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落書き帳

歴史上の「原」地名

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[34089]2004年10月11日
Issie
[34099]2004年10月12日
EMM
[34106]2004年10月12日
音無鈴鹿
[34120]2004年10月12日
hmt
[54570]2006年10月24日
むっくん
[54626]2006年10月28日
hmt

[34089] 2004年 10月 11日(月)23:43:54Issie さん
原××
[34084] 今川焼 さん
「原コレクション」

空白の東京都には,
たとえば「戸山ヶ原」(新宿区)というのがあります。
…が,今は原っぱではありませんね。
「徳丸ヶ原」(板橋区)というのもあります。
…が,幕末にこの地で行われた砲術演習にちなむ「高島平」の方が今ではずっと有名ですね。

「原町田」(町田市),「原当麻」(相模原市←神奈川県だけど)というのは,対象外みたいですね。
それぞれ,恩田川の谷戸にある「本町田」,相模川沿いの低地にある「当麻」に対応していて,いずれも台地上を通過する街道に沿って開かれた新集落であるようです。
[34099] 2004年 10月 12日(火)01:08:47EMM さん
解体新書が生まれるきっかけとなった地でもありますが
[34089] Issieさん
[34084] 今川焼さん

東京で○○原だったところでは、密かな有名どころが一つ。
小塚原…江戸時代の刑場です。
現在の場所は…とりあえずここではパス。
東京の都市規模の拡大によって、当然、現在では建物だらけですが…。
(どこだったかはネットで検索すればすぐ分かります)
[34106] 2004年 10月 12日(火)10:37:55音無鈴鹿 さん
権田原
こんにちは、音無です。
職場からこっそり書き込みです。

週末は台風が関東地方に襲来しまして、夕刻は強烈な雨でした。そんななか拙宅は強烈なビル風が吹き付けたものですから雨漏りが発生。床下浸水していないのに床上浸水(笑)。机のうえのパソコンが餌食に。だいぶお年を召しており、延命措置すべきかどうか迷っております。

さて。
[34084] 今川焼さん
原コレ立ち上げお疲れ様です。
東京だと明治記念館のあたりが権田原という地名ですね。江戸時代には権太原との記述もあります。Issie先生が[34089]にて挙げられた戸山ヶ原や徳丸ヶ原は、すでに団地になってしまっていますが、こちらは神宮外苑の一部になっていますから、人工的とはいえかろうじて”原”の状態はとどめていますね。
[34120] 2004年 10月 12日(火)20:47:07【1】hmt さん
原コレクション・番外編
現在の地名としては疑問のあるので、番外編と名付けます。

江戸・東京の原
“武蔵野は 月の入るべき 山もなし 草よりいでて 草にこそ入れ”(万葉集・東歌)と詠まれた武蔵野の中に開かれた江戸ですから、江戸市中諸処に原があった筈です。ここでは 神田の秋葉ヶ原 (秋葉ノ原) と護持院ヶ原、東京になってから出現した三菱ヶ原・戸山ヶ原を取り上げてみます。

秋葉ヶ原(あきばがはら)
ここは、神田川の北岸、筋違御門(万世橋付近)と和泉橋の間に設けられた防火地帯で、遠江の秋葉神社を勧請しました。
…と書いて、江戸切絵図で神社を探したら、アレレ…火除地はあるが、神社が見つかりません。
明治4年の東京大絵図には、「鎮火社」があるんですが。もしかすると秋葉神社は案外新しいのかもしれません。

明治16年測量の5000分の1にも 「鎮火神社・字秋葉ノ原」 の字がありますが、オフ会で披露した明治40年の東京市全図では、その場所が 「秋葉原貨物停車場」 となっています。神田川に通じる船溜もある物流拠点でした。駅名は慣用で「ヶ」を省いたのでしょうが、これが誤読の原因になりました。

貨物駅だけならば誤読されても影響は小さかったのしょうが、関東大震災後の1925年に山手線環状運転が開始されると、旅客駅も開業し、駅名標には「あきはばら」と書かれました。
永井荷風は「秋葉ヶ原に停車場あり。これをアキハバラ駅と呼ぶ。鉄道省の役人には田舎漢多しと見えたり。」と書いています。(断腸亭日乗 大正15年7月12日)

このようにして火伏せの神様・秋葉大明神が忘れられたまま、世界に知られた AKIHABARA で、2004年2月10日 突如として 「ヤマギワソフト館」炎上!

護持院ヶ原
森鴎外の小説「護持院原の敵討」の舞台です。江戸切絵図を見ると、現在は気象庁がある 「一橋殿」 (徳川慶喜)の屋敷と御堀を隔てた対岸に 「二バンアキチ」 とあります。将軍綱吉の信任を得た隆光の大伽藍「護持院」があった跡地です。なお、敵討は天保六年だけでなく弘化三年にもあったようです。

三菱ヶ原
現在の千代田区丸の内。江戸時代は大名屋敷が建ち並び 「夕立を四角に逃げる丸の内」 と川柳に詠まれた土地ですが、明治になって1872年の銀座大火で焼けた後、東京鎮台の兵営がありました。兵隊屋敷が麻布に移転した跡地は、大蔵大臣 松方正義に頼まれた三菱の第二代社長岩崎彌之助が約35万平方メートルを128万円で購入、 三菱ヶ原 と呼ばれました。1894年にコンドルの設計した赤煉瓦造り3階建の三菱1号館 (hmtは東9号館時代に見たことがあります) が建設され、次第にオフィス街になってゆき 「一丁ロンドン」 と呼ばれるのですが、[33135]電車唱歌【2番】の頃は、まだまだでした。

戸山ヶ原
13万6千坪の尾張藩江戸下屋敷だったところです。23区内最高峰?の箱根山 [11061] 44.6mは、池を掘った土で築いた庭園内の玉圓峰(丸ヶ獄)の跡ですが、庭園内に 「小田原宿」 と俗称される宿場町が造られたことから、築山が 「箱根山」 と呼ばれるようになったようです。
川柳に「雲助がないがお庭の不足なり」とあるように、米屋、酒屋、菓子屋、薬屋、瀬戸物屋、本屋、絵屋、扇子屋、植木屋、さらには弓師、矢師、鍛冶屋といった職人の店、医師の家まであったそうです。
このような屋敷も安政2年の江戸大地震や翌年の台風被害を受け、安政6年には御殿全焼。
明治6年(1873)に尾張下屋敷跡は陸軍用地になり、翌年戸山学校。さらに陸軍病院、近衛騎兵連隊、陸軍幼年学校などが次々に建てられました。
1910年には日野熊蔵大尉が自ら製作した日本最初の飛行機に搭乗して飛行実験。狭い射撃場に見物人が押しかけ、滑走しただけで飛行はしませんでした。日本最初の飛行は代々木練兵場(代々木公園)になりました。

戸山ヶ原[34089]の名は、明治になってからでしょうね。範囲は尾張下屋敷跡だけでなく、その西側に及んでいます。1879年にアメリカ南北戦争の英雄で元大統領のグラント将軍夫妻が来日したのを機会に、ここに洋式競馬場ができました。明治30年(1897)頃の1:20000集成図には1885年に開通した山手線の内側に競馬場(後に目黒へ、そして府中へと移転)が見えます。現在の早大理工学部のあたり。
そうそう。尾張下屋敷跡の 「箱根山通り」 付近には、落書き帳メンバーの方の職場がありますね。

あと、江戸の 「〇〇原」 で落せないのが 「吉原」 ですが、その方面には詳しくないので。
[54570] 2006年 10月 24日(火)07:53:59【1】むっくん さん
粟津ヶ原
「原」コレクション

おはようございます。むっくんです。

>今川焼さん
過去において「原」と呼ばれたことがあるところで、現在では一部の田んぼの地域を除き総て宅地化されて見る影もないところですが、「原コレクション」の採用基準の一つに
現在または過去において地形名として「原」と通称されている、または通称されたことがある。
とあることより、採用されることを期待しつつ挙げてみます。一つだけですが。

粟津ヶ原(大津市)

場所としては、諸子川と盛越川の間でかつ国道一号線(もしくは名神高速道路)より琵琶湖側です。

粟津ヶ原はかつては合戦も行われたところで、寿永3年(1184年)義仲討伐を目指す源範頼・義経の軍勢によって、木曽義仲と今井兼平はこの粟津ヶ原で討ち死にしました。
木曽義仲の遺骸は諸子川の東側にある義仲寺に葬られ、隣には松尾芭蕉の墓が立っています。ちなみに今井兼平の墓は盛越川のすぐ北側のここにあります。

また壬申の乱(672年)では、瀬田の唐橋の戦いに敗れた大友皇子軍は、盛越川あたり(現在の美崎町あたり等)でほぼ壊滅しました。壬申の乱の際は、粟津ヶ原の場所はうっそうとした森(粟津の森)でその森の間を細い街道(後の東海道)が通っているだけだったらしく、大友皇子軍は大津京に帰還することなく盛越川を背に背水の陣で戦わざるを得なかったようです。
#粟津の森があまりにもうっそうとした森で、越すに越されぬ森であったので、その東側と西側を流れる川が共に森越川と名付けられました。(後に東側の川は盛越川、西側の川は諸子川と名が変わりました。)
[54626] 2006年 10月 28日(土)23:35:05hmt さん
屋敷跡が一時的に「原」になり、再開発によって消えた江戸の「原」地名
[54579] 今川焼 さん
“歴史上の「原」地名”としてまとめ、「原」コレクションの説明文にリンクを載せておくことにしました。

過去記事の中で触れた“歴史上の「原」地名”を補足しておきます。

薩摩原[35013]
薩摩鹿児島藩の江戸上屋敷は幸橋御門内(内幸町一丁目)にありましたが、幕府転覆をねらう薩摩藩士の活動拠点になっていたのは、三田の中屋敷でした。
慶応3年の師走(西暦では年が改まった1868年)、薩摩の挑発に乗せられた幕府軍は三田の薩摩藩邸を焼討ち。これが翌年正月の鳥羽伏見の戦いの導火線となりました。その焼け跡が「薩摩原」です。
明治になってから救育所、育種場などに一時的に利用されたこともありますが、1899年に創立した日本電気の工場がここにできました。(現在もNECの本社ビルが建っています。)
従って、20世紀になると既に「原」の面影は失われていたと思われますが、明治42年(1909)測図の地形図に、電車停留所「さつまはら」が残っていたことは既報の通りです。

「薩摩原」から少し脱線しますが、政権交代期の歴史の舞台として更に有名なのが、この近くの薩摩藩蔵屋敷です。現在の田町駅前。都営地下鉄の三田駅付近ですが、ここが海岸沿いだったからこそ蔵屋敷があるわけで、藩邸焼討ちも免れて残っていたのでしょう。
“歴史の舞台”とは、もちろん、江戸城総攻撃直前の慶応4年(1868)3月14日、勝海舟と西郷隆盛の会談で実現した無血開城です。これにより江戸は戦火を免れました。

長州ヶ原[35106]
岡本綺堂の御堀端三題(綺堂むかし語り に収録)には、次のように記されています。
それにつづく日比谷公園は長州屋敷の跡で、俗に長州ヶ原と呼ばれ、一面の広い草原となって取り残されていた。
日比谷公園の北西部にあたる位置で、長門萩藩の上屋敷跡です。明治4年の「東京大絵図」では、既に「陸軍操練所」と記されており、「長州ヶ原」の名を地図で確認することはできませんでした。

加賀原[41218]
市ヶ谷の台地に加賀屋敷があったのは明暦大火より前で、その後再開発されているので、「加賀原」だったのは、薩摩や長州よりもずっと古い時代でしょう。明治に復活した「市谷加賀町」との間には、長いブランクをはさんでいます。
なお、加賀上屋敷と言えば、ご存知赤門の本郷(東京大学)ですが、下屋敷は下板橋宿の東、石神井川沿いにありました。現在の板橋区加賀一丁目など。

大名屋敷の跡地の「原」としては、尾張徳川家の下屋敷跡もありますが、こちらは「尾張原」でなく、「戸山ヶ原」[34120]です。

牢屋ヶ原[34231]
大名屋敷跡が続きましたが、こちらは伝馬町の牢屋敷の跡。

大都市の中では、火災等により建物が失われた後、一時的に見通しのよい「原」が出現しますが、やがて再開発によって「原」は失われます。護持院ヶ原[34120]のように火除地になったために、18世紀から19世紀にかけての長期間、都心の「原」を維持したのは珍しい例でしょう。


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