都道府県市区町村
落書き帳

立科町のくびれ

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[39882]2005年4月15日
ペーロケ
[39936]2005年4月17日
ふぁいん
[39942]2005年4月17日
むじながいり
[72003]2009年9月20日
グリグリ
[72008]2009年9月20日
hmt

[39882] 2005年 4月 15日(金)21:56:40ペーロケ[愛比売命] さん
日本の地理(チリ)
[39831]ふぁいんさん
来年には「日本のチリ」もできますよ!!
来年3/1に合併して出来る新・甲府市です。
[39835]トライランダーさん
日本のチリといえば、静岡市ですね。

 かつて拙稿[10117]の中で計測したことがありますが(この頃の市町村もだいぶ合併してなくなりましたが),静岡市よりも甲府市のほうが若干細長いんですよね。残念ながら合併してしまいましたが,かつての新魚目町はまさに芸術でした。今は伊方町が一番細長いのかな??一番くびれている立科町なんて,ほとんど道路一本でつながっているような状況。一度ごらんあれ。
[39936] 2005年 4月 17日(日)14:36:41【2】ふぁいん さん
昭和25(1950)年沖縄県人口の謎&明治12(1879)年主要都市人口について
[39935] 白桃 さん

沖縄県がHPで発表している市町村別の国勢調査人口を齟齬が生じないように慎重に入力しております。
ただし、1947年はありません。
ただ、占領時下に沖縄でも国勢調査は行われていたのですかね?
記録があるから、間違いではないと思いますが・・・

やはりそうですか。私も沖縄県のHPを参考にしてデータを作成しています。
しかし、沖縄県発表の昭和25(1950)年のデータがどうもしっくりいかないのです。
各年代・国勢調査報告第1巻の付表2 都道府県の市区町村の推移によれば、

昭和25年の沖縄県
市区町村数:86
市数:6
町数:12
村数:68
県人口:914,907人
となっています。

沖縄県発表の場合は、66市町村・698,827人です。

残りの20市町村・216,080人はどこに行ってしまったのかなぁと・・・・
そのため全国の合計人口も合わないし。
戦後の一時期のみ、他にも沖縄県を名乗っていた地域があったのだろうか。
とても不思議に感じております。

白桃さんは、このことにお気づきだったでしょうか?


[39897] 両毛人 さん
これは私からもリクエストいたします!
[39896] ken さん
またそれは、金沢が4位だった時のデータについても、可能でしょうか?

残念ながらありません。おおよその人口位しかわかりません。
金沢の人口を「約」12万人としたのもそのためです。
少なくとも明治4(1871)年の調査までは、金沢には約12万人いたそうです。
その他、富山が当時全国9位。

注:[39658] では、明治維新以後、国内の都市で人口ベスト10入りしたことのある都市として、
22都市あげておりますが、富山が抜けておりました・・・

この年代についても、可能な限り調査したのですが、詳細なデータらしきデータが全くなかったのです。
私が明治中期・明治初期・江戸後期の詳しい都市人口を知りたいのは、このためなんです。。。

明治12(1879)年の主要都市の人口のデータなら持っていますので記載します。
(私が現在所有する最古の人口データとなります)

東京 761,335
大阪 291,565
京都 232,683
名古屋111,783
金沢 107,876
広島 76,589
和歌山62,080
仙台 55,035
横浜 46,187
福岡 45,480
熊本 45,032
神戸 44,368
新潟 36,591
岡山 33,028
長崎 32,815
赤間関26,502
函館 22,088
伏見 22,011
札幌 8,782

その他、
富山 約55,000~60,000
堺 約40,000
福井 約40,000
松江 約35,000
鳥取 約32,000
位となります。
上記5都市は様々な資料を参考・調査した結果の推測人口です


[39882] 愛比売命 さん
一番くびれている立科町なんて,ほとんど道路一本でつながっているような状況。

へぇ~~~~これはすごい。ホントに見事なまでに道路一本でかろうじてつながっていますね
最も細いところで、東西約100mといったところでしょうか・・・・
どのようにして、このような町域になったのか経緯が気になりますね・・・
ということで、少し調べてみました。

長野県北佐久郡立科町(全国市町村名変遷総覧・日本加除出版より)
S30.4.1 北佐久郡芦田村・横島村・三都和村の3村が合併し、北佐久郡立科村となる
S33.10.1 町制施行
S35.4.15 北佐久郡望月町(大字茂田井の一部)を編入


芦田という地名が立科町北側にある(町役場も立科町芦田ですし・・・)ので、そこらへんが旧芦田村かな?と思ったら、
なんと南側の白樺湖付近も「芦田」八ヶ野という地名が・・・・
横島、三都和という地名も既に現存しておらず、ここでギブアップ。

旧3村はどんな形をしていたのでしょうかね・・・
おそらく、北側が旧芦田村域で間違いないと思うが。
[39942] 2005年 4月 17日(日)15:42:19【2】むじながいり さん
立科町
[39936] ふぁいん さん
旧3村はどんな形をしていたのでしょうかね・・・
昭和初期の地図をみて、フリーハンドで大雑把ですがこんなかんじです。一応境界変更とかほとんどされていないならば、旧横鳥村=大字牛鹿・宇山・山部、旧三都和村=大字桐原・藤沢・塩沢、旧芦田村=大字芦田・芦田八ヶ野、望月町からの編入=大字茂田井です。昭和初期地図との比較ではほぼ一致するとみてよさそうです。というわけで、経緯は町村制施行以前に遡ってしまうかと(汗)。

道路一本でつながっているといえば栃木市のここなんて一体どんな由来なんだろうか。
[72003] 2009年 9月 20日(日)18:02:34オーナー グリグリ
立科町のくびれ
[72002] hmt さん
「美和石沢」という渓流沿いの上下2集落をまとめて、「美上下」という名の「字」になっているのではないかと想像します。
さっそくのふぉろ~をありがとうございます。上下2集落をまとめたのではないかとの推理ですね。美和石沢の「美」由来。なるほどねぇ。すばらしい調査分析力です。それにしても美和石沢はなんて読むのでしょうねぇ。検索してみましたが、そのまま検索したら石沢美和さんが引っ掛かりました。""でくくっても土石流危険地域の情報のみですね。「びじょうげ」の読みと合わせると「びわいわさわ」か「びわいわざわ」と普通に読むのかな。

県道40号。5kmほど南に行ったところ(長門牧場付近)にある「立科町のくびれ」[39882][39936][39942]を通過されたわけですね。
そうです。そこを通過しています。それにしても過去記事をすぐに引っ張りだされるとはすごい記憶力ですね。またまた感心しました。そのくびれ付近にある長門牧場に立ち寄りました。長門牧場はくびれを越えた長和町です。広々とした牧場に秋の気配の青空が映えてのんびりできました。カフェテリア形式のレストランでピザや新鮮なヨーグルトをいただきました。ソフトクリームも美味しかったです。長門牧場の南にある蓼科山や蓼科牧場を見渡せる県道40号沿いに昨年秋に整備された「朝日の丘公園」も、白樺の遊歩道や東屋などが整備されており、とても気持ちのよいところでした。
[72008] 2009年 9月 20日(日)22:50:06hmt さん
2つの美和石の謎 と 立科町のくびれの謎
[72005] 右左府 さん
「西塩沢の美和石という地籍」という記述があります。西塩沢とはこの辺りのことでしょうか。

グリグリさんが佐久のコスモス街道から蓼科高原へと向かったルート(県道40号)の途中にあった「美上下」という地名。
そして、その由来と推察した「美和石沢」。いずれも、昭和合併で立科村になる以前は、中山道から南の広い地域を占める芦田村だった地域です。
それに対して、西塩沢は中山道よりも北の三都和村だった地域です。

立科町避難所位置図 でいうと、9番の少し南に「美上下」がありますが、西塩沢はずっと北の34番です。

南北に約8km離れた2つの「美和石」。これは偶然とは思えません。
リンクした図を見ると、「塩沢堰」という文字が両方の近くにあります。「美和石沢」と「西塩沢の美和石」とは遠く離れていますが、水路で結ばれた関係で、同名を名乗っていると推察します。

この図でよくわかるように、立科町は、雨境峠(左右の図を分けているAA'線)の狭隘部(くびれ)を持つ特異な形状をしています。
実は、昭和30年よりも前、芦田村の時代からこんな形だったのです。

その由来は江戸時代に遡ります。
すなわち、北部が本来の芦田村で、南部の蓼科山麓は、佐久(北)と諏訪(南)との入会地でした。

[39936] ふぁいん さん の記事では解けていなかった謎を、一応説明しておきます。


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