都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

記事検索

>
5件の記事を検索しました

… スポンサーリンク …


記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[3971]2002年10月18日
ken
[4027]2002年10月20日
てへへ
[9278]2003年2月15日
Issie
[9303]2003年2月16日
ken
[16388]2003年6月7日
Issie

[3971] 2002年 10月 18日(金)13:42:18ken さん
琉球
[3967]
奄美と琉球の関係は歴史を遡ると3つの段階を考えないといけませんね。

1)まず1609年の島津氏による琉球侵攻ですね。
この段階で、奄美は、琉球王国から、ヤマトの一部である、島津藩に占領・割譲されます。
以後明治まで300年近く、島津氏の領土として「ヤマト」の一部としての歴史を刻みますよね。
この年月は、単に元々琉球だったから、というにはちょっと重い年月ですね。

2)さらに、明治初年の「琉球処分」と廃藩置県、
このときに「奄美」をどうすべきだったか、というポイントがありますね。
このとき、奄美は当然鹿児島県ですが、まだ琉球は一応独立国ですし、尚王が爵位を得て東京に移り、琉球藩が成立して、沖縄県が成立し、明治政府から派遣された県知事が赴任しても、辛亥革命で清朝が滅亡するまで、清の武力を借りての琉球王朝再建を目指す「亡命琉球王朝勢力」が福州に存在していましたし。

3)で、この2つを踏まえて、第2次大戦後のアメリカ占領からの返還時の、沖縄&奄美の扱いを捉えねばならないと思います。

まだ、世界中で行われていることですが、占領、既成事実化、入植、同化政策、等々。単にノスタルジックな文化圏というよりももっと、生臭い政治政略の結果でもあるわけです。

歴史をどこまで遡るか。
カリーニングラード州は本来誰のものなのか?というような、非常に難しい問題ですね。
[4027] 2002年 10月 20日(日)01:02:54てへへ さん
奄美ネタ
最近の書込み状況からすると2日も経つと遅レスという感じですが・・・。

[3971]Kenさん
>奄美は、琉球王国から、ヤマトの一部である、島津藩に占領・割譲されます。
について補足します。

・1609年 4月 1~5日 薩摩軍が首里城占拠し、尚寧(しょうねい)王は下城、薩摩に連行される。
・1610年 8月 8日 島津家久と共に尚寧王は駿府の家康に謁見。同28日、江戸の将軍秀忠の謁見。薩摩による琉球支配が公式のものとなる。
・1611年10月10日 2年半にわたる抑留が解け尚寧王帰国。「琉球は幕府や島津への義務を怠ったために、薩摩によって征討された。そのため琉球はいったん滅んだが、島津の恩情により、奄美諸島をのぞく沖縄諸島以南を再びあたえられた。この御恩は子々孫々まで忘れず、決して島津氏にそむかない」という起請文の提供を強制される。

 鹿児島県の公式サイトでも、一方的に侵略した島津氏が琉球の支配を開始し、中国に対しては琉球国が薩摩藩の領土となったことを隠し独立国としての体裁を保ったとしています。
 つまり、武力により行政権を掌握したのですから基本的には占領です。ただその2年後に奄美群島は琉球から薩摩藩直轄となり、琉球は対外的には独立国のまま薩摩に属するという状況になったので、琉球から薩摩藩への割譲という言い方もされているのだと思います。この扱いの違いが、奄美群島が鹿児島県か沖縄県かということに大きな影響を及ぼします。

 そもそも琉球王朝は13世紀から100年以上かけて支配領域を北に広げ、1571年の尚元王による奄美大島征服で奄美群島は完全に琉球王朝時代になります。この時代の扱われ方は琉球の他の島と大きな違いはないようです。
 1609年以降は琉球も奄美群島も圧政下で砂糖栽培の植民地の様相を呈し、制度なども日本化していきます。ただし、琉球では独立国としての顔を保持することが薩摩にとってプラスであることから、文化面では日本風の苗字や衣服の使用が禁止されています。

 先ほどの薩摩直轄か対外的独立国かの違いは、そのまま明治初年の琉球処分と廃藩置県に現れます。
・1871(明治4)年 7月14日 廃藩置県。奄美群島、琉球ともに鹿児島県管轄となる。
・1872(明治5)年 9月14日 琉球藩設置。尚泰王を琉球藩王とする琉球藩を設置。廃藩置県後の唯一の藩設置。鹿児島県管轄から政府(外務省)直轄に。
・1875年(明治8) 鹿児島県が奄美大島・名瀬に大島「大支庁」を、各離島には支庁を設置。
・1876年(明治9) 琉球が清国に最後の進貢船を送る。
・1877年(明治10) 西南戦争。
・1879年(明治12) 3月11日 軍隊を伴い強制的に琉球藩を廃止。沖縄県設置。琉球王朝の滅亡。日本政府の琉球占領ととらえた琉球国民が清に救援を求め政府に抵抗したあたりの話は [3971]Kenさん のとおりです。清には余裕がなく救援はありませんでした。その後、日清両国間で沖縄を2分割または3分割する分島問題がおこりますが、亡命中の琉球の人の祖国分割抵抗運動などにより、結局まとまらず琉球に対する日本の領有権が事実上確定します。

 さて1945年以降ですが、米国は「琉球人は日本人によって虐げられていた少数民族」として、米軍占領後は韓国のように独立させることも検討していたようです。その際、奄美群島をもともとは琉球の領土とみなし日本から切り離して沖縄の一部に加えることも考えたようです。
・1946年(昭和21) 2月 2日 北緯30度以南の奄美諸島の行政権の米軍管理開始。行政組織が日本から分離した日は沖縄も奄美群島も同じ日。(復帰日は異なります)
・1952年(昭和27) 2月 4日 サンフランシスコ平和条約に基づき北緯29度以北(現在の十島村、三島村)が復帰。
 この条約調印前後の本土復帰運動は奄美群島の方が激しかったようです。復帰要求署名は奄美群島では住民の99.8%(沖縄本島で72%)。また奄美群島では村ぐるみの断食祈願がありました。米国の統治下、渡航許可は那覇経由の申請となり手続きに数週間かかり、本土への商品出荷は「外国製品」として関税がかけられ売れず、日本政府や鹿児島県からの補助金はストップ、米国からの援助は奄美群島よりも軍事上の重要度が高い沖縄本島の復興が優先され、沖縄のように基地産業で潤うこともなく、人口20万人のうち3万人が仕事を求めて沖縄本島へ移っていきました。つまり、戦争による破壊具合は沖縄の方が大きく、日本と切り離された打撃は奄美群島の方が大きかったようです。
・1953年(昭和28)12月25日 奄美群島が日本に復帰。
・1972年(昭和47) 5月15日 沖縄が日本に復帰。
 双方の復帰までの動きに関連はあったとは思われますが基本的に別々に行われたようです。沖縄県の公式サイトでは、奄美諸島でも独自の復帰運動を展開、とあります。

[3943]桃象@国仲涼子ファン さん
>奄美諸島も好きです。昭和28年に奄美諸島が返還されたとき,鹿児島県に帰属なったのは,やはり失敗だったと思っています。まあ,思いつきと言われれば,それはそうなのですが,やはり奄美諸島は鹿児島県から分離して,1つの県とするか,沖縄県と一緒になった方が奄美・琉球文化圏の発展にいいんじゃないかなと思うんですけどね。

奄美群島の復帰後20年もの間、沖縄県は存在していません。背景としては、今なお尾を引く米軍基地問題も関係してますね。

 今年2002年8月7日に、東京都港区の増上寺で開かれた「沖縄本土復帰30周年(2002年)と奄美本土復帰50周年(2003年)を考える」というテーマのシンポジウムがあり、両地域の独自性を守るべきだとの議論があったそうです。
 一つの文化圏であっても、都道府県が行政区分である以上、奄美群島が鹿児島県に所属したことは必然と思われます。なお所属する都道府県の変更については以前に[3866][370]で論議があったとおりです。
[9278] 2003年 2月 15日(土)21:02:52【1】Issie さん
Re:島津
[9272] utt さん

「古事記」は物語としては実に面白いものです。昨年(だったかな),それを口語訳したものが出版されて,「西アジア一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)の厳格な神とは違って,おおらかで大雑把でユルユルの神様たちの世界」なんて紹介が新聞の書評欄に載っていましたが,ま,このユルユルさが古代の日本列島の住民の感覚だったんでしょうかね。
(もっとも,この「口語訳」が“老人の語りかけ調”にするという「余計な味付け」をしている点,私は好きません。もともと「古事記」自体が口承文学あったし,この語りかけ口調を評価する人も多いのですけどね。関係ないことですけど,余計な味付けをしている分,私は「イクラ」も「辛子明太子」も好きじゃないのですよ。それだったら,味付けの度合いの少ない「すじこ」や「たらこ」の方が好き。)

奄美地方や琉球王朝も実質的には島津の支配下だったようで、
サトウキビ、清朝との貿易品などを上納させていたとの話を聞いたことあります。

島津氏が琉球を征服するのは江戸時代が始まったばかりの1609年のことです。
地理的に近いことから,それ以前,おそらくは「琉球」が国家としての形を確立した頃から島津氏との関わりは特別に深かったのでしょうが,この征服によって島津の直接・間接の支配を受けることになりました。
征服された当時,「琉球王国」は本拠地である(狭義の)沖縄だけでなく,奄美と先島(宮古・八重山)の3地域を支配下においていました。したがって,この地域は文化的にも,言語(方言)の上でも同質の地域を構成します(本土と大いに異なる,という点で)。

琉球を征服した島津氏は,このうちの「奄美」を首里の王府から切り離して直接支配下に置きました。これが現在に至るまで奄美が鹿児島県に含まれる根拠であり,また敗戦後に米軍が“かつての琉球王国”に等しい奄美・沖縄・先島の3地域を占領したにもかかわらず,奄美だけをかなり早い段階に日本に「返還」した根拠でもあろうと思います。
そして島津氏は奄美の島々にサトウキビを栽培させて砂糖を専売制下に置き,これを本土に「輸出」することで大きな利益を上げました。ちょうどイギリスが西インド諸島(カリブ海)で行った砂糖のプランテーション経営と似たようなものなのだと思っています。島津家中(薩摩藩)は,すでに奄美で「植民地経営」を経験済みだったのですね。
ただし,薩摩・大隅・日向南部の一般領民が奄美へ移住することは厳しく制限されていたでしょう。したがって,島津氏の支配下にあっても奄美は独自の文化を保ち続けました。

残りの沖縄と先島については,首里王府が存続してその支配下に置き,鹿児島からは監督官が赴任して間接支配とする,という形態をとりました。たとえてみれば,敗戦後の日本が連合国総司令部の監督下に自前の日本政府を組織して,この日本政府が実際の統治を行った,というのと同じようなものでしょうか。
そして,首里王府に外交・貿易権を与えて対外的(特に対中国)には“中国の服属国”たる「琉球王国」として,対中国(初めは明,ついで清)外交とそれに付随する貿易(この時代,どちらが主でどちらが従かわからなくなっていますが)を行わせ,その貿易からあがる利益を吸い上げる(さらに,コッソリ幕府が禁止している密貿易も行っちゃう)。
あるいは琉球特産の芭蕉布や砂糖をやはり本土へ輸出することで利益を上げていたわけです。
[9303] 2003年 2月 16日(日)02:24:34【2】ken さん
琉球処分
[9278]Issie さん
そして,首里王府に外交・貿易権を与えて対外的(特に対中国)には“中国の服属国”たる「琉球王国」として

そうなんですよね。このあたりが琉球の歴史の複雑なところで。

明治の琉球処分時にも、日本による併合を認めず、琉球王朝残党の一派は、清の福州に亡命し亡命政権として活動し、清の軍事力を借りて、日本を駆逐しようと、活動していました。
実際には尚王自身が、東京に招かれての華族生活にすっかり魅了されて、精神的な拠り所を失って行きますが。
清朝の滅亡まで、一応形式的には、親清派の在清琉球王朝亡命政権は存在してました。
島津氏に実行支配されていたとはいえ、外交上は独立国だった、琉球を併合したことについては
、現日本政府、外務省は、「遺憾」には思ってないんでしょうね。

ご興味のある方には以下の本をご一読されることをお薦めしよう、と思ったら、版元品切れですね。図書館ででも。
http://books.yahoo.co.jp/bin/detail?id=01302903
http://books.yahoo.co.jp/bin/detail?id=01321676

そういえば、ついでながら、最近刊で、同様に独立国の併合についての本質を考えるきっかけとして、
文春新書の新刊「ハワイ王朝最後の女王」
http://books.yahoo.co.jp/bin/detail?id=31078478
も、アメリカとイラクのこととかを考える上でも、押さえておいて欲しい、案件です。

日清戦争による、日本の台湾領有よりも、アメリカ合衆国の武力恫喝によるハワイ王国併合の方が最近のことです。

米西戦争も意識的な情報操作の結果、あまり細部が触れられていないのだと思いますが、米西戦争のアメリカの勝利によって、スペインの植民地だったフィリピンはアメリカに「譲られた」と思わされていますね。
しかし、実際には、米西戦争の過程で、スペインの支配力が弱まり、兼ねてよりフィリピン独立を画策していたアナギルドはフィリピン革命政府を樹立、1898年9月29日に初代フィリピン共和国大統領に就任。しかし、米国はこの革命政府を承認せず、約2年間に及ぶ、米軍とフィリピン革命政府との戦闘の末、米国はフィリピンを支配。
というのが実態で、スペインから米国に割譲された、という単純な問題ではなく、米国はフィリピン人と戦争をして、占領したのです。
なので、条約としては1898年に米西両国の条約でフィリピンの割譲が交わされていますが、米国による実効支配が確立したのは1901年のことです。
アナギルドと共に米国と戦ったリカルテ将軍は、米軍に捕らえられ、グアムに流刑、丸木舟で脱走し、ボルネオ、シンガポールを経て、香港に身を隠し、英国官憲に捕まったが、フランス領事に救われ日本に亡命。後藤新平の保護下で、日本国籍を得て、南彦助として、横浜でカフェを経営し、寂しく暮らしたという。
横道にそれました。

日清戦争の結果の下関条約で、台湾の割譲が決まったのは1895年ですから、1898年の米国によるフィリピン侵略と同年のハワイ併合の方が、3年ばかり最近の出来事なのですが、前者についてはやたらと謝罪させられ、後者は正義の権化として君臨しているのは、何か矛盾を感じますよねえ。

何を侵略と呼び、何を正義と呼ぶのか。
政治談議の掲示板ではありませんが、ま、基礎知識として、歴史的事実を押さえないと。
琉球の話から、台湾、ハワイ、フィリピンに飛び火しましたが、本質は同じ要件です。
イラク問題を考える上でも、ハワイ、フィリピン問題を客観的に分析することは彼の国の体質を、冷静に見抜く上で重要です。
[16388] 2003年 6月 7日(土)00:39:21【1】Issie さん
沖縄と琉球
[16381] ゆう さん
古事記の神話から「かれ伊豫国を愛比売といひ」の、愛比売に新しく字を当てた

県庁所在地でも郡名でもない,というのはこれが初めてなのではなくて,統合以前に中・東予を管轄していた「石鉄(せきてつ)県」(明治5<1872>年旧2月に松山県から改称)と南予を管轄していた「神山(じんざん)県」(明治5<1872>年旧11月に宇和島県から改称)もそうで,なぜか伊予国だけに行われたことなんですよね。
ここに派遣された県令たちに,何がしかのポリシーがあったのですかね。
ちなみに,旧松山藩・久松松平家は徳川一門の「佐幕藩」ですが,旧宇和島藩・伊達家は幕末の「改革派」の1つですよね。維新の進行で取り残されていったようにも見えますが。

沖縄という、郡よりも広い地域を表すけれど県全域を表すものではない名前

「沖縄」とは本来「本島」,あるいは周辺の島々も含めた地域を指す呼称ですね。
「琉球」というのは,おそらくはこの島々の住民自身が名づけたものではなくて,中国から与えられた呼称だと思われます。つまりは中国王朝(具体的には明と清)との冊封関係を背景にした呼称なのでしょうね。
1879年に清朝との冊封関係と「琉球」王朝を否定して「県」を設置するにあたって,明治政府としては「琉球」という呼称を認めることはできなかったのではないかと思います。そして,「琉球」に替わるこの地域全体の呼称として選ばれたのが「沖縄」だったのでしょう。

逆に,戦後この地域を占領して日本政府の統治から切り離した米国は,あえて「琉球 Ryukyu 」という古称を選んでいます。
どうも米国は,少なくとも初めのうち,パナマをコロンビアから無理やり切り離して独立させたように,沖縄を日本本土から切り離すことを意図していたようだ,とも言われていますね。
英語表現としては必ずしも一般的でなかった Ryukyu, Ryukyuan を使用したことに,その意図がうかがえるのかもしれません(ヨーロッパには,16世紀のポルトガル語経由の Lechio:レキオ 系の呼称が行われたことがあります)。
「琉球」か「沖縄」か,というのには,かなり微妙な問題が含まれているのかもしれません。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示