都道府県市区町村
落書き帳

県界国界変更

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[33692] 2004年 10月 2日(土)13:49:04hmt さん
106年前の10月1日に発足した自治体
一日遅れになってしまいましたが、10月1日は「都民の日」。

「東京市」は、市制町村制が施行された明治22年(1889)に市制ということになっていますが、市制特例法により、東京市長は東京府知事の兼任、事務吏員さんもいないという有様で、形式的な存在にすぎませんでした。
10年にわたる運動の末、ようやく特例法が撤廃されて、自治体としての「東京市」が発足したのが、明治31年(1898年)10月1日。
「都民の日」は、これを記念して1952年に東京都が制定したものです。
# 昨年秋には、[21976](埼玉)県民の日 を投稿しています。

本日のオフ会会場で、
東京市役所東京市史編纂係「東京市十五区全図」(明治40年4月発行 裳華房)をご披露するつもりですが、
この歴史を背景に、そのタイトルを見ると、9年前に「東京府十五区」から「東京市十五区」に変ったのだということを実感します。
「東京府十五区」は、明治11年(1878年)の郡区町村編成法によるもので、その十五区は、おおまかに言えば名称と共に自治体東京市の15の区にほぼ引き継がれていますが、細かく見ると出入があることは、Issieさんが[14798]で例示されている通りです。

この十五区と6郡(荏原、南豊島、北豊島、東多摩、南足立、南葛飾)があった東京府に、神奈川県管下だった三多摩(北多摩、南多摩、西多摩)が編入されたのが、まだ「東京市」が形式的な存在だった1893年。玉川上水の水源管理がねらいでした。三多摩の人々は東京府編入に猛反対したようですが、帝国議会は編入を決定しました。
ところが、3年後の1896年になると、政府は東京市と郡部の武蔵県に分けることを考えたが、市と郡部町村共に反対されて撤回。しかし、翌1897年になると、一般市になることを目論む東京は、郡部を抱え込むことが 財政負担から不利であると考えて、郡部を千代田県として分離しようと、態度を豹変。これも郡部の反対で実現しませんでした。
このようなゴタゴタを経て誕生した自治体「東京市」でした。

その後は、関東大震災を経て、昭和になってから35区に拡大、北多摩郡だった千歳と砧を編入、東京都制、戦災、22区に再編成、板橋区を2分割、地方自治法による特別区へと変化してきましたが、自治体としての東京都の基礎は、1898年10月1日にあるという考えから「都民の日」になっているのでしょう。

「東京市」の件からは外れますが、上で書いた“十五区と6郡があった東京府”の「区は郡と重複して存在していたのではないか」という疑問をIssieさんの掲示板で質問したことがあります【No.269】。
これについては、Issieさん【No.270】の他に、tkshさん(この落書き帳から姿を消されたのは残念)からのご教示【No.278】をいただきました。
これらの記事は近日中に消失する運命にあると思われますので、【No.307】にhmtが要約したことを、この場を借りて記録させていただきます。
(三新法の)“施行順序”達によると、制度上は「郡と重複して区は存在する」が、
これに拘り便宜を妨げざる様心得た結果であるところの
明治11年11月2日の「東京府布達」による区域割りでは
南豊島郡の区域は後の淀橋区、渋谷区から東は原宿・千駄ヶ谷・早稲田各村までとされ、
麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区とは重複していなかった。
すなわち、制度上の重複はともかくとして、実質的にはフレキシブルな運用である「東京府布達」により、郡と区の分離が行なわれたと理解しました。
[33700] 2004年 10月 2日(土)23:10:52【1】Issie さん
三多摩移管のこと
けふは,さほど酔っ払ってはをらないのでした。

[33692] hmt さん
Issieさんの掲示板

すみません。当掲示板は現在休止中です。
そのうちに再開するかもしれませんが(再開しなくてはならないですねえ),そのときには旧掲示板はチャラになっているかもしれません。
何分,当HPについては,思い切り“いい加減な運営”をモットーにしていますので,ご容赦を。最近の合併ラッシュについては,「気が向いたら」の更新を旨としていますので,どうぞよろしく。
(実は津久井地域のバス方面で根本的改訂が必要なのですが,市町村関係で少しく手が回りません。)

玉川上水の水源管理がねらいでした。三多摩の人々は東京府編入に猛反対したようですが、帝国議会は編入を決定しました。

三多摩を「奪われた」ことは神奈川県にとっては少なからずショックであったようで,「県史」にも比較的詳しく触れられています。とはいえ,政治的な生臭いことは公式な記録には残されないのでしょうね。
ともかく,「県史」で少なからずこだわっているのは,水源管理がねらいであれば「三多摩」である必要はなく,北・西の「両多摩」でよかったはずではないか,ということです。

慶応4=明治元年3月に新政府軍が江戸城に入城し,旧幕府直轄領と旗本領を(のちに寺社領も)政府直轄とし関東地方に「府・県」を編成しました。一方で,1万石以上の大名領は翌明治2年の版籍奉還を経て,“公式な行政区画”としての「藩」の管轄に。
多摩郡の府藩県への所属は極めて錯綜していて,1つの「村」が複数の藩・県に分割されることも珍しくなかったのですが(…というより,南関東ではこれが普通),おおよそ多摩川・秋川以南の,のちに「南多摩郡」となる村々の多くは「神奈川県」の管轄とされました(さらに,武蔵南部3郡[久良岐・橘樹・都筑]と酒匂川以東の相模国内の旧幕府・旗本・寺社領が「神奈川県」管轄)。それに対して,後の北・西・東多摩各郡に属する村々は,「品川県」と「韮山県」に分属して…,それはそれは極めて複雑です。
実は,明治4年の廃藩置県後,11月(旧暦)に関東地方の府県の合併再編が行われたときには多摩郡は「東京府」と「入間県」とに分割されると一旦告示されました。しかし,まもなく多摩郡全体が神奈川県管轄に変更され(足柄県管轄された高座郡も),さらに“東に飛び出た”中野町以下の町村がもう1度東京府に移管されて,東多摩郡・豊多摩郡を経て,「23区」入りを果たしています。

北・西多摩郡はともかく,南多摩郡の東京府移管については,この地域が比較的高度に商業化した養蚕・製糸・絹産業の発展を背景に自由民権運動の盛んな地域であったことがしばしば指摘されています。
以前にも同趣旨の発言をしたことがあるのですが,南多摩郡の東京府移管がなければ,八王子は間違いなく「神奈川県北部」の中心都市として発展したことでしょう。立川に地位を奪われることもなかったかもしれない。
同じ「神奈川県」であれば,相模湖(与瀬)・藤野の八王子市への編入は問題なく進行しただろうし,町田市と相模原市の合併のハードルもずっと低かったことでしょう。

やはり神奈川県にとって,南多摩郡を失ったことは返す返すも残念なことだったかもしれないなあ,と思ったりもします。
[755] 2002年 1月 30日(水)23:44:47Issie さん
Re:郡の東西南北
前の発言の続きを送ろうとしたら,また CGI BUSY になってしまいました。
グリグリさんは私のせいではないと言ってくれたけど,何か複雑。
ともかく復活したようなので,もう一度アップしなおします。

肥前国の「松浦郡」は「東松浦郡」「西松浦郡」(佐賀県),「北松浦郡」「南松浦郡」(長崎県)に分割されています。
日向国の「諸県郡」は鹿児島県から宮崎県が分離したとき,宮崎県となった区域が「北諸県郡」,鹿児島県に残った区域が「南諸県郡」となりました。宮崎県の北諸県郡からはその後さらに「西諸県郡」と「東諸県郡」が分離し,2県にまたがって東西南北の諸県郡がそろいました。しかし,郡制施行に際して鹿児島県の南諸県郡は東噌唹郡と統合されて「噌唹郡」となり,日向国から大隈国に編入されました。

武蔵国は最終的に東京府と埼玉県,神奈川県に分割されましたが,「足立郡」のうち東京府の管轄となった区域が「南足立郡」(現・足立区),埼玉県の管轄に入った区域は「北足立郡」となりました(その後,郡制施行の際に埼玉県北足立郡は荒川をはさんだ新座郡を編入しています)。

「葛飾郡」はさらに複雑です。
葛飾郡はもともと「下総国」に属し,隣国の武蔵国や上野国・下野国と境を接して下総国の北西部を占める広大な郡でした。中世には現在の江戸川を境にして「葛西」「葛東」などに分けられたりしましたが,江戸時代の初め,幕府によって江戸川以西が「下総国」から「武蔵国」に所属変更がなされました。
明治になり廃藩置県ののちの県の再編を通して,両国にまたがる「葛飾郡」は東京府・埼玉県・千葉県・茨城県に分割されました。
そこで郡区町村編制法による郡編制の際に,それぞれ次のような呼称になりました。
武蔵国葛飾郡
 東京府の区域 --> 南葛飾郡
 埼玉県の区域 --> 北葛飾郡
下総国葛飾郡
 埼玉県の区域 --> 中葛飾郡
 千葉県の区域 --> 東葛飾郡
 茨城県の区域 --> 西葛飾郡
というわけで,「東西南北中」がそろいました。
(下総国葛飾郡の一部が埼玉県になったのは,江戸時代半ば以降の河川改修によって,江戸川の流れが少し東に移動したからです。)
しかし,郡制施行のための統合によって,埼玉県中葛飾郡は北葛飾郡に編入され(同時に武蔵国に編入),茨城県西葛飾郡は猿島郡に編入されました。一方,千葉県東葛飾郡は南相馬郡を編入しています(このために旧相馬郡は茨城県となった利根川以北の「北相馬郡」だけが残りました)。
さらに東京府の南葛飾郡は東京市に編入されて葛飾区と江戸川区となり,現在残っているのは千葉県の東葛飾郡(下総国)と埼玉県の北葛飾郡(武蔵国)だけとなったのです。
[36159] 2004年 12月 28日(火)23:02:23【1】hmt さん
埼玉県の生まれた後―県域変更あれこれ
埼玉県の生まれた頃の経過を3回にわたりたどりました。
(1)埼玉県と入間県の時代[36047]   (2)(群馬・入間両県が統合された)熊谷県と埼玉県の時代[36081]
(3)は「杤木縣」などの話[36083]になって  (4)熊谷県を分割して武蔵は埼玉県へ統合[36111]
これで “ほぼ” 現在の形になったわけですが、このような大きな変化だけでなく、マイナーな県域変更もあるので、一応補足しておきます。

その中で最も目立つものは、江戸川の流路で分断された葛飾郡北西部の管轄修正です。

1875年(明治8年)8月に、下総国葛飾郡金杉村(現・松伏町)ほか42ヶ村が、千葉県から埼玉県に移管されています。
利根川東遷の前は渡良瀬川の下流・太日川だった川筋に、新しい河道(江戸川)が開削されたのは、寛永12~18年(1635~41)というからはるか昔のことです。しかし、庄内古川という名になった旧河道が境界であり続けたために、江戸川により下総台地から切り離された西岸も、下総国・印旛県(千葉県)でした。1875年に千葉県と茨城県の境を利根川に改めたのを機会に、千葉県と埼玉県の県界も江戸川に改めたのでしょう。かくて千葉県は、現在のように“島”になりました。

県界は江戸川に移りましたが、下総国と武蔵国の国界は庄内古川のまま。1879年に「郡」が復活すると、ここは「埼玉県下総国中葛飾郡」となりました。
ところが、1896年になると「埼玉県下国界変更及び郡廃置法律」というのができて、国界も江戸川に移り、中葛飾郡は北葛飾郡に統合して消滅。
わざわざ「国界変更」をしたことは、この時代までは 旧国が実質的な地域名称として機能していた事実を示しています。

この1875年には荒川の南北の飛地も埼玉県川口町と東京府岩渕本宿町との間で交換しています。「東京府へ足立郡舎人町引渡書類」も同じく1875年。
それよりも前、1872年に渡良瀬川の改修で生じた西岸の土地を茨城県から編入しました。

戸田橋付近の改修の結果、荒川の南岸になった浮間(1926年)・船渡(1950年)は東京府・東京都に編入されています。
これは、すぐ後に出てくる保谷に続き、20世紀のできごと。

実現しませんでしたが、21世紀には茨城県五霞町と埼玉県幸手市との合併話[16062]が話題になりました。五霞町は、前記「下総国葛飾郡金杉村ほか42ヶ村」の北側にあり、新旧河道の間に存在するという、同様な条件の土地なのですね。

河川がらみでない府県境越えの移籍もあります。
古くは明治4年(1871)11月に入間県とされた多摩郡の一部が、間もなく神奈川県に移管されています(M5/1/28)。
“多摩郡の一部”とはどこなのか? と調べてみました。
箱根ヶ崎村・増子村・青梅村・拝島村と、入間郡に近接している西多摩の村々については、入間県だったことも一応うなづけますが、北多摩の関前・境村、更には南多摩の恩方村となると、このように離れた村がなぜ入間県だったの?と疑問が湧くばかりです。

1891年には埼玉県新座郡榑橋(くれはし)村他が東京府北豊島郡石神井村の一部(上土支田)と越境合併して大泉村(現・練馬区)になりました。“企画倒れの大泉学園”が計画されるのは、もっと後のこと。[3868]参照
埼玉県新座郡は、この後1896年に荒川の東の北足立郡に統合され、そこから 保谷村が1907年に東京府北多摩郡への越境編入を果しています。現在は西東京市。
元・新座郡の残党は、現在東上線沿線の4市になっており、近年合併の動きがありましたが、実現しませんでした[13099]

戦後の埼玉県からの越境合併としては、入間郡元狭山村から東京都西多摩郡瑞穂町への分村合併騒動[4049]があります。

もっとマイナーな飛地交換も明治時代には何回も行なわれたようです[4111]
それでも残った飛地があり、この落書き帳で話題を提供しています。
[46981] 2005年 11月 29日(火)16:59:37hmt さん
地勢図で「県界変更史跡」めぐり
[46937]今川焼 さん
現佐用町の北部(旧石井村・旧江川村)は明治29年までは旧美作国(岡山県吉野郡)でした。

これは知りませんでした。
早速、20万分の一地勢図「姫路」で現状を確認してみたところ、兵庫・岡山の県界と、播磨・美作の国界とは一致していました。

この県界変更が行なわれた明治29年(1896)は、明治23年に公布された「郡制」が全国的に施行の時期を迎えた時代です。
兵庫県についての直接の資料は持っていませんが、埼玉県では同じ明治29年に、中葛飾郡(最近春日部市と合併した旧・庄和町など)が北葛飾郡に併合されました。

実はこの地域は、もともと利根川が太日川として東京湾に注いでいた時代の川筋(庄内古川、現在は中川の一部)の左岸(つまり下総側)でしたが、17世紀に江戸川の開削によって下総台地の本体から切り離されました。しかし、ずっと下総国の一部であり、明治8年に千葉県から埼玉県に移管されて中葛飾郡という名が付いてからも相変わらず下総国でした。
ところが、明治29年になると、わざわざ「埼玉県下国界変更及び郡廃置法律」によって、武蔵と下総の国界を庄内古川から江戸川に移し、埼玉県全体は武蔵国の一部になりました。
このような「国界変更」が行なわれことは、旧国が実質的な地域名称として機能していたことを示しています[36159]

旧美作国吉野郡石井村・江川村が兵庫県佐用郡に移管されたのは、これと同じ明治29年です。県界変更と同時に播磨・美作の国界も変更され、県界との一致を保ったものと思われます。

つまり、兵庫県内には「美作国」の地域はなく、1896年の時点では、摂津(一部)・播磨・但馬・丹波(一部)・淡路の五ヶ国でした。1963年に日生(ひなせ)町の一部(旧・福浦村)編入により備前の一部が加わった後は六ヶ国となり、首位の座を固めています。

旧国が既に実質的な地域名称として機能を失った戦後の県界変更になると、それに伴なって国界を変更して一致させる必要性はなくなりました。
そのために、20万分の一地勢図上ので県界と国界との不一致として「県界変更史跡」が残されることになりました。

“備前国で兵庫県”の備前福河[46914]は地勢図「姫路」で、“丹波国で大阪府”の旧・京都府樫田村[31152]は地勢図「京都及大阪」で県界変更の跡を見ることができます。
“越前国で岐阜県”になった旧・福井県大野郡石徹白(いとしろ)村[31291]は、「岐阜」と「金沢」にまたがっています。手持ちの昭和43年発行の地勢図「岐阜」を見ると、石徹白付近に“白鳥町”の注記はあるものの、13年も前にできた筈の岐阜・福井県境が描かれていません。

同じく1955年に愛知県に越境合併した旧・岐阜県三濃村の一部の「県界変更史跡」は、地勢図「豊橋」にあります。この付近を中心として、北の現県界、東の明智川、南の矢作川、西の国界(表示なし)に囲まれた範囲が“美濃で愛知県”です。

有力メンバーの多い栃木・群馬県界の変更については、さすがにこの落書き帳に多数の記事があります。
地勢図は「宇都宮」で、手持ちの昭和34年版と平成10年版とを比較してみます。
昭和34年版でも桐生市街の対岸にある旧栃木県菱村[14592]は、明瞭な「県界変更史跡」を見せています。この“下野国で群馬県”の地域が、平成10年版になると、北方に更に拡大しています。これが1968年に桐生市に編入された栃木県飛駒村の一部[31165]ですね。

逆に“上野国で栃木県”になったのは、旧・群馬県矢場川村の一部[14616] です。昭和34年版は足利市編入の前年ですから、当然ながら県界=国界であった矢場川の南はすべて群馬県でした。矢場川は、渡良瀬川の旧河道[4618]で、その名も両毛橋が架けられています[25139]。平成10年の地勢図では、栃木・群馬県界が矢場川の少し南に移っているのは良いのですが、矢場川の位置に残るべき国界が消されています。
YSK[両毛人]さんのご指摘[17073] により、国土地理院は昭和56年からの編集ミスを認め、昨年発行の図から訂正されて、「県界変更史跡」が復活したようです。

最後に、“信濃国で岐阜県”の地域。地勢図は「飯田」です。
手持ちの昭和35年発行図を見たら、恵那山の北方に“中津川市”と記され、昭和33年に長野県西筑摩郡神坂(みさか)村の一部が越県合併した時に生れた新県界が、信濃・美濃国界から離れて北東へと描かれているのですが、ほんの一部だけで途切れ、東と北の県界は描かれていません。要するに「県界変更史跡」は未完成状態。
今年の2月に、長野県木曽郡山口村の岐阜県中津川市への編入が実現しました。“信濃国で岐阜県”の地域は、更に拡大したわけです。

“岐阜県でも信濃国”ですから、この地域の馬籠宿で生まれた島崎藤村は、[37786] 北の住人 さんのおっしゃるように、「信濃国出身」と書くことができます。たしかに「岐阜県出身」よりは数等「まし」な言い方です。
しかし、藤村本人の意識としては、彼の生まれた馬籠宿は、「筑摩県」でも「長野県」でも「信州」でもなく、「木曾」だったのだと思います。[37785]参照。
「信濃国」や「長野県」、「岐阜県」のような広域であり、かつ行政の都合で変化してしまう地名を「出身地」に使うことは、誤りではないにしても、「ふるさと」という感覚からはあまり適切でないケースがあるように感じます。

# 実は、県境の話題とは関係ないことなのですが、来年の3月になったら、メンバー紹介記事の「出身地」をどのように記すべきかと悩んでいるのです。
[28373] 2004年 5月 17日(月)19:00:10Issie さん
地図上の旧国界
[28357] 月の輪熊 さん
埼玉県のうち下総国だった地域(旧中葛飾郡)や、大隅国菱刈郡だった鹿児島県伊佐郡菱刈町などは、現在の所属(旧)郡の境に沿って旧国境が引かれていますが、川根町以北は確かにほとんど大井川、大井川鉄道に沿って、駿河と遠江の国境が引かれていますね。

「検定済教科書」である地図帳の場合,旧国界の根拠としているのは,国土地理院の20万分の1地勢図でしょうかね。

地勢図の場合,ご指摘の通り,江戸川の旧流路を利用していた「下総国」中葛飾郡と「武蔵国」北葛飾郡の間の国界(現在の江戸川の流路のうち,“野田市”関宿橋付近~野田市・吉川市・松伏町分界点の間の区間は,江戸時代に開かれた人工の水路です)が記載されずに現在の江戸川筋になっていたり,薩・隅・日3州間の郡域再編後の状況が記載されていたり(「日向国」南諸県郡も郡統合後の「大隅国」噌唹郡として記載されていて,つまり日隅国境は現在の宮崎・鹿児島県境と一致しています)というわけで…,

この地図(シリーズ)に記載されている「旧国界」は江戸時代のものではなくて,実は基本的には「郡制」および「府県制」施行のための郡の再編の終了した1900年頃のものなのですね。

駿遠国境の大井川の場合,左岸(東岸)が駿河国志太郡から遠江国榛原郡の各町村に編入または合体したのは「昭和の大合併」前後のことなので,ここでは1900年頃の国界が記載されているものだと思います。
県境=旧国界を越えて合併の行われた旧長野県神坂村や,旧栃木県菱村などに関連するところでも,合併以前の線が旧国界として残されていますね。

※それにしても,四街道は少しく意外。
[47015] 2005年 11月 30日(水)23:50:20作々 さん
国界変更
お疲れ様です。

[47002] てへへ さん
明治29年の鹿児島県での変更はどこか?(旧日向国諸県郡のうち鹿児島県に移管された南諸県郡と関係があるか?それとも旧大隅国菱刈郡が薩摩国伊佐郡に併合したことと関係があるか)

ちゃんと調べが付いたわけではありませんが、変更は以下の3点だと思われます。
北大隅郡、菱刈郡:大隅国→薩摩国
南諸県郡:日向国→大隅国
十島薩摩国→大隅国

北大隅郡とは桜島(東桜島村、西桜島村)のことで、このときに鹿児島郡の一部となっております。
同様に菱刈郡(菱刈村、東太良村、西太良村)は伊佐郡の、南諸県郡(東志布志村、西志布志村、月野村、大崎村、野方村、松山村)は囎唹郡の一部となっております。
また、十島はこれまでは川辺郡の一部でしたが、このときに大島郡へと所属が変わっております。
[5301] 2002年 11月 24日(日)02:12:26【1】ニジェガロージェッツ さん
勤労に感謝して、昨日は仕事をしてました
真夜中の2時ガロージェッツです。

[5212]般若堂そんびんさん
レスありがとうございます。御書き込みを拝見しドクターペッパーのあの独特の芳香が脳裏に甦り、また飲みたくなりました。初めて耳にする「ミスター・ピブ」という飲料、大変興味をそそられます。
今日テレビで京都と神戸をロケーションにしたドラマがありました。神戸に関しては少々地理的に無理な設定もありましたが、だいたい街並みの雰囲気は出ていると思いました。
しかしいつもながら「神戸ロケ」で出てくるのは「神戸大橋」「三宮・異人館」「六甲山」(このロケでは摩耶山)と相場が決まっており、残念ながら「長田」などはまず出て来ません。出て来たとしたら震災絡みです。

[5265]NSKさん
自治体の分割の話題の続きですが、兵庫県赤穂市は昭和38年8月に岡山県和気郡日生町のうち福浦地区を越境編入しています。いまでも赤穂市福浦にあるJR赤穂線の駅名は「備前福河」です。
また古い所では、佐用郡佐用町石井地区は明治中頃までは岡山県・旧美作国に属していました。
このレベルのお話になると全国各地にあることでしょうけどね。

それと郵便番号の話題が続いていますが、すこし飛躍して外国のお話。
日本では郵便番号の割り当てで1で始まるのは東京ですが、だいたい他国でも1は首都が多いのではないでしょうか。
例えば中国(6桁)の北京は100000で始まり、ロシア(6桁)でも100000はモスクワの中央郵便局です。
変わった所では米国(ZIP・5桁+4桁)では首都ワシントンDCは20001で始まっています。
で、ZIPサイトで10001を検索してみるとズバリ「ニューヨーク、エンパイア ステート」とか「マンハッタン」とか出てきました。

あとロシア滞在中にニジニノヴゴロド在住の日本人宛てに郷里のご両親が札幌の郵便局から小包を送ろうとしたそうでしたが、郵便番号603155を見て局員が頑に「この郵便番号は間違っています!」と言い続けたそうです。
私見ですが、この局員氏はロシア宛ての郵便物を札幌という場所がら頻繁に扱っているのか6で始まる郵便番号を見て勝手に「極東・シベリア地域の番号」と思い込んで(ユジノサハリンスク市693***、ユ市以外のサハリン州694***、ウラジオストク690***、ハバロフスク680***、イルクーツク664***、ノヴォシビルスク630***、等となっているので無理もないのだが)やや東よりながらロシア中央部に位置するニジニノヴゴロドはもっと若い番号になるはずと考えたのではなかろうか・・と推測します。
しかしロシアの郵便番号の最初の1桁目は「方向」を表し、東方向は6で始まる番号となり、600000はモスクワ州の東隣のヴラジーミル州の州都ヴラジーミル市の番号です。
因みに1は首都モスクワに始まり北方面、2は西方面(ソ連崩壊でかなり喪失)、3は南方面、4は南東、東南東方面(ヴォルゴグラード400000に始まり、ウラル以西のカザフスタン国境沿い一帯)となっています。もしかすると鉄道線に関係があるのかな?という気がするのですが。
番号の付け方一つにしてもお国柄が出ていて興味深いものがあります。
[46937] 2005年 11月 27日(日)14:41:20今川焼 さん
兵庫県は七ヶ国
[46891] デスクトップ鉄 さん
・ 赤穂線の兵庫・岡山県境は、備前福河・寒河間にある。兵庫県は、摂津・播磨・丹波・但馬・淡路の5カ国だけでなく、備前国も含んでいたのですね。
すみません重箱レスです。
[5301] でニジェガロージェッツ さんも触れておられますように、現佐用町の北部(旧石井村・旧江川村)は明治29年までは旧美作国(岡山県吉野郡)でした。(参考第三次兵庫県の県域
リンク先の地図で比べると、面積では赤穂市の福浦地区より数倍広いですが、100年以上も前のことですし、「備前福河駅」のようなわかりやすい物的証拠もないので案外見過ごされています。

ところで、その佐用町の北部に第三セクターの智頭急行石井駅があります。この路線はもともと旧国鉄の路線として計画されていたものですが、もし国鉄時代の早い時期に開通していれば、徳島県石井町の徳島線に石井駅がすでにありましたから、こちらの石井駅は「美作石井駅」になっていた可能性もあります。(まぁ、あくまで「可能性」です。この駅の計画段階の仮称は大字名の「下石井」でした。)
[1639] 2002年 5月 26日(日)20:44:30Issie さん
利根川東遷
> 鹿島神社や香取神宮は彼方此方に存在しますね。

人気のある神様なんでしょうね。
特に「香取」(かとり←かんどり)は「舵取り」(→かんどり)に通じますから,「戦の神様」だけでなく水運関係にも人気があるようです。

> 平将門と藤原純友の仲

この2人が本当にツルんでいれば面白かったかもしれませんが,「東西相呼応して」というのは都の貴族連中の妄想だったというのが実際のところのようです。坂東の戦乱と西海の反乱とでは性格も目的もだいぶ違っているようですからね。2人が同時に都にいた可能性は十分ありえるのですが,お互いにお友達だった証拠はないのですよね。

> 関宿の分流点から常磐道橋梁付近の鬼怒川との
> 合流点迄が該当するのかな?

今の地図を見ているとそのように思ってしまうのですが,実際に全く新しく開削したのは栗橋や関宿のあたりのごく短い区間だけで,特に関宿以東は以前からあった水路を拡幅して少しばかり手を加えただけです。

(前にも書いたかもしれませんが,)実は関東平野の中で一番低くなっているのは栗橋のあたりで(ここがどんどん沈んでいるのです。逆に南部の東京湾岸地域はどんどん持ち上がっている),そこを荒川・利根川・渡良瀬川の3大河川が寄ってたかって埋めている最中です。
そのせいで特に埼玉県北部から群馬県南東部にかけては3つの河川の大乱流地帯となっていて,昔から流路が安定していない地域でした。
たとえば,荒川は現在では熊谷から南へ流れて川越で入間川と合流するルートをとっていますが,「元荒川」という東へ流れるルートもあるし,足立郡と埼玉郡の境界が綾瀬川であることはかつてはこれが荒川の主なルートの1つであったことを示唆しています。
これは利根川や渡良瀬川でも同じで,つまり今の北埼玉郡一帯には利根川の流路が無数にあった。それを戦国末期以来,あちこちの区間で堤防を築きながら固定されて成立したのが現在の流路なのです。
「利根川東遷」と呼ばれる大土木事業は,単に「江戸を洪水から守るための放水路」を建設するための1回かぎりの事業ではなくて,こうしたたびかさなる治水事業の総仕上げとして行われたもので,同時に房総沖の難所を避けて銚子と江戸を結ぶ内陸水路を開くための事業でもありました。
最終的に,今の地図にあるような流路が確定するのは,カスリン台風を経験した後の戦後になってからのことです。明治・大正期には,あちこちの区間で今とは違うルートが本流とされていました。
一方で,県境の方は府県制と郡制が実際に施行された明治半ば,世紀の変わり目で固定されてしまいます。流路の変更はその後も続いたわけで,そのせいでお互いのズレが大きくなってしまいました。

なお利根川が鬼怒川とつながるまでの常総地域で一番分かりやすい境界線は鬼怒川だったわけで,したがってこれが国境となっているのです(途中で国境は小貝川に移るけど,これはかつてはこちら本流だったことを示唆するのでしょうね)。古河を含む現在の猿島郡西部は旧(西)葛飾郡。後に武蔵に編入された江戸川右岸(西岸)の区域も含めて「葛飾郡」というのは,(古)利根川左岸の下総国北西境を限るたいへん広大な郡だったのです。

> 佐原付近で県境が利根川本流から北に外れて居る

実は小貝川合流点以東の区間では常総国境,そして両県の境も当初は利根川本流筋よりも北にありました。現在の稲敷郡河内町と東町の利根川沿いの区域は1899年に当時の村ごと千葉県香取郡から茨城県稲敷郡に移管された地域です。このときに利根川本流→横利根川→常陸利根川というのが県境として確定したのです。

関宿以東の現在の利根川筋は,平将門の時代はもちろん中世末期まで陸地だか水辺だか分からないような湿地帯でした。海音寺潮五郎の『平将門』で一度劣勢に陥った将門がこのあたりの芦辺に身を隠す場面がありますが,それは『水滸伝』の梁山泊や「芦の陰から漕ぎ出す船…」で始まるロシア民謡の「ステンカ・ラージン」を連想させます。そんな場所だったのですね。
当然,下総と常陸の境も曖昧だったわけで,ある程度確定する頃には少し北寄りのラインとなった。

江戸時代初めの東遷事業でそうした水路の1つが利根川筋として固定され,沿岸の排水と新田開発が進められます。
この新田開発には南岸の下総側の村も利根川本流筋を越えて積極的に参加します。現在「水郷」と呼ばれている与田浦一帯の地域は佐原周辺の村からの新田でした。そんなこともあって,このあたりは明治の大合併の時には利根川本流をまたいで「佐原町」や「津宮村」などの一部となります。潮来は常陸の行方郡だけど川(後に常陸利根川となる)の対岸は下総の香取郡。
結局は,これがそのまま現在の県境になったのですね。
このあたりに頑丈な堤防が作られて陸地と河川敷を完全に分離する事業が始まるのは大正から昭和初期,ちょうど「船頭小唄」が流行した頃。事業が完成するのは,ようやく戦後になってからです。「潮来花嫁さん」が流行した頃かな。

今のすっきりしてしまった川筋からはなかなか想像しにくいけれど,戦前までのこのあたりの様子は今とはだいぶ違っていたのですね。
[47003] 2005年 11月 30日(水)14:35:58今川焼 さん
明治35年の京都府の国界変更
[47002] てへへ さん
3、明治35年の京都府での変更はどこか?(見当もつきません)
与謝郡(丹後国)雲原村の天田郡(丹波国)への移管ではないでしょうか。
[42778] 今川焼
1902年に与謝郡から天田郡へ郡が変更

[31129]今川焼では
明治38年に与謝郡雲原村が天田郡に編入
と書いていますが、これは明治35年の誤りだと今気がつきました。
[4111] 2002年 10月 23日(水)12:49:51ken さん
RE:新座市新堀・西堀地区
[4080]実は小学生さん
>埼玉県新座市新堀・西堀地区ってなぜ新座市なのでしょうか?
>僕は、東京都清瀬市または東久留米市に入った方がいいと思うのですが。
>この地区には、何か事情があるのでしょうか?是非教えてください。

ものすごい亀レスで申し訳ないと思ったら、[4080]は昨日の書き込みですね。(泣)

地図を見ると、ぐっと入り込んでいて、「なんでこうなるの?」ということがよくありますよね。
飛び地なんかはその最たるものですが。

埼玉県の北足立郡(新座郡)と、東京府の北豊島郡・北多摩郡の間では、明治期には、結構こまめに、「領土交換」が行われてますので、何かのきっかけで、付け替えがあっても不思議ではなかったかもしれません。
保谷村は、そっくり全部、埼玉県北足立郡だったのが、東京府北多摩郡に移されていますし。
今は亡き保谷市の部分に、埼玉県がぐいっと入り込んでいたら、やはり変ですよね。
そういう不自然さを是正しようという考えと動きはあったようですが。

しかし、古くは荘園領地の境にまで遡る、字の境、村の境、を全てスムーズな線にまとめよう、というのは無理な話で、こういう不思議なところがあるのが、地図を見る面白さではないでしょうか。

埼玉県新座郡の榑橋村と、同 新倉村のうち長久保は、北豊島郡の大泉村に付け替えられてますが、今、地図を見ると和光市旧片山村の中に東京都練馬区西大泉町の飛び地もあったりします。
先日のTNさん[4049]入間郡元狭山村分村事件 のお話も面白かったですね。

私の会社の後輩が、かつて清瀬駅徒歩最寄の新座市新堀に住んでいたことがありましたが、新座市役所に諸手続き行く用事のためだけに、自転車を購入し奮闘しておりました。
[38467] 2005年 3月 10日(木)17:27:42hmt さん
多摩
[38430]平成少年 さん
「多摩地区」に川崎市多摩区は入るのでしょうか?

「多摩地区」という言葉がどのような場合に使われているのかよく知りませんが、その定義などなさそうですね。

で、私も[38459]中島悟さんのように、「東京都の三多摩地区」を指すのが普通だろうと思います。
昔は武蔵国多摩郡がありましたが、1878年に東西南北、4つの多摩郡に分割されました。そのうちの東多摩郡(現・杉並区と中野区)は南豊島郡(現・渋谷区や新宿区)と合併して豊多摩郡になりましたが、東京市の区部になった旧東多摩郡や豊多摩郡区域を「多摩地区」に含めることはないと思います。

「多摩地区」は、東京都の中で、「区部=23区」や「島嶼部=伊豆諸島、小笠原諸島」と対比させた「三多摩地区」ではないでしょうか。市部が多くなって行政区分としての北多摩郡、南多摩郡が消滅したので、「三多摩」という言葉を使わなくなったのかな?

その「三多摩地区」ですが、[38459]
細かく言えば旧保谷市を除き、世田谷区烏山・砧支所を加えた範囲
には賛同できません。
旧保谷村→保谷町(現・西東京市)は、昔は埼玉県新座郡→北足立郡だったのですが、1907年に東京府北多摩郡へ越境編入されており、れっきとした「多摩地区」の一員です。
一方、烏山などの旧千歳村と旧砧(きぬた)村は、昔は北多摩郡だったのですが、1936年に東京市(世田谷区)に編入されて「区部」になり、杉並区や中野区になった旧東多摩郡の区域と同様に「多摩地区」には含まれないと考えます。

さて、本題の川崎市多摩区。
ここは近世以降は武蔵国橘樹(たちばな)郡ですが、[2035] Issieさん によると、
さらに以前はこのあたりも多摩郡だったらしい
とあります。

そんな昔に遡らなくても、このあたりは「多摩丘陵」です。日野市、多摩市、稲城市に続く多摩川南岸だし、ここの人達は南多摩との一体感があるかもしれません。

もともと三多摩の人々は東京府への移管に猛反対したのです[33692] [33700]。三多摩と神奈川県に残された武蔵国3郡、特に南多摩郡と橘樹郡との間には、そんなに深い溝はなかったと思います。
1893年に作られた府(都)県境で画して、「多摩地区」か否かを論じるのはおかしいのかもしれないし、川崎市が「多摩区」を名乗って「多摩」を東京都に独占させないという気持ちもわかります。

それでも…100年も経つと「多摩地区」のイメージは東京都になってしまっているのではないのかな。


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