[35798]荏原郡、
[35838]豊多摩郡(南豊島郡・東多摩郡)に続き、現在の東京23区内に明治合併で生まれた「合成村名」とその旧村名に用いられた地名の現在の使用状況を追跡するシリーズ、その最終回です。
北豊島郡には該当なく、残るは南足立郡と南葛飾郡です。
タイトルの荒川放水路は、1965年に荒川と改称されていますが、ここでは建設当時の名を使います。
南足立郡梅島(うめじま)村:もとの地名は、梅田村と島根村。梅田・梅島・島根共に足立区の町名として現存します。
南葛飾郡大木(おおき)村:もとの地名は、大畑村と木ノ下村。
大木村は、大正に入って古綾瀬川沿いに幅500mで掘削されることになった荒川放水路工事により大きな影響を受けることになります。多くの土地は河川敷となり、南岸に残った部分は吾嬬町に合併され、向島区を経て隅田区八広(八方広がり)という瑞祥地名になってしまいました。北岸に残った一部は本田村を経て葛飾区東四つ木。
旧地名は痕跡も留めずに消滅し、本田(ほんでん)のような新しい村名が本田警察署等に名を残すのみです。
南葛飾郡亀青(かめあお)村:もとの地名は、亀有村と青戸村。葛飾区立亀青小学校がありますが、町名や駅名になっている亀有・青戸(京成の駅名は青砥)の方がはるかに有名です。
なお、青戸の中川下流には奥戸という地名があり、その他にも 東京低地には、亀戸、今戸、花川戸、江戸など「戸」のつく地名があります。中世には青津のように「津」と書かれた場合もあり、船着き場とか「渡」場でした。
南葛飾郡松江(まつえ)村:もとの地名は、西小松川村・東小松川村と西一之江村。
旧西小松川村は荒川放水路掘削で分断されましたが、東西小松川の中心部は辛うじて直撃を避け、西小松川町・東小松川・松江・西一之江はいずれも江戸川区の町名として現存しています。分断の結果として右岸にも小松川があります。
地名や川の名よりも有名なのは、1719年8代将軍徳川吉宗の命名という「小松菜」です。
南葛飾郡鹿本(しかもと)村:もとの地名は、鹿骨村と本一色村・松本村。
鹿本橋が架かる新中川(1963完成)の両岸に江戸川区の町名として鹿骨・松本・本一色が現存します。
この地区を流れる新中川は、高砂で中川から分流して今井橋の下流で旧江戸川に注ぐ放水路で、1963完成。
もともと、中川の下流部は七曲りの蛇行でしたが、荒川放水路と同時に東側に並行する中川放水路を掘削。荒川放水路西側は旧中川になっています。かくて高砂から下流は、新中川・中川(中川放水路も改称)・旧中川の3本建て。
これで明治生まれの「合成村名」の追跡は終ります。
検体は少数ですが、おそらく合成に限らず、次の傾向があるように思われます。
1.合併で生まれた行政村名は、その後の更なる合併を経て、そのまま地名として定着できないものが多い。しかし、公共施設名として使用されたものが残っている。
2.大字になった江戸時代からの旧村名は、引き続き現在の町名として存続しているものが多い。
3.ブランド力の強い地名(荏原郡の例では大森)があると、これに圧倒された付近の地名は消滅しやすい。
4.難読、表外字が嫌われて消される場合がある。「不入斗」や「衾」、そして「荏原区」。