波堤等の細い構造物」で結ばれる自然陸地は島として計数しました。(出典;昭和62年9月海上保安の現況)
もちろん、これは海の自然島を数えた時の基準であり、湖水の島に自動的に適用されるわけではありませんが、同じような事情にあるものと考えて、池に築いた島にも適用してもよいのではないでしょうか。

「堤防道路」でつながった代表的な「湖水の島」は、島根県中海の大根島と江島です。
この2島を湖水の島コレクションから落すわけにはゆかないでしょう。

「湖水の島」のテーマからは逸れますが、「橋・防波堤等の細い構造物」の他の例は、沖縄の「海中道路」です。海中道路によって沖縄本島の与勝半島と結ばれている平安座島は 、 海上保安庁により「島」と認定されています。[29533]

【1】[32186] トミさんに続き、今日はhmtの1周年でした。
[39942] 2005年 4月 17日(日)15:42:19【2】むじながいり さん
立科町
[39936] ふぁいん さん
旧3村はどんな形をしていたのでしょうかね・・・
昭和初期の地図をみて、フリーハンドで大雑把ですがこんなかんじです。一応境界変更とかほとんどされていないならば、旧横鳥村=大字牛鹿・宇山・山部、旧三都和村=大字桐原・藤沢・塩沢、旧芦田村=大字芦田・芦田八ヶ野、望月町からの編入=大字茂田井です。昭和初期地図との比較ではほぼ一致するとみてよさそうです。というわけで、経緯は町村制施行以前に遡ってしまうかと(汗)。

道路一本でつながっているといえば栃木市のここなんて一体どんな由来なんだろうか。
[39952] 2005年 4月 17日(日)19:10:36みやこ♂ さん
今日は佐野市長選挙と市議会議員選挙の投票日です(でした)。またまた文とは関係なし・・・
[39942] 2005 年 4 月 17 日 (日) 15:42:19【2】 むじながいり さん
道路一本でつながっているといえば栃木市のここなんて一体どんな由来なんだろうか。
「出流山満願寺」でしょうか,カギは。あの奥のあたりの山は満願寺さんの山林だと聞いたことがあります。
かつて「出流地区」は,明治22年に寺尾村の大字となるまで「出流村」だったわけですが,住んでいる人といえばお寺関係と門前のお店関係だけだったようです。で,この出流地区と新・佐野市仙波地区(旧・葛生町)とは交流が盛んで,親戚関係にある家も多く,雰囲気としては旧出流地区は旧葛生町(明治22年当時)で出発してもよかったくらいなんですが,きっと満願寺が「寺尾村につく」とでも言ったのでしょうねぇ。それであんなふうな飛び地ができて,結果的に道だけの領域になった,と(みやこ♂の妄想ですけど)。出流川沿いの道は「お寺の参道」ということでネ。地図リンク
中世のころ出流は佐野庄で,寺尾も佐野庄だったようですが,郡の割り振りでは両方とも都賀郡です(そうそう,葛生も都賀郡でしたね)。

[39947] 2005 年 4 月 17 日 (日) 17:03:48【1】 あんどれ さん
「全国」のほうはその範囲内である日本国内では「確定した範囲」を指すことが明白ですが、
ええと実は「水戸黄門の諸“国”漫遊」みたいに,わたくしは「全国」の“国”は「旧国」のことだと思ってました・・・。つまり(1)か,と・・・。
[68789] 2009年 3月 8日(日)22:33:01hmt さん
「飛び地」の魅力 (5)隠れた飛び地
[68767]の末尾で、“大阪国際空港は、氷山の一角にすぎないのかもしれない”と書いたら、早速水面下に隠れた飛び地の実例に関するレスがありました。

[68778] EMMさん からは、金沢市の住宅地図地籍版の実例などにより、予想を越えて存在している「隠れ飛び地」の可能性を示していただきました。

[68783] Issie さんからは、習志野市誕生の直前に行なわれた総理府告示の但し書きにより、農地の所有関係から生じた飛び地の実例を示していただきました。
# 実は、“…所有する小作地”が如何なるものなのかを、農地法第2条第2項の定義(「小作地」とは、耕作の事業を行う者が所有権以外の権原に基いてその事業に供している農地をいう)にてらして理解することが、私にはよくできないのですが。

1970年代末までには両市の間で“領地交換”が何度も行われて,

習志野市例規集 行政区域の変更 にある 10件の境界変更告示のうち最初のものは千葉市への長作・天戸の“返還”。これと船橋市との境界に関する2件を除く7件(うち交換3件)が千葉市との間の飛び地処理でしょう。昭和46年が最後となっていますが、これで飛び地が解消したのかな?

水面下の飛び地を示唆する未確認情報が、5年前の落書き帳にもありました。
[23945] みやこ♂ さん
今度合併して佐野市になる葛生町,それの飛び地が「栃木市の向こう」にあるわけですが,これの中に実は栃木市の飛び地があって,さらにその中に一筆,葛生町があったような記憶があります。

出流山満願寺が下都賀郡(現・栃木市)ということで、その参道[39952]1本によって安蘇郡葛生町仙波(現・佐野市)の本体から切り離された飛び地。その中に二重・三重の飛び地があるという情報です。

然るべき役所へ行けば確認することができるでしょうが、このように、普通に流布している地図で公表されていない飛び地が、各地に存在する可能性はたしかにあります。

隠れた飛び地を詮索し始めたら、きりがないのかな?
[73235] 2009年 12月 8日(火)15:58:45じゃごたろ さん
蓼科神社
こんにちは、じゃごたろです。

立科町のくびれについて関係ありそうな「蓼科神社」に関するサイトがありました。これによりますと、蓼科山頂には「奥社」が、そして芦田の地に「里宮」があるそうです。里宮は集落よりも南の曹洞宗南嶽山光徳寺の近くだそうです。

つまり芦田村は古くから蓼科山との結びつきがあるわけでして、芦田村は小諸藩から蓼科山の管理を命じられていたという記述も他に見ました。つまりくびれの部分を含んだ道が長ーーーーーい参道もしくは管理用の道と考えれば、くびれの部分が芦田村、現在の立科町に属していてもおかしくはないのではなかろうかと思います。


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