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落書き帳

入飛駒

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[31165] 2004年 7月 30日(金)00:33:02みやこ♂[みやこ] さん
黒い噂(たぶん,大嘘)
[31152] hmt さん 「三国境・分水界」
三国コレクションにレスをいただき,ありがとうございます。「越境合併」ですか,それで・・・なるほど納得。国境は素直に真っ直ぐだったのに,何で府境になったら曲がってンだろう,と思ってました。

そういえば,我らが両毛地域の「菱村」の越境合併は,誰が見ても納得できるケースだと思います。
そして菱村といえば,今度佐野市になる田沼町の旧飛駒村,その分水嶺の西側(地図リンク)の皆沢地区も,やはり国を越えて桐生市にお嫁入りしていましたっけ。イヨイヨ栃木県民から群馬県民になるという頃,皆沢集落のみなさんと飛駒村のみなさんがサヨナラ宴会をしたと聞きます。
もっともこの例は「田沼町」を割ってのお輿入れですから,「越境合併」とは言わないのでしょう。で,この件に関してですが昔々に変な噂を聞いたことがあります。曰く,
「菱村を群馬県にお渡しし,群馬県から矢場川村の一部を迎えたものの,余計に頂きすぎたので,飛駒の奥をお分けした」
何だか土地をケーキか羊羹みたいに。
菱村が群馬県になったのが昭和34年,矢場川村の一部を栃木県が迎えたのが昭和35年,そしてこの,田沼町の一部が群馬県になったのが昭和43年のことと8年近く離れています。手元に統計資料がないので面積の比較もできませんが,桐生川左岸は結構広そうですし,結局は「田舎オヤジの酒のサカナ話」なのでしょうねぇ。
[35756] 2004年 12月 14日(火)16:08:04hmt さん
矢場川右岸
[35733]両毛人 さん
[9883]にて紹介いたしましたが、太田市から足利市へ向かう道路も県境を5回越えます。

この5回の県境越えのうち、矢場川右岸・太田市側の3回は、[616][2878][27858]で紹介されている矢場川村の越境分村合併(1960.7.1)によって生まれた新しい県境ですね。それ以前、群馬県山田郡の矢場川村と毛里田村との村境だったものが県境に昇格したわけですか。

ところで、この矢場川右岸で起きた越境分村合併(群馬県→栃木県)と、その前年に桐生川左岸・菱村の越境合併(栃木県→群馬県)とを合せた収支?計算は、[14592]で Gさんが引用された(足利)市長のコラムによると、面積・人口共に 栃木県がマイナス。

してみると、
「菱村を群馬県にお渡しし,群馬県から矢場川村の一部を迎えたものの,余計に頂きすぎたので,飛駒の奥をお分けした」
という “黒い噂” の理由付けは、事実と違うことになります。
やはり、[31165]みやこ さんが書かれたように “たぶん,大嘘” なのでしょうね。
合併後の市街化の相違による現在の人口収支は、どうなっているか存じませんが。
[46981] 2005年 11月 29日(火)16:59:37hmt さん
地勢図で「県界変更史跡」めぐり
[46937]今川焼 さん
現佐用町の北部(旧石井村・旧江川村)は明治29年までは旧美作国(岡山県吉野郡)でした。

これは知りませんでした。
早速、20万分の一地勢図「姫路」で現状を確認してみたところ、兵庫・岡山の県界と、播磨・美作の国界とは一致していました。

この県界変更が行なわれた明治29年(1896)は、明治23年に公布された「郡制」が全国的に施行の時期を迎えた時代です。
兵庫県についての直接の資料は持っていませんが、埼玉県では同じ明治29年に、中葛飾郡(最近春日部市と合併した旧・庄和町など)が北葛飾郡に併合されました。

実はこの地域は、もともと利根川が太日川として東京湾に注いでいた時代の川筋(庄内古川、現在は中川の一部)の左岸(つまり下総側)でしたが、17世紀に江戸川の開削によって下総台地の本体から切り離されました。しかし、ずっと下総国の一部であり、明治8年に千葉県から埼玉県に移管されて中葛飾郡という名が付いてからも相変わらず下総国でした。
ところが、明治29年になると、わざわざ「埼玉県下国界変更及び郡廃置法律」によって、武蔵と下総の国界を庄内古川から江戸川に移し、埼玉県全体は武蔵国の一部になりました。
このような「国界変更」が行なわれことは、旧国が実質的な地域名称として機能していたことを示しています[36159]

旧美作国吉野郡石井村・江川村が兵庫県佐用郡に移管されたのは、これと同じ明治29年です。県界変更と同時に播磨・美作の国界も変更され、県界との一致を保ったものと思われます。

つまり、兵庫県内には「美作国」の地域はなく、1896年の時点では、摂津(一部)・播磨・但馬・丹波(一部)・淡路の五ヶ国でした。1963年に日生(ひなせ)町の一部(旧・福浦村)編入により備前の一部が加わった後は六ヶ国となり、首位の座を固めています。

旧国が既に実質的な地域名称として機能を失った戦後の県界変更になると、それに伴なって国界を変更して一致させる必要性はなくなりました。
そのために、20万分の一地勢図上ので県界と国界との不一致として「県界変更史跡」が残されることになりました。

“備前国で兵庫県”の備前福河[46914]は地勢図「姫路」で、“丹波国で大阪府”の旧・京都府樫田村[31152]は地勢図「京都及大阪」で県界変更の跡を見ることができます。
“越前国で岐阜県”になった旧・福井県大野郡石徹白(いとしろ)村[31291]は、「岐阜」と「金沢」にまたがっています。手持ちの昭和43年発行の地勢図「岐阜」を見ると、石徹白付近に“白鳥町”の注記はあるものの、13年も前にできた筈の岐阜・福井県境が描かれていません。

同じく1955年に愛知県に越境合併した旧・岐阜県三濃村の一部の「県界変更史跡」は、地勢図「豊橋」にあります。この付近を中心として、北の現県界、東の明智川、南の矢作川、西の国界(表示なし)に囲まれた範囲が“美濃で愛知県”です。

有力メンバーの多い栃木・群馬県界の変更については、さすがにこの落書き帳に多数の記事があります。
地勢図は「宇都宮」で、手持ちの昭和34年版と平成10年版とを比較してみます。
昭和34年版でも桐生市街の対岸にある旧栃木県菱村[14592]は、明瞭な「県界変更史跡」を見せています。この“下野国で群馬県”の地域が、平成10年版になると、北方に更に拡大しています。これが1968年に桐生市に編入された栃木県飛駒村の一部[31165]ですね。

逆に“上野国で栃木県”になったのは、旧・群馬県矢場川村の一部[14616] です。昭和34年版は足利市編入の前年ですから、当然ながら県界=国界であった矢場川の南はすべて群馬県でした。矢場川は、渡良瀬川の旧河道[4618]で、その名も両毛橋が架けられています[25139]。平成10年の地勢図では、栃木・群馬県界が矢場川の少し南に移っているのは良いのですが、矢場川の位置に残るべき国界が消されています。
YSK[両毛人]さんのご指摘[17073] により、国土地理院は昭和56年からの編集ミスを認め、昨年発行の図から訂正されて、「県界変更史跡」が復活したようです。

最後に、“信濃国で岐阜県”の地域。地勢図は「飯田」です。
手持ちの昭和35年発行図を見たら、恵那山の北方に“中津川市”と記され、昭和33年に長野県西筑摩郡神坂(みさか)村の一部が越県合併した時に生れた新県界が、信濃・美濃国界から離れて北東へと描かれているのですが、ほんの一部だけで途切れ、東と北の県界は描かれていません。要するに「県界変更史跡」は未完成状態。
今年の2月に、長野県木曽郡山口村の岐阜県中津川市への編入が実現しました。“信濃国で岐阜県”の地域は、更に拡大したわけです。

“岐阜県でも信濃国”ですから、この地域の馬籠宿で生まれた島崎藤村は、[37786] 北の住人 さんのおっしゃるように、「信濃国出身」と書くことができます。たしかに「岐阜県出身」よりは数等「まし」な言い方です。
しかし、藤村本人の意識としては、彼の生まれた馬籠宿は、「筑摩県」でも「長野県」でも「信州」でもなく、「木曾」だったのだと思います。[37785]参照。
「信濃国」や「長野県」、「岐阜県」のような広域であり、かつ行政の都合で変化してしまう地名を「出身地」に使うことは、誤りではないにしても、「ふるさと」という感覚からはあまり適切でないケースがあるように感じます。

# 実は、県境の話題とは関係ないことなのですが、来年の3月になったら、メンバー紹介記事の「出身地」をどのように記すべきかと悩んでいるのです。
[54264] 2006年 9月 30日(土)20:00:54hmt さん
戦後の県境変更事例
[54252](利根川をめぐる県境修正)のようなマイナーな県境変更とは少し意味合いが違いますが、県境変更に触れたついでに、戦後に実現した主要な事例を年代順に並べてみました。

1958年10月15日に3件も集中しているのが注目され、これを含む1955~1960年(昭和30年~35年)には7件です。
これに比べて、平成の合併ではわずかに1件。

下記の事例に関する記事の一部も集めてみました。戦後の県境変更事例
既にアーカイブズ 「越境(越県)合併への方途」 がありますので、併せてご覧ください。

1955年4月1日 岐阜県恵那郡三濃村の一部が、水系の先にある愛知県東加茂郡旭町に編入(現・豊田市)[46981]

1958年4月1日 京都府南桑田郡樫田村が、水系の先にある大阪府高槻市に編入[31152]

1958年10月15日 埼玉県入間郡元狭山村が、東京都西多摩郡瑞穂町に編入[4049]。(一部は埼玉県入間市へ分村。)

1958年10月15日 長野県西筑摩郡神坂(みさか)村の一部が、岐阜県中津川市に編入[25925]
馬籠など一部は長野県西筑摩郡山口村に編入。

1958年10月15日 福井県大野郡石徹白(いとしろ)村が、岐阜県郡上郡白鳥町に編入(現・郡上市)[31291]
九頭竜川水系の村が、中央分水嶺を越えた長良川の方に鞍替え。どんな事情があったのかな?

1959年1月1日 栃木県足利郡菱村が、群馬県桐生市が編入[2878][14592]。これは桐生川の水系に従う。

1960年7月1日 群馬県山田郡矢場川村の一部が、栃木県足利市に編入[2878][14616] [14588]。残りは群馬県太田市に編入。

1963年9月1日 岡山県和気郡日生町の一部(旧福浦村の大部分)が、兵庫県赤穂市に編入 [41400] [46914]
備前福河駅のある場所。
# 一部編入だから市町村合併情報に収録されていないでしょうか?

1968年4月1日 栃木県安蘇郡田沼町の一部(旧飛駒村の奥の桐生川水系流域部)が、群馬県桐生市に編入 [31165]
1959年の菱村の上流。

2005/2/13 長野県木曽郡 山口村 が岐阜県中津川市へ編入[46924]他。
木曽川水系は長野県側にも及んでいるが、馬籠峠から西は岐阜県側の斜面。
[79559] 2011年 10月 25日(火)13:11:52hmt さん
県境の変更 (4)県境変更のいろいろ 特別法・市町村の廃置分合・境界変更
3府43県が出揃い(M21=1888)、市制町村制が施行された(M22=1889)「明治中期以降」の県境変更について記しています。
M23に公布された府県制は、郡の再編が進まずに施行が遅れました[62662]

地方自治法では“都道府県の境界変更は法律でこれを定める”ことを本則としています[79537]
しかし 現実に行なわれた県境変更事例は、この本則によるものではありません。
戦後のすべての県境変更事例は、“都道府県の境界にわたる市町村の境界”の動きに従属して“自ら変更する”ことになった県境です(地方自治法第6条第2項)。
つまり、主役は県境の「市町村」であり、都道府県の境界変更につれて市町村の領域が変化したものではない。
これが、県境変更の現実の姿です。

もっとも、明治後期には 政府や府県が主役となり、県境変更の特別法を制定した事例が いくつかありました[79538][47106]

明治26年の 東京府及神奈川県 境域変更に関する法律 による 三多摩移管がその代表例です。しかし、当時の東京府・神奈川県にはまだ府県制が施行されていませんでした。この特別法は、府県制とは一応無関係に制定された法律 であったようです。

余談ですが、北多摩郡が東京府になったことで、武蔵野台地にあった“平地の3府県境”[75152]は 消滅し、更に埼玉県“新座半島”[68760] 先端の保谷村が北多摩郡に編入されて(M40)、“元3府県境”は 東京府の中の ありふれた3村境(保谷村・武蔵野村・石神井村)[68760]になってしまいました。

東京付近で もう一つ目立つトピックスは 県境河川改修にからむ県境変更です。
江戸川(M28)[79538]・利根川(M32)[47106]・多摩川(M45)[79538]は、改修工事の後で それぞれ定められた境界変更法により、新流路が新県境になりました。

もちろん戦前にも 合併や境界変更による 市町村主役の 個別的県境変更事例 がありました [79541]
戦前の事例につき この種の記録を全国的に探索するとしたら、県報へのアクセスなどでの困難が予想され、完全なリスト作りは難航するおそれがあります。このことは既に触れました。

引き続き、現行の法体系下、つまり昭和22年5月3日以降に行なわれた 県境変更事例の種類について記します。

下関市の参考資料[75937]に示された 11件の事例を、廃置分合による越県と、境界変更による越県とに分けてみました。

廃置分合事例 6件

 5件は、昭和大合併の際に認められた越県合併[55505]の仲間です。昭和の 新市町村建設促進中央審議会が 5件(境界変更[79523]の5番、8番、9番を加えれば8件)を認めたのに比べて、平成大合併では僅かに1件というのは時代の違いでしょうか。
 5件のうち、樫田村と菱村とは 村まるごと編入です。 元狭山村・石徹白(いとしろ)村・神坂村の3件は、村内の一部地域を前日に分村(境界変更)して 県内に残留させるという手法を取った点と、越県合併の施行日(S33.10.15)とが共通しています。

 S33. 4. 1 京都府桑田郡樫田村が、まるごと大阪府 高槻市に編入
 S33.10.15 埼玉県入間郡元狭山村が 東京都西多摩郡 瑞穂町に編入【分村先 武蔵町
 S33.10.15 福井県大野郡石徹白村が岐阜県郡上郡白鳥町に編入【分村先 和泉村
 S33.10.15 長野県西筑摩郡神坂村が 岐阜県 中津川市に編入【分村先 山口村
 S34. 1. 1 栃木県足利郡菱村が、まるごと群馬県 桐生市に編入
 H17.2.13 長野県木曽郡山口村が、まるごと岐阜県 中津川市に編入
 昭和大合併では島崎藤村の故郷・馬籠を長野県に残したことで有名な分村事件でしたが、その山口村も、平成大合併では岐阜県になりました。

境界変更事例 5件  リスト番号は、[79523]88さんによる告示順の番号です。

 リスト番号 5 S30.4.1 岐阜県恵那郡三濃村大字浅谷及び野原が 愛知県東加茂郡旭村へ【残る横通は 岐阜県内明智町編入
 リスト番号 8 S33.4.1 京都府亀岡市西別院町牧及び寺田の大半が 大阪府豊能郡東能勢村へ【亀岡市は存続】
 リスト番号 9 S35.7.1 群馬県山田郡矢場川村の東部地域が 栃木県足利市へ【西部地域は 群馬県内太田市編入
 リスト番号11 S38.9.1 岡山県和気郡日生町大字福浦の大半が 兵庫県赤穂市へ【日生町は存続】
 リスト番号17 S43.4.1 栃木県安蘇郡田沼町入飛駒(いりひこま)地区が群馬県桐生市へ【田沼町は存続】

入飛駒について
ここは、大字飛駒の一部で「大字」単位には該当しない との判断から、変遷情報の境界変更収録対象に不採用なのかもしれません。
しかし、桐生市の変遷【注】 によると 面積は5.65km2もあり、事実 20万分1地勢図でも充分に県境変更を認識することができます[46981]
かつては老越路峠を越えて飛駒の本体と連絡するのに一日がかりだったと伝えられる 事実上の別集落で、小学校もありました。
なお、桐生川ダムの梅田湖ができて一部が水没しました(1983)。
事実上独立した集落であったことに配慮すれば、入飛駒地区の境界変更は、他の 10事例と同様に、変遷情報に記録してもよいのではないでしょうか。>88さん
【注】
この頁の表の部分は [75906] おがちゃん さん 報告による 桐生市|市域の変遷 と同じです。しかし、二分された状態の市域図が描かれているだけに、より分りやすいと思います。
収集基準[76001]の (5)からすると、採用は難しいのでしょうか?> オーナー グリグリさん


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