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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[37037]2005年1月23日
hmt
[53951]2006年9月13日
88
[67436]2008年11月28日
hmt

[37037] 2005年 1月 23日(日)22:48:28hmt さん
海と隣り合う「ダム湖」
[36982]くるり さん
「ダム」ときくと川を堰き止めて出来た壮大なもので、山の奥深くまでに行かなければ見られないものだと思っていました。

ダム湖は、山奥で川を堰き止めたものに限りません。かつては海であり、現在も海と隣り合っている「ダム湖」もあります。
その代表が八郎湖と児島湖。

まず秋田県の八郎湖。スナフキんさんの出身地に近いこの地 (北緯40度・東経140度!) は、もともと日本海でしたが、北の米代川と南の雄物川からの流出土砂が沿岸流で運ばれて砂洲が延び、陸繋島(男鹿半島)を形成した結果、海跡湖になりました。
「おくの細道」の頃は松島のような多島海だった象潟が陸地になった事例からも窺えるように、長い間には 地盤の隆起もあって、浅い汽水湖になりました。
これが「八郎潟」。面積が日本第2位(223.3km2)の湖水でした。
戦後の食料不足対策として、昔から考えられていた八郎潟干拓事業が実現することになり、オランダから技術者も来日して1957年工事開始。湖の中央部をぐるっと堤防で囲み、内側を排水して干拓した土地に大潟村が開村したのが1964年10月1日。東京オリンピックを前にした東海道新幹線の開業日と同じです。

堤防の外側に残されて淡水化した水面は、その名も「八郎湖」(正式名は八郎潟調整池27.7km2)と東西承水路に代り、農業用水に利用されることになりました。
普通のダム湖は、ダムの内側が水面ですが、ここは常識を覆してダムの外側が水面という点が異色です。

続いて岡山県の児島湖。
吉井川・旭川・高梁川下流の沖積平野は、自然の力と近世以来の干拓事業があいまって、秀吉の高松城水攻めの頃には島だった「児島」が、陸続きの半島になっています。明治になってから藤田組の事業だった干拓は、戦後は国の事業になり、その一環として児島湾の一部が堤防で海から仕切られ、淡水化した「児島湖」になりました。1962年。

干拓堤防も「ダム」に入れるのか?と思われる方は、アムステルダム、ロッテルダムなどの地名を思い出してください。

干拓堤防と言えば、話題になった諫早にも調整池があると思いますが、「〇〇湖」という名は付いてますか?
[53951] 2006年 9月 13日(水)21:14:3388 さん
大規模な公有水面の埋立てに伴う村
[53892] 右左府 さん
いやあ、大潟村干拓博物館「八郎潟干拓と大潟村の歴史」、じっくり読ませていただきました。読み応えがありました。すごく「懐かしい」においを感じる読み物でした。貴重な資料の紹介、ありがとうございました。

さて、右左府さんがまとめてくださったものを読ませていただくと、まさに、小笠原村と似ていますね。
私が[52770]を書き込んだとき、ご紹介の「大規模な公有水面の埋立てに伴う村の設置に係る地方自治法等の特例に関する法律」(以下「法」という。)の存在は確認していたのですが、内容は吟味しておりませんでした。
・・・・って、私が[53310]で小笠原村について述べたのと同じ言い訳になってしまいました。法律を紹介するんだったら、せめてもう少し、読んでおくんだった・・・。

「制限自治」という言葉自体は、地方自治法関係では特に述べた資料はなさそうです(ネット検索した範囲では)。今回の大潟村(に限らず法を適用する自治体があればどこでも)では、要約(翻訳)すると次のような「制限」がかけられています。
法第3条:村長及び村議会議員の選挙は、自治大臣が指定する日まで保留する。
法第4条:村長が選挙で選ばれるまでは、村長のかわりに都道府県の職員から職務執行者を置く。
法第7条:村議会議員が選挙で選ばれるまでは、村議会の議決事項の代わりは都道府県知事の同意とする。
法第8条:村の選挙管理委員会、教育委員会、農業委員会等は、村長・村議会議員選挙実施までは設置せず、都道府県の選挙管理委員会、教育委員会等が代わりになる(農業委員会は村長職務執行者が代わりになる)。
法第9条:村議会、村長の最初の選挙後の4年間は、任期は4年ではなく、2年を2回とする。(←すみません。この解釈、自信ありません)

既存の自治体がない、ということは、何もかも一から新たに作る必要がある、と言うことです。「前例」もなければノウハウもない、入植する人が順次増えていく過程だから日々村民の構成も変わる・・・ですから、村設置後もしばらくは県が直接援助する体制で、一貫して行政が実施されるように努めたのでしょうか。八郎潟新農村建設事業団がつくられ、その事業団が行った公共施設や住宅の整備は、さらに国を挙げて援助する体制だったことを示しています。また、村長・村議会議員選挙後も、初期は任期を短くして、ソフトランディングできるように、といった感じでしょうか。

完全に他の自治体と同様の体制になったのは昭和55年9月のことです。
これなのですが、上記の法第9条の規定に基づき、村長や村議会議員の第3期目の任期(つまり、任期4年となり、名実ともに「法」の適用がなくなった(地方自治法そのものが適用になった)時期なのではないか、と思ったのですが、いかがでしょうか?

というわけで、市町村合併情報における大潟村の表現は、小笠原村と同様に、
S39.10.1村設置
S51.7.28法第3条による自治大臣が指定する日(「村制」という言葉とは少し異なるような・・・)
の2段階で表記するように検討してみたいと思います。実際の表現の変更は、合併情報全体の定義の見直し等と関連するので、しばらくお待ちください。
なお、任期が4年となった(法第9条の適用がなくなり、村長や村議会議員の任期が4年として始まった)S55.9.??は、軽微なものと判断して、割愛させて頂こうかと思っています。いかがでしょうか?

――――――――――――――――――――――――――――――
干拓地を、従来からある市町村の区域の一部とせず、まったく新しく作った例は、気がついたものでは大潟村以外に2つあります。他にもあるかもしれません。
発足年月日当時の新自治体名干拓地現自治体名
M42.7.4熊本県八代郡郡築村郡築新地(干拓地)八代市
M45.4.1岡山県児島郡藤田村児島湾干拓地第二区岡山市
明治の頃は、当然のことながら昭和39年制定の「法」はまだありませんから、別の法律か何かがあったのかもしれません。
[67436] 2008年 11月 28日(金)19:08:29【1】hmt さん
小坂鉱山に係る自然と人 (3) 藤田伝三郎
小坂鉱山を経営することになった元奇兵隊員・藤田伝三郎[67425]のことを続けます。
政府高官とのコネを利用して金儲けをし、ねたみを買った御用商人の藤田は、長州閥追い落としの標的にされ、贋札使いの疑いで逮捕されるピンチを招きました。
しかし、彼は明治17年頃から、日本の産業の根幹に係る二大事業に専念して汚名をそそぐことになります。
その二大事業とは、小坂を始めとする鉱山事業と、児島湾干拓事業です。

脇道に入りますが、ここで藤田組による児島湾干拓事業について触れておきます。
児島湾の大規模な干拓事業は、17世紀末に池田光政の家臣・津田永忠 によって実現し、幕末には興除新田 [62064] が造成されました。
明治になると、失業した士族が結社を作り、大規模な干拓を政府に働きかけました。明治14年に内務省のお雇い土木技師の ローウェンホルスト・ムルデル が児島湾干拓の基本設計書を作成しましたが、資金難の政府は、干拓事業を実施することができませんでした。

事業主を求めた士族結社が行き着いた先が藤田組でした。藤田としても採算の見通しは持てなかったと思いますが、大きな決断して明治17年出願。小坂払い下げの年です。
明治22年の認可後も防災対策・漁業補償などのハードルを越す必要があり、着工できたのは明治32年(1899)でした。なお、ムルデルは利根運河通水直前の1890年に既に帰国しています。

藤田伝三郎も第2区の完成を見る直前の明治45年(1912)にこの世を去りました。
しかし、この地域に新設された岡山県児島郡 藤田村 [53951]には、広大な藤田農場が生まれました。

第1区から第5区(計画図参照)までは藤田組単独事業で、1905年から1950年にかけて完成。戦後の農地改革と共に第6区、第7区は農林省の国営事業として引き継がれ、1963年(着工から65年目)に総計55km2(5500町歩)の干拓事業が完成しました。
児島湾の一部は堤防で海から仕切られ、淡水化した「児島湖」になりました[37037]

児島湾干拓事業の初期には、本山彦一pdf が藤田組に在籍して尽力しています。後に毎日新聞を代表的な全国紙に育てた人物です。

児島湾干拓はこのくらいにして鉱山業に戻ります。
「小坂鉱山」を手に入れた藤田組ですが、やがて鉱石の「土鉱」の埋蔵量が涸渇して、銀の生産量は明治25年頃から下降線をたどります。追いかけて明治30年に「金本位制」が採用され、銀の価格は暴落します。藤田組は赤字に転落。

それを救ったのが、新たに豊富な資源「黒鉱」の精錬を可能にした技術開発でした。製品としては、銀から銅への転換ということになります。これについては次回(久原房之助)で改めて記します。

大正4年(1915年)には北鹿地区内で同じく「黒鉱」を産出する花岡鉱山(大館市)を買収。その翌年には岡山県の柵原鉱山を買収しています。後者は硫酸原料の硫化鉄鉱を産出し、片上鉄道[57376]による鉱石輸送が行なわれていました。

昭和になり戦時色が強まると、非鉄金属は統制下に置かれ、遂に1943年藤田組の事業は国策会社の帝国鉱業開発に強制的に吸収されました。

戦後、復帰した藤田組は「同和鉱業」と社名変更し、「藤田」の名が消えました。“和衷協同"という言葉に由来。

戦後の発足ながら「藤田」を名乗る会社は「藤田観光」です。東京・目白の「椿山荘」は山縣有朋の私邸でしたが、名園を保存したいという意向を受けて藤田平太郎(伝三郎の息子)が購入したものです。
山縣有朋は明治陸軍の大ボスですが、市制・町村制制定の明治21年当時の内務大臣でもあり、落書き帳の記事にも登場します。藤田との昔の関係では奇兵隊の軍監でした。

藤田伝三郎は、明治期に数々の事業を手がけただけでなく、調停者としての能力もありました。関西財界の重鎮(大阪商法会議所会頭)になり、民間人として初の「男爵」の位を得ました。


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