相模川の小倉橋(おぐらばし)の記事
[58485]で言及した聖橋(ひじりばし)の架かる神田川の風景。
この落書き帳の中でどんな具合に取り上げられていたかを検索してみました。
[49282] まかいの さん メトロで街巡り
私の一番のお気に入りは、聖橋と神田川(御茶ノ水駅)です。
[31464][47265] N-H さん 「川は流れる」、高架の上を高架が越える
東京の川の中で「谷」のイメージがよく合うのは同じ神田川でも御茶ノ水付近だなあ。
谷の中腹にはりつくように走る中央線。川も線路もいっしょくたにまたぐお茶の水橋と聖橋。
まさに都心なのですが、文京区側の岸から川面まではかなりの比高がありますよね。
たしかに、かなり深い谷になっており、聖橋の下手では、両岸の崖から顔を出した地下鉄(丸ノ内線)よりも低い水面がよくわかります。
見上げれば大きく股を開いた橋脚で中央線と神田川を乗り越す総武線の高高架橋。見えないけれど聖橋の地下深くには千代田線と、4本の鉄道、2本の道路、それに水路が立体的に絡み合い、交通絵本などにも使われる格好の風景になっています。
かつては、聖橋の下で立体交差する外堀通りには都電も走っていました。もっとも、千代田線がなかった頃だから、電車はやはり4本か。
1950年代中頃に丸ノ内線の鉄橋工事を眺めていましたが、この低い橋の架設が神田川の舟運廃止に結びついたものと思われます。
江戸時代から続いた舟運の最後の積荷は都市が出す廃棄物だったのでしょう。御茶ノ水の濠では汚穢舟が働いていました。
南向きの土手には「自由学校」(ご存知の方は少ないでしょうね)のモデルとなったバラックが立ち並び、ひどく汚れた都市河川になっていた時代を経て、下水道普及のおかげでやっと水質が改善された御茶ノ水渓谷。
「小赤壁」というと
姫路付近にある海食崖 が有名ですが、かつては、お茶の水渓谷も「小赤壁」でした。
「茗渓」という呼び名もあり、かつてこの地にあった学校の
同窓会 の名に使われています。
東都名所 御茶之水之図 を見ると、断崖の先に「水道橋」という地名の由来になった神田上水の「掛樋」が描かれています。
神田上水取水用ダム(大洗堰)があったのは、現在の江戸川橋より少し上流の関口村。もちろん「堰」に由来します。
「関口芭蕉庵」の存在が示すように、松尾芭蕉は水道局勤務だったようです。
江戸川橋といえば、上水を取水した余水が流れる大洗堰から飯田橋付近の船河原橋までの間は「江戸川」と呼ばれていました。大洗堰から上流は「神田上水」です。そして、船河原橋から下流の運河化されていた部分だけが「神田川」。
1964年の河川法改正によって、3つの名前が「神田川」に統一されたとのこと。
[20103] ありがたき さん。
戦前に見た「江戸川」は、既に汚れた都市河川でしたが、江戸時代には、市民の水道水を取水していた川ですから、当然きれいに管理されていた筈です。
水道水だけでなく、極上の水もありました。
[18611] kentan さん
御茶ノ水の地名由来は、江戸時代にお偉いさんが休憩して、この地に湧き水を使ってお茶を飲んだ事で絶賛した程だったとか?
徳川2代将軍秀忠に献上された高林寺の「御茶の水」は、順天堂付近に湧き出ていた名水と伝えられます。
元和年間(1620年頃)に伊達政宗によって工事が行なわれた神田山切り通し工事後も、この湧き水は残っていたようですが、万治年間(1660年頃)にこの濠を拡張して運河とした際に水没したとされます。