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[34522] 2004年 10月 26日(火)19:22:01【2】hmt さん
行幸道路
[34483]NTJ会長 さん
「御成街道」という道で、船橋市から東金市までを一直線に結んだ、旧街道です。
[34502]Heimskringla さん
直線道路の裏に権力あり

これらの記事から思い出したのが「行幸道路」という言葉です。
1937年、陸軍士官学校の卒業式に“大元帥陛下”が行幸されるために突貫工事で作られた道が、現在も「行幸道路」と呼ばれています。横浜線原町田駅(現在の町田駅よりも少し南)に作られた宮廷ホームと、この卒業式に際して命名された「相武台」とを結ぶ道路です。フランス式彩色地図の右上「原町田村」から、左下「至厚木町」まで続いている道を改修したものですが、完全な直線道路ではありません。現在の神奈川県道51号町田厚木線。

その「相武台」ですが、「座間」から改称した小田急の駅名が「士官学校前」だった理由として、“天皇から下賜された名前(同台経済懇話会の会名の由来参照)だから民間が使うことは許されなかった”という説を聞いたことがあります。結局は防諜上の配慮?から「相武台前」になった[28850]ことからも、駅改称が相武台命名より先だっただけというのが真相でしょう。

それはともかく、駅名に使われたことで、士官学校が「キャンプ座間」になってしまった後も通称地名として生き残り、遂には相模原市と座間市との行政町名として正式な地名になりました。
「相武台前駅」が先にあって、「相武台」という地名が後からできたことになります。
これと逆のケースですが、能登の総持寺祖院の門前町が「門前」という地名で定着したために、本家の方が「門前総持寺」と通称されるようになってしまったことを連想しました。

相武台と同様に行幸があったと思われる「修武台」(航空士官学校、現在の入間基地)に通じる国道463号も「行幸道路」と呼ばれるような気がしたのですが、検索してもヒットしません。
上野恩賜公園行幸道路:これは知りませんでした。
皇居から和田倉門を通って東京駅に伸びる幅員73mの銀杏並木の道は「御幸通り」です。銀座は「みゆき通り」。

武蔵野の雑木林の間に建設された中央線(東中野~立川間は本州最長の直線区間)のような例もありますね。開業時は私鉄(甲武鉄道)でしたが。

1888年、武蔵野の地図上に豪快な直線を引いた人物は、広軌(標準軌のこと)改築を含む鉄道改良論を推進したことで知られたカミナリ親父・仙石貢でした。
彼は官鉄の技師ですが、技術者の少なかった明治時代には、日本鉄道や甲武鉄道のような私鉄も、官鉄の技師の手により建設がなされました。本業の官鉄では、碓氷峠のアプト式を提案しています。後に筑豊鉄道、九州鉄道の社長として、九州の鉄道を改良。1925年の自動連結器取付工事の時は鉄道大臣でした。

中央線ほどの長さはありませんが、武蔵野では、小田急(世田谷代田―喜多見)にも直線路があります。
相模野を貫いて建設された 横浜鉄道(原町田―橋本、現在はJR横浜線)や小田原急行鉄道も直線路です。小田急(相模大野―座間)と並行する行幸道路よりも先輩です。

この原町田―橋本間は、1917年 横浜鉄道買収の直前に、鉄道院がその線路を借りて 広軌改築試験を行なった場所です。この時の総裁は後藤新平で、工作局長が島安次郎。
後藤・仙石・島の悲願の広軌化は実現しませんでしたが、彼らの後継者・十河信二が国鉄総裁の時、島秀雄技師長の手によって、標準軌の東海道新幹線が実現することになりました。

今月のはじめは、市町村合併やオフ会があって慌しく、関係する記事がなかったように思いますが、この 10月1日が、東海道新幹線開業 40周年だったのですね。

【2】鉄道改良史関係の記載を補足。
[44128] 2005年 8月 13日(土)17:27:38音無鈴鹿 さん
新田裏の新田
[44125][44006]hmtさん
新宿ときたからには答えねば…と思ったのですが、新田裏あたりはちょっと知識不足です。
三光院花園神社の北を流れ、川沿いのどこかには「新田」があったかもしれない「蟹川」
「新田」がどこなのか、よくわかりません。「新田裏」という地名は、そんなに古くまで遡るべき地名ではないのかもしれません。明治の2万分の1迅速図には見えない「新田裏」が、大正時代の1万分の1や5万分の1に登場しています。

明治13年11月の角筈村付近の地図です。残念ながらこの地図では村堺と字名は記入されていませんので新田裏という地名は残念ながら確認できませんが、確かに蟹川沿いには田んぼがあったみたいです。淀橋浄水場の建設工事の残土でほぼ埋め立てられたときいていますが、今でも新宿区役所通りは明らかに窪んでいるのが判るので、往時はさだめし深い谷であったろうと推察されます。あと、青梅街道も確かにまっすぐですね。甲州街道が直角に折れ曲がっている部分が、新宿追分、いまの新宿三丁目交差点です。いまも交差点の交番は追分交番を名乗っていたはずです。しかし”五街道である甲州街道>わき道の青梅街道”であったはずなのに、甲州街道のほうが曲がらなければいけないという構造になっています。こういった構造に疑問を持ってしまうのは、われわれ(私だけ?)が自動車優先による道路構造を当たり前のように感じてしまうからでしょう。もと城下町なんかでは市街地に直角道路なんてざらですから。
それから、三光町という地名も、周囲のビルには残存するものの、公式にはほぼ絶滅かーとおもいきや、ここの歩道橋は「三光町歩道橋」と書いてありました。新田裏は都バスからも消えおそらく絶滅です。
都電13号系統ルートは、私が職場へ自転車でふらふらっと通勤するには最短のルートになっていて非常に重宝しています。四季の道(もと専用軌道)あたりでは時々酔った人が寝ていることがありますが…。
[44237] 2005年 8月 17日(水)18:37:40hmt さん
フランス式彩色地図から始まった地形図の歴史
[44128] 音無鈴鹿 さん
明治13年11月の角筈村付近の地図です。

年代からして、フランス式彩色地図(第一軍管地方二万分一迅速測図原図覆刻版)ではなかろうかと思い、楽しみに開いてみたのですが、残念ながらリンクされた頁が表示されません。

明治10年の西南戦争で 地図の必要性を痛感した陸軍参謀本部は、正式の三角点が整備されるのを待たずに、「迅速な測量による地図」の作成に着手しました。その結果、関東平野と房総半島・三浦半島の地域が、明治13~19年(1880~1886)という短期間に測量されました。明治日本が手がけた最初の広域測量です。

ところで、何故「フランス式」という名なのか?
開国後の江戸幕府は、ナポレオン三世時代のフランス陸軍の技術を導入しましたが、明治政府の陸軍も最初はこれを引き継いだのですね。だから軍用地図の原図も、フランス式地図をモデルにした芸術的な彩色図でした。

ところが、明治陸軍は、普仏戦争(1870~71、明治3~4)で敗れたフランス軍よりも、勝ったプロシア軍に見習うべきだ と方針を変えたために、地図もフランス式から 実用本位のドイツ式に代わってしまいました。原図がフランス式の彩色図で作られた二万分一迅速測図も、出版物は無彩色です。

hmtの持っている地図は、明治20年に出版、明治24年に修正再版された印刷図「内藤新宿」です。上記の原図に基づいてはいるものの、無彩色です。

まあ、当時の技術では、もともとカラー印刷は無理だったのかもしれません。彩色原図の覆刻版が出版されたのは、最近のカラー印刷技術の成果をふまえてのことです。

同じく二万分一迅速測図でも、明治17年(1884)に着手した京阪神地方の原図は、既にフランス式彩色が施されていませんが、明治16~17年作成の五千分一東京図測量原図は彩色図です。この頃に方針変換がなされたようですね。

なお、三角点・水準点の成果を用いる正式測図による地形図は、迅速測図が進行中の明治18年に2万分の1で作成が開始され、経緯度の表示もされるようになりました。
しかし、当時の日本の国力は、2万分の1で全国をカバーするには不足しており、1890年(明治23)に国土の基本図は5万分の1に改められ、1924年(大正13)に、内地全域の測量を完了しました。出版は翌年完了。

日本の国力が充実して、それまで特定の地域についてだけ作成されてきた25000分の1を、国土全域について作成することになったのは、1964年(昭和39)のことでした。そして 1983年(昭和58)には、北方領土を除く全国の図が完成しました。

1968年に、北アルプスの空中写真を図化して地図を作成し、その副産物として剱岳の標高が2998mに戻ってしまったという事件[43689]は、この過程で生じたことなのでした。
[44255] 2005年 8月 17日(水)23:40:03hmt さん
「フランス式彩色地図」を見ることができました
[44241] たもっち さん
文字列をコピーして、ブラウザのアドレス欄に貼り付けてEnterキーを押すと上手く行くことがありますので、お試しください。
[44246] 音無鈴鹿 さん
…というわけでこちらからどうぞ。

お手数をかけました。
(A)たもっち さんの方法で見ることができました。
(B)また、[44128]http://www.geocities.jp/suzuka770707/tsunohazu1880.jpg から行くと、「このページは準備中です」というメッセージが出るのですが、アドレス欄を一旦反転させてから実行すると、上手く表示されることがわかりました。
(C) ところが、[44246]http://www.geocities.jp/suzuka770707maps.html の方は、アドレス欄にペーストしても、やはり「ページが見つかりません」になりました。

何が違うのかよく理解できませんが、とにかく、(A)または(B)の方法で、予想通りの「フランス式彩色地図」を見ることができたので、お礼と共に報告いたします。

地図の右上、東大久保村という文字の「大」と「久」の間の道が、現在都営地下鉄大江戸線のルートです。「久」の南にある橋から上流、青い川筋は2手に別れ、その間にある比較的大きな黄色い「田」は、現在の 新宿文化センター(以前の都電大久保車庫)です。黄色い「田」と青い川筋は、花園神社[44124]の北(新田裏[43993])を通って西に伸び、西方寺の北(山手線と出会うあたり)で終わっていますが、等高線からたどると、谷筋は更に南西の常円寺(現存)付近で青梅街道に出ています。ここが[44125]で記した「雷が窪」(現在の新都心歩道橋下交差点)です。
[44653] 2005年 9月 3日(土)17:06:00【1】hmt さん
音無鈴鹿さんに倣って 明治の新宿地図 をお目にかけます
[44128]音無鈴鹿さん
明治13年11月の角筈村付近の地図です。残念ながらこの地図では村堺と字名は記入されていませんので新田裏という地名は残念ながら確認できませんが、確かに蟹川沿いには田んぼがあったみたいです。

村・字の境界が記された地図がありました。 http://blogs.yahoo.co.jp/hmttak/10188611.html をご覧ください。

明治の初期、行政機構の改廃統合は 複雑を極めていますが、地図の作成事業の基礎になる三角測量を 最初に手がけたのは、明治5年(1872)3月工部省の測量司で、イギリス人技師の指導の下に実施されました。翌年には新たに設置された 内務省地理寮に編入され、明治8年には、後の1等三角測量に相当する 「大三角測量」が開始され、明治10年には 内務省地理局とい名になります。

今回お目にかける五千分一「東京実測図」は、この内務省地理局が 作成・刊行したもので、地籍整備という目的を反映して、各村に属する字名地番と その境界線が明示された、たいへん詳細なものです。
残念ながら音無鈴鹿さんがお住まいの新宿西口側は測量・刊行がされておりません。

さて、明治10年(1877)というと西南戦争ですが、作戦には もちろん地図が不可欠です。明治陸軍も明治5年に兵部省から分離した 陸軍省参謀局に 測量局を置いています。測量局の前身の名は、なんと「間諜隊」。
西南戦争によって地図の必要性を改めて痛感した陸軍は、明治11年に発足した参謀本部の下で作戦用の地図作りに本腰を入れます。明治13年2月から開始された 関東地方の二万分一迅速測図[44237]事業は その現れですが、西南戦争で中断していた 皇居周辺三里以内の五千分一測量も 明治14年に再開されます。

それにしても、迅速測図と五千分一測量は、一つ間違えば 東京の市街戦 になりかねなかった、当時の政情不安を反映して、参謀本部が馬力をかけた成果 ということでしょうか。明治17年には、加波山事件や秩父事件が起っています。
測量記録の「偵察録」には、道路の軍隊行進の可否、河川の渡河に関する情報、民情等、作戦に必要なデータが記録されているそうです。

そして、明治17年6月の太政官達により、測量事業は一本化されることになり、先進的な技術・機器を持つ内務省地理局の測量部門を併合した 参謀本部測量局によって、本格的な地図作りが開始されます。明治18年正式二万分一測図開始。

同じ明治17年頃、陸軍の軍制が江戸幕府から引き継いだフランス式からドイツ式になり、地図もフランス式彩色図から、ドイツ留学帰りの技術者によるドイツ式一色図に変りました。
明治17年に測量が完了した参謀本部の五千分一東京図も、原図はフランス式彩色図で作られましたが、製版図9面(明治19-20)はドイツ式になりました。「其数九葉に過ぎずと雖も頗る精密の図たり」(陸軍省年報)

同じ測量結果を共有して作成された 内務省地理局の五千分一「東京実測図」15面(明治19-21刊行)は、参謀本部の地図よりも 範囲が少し広く、およそ東京府15区の範囲をカバーしているようです。先に紹介した新宿付近のように、西側では日本鉄道(現・山手線)の線までの範囲が作られています。
柏書房[1361]の覆刻版「明治大正日本都市地図集成」、「五千分の一江戸東京市街地図集成」に収録されているので、図書館で見ることができます。

明治の新宿地図に戻ると、100年以上を経て、大きく変わった新田裏隣接地域の中で、西大久保村の避病院(都立大久保病院)は、花園神社と共に、当時から現在まで続いている施設です。

# 最初のイギリス人は別として、フランス、ドイツの技術だったために、地図の世界では古くからメートル法が使われています。


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