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落書き帳

音読み・訓読み

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[43834] 2005年 8月 2日(火)22:10:10hmt さん
人の名前を「音読み」するのは敬意や親愛の気持ちから
[43765] 右左府 さん
井坂直幹(中略)能代の大人は皆「いさかちょっかん」と言ってます。勿論正しいのは上記の通り「いさかなおもと」。

最初に予備知識。
戸籍には「読み」が記されていないませんが、日本人の名前に多い、「良い意味の漢字2字」を並べた名は、もともと公家や武家の男子が元服する時に名乗る名前で、「訓で読む」という伝統がありました。これを「実名」(じつみょう)または「名乗」(なのり)と言いました。
# 地名についても、古くから「並用二字、必取嘉名」の原則がありました。[37482]参照。

しかし、この実名(名乗)は、昔は生前に他人から呼ばれる名ではありませんでした。他人は、その人の大事な実名を尊重して、めったに口にしてはならないのです。
そこで、他人に呼ばせるための「通称」という名がありました。西郷吉之助というような名がこれです。○スケ(助・介・亮など)、○兵衛、○衛門、○蔵などは昔の官職まがいの言葉を含む通称です。太郎、二郎のように兄弟順(排行)由来の通称もありました。郎を省いて数字だけになった「源三」とかもありました。もっともこれは、「源蔵」を簡略化した可能性もあります。通称は「呼び名」ですから発音主体で、文字本位の「実名」と違って、漢字はどうでもいいようでした。○作、○吉も代表的な通称でした。

明治5年5月の太政官布告で、「従来通称名乗両用相用来候輩自今一名タルベキ事」になり、通称か名乗かどちらかを一つだけを選んで戸籍に記すことになりました。西郷吉之助は、名乗の「隆永」を選ぶつもりが、代理で届けた友人が間違えて父親の名乗の「隆盛」を届けてしまったのだそうです。名乗がほとんど使われていなかったという現実を窺がわせる逸話です。

枕話が長くなってしまいましたが、「井坂直幹」は「実名」系の名ですから、「なおもと」のように訓読みするのが正しいことになります。但し、この「訓読み」が曲者で、いくらでも読み方の候補があり、どれが正しいのか、中々分らないのです。例えば、[43497]hmtでは、“徳川慶喜(よしのぶ)”と書いたのですが、「よしひさ」という別の読み方もあり、こちらの「読み」もかなり一般的に知られていたようです。
元来、「実名」は、本人が公の書類に署名するための「書き言葉」であり、「話し言葉」ではないので、どの読みが正しいのか、当人からの聞き書きとか、ローマ字のサインでもないと分らないのでしょう。
氏名に「ふりがな」を求められるようになったのは、ごく最近の習慣です。

さて、本題の「いさかちょっかん」のように名前を「音読み」するのは何故か。

最初に書いたように、他人は、その人の大事な実名を尊重して、めったに口にしてはならないのです。
「源氏物語」に登場する多くの人々が、官職やあだ名で呼ばれて、実名を明らかにしていないのはご承知の通りです。主人公の「光源氏」にしても姓は「源」だが、実名は不明。
実名を呼ぶことは、その人の人格を支配することになり、親や師でなければ許されることでないと考えられていました。
明治になって通称が廃止された後も、このような考え方は根強く残っていたと思われます。故人になった人物ならともかく、生きている人の通称がなくなってしまったので、どのように呼んだら失礼にならないのか困りました。

板垣退助(実名は正形)のように、通称の方を選んでくれた人はよいのですが、桂小五郎でなく木戸孝允(たかよし)になってしまった人をストレートに実名で呼ぶことには、はばかりがある。そこで、わざと「こういん」と音読みすれば、その人を直接指さず、「孝允」という文字を指すという間接的表現になるというわけです。
著名人の名を「音で呼ぶ」ことで、尊敬の念や親しみを表わすことになり、このような呼び方が広く行なわれたことと思います。

私が昔「なおもと」と言ったら祖母に「ちょっかん」と“直され”ました。何故この誤解が広まっているのか……。
というのは、実は「誤解」だったのではなく、郷土の偉人・井坂直幹さんに対する、能代の人たちの敬愛の念からだったのでしょう。

[43497]で、わざと音読みで“慶喜(けいき)さん…”と書いたのも、同じような考えからです。
実際、徳川慶喜家の中でも、世間でも、圧倒的に「慶喜(けいき)」という呼び方がされていたようで、本人もそれを好んでいたとのこと。

伊能忠敬も、正式の「ただたか」ではなく、「ちゅうけい」先生の方が良いですね。

本稿を書くにあたり、高島俊男:お言葉ですが…〈7〉漢字語源の筋ちがいを参照しました。実名と通称に関する興味深い話がたくさん出ています。

おまけ
本来「音読み」である僧侶の名前を、訓読みにして俗人に戻ったことを示した例がありました。
大原崇孚(おおはらたかたね)  太源崇孚(たいげんすうふ)[43558]のことです。還俗して武将だった時代の名前。
[43884] 2005年 8月 5日(金)16:19:57きまぐれ さん
音読みと訓読み
名前の音読みか訓読みかが話題になっていますが、地名などの読み方も同じです。
以前の地図の地名は結構ルビ付きでしたので、この場合は間違った読み方はしません。今の地図にルビ付を殆ど見かけませんので間違いが起こります。そこで以前の地図を調べた結果、今は訓読みが音読みに、特異の読みが一般的な読みになっている傾向にあることが判りました。以下に数例あげます。以前の地図は昭和15年の物でルビはそのまま、漢字は現字体に、場所は間違いが在るかもしれませんが、現自治体名に直してあります。
読み漢字場 所
シドタヰ志戸平岩手県花巻市
イツクシタニ厳美渓岩手県一関市
オホヌ大沼群馬県富士見村(赤城山)
コヌ 小沼同上
アヲメ青梅東京都青梅市
ニシノウミ西湖山梨県富士河口湖町
シロウマダケ白馬岳長野県白馬村
ナカッペ中部静岡県浜松市(旧佐久間町)
スサミ周参見和歌山県すさみ町
サヘキ佐伯大分県佐伯市
(おまけ)
紛らわしいのは秋芳町(しゅうほうちょう)に秋芳洞〈あきよしどう〉秋吉台(あきよしだい)があること
[43887] 2005年 8月 5日(金)21:57:21ゆう さん
秋芳洞
[43884]きまぐれさん
紛らわしいのは秋芳町(しゅうほうちょう)に秋芳洞〈あきよしどう〉秋吉台(あきよしだい)があること

きまぐれさんの記事を読んで、古い話題を思い出しました。


[4210]YSKさん
(1)もともと別の名前だった洞窟を、昭和天皇が「秋芳洞(あきよしどう)」と命名した。
(2)もともと「秋芳洞(しゅうほうどう)」という名前だったものを、昭和天皇が「あきよしどう」という名前に改称した。
の2説があるということになりそうですね。いずれにしても、昭和天皇が今の名前をつけたことになりますね。
とすると、町の名前が「しゅうほう」という読みをする理由が分からないですね。(2)の説が正しい場合はまだ分かりますが、仮に(1)の説だった場合、何故「あきよし」という名前にしなかったのでしょう。謎が深まるばかりですね。

私自身も「しゅうほうどう」のほうが馴染んでいて、本当は「あきよしどう」と言われても違和感がありました。秋芳町は「しゅうほうちょう」ですから余計に疑問でした。

でも、hmtさんの[43834]を学んだ今なら納得できます。こんなストーリーだったのではないでしょうか。

●「瀧穴」と呼ばれていた鍾乳洞に1926年に裕仁皇太子(昭和天皇)が「秋芳洞(あきよしどう)」と命名
●人々は命名者に敬意を表し、名前をストレートに使わずに音読みで「しゅうほうどう」と表現
●1955年に4か村が合併し秋芳町「しゅうほうちょう」成立

※なぜ「秋芳」だったのでしょう。「秋吉台」の地下だから!?

でも「習志野」を「しゅうしや」と呼ぶのは聞いたことがないですね。
[43908] 2005年 8月 6日(土)22:10:09hmt さん
「富士八湖」って聞いたことありますか?
[43884] きまぐれ さん
以前の地図を調べた結果、今は訓読みが音読みに、特異の読みが一般的な読みになっている傾向にあることが判りました。(中略)以前の地図は昭和15年の物

「ウオッちず」による最近の読みと地名、きまぐれ さんの地図(昭和15年)によるルビと地名を、これと近い年代の帝国書院地図(昭和13年文部省検定済・朝鮮総督府検定済「改訂新選詳圖・帝国之部」[30154]) に記載されたルビ、索引とを比較してみました。
また、可能なものは、鉄道旅行案内(大正13年鉄道省)の記載も比較しました。

ウオッちず昭和15年ルビ昭和15年地名昭和13年ルビ昭和13年索引鉄道旅行案内
しとだいら/岩手県花巻市志戸平シドタヰ志戸平(なし)シドタイラしどだひ
(情報なし)イツクシタニ厳美渓ゲンビケイゲンビケイ五串渓いつくしだに(厳美村)
おおぬま/大沼オホヌ大沼オノ沼(赤城湖)(なし)
こぬま/小沼コヌ小沼コノ沼(なし)
おうめ/青梅アヲメ青梅オーメオーメ
さいこ/西湖ニシノウミ西湖ニシノ湖(なし)富士八湖の中に西ニシ
(情報なし)シロウマダケ白馬岳シロウマ岳シロウマダケ本文は白馬山、地図は白馬岳いずれもルビなし
なかべ/静岡県磐田郡佐久間町中部ナカッペ中部(なし)ナカベ
すさみ/和歌山県西牟婁郡すさみ町周参見スサミ周参見スサミスサミ
さいき/大分県佐伯市サヘキ佐伯サイキ(九州図)サエキ

以上10例の中で、訓読みが音読みに変った典型と思われる例は西湖です。帝国書院の「地図の形式」の頁で、「西ノ湖」ニシノウミとあるように、漢字表記に「ノ」又は「之」が入ることもありました。
明治以前には西湖村「にしのうみむら」がありました。
しかし、昔は音読みすることがなかったかというと、そうとも言えないようです。

864年の貞観噴火まではで「せのうみ」でしたが、青木ヶ原溶岩流が流れ込み、西湖と精進湖に分離[3719]

ところで、鉄道旅行案内を見ると、「富士八湖」という言葉が出てきます。聞いたことありますか?
調べてみると、富士講の霊場で、富士八海とも言うようです。富士五湖 プラス 明見湖(あすみこ)四尾連湖(しびれこ)と、現在では消滅したらしい 須戸湖(静岡県浮島沼)のようです。
[43914] 2005年 8月 6日(土)23:31:49hmt さん
命名者は「秋芳洞」の読みを指定しただろうか?
[43887] ゆう さん
私自身も「しゅうほうどう」のほうが馴染んでいて、本当は「あきよしどう」と言われても違和感がありました。

[43908]で参照した「鉄道旅行案内」(大正13年鉄道省)では、瀧穴・景清穴・大正洞などの総称として「秋吉鍾乳洞」が使われていました。大正15年(1926)に、当時の摂政宮(その年末に昭和天皇)が、最大の洞窟「瀧穴」を「秋芳洞」と命名した[4208]というのは、事実でしょう。

さて、[4210] YSKさんが紹介されたガイドブックによると、この時に「あきよしどう」の読みも命名されたように取れるのですが、これはどうかな?
証拠となる「命名書」の有無については知りませんが、常識的には「ふりがな」など付いているとは考えられません。
当時の「秋吉(あきよし)村」関係者が、自分たちの立場から「あきよしどう」の名を貰ったと思ったのではないでしょうか。

でも、素直に読めば「しゅうほうどう」ですね。「あきよしどう」では、湯桶読み(ゆとうよみ)になってしまう。
摂政宮も漢学の素養はあった筈だから、音感の良い「しゅうほうどう」のつもりだったのではないでしょうか。
まさか大和言葉で「あきよしのほらあな」と読んだとは思われません。

秋吉台はススキの生えた入会山でしたが、岩の露出したカルスト台地は、あまり良い草原ではなかったようです。
蘆・葭(あしよし)→秋吉(あきよし)村→1926年秋芳洞→1955年秋芳町(しゅうほうちょう)という変化は、訓読み→音読みの変化を示していますが、秋芳町のページによると、秋芳町になった現在も、地元では「AKIYOSHIDO」という読み方を守っていますね。
[43937] 2005年 8月 7日(日)15:18:42【1】hmt さん
謎の駅名・中部天竜
[43908][43914]に続いて、[43884]きまぐれさんの例示に出てきた地名の訓読み→音読み論議。

佐久間ダムの下流、天竜川が U字形に曲り込んだところにある「中部」です。
きまぐれさんの地図では「ナカッペ」、65年後のウオッちずでは「なかべ」。帝国書院地図では 戦前から「なかべ」で、一見したところ、訓読み→音読みの変化があったようには見えません。

ここには、全国でも珍しい施設・佐久間周波数変換所[28255]があります。
そうです、ここは 60ヘルツ、50ヘルツ境界地域なのです。せっかくなので 電力周波数の話題 をまとめておきます。

東西日本の境界地域と言えば、ここはまた 地質構造を分ける境界地域でもあります。
「領家帯」の由来に関して[38585] 音無鈴鹿さん、[38586] Issie さんに教えていただいた、“静岡県磐田郡水窪町奥領家”も、ここから数km北東にあります。

訓読み→音読みの話から外れてしまいましたが、「中部」の天竜川対岸(半場)に佐久間レールパークのある「中部天竜駅」があります。長篠から三河川合まで来ていた鳳来寺鉄道と、信州の辰野から天竜峡まで来ていた伊那電気鉄道とを結ぶ三信鉄道が 佐久間駅として開業した翌年の1934年に、中部天竜(なかっぺてんりゅう)と改称されました。
ところが、戦時買収で省線(飯田線)になった時に、なぜか「ちゅうぶてんりゅう」と音読みに改名。
きまぐれさんが[43884]で、この地名を挙げた理由には、この駅名の存在があると推察します。

この駅名。なぜ鉄道省が「ちゅうぶ」に改めたのか?
天竜川の中部にあるからと考えたのならば、「天竜中部」になりそうなものです。中部地方にある天竜川沿いの代表駅?
どうやら姫新線「中国勝山」駅の謎と同類ですね。[5548] 夜鳴き寿司屋さん、[5554]白桃さん

そうそう、
[43908]の“ウオッちず:なかべ/静岡県磐田郡佐久間町中部”について、[43909] miki さんから(期待した通りの?)反響がありましたね。ウオッちずを使った趣旨は、数十年前(戦前)の地図に振られたルビと比較する“最近の読みと地名”ですから、かならずしも現在(7月1日以降)の表記にこだわらないということです。

あの表は、[43884]を見ながら作ったものですから、当然 きまぐれさんの書かれた“静岡県浜松市(旧佐久間町)”を見ているわけです。でも、あの表に“最近の読み”の補助情報として入れるには、「浜松市」よりも「磐田郡佐久間町」の方が、情報価値が高いと考えて、あえて合併情報未修正のウオッちずをそのまま使いました。

「現在の地名」に関する記事ならば、合併の結果を厳密に反映させるべきでしょうが、今回の記事は数十年を隔てた読みの変化に関するものであることにご留意ください。「磐田郡佐久間町」という旧地名から、電力の境界地帯を、そして旧・水窪町と隣接することから「領家」へと、産業・地質・歴史の話題に思いを及ぼすことができるのです。頭をコチコチにして、旧地名を切り捨てるのは、文化的に貧しいことだと思います。

この記事の中でも、
Issie さんに教えていただいた、“静岡県磐田郡水窪町奥領家”
という表現を使っています。
[38586]が書かれた時点では、これが正しかったわけですから、引用するにあたり、勝手に「浜松市」に変更するわけにはいきませんね。

[43910] [43918]EMM さんの適切なフォローに感謝。
[43943] 2005年 8月 7日(日)19:07:56【1】hmt さん
「代馬岳」の資料がみつからないのは話言葉から生れたから?(白馬岳のこと)
地名の「訓読み→音読み」問題での大立者、「白馬」の登場です。
深田久弥「日本百名山」の引用から始めます。

この立派な山に、以前は信州側にはこれという名が無く、単に西山と呼ばれていた。それがいつ頃からか代馬(しろうま)岳と名づけられ、それが現在の白馬岳と変った。(中略)
代馬岳という名の起りは、山の一角に、残雪の消えた跡が馬の形になって現われるからであった。 田植にかかる前の苗代掻をする頃この馬の形が見え始めるので、苗代馬の意味で代馬と呼んだという。

「白馬岳」という文字は、江戸末期に、松本藩の山廻り役人が書き残した文書に突如として現れる(出典)とも言われ、また、[26306] みやこ♂さんによると、明治27年に陸地測量部が設置した1等三角点名が白馬岳で「シロムマダケ」と ふりがな があるとのことですから、比較的新しい公文書に登場したものと理解できます。

「代馬岳」と記した古い資料がみつかれば、「白馬岳」は 苗代掻きの季節に出現する雪形から生れた山名であり、「しろうまだけ」と読むべきである とする通説が裏付けられるのですが、[26306] みやこ♂さんによる 三井嘉雄著「黎明の北アルプス」の要約では、
10 過去,「白馬」を「代馬(あるいは代掻き馬を意味するもの)」と記した文献は今のところ発見されていない。
ということのようです。

三国の境界にあるこの山について、越後の「大蓮華山」、越中の「上駒ケ嶽」の名があるのに、信濃側には公式の呼び名がないまま近世に至ったのは、信濃の人にとって、この山への立ち入り・利用する権利や技術がなく、遠望するだけの存在だったからでしょう。
でも、遠望するだけの里人にとっても呼び名がなかった筈はありません。それが「しろうま」。
7 明治44年の資料に,「(前略)宜しく土地固有の正しき名を存してシロウマと称するを可とす。」とある。
でも、これは「話し言葉」であり、古い文献資料には残されていなかったのでしょう。

この「しろうま」が「代馬」なのか「白馬」なのか?
6 明治37年の資料に,「朝日に映じては,残雪白駒の蒼穹を奔騰するが如し,故に信州の土民呼んで白馬と言い,…」とある。
ように、残雪をポジの「白馬」と見立てるならば、「はくば」と読んでも「しろうま」と読んでも良いことになります
三井氏は、「代馬」説には疑問を投げかけていますが、「白馬」の読みについては何れとも断定していないように思えます。

一方、通説の「代馬」説。現実に観察される雪形は、雪が消えて黒い山肌が出たネガの雪形、つまり「黒馬」。
シロウトは、証拠写真が示されているだけに、なんとなく、「代馬」説を信じたくなります。

「日本百名山」の引用で(中略)と書いた部分に戻ります。

代馬よりは白馬の万が字面がよいから、この変化は当然かもしれないが、それによってハクバという発音が生じ、今では大半の人がハクバ山と誤って呼ぶようになっている。この誤称は防ぎ難い。すでに膝元からして白馬村と唱えるようになった。

地元の知らないうちに「白馬」と書かれてしまい、登山シーズンには消えてしまっている雪形など見たこともない登山家が「ハクバ」と発音するようになる。たしかに、書き言葉になると字面は大切であり、また、[24212] みやこ♂さんの言われるように、
(「音が先」の地名に)何らかの文字を当てはめる必要に迫られ,そしてその瞬間から,表記に縛られることになる
のです。
特に、登山に特化した人たちは、「岳」の字を省略して「白馬」にしてしまうので、口調の良い「ハクバ」に傾いたのだと思います。

現在のウオッちずでは、読みを確認することができず、[43908]では“(情報なし)”と記しました。地図に「白馬岳」の漢字はありましたが、読みの情報がなかったという意味です。正確には“(漢字のみ)”と記しておくべきでした<[43918]
しかし、三角点名に基づき、地図の元締めである陸地測量部→国土地理院は、「しろうまだけ」という訓読みで一貫していると思います。

下界では神城(かみしろ)村と北城(ほくじょう)村との昭和合併で白馬(はくば)村が誕生し(1956)、大糸線の信濃四ツ谷駅も白馬(はくば)駅と改称され(1968)、という具合に 訓読み→音読み が進行し、このことも 山の呼び名に 少なからぬ影響を与えたことと思います。
# 神城村は、1885年以前はかみじょう村と発音したようです。この場合は湯桶読み→訓読み。

下界のことはともかく、地図だけから判断すると、「白馬岳」の名は訓読みが正式と考えていたのですが、上記のように、登山家の中にも「ハクバ説」や「代馬否定説」があることは、みやこ♂さんの記事[26306]を見て、初めて知りました。

3 明治13年の資料に,白馬に「ハクバ」とルビが振ってある。

これが、現在の白馬岳を指すものかどうかわからず、また「白馬」の下に「岳」とか「山」とかいう字が続いていたのか否かもわかりりませんが、「ハクバ説」もかなり古くからあるのですね。

8  大正2年のウエストンの手記に「越中ではオーレンゲと呼び,信州ではシロウマダケとかハクバサンとか呼んでいる」とある。

白馬の下に付く言葉が訓読みの「岳」であるか音読みの「山」であるかも、「白馬」部分の読みに影響を与えているように思われます。
「しろうまだけ」も「ハクバサン」も両方とも正しい。けれども、重箱読みの「ハクバだけ」はいただけない。そんな気もします。

鉄道旅行案内(大正13年鉄道省)の本文と絵図では「白馬山」、日本北アルプス登路概念図では「白馬岳」と記していますが、いずれもルビはありませんでした。
[43975] 2005年 8月 8日(月)17:01:12きまぐれ さん
古い地図のルビ
[43908] [43914] [43937] [43943]  hmtさん。種々なレス有難うございました。
「ナカッペ」の謎解けましたが、「ハクバ」か「シロウマ」かの謎は深まるばかりです。

私の前稿[43884]でルビ付の地名など10例挙げましたが、こんなのもありますよ。

ルビ漢字場 所
サムカゼヤマ寒風山秋田県男鹿市
フタガミ山両神山埼玉県秩父市(旧大滝村)
アンバウ峠安房峠長野県松本市(旧安曇村)

それから、富士八海のこと
私が持っている資料(ブルーガイドブック「富士山と富士五湖 昭和45年版」)では、
五湖・四尾連湖・明見湖・泉瑞または浮島沼となっています。
[43977] 2005年 8月 8日(月)17:37:45hmt さん
厳美渓・志戸平・赤城大沼・小沼・青梅・佐伯・周参見
[43908] 西湖、[43914] 秋芳洞、[43937] 中部、[43943] 白馬岳に続く
地名の「訓読み→音読み」の事例研究は、一関の厳美渓です。

「いつくしだに」が、「ゲンビケイ」に変ったわけですが、この変化は、昭和15年以降というわけではなく、もっと過去、おそらく江戸時代に遡ると思われます。
[43884]きまぐれさんの地図と同じ頃(戦前)の帝国書院地図では「ゲンビケイ」と音読みしているし、もっと前の鉄道旅行案内では、盤井川(現在の表記は磐井川)の上流・厳美村にある五串渓(いつくしだに)と、字を変えて記述しています。
絵図にある厳美渓は村名と同じく音読みと推定され、音訓両方の名前を字を変えて使い分けていたのではないでしょうか。
なお、1889年に成立した厳美村の前身は五串村です。地名の由来である「いつくしみや」という神社が「厳宮」・「麗美宮」などと漢字表記され、渓谷を訪れた文人墨客たちは、「いつくしだに」を「厳美渓」(げんびけい)と呼んだのでしょう。
このあたり、「こいしかわ」と「礫川」(れきせん)[41575]の関係と同じですが、定着しているのは書きやすい「小石川」です。
実用的な地名と観光地名という違いもあるのでしょう。

[43884] きまぐれ さん
特異の読みが一般的な読みになっている傾向

志戸平  しどたい→しどたいら
花巻から豊沢川を遡った温泉です。平(たい)という読み方は、八幡平のような有名地は別として、消滅する運命にあるようですね。
鉄道旅行案内(大正13年鉄道省)に“電車46銭”とあり、帝国書院地図にも路線が描かれています。有名な「馬面電車」。

赤城山のカルデラにある火口原湖の大沼と火口湖の小沼。
読み方は、「おの・この」、「おおぬ・こぬ」など特殊な読み方があるようですが、ウオッちずでは平凡な「おおぬま・こぬま」に。

青梅は、かな表記こそ「オーメ」、「アヲメ」、「おうめ」と違うが、発音自体に変化はないと思います。

大分県の佐伯市は、「さえき」と「さいき」の揺れがありそうです。帝国書院地図の九州地方図には「サイキ」、中国・四国地方図では「サエキ」とルビがあります。現在公式の読み方は「さいき」。
一方、岡山県和気郡佐伯町は「さえき」。
揺れが端的に示されていたのが、広島県佐伯郡(さえきぐん)佐伯町で、1982年に佐伯町(さえきちょう)」から「佐伯町(さいきちょう)に変更しました(現・廿日市市)。

最後に残ったのが「周参見」ですが、昭和合併の新自治体が、表記をひらがなに変えたものの、「周参見」の地名は残っており、読みはずっと「すさみ」で変化なし。
帝国書院地図では、紀勢西線が周参見まで開業しており、その先・串本までは予定線。串本から新宮までは紀勢中線が開業済み。新宮と五條の間には紀伊山地を縦貫する予定線(五新線)が描かれていました。
[44059] 2005年 8月 11日(木)19:17:47hmt さん
南毛利村が消えて50年、「なんもうり」郵便局も「みなみもうり」郵便局になってしまったのか?
[43975] きまぐれ さん
サムカゼヤマ 寒風山 秋田県男鹿市
フタガミ山 両神山 埼玉県秩父市(旧大滝村)
アンバウ峠 安房峠 長野県松本市(旧安曇村)

角川日本地名大辞典では、“寒風山 かんぷうざん、「さむかぜやま」とも読み、妻恋山、羽吹風(はふかぜ)山ともいう(地名辞書など)。…”とあります。帝国書院の地図(昭和13年)ではフリガナなく、索引ではカンプーザン。
どちらが正解ということではないようですが、地名の由来になっていると思われる北東季節風からすると、音読みの「かんぷうざん」の方が実感が出ています。現在は、この音読みが優勢になっているとは思われます。
きまぐれ さんの昭和15年の地図の編集者は、どうも訓読みがお好きなようですが、何という地図ですか?>きまぐれ さん

山麓に石切り場があり、寒風石(男鹿石)の名で知られる石材を産出する由。石材・鉱物関連地名に加えましょう。

秩父の両神山。山頂直下にある、イザナギ・イザナミ両神を祀る両神神奥社に由来。重箱読みの「リョウがみやま」が普通でしょうが、訓読みがお好きな地図ですからね。

信濃と飛騨の境の安房峠。帝国書院の地図では、峠にはフリガナがありませんが、近くに安房(アボー)山と振ってあります。屋久島の安房川は「あんぼう」と読みますね。安房国に由来する千葉県安房郡は、もちろん「あわ」。

さて、「しろうまだけ」か「ハクバサン」かの問題[26306] [43943]でも実感しましたが、どれか一つが正解で、他はすべて間違いというのは、多肢選択問題に慣れてしまった現代人が陥りやすい落し穴ではないでしょうか。
たぶん、「しろうま」でも「ハクバ」でも、どちらでも良いのです。「ハクバだけ」と湯桶読みになるのは美的でないとは感じますが、これを間違いときめつけるのはどうかと思います。

訓読み・音読みの対立ではないのですが、「東京」も、かつては「トウケイ」と漢音で読まれていました。
“因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン”という詔書を素直に読めば、漢音の「トウケイ」でしょう。
これが、書き言葉として定着して行くうちに、読み方がいつしか呉音読みの「トウキョウ」になってしまった。たぶん、京都の読みに影響されたのでしょう。
現在は圧倒的に「トウキョウ」ですが、「トウキョウ」が正しくて「トウケイ」は誤りとなった時点を特定できるかというと、そんなことができる筈がありません。

「ニッポン」と「ニホン」はどちらも正しい。ということでしょう。
だから日本(ニッポン)銀行があったり日本(ニホン)大学があったり。アーカイブズもありますね。

さて、私が学んだ「併設中学校」のあった神奈川県愛甲郡南毛利村[22152]という「人名由来の地名」[1617]の読み方です。

当時の記憶では、学校の所在地は「なんもうりむら」だったのですが、最近の「市町村名変遷辞典」では、「みなみもり」となっています。
調べてみると、「幕末以降市町村名変遷系統図総覧」や「角川日本地名大辞典」も同様。
そこで、南毛利村が存在していた頃の「市町村大字読方名彙」(小川琢治編1923)[35703] まで遡ってみましたが、これも「みなみもり」。

平凡社の「日本歴史地名大系」14巻519頁だけに「なんもうり」のふりがながありました。しかし、これも518頁の南毛利中学校遺跡には「みなみもうり」のふりがな。
もちろん厚木市HPも見ましたが、読み方はわからず。「厚木の地名」(厚木市教育委員会1996)にも、読み方が出ていませんでした。

そして、厚木市立南毛利小学校の校歌譜面を見たら、「なんもーり われらのいのち…」とありました。地元の作家・和田傳さんの作詞ですから間違える筈はありません。
「南毛利」という地名が使われている施設を調べてみたところ、郵便局HPの南毛利郵便局には「なんもうり」のふりがながありました。

以上のデータを添えて、昨年12月に厚木市HPから連絡して、「なんもうり」村だったことについての行政当局のお墨付きを貰おうとしたのですが、梨のツブテ。

ところで、この記事を書くにあたり、郵便局HPの同じアドレスにアクセスして見ると、なんと「みなみもうり」に変っているではありませんか!!

南毛利の読み方は、半世紀の間に「なんもうり」から「みなみもうり」に変ってしまったのか?
[44061] 2005年 8月 11日(木)21:21:23Issie さん
ほっきつ村
[44059] hmt さん
南毛利

実は厚木市南毛利地区は,うちの職場の「集客エリア」に入っていて何かとお付き合いのある地域です。
私たちは「南毛利中学校」を通常「なんもりちゅう」と呼んでいます。行政地名に即して言えば「なんもうり中学校」でしょうか。

群馬県の「北橘村」について,行政上“公式”には「きたたちばな村」という呼称であっても,「ほっきつ村」という呼称が普通に行われていますね。
「南毛利村」もこれと似たようなケースかとも思われます。

まあ,ある意味“通称”に過ぎませんから,「正式名称」は別にあるのかもしれませんが。

蛇足ながら,
相模原市立の「大野南中学校」は,通常「なんちゅう」と呼ばれます。
ところが「大野北中学校」は,「(大野)きたちゅう」と呼ばれます。
対照的な校名であっても,通称も対照的とは限らないのですね。
[44062] 2005年 8月 11日(木)22:15:55きまぐれ さん
古い地図帖名
[44059] hmtさん
地図帖名のこと、始めに明らかにすべきでしたね。
「新制 最近日本地図 増訂三版 三省堂編輯所編」 昭和15年12月20日修正五版発行 です。
それから 白馬岳のこと。お気づきかと思いますが、今日の此処での事故のNHKのニュースでは、白馬岳(しろうまだけ)、白馬大雪渓(はくばだいせっけい)と言っていました。
[44065] 2005年 8月 11日(木)23:37:23hmt さん
「正式の読み方」など 存在しなかったのかもしれない
[44061] Issie さん
私たちは「南毛利中学校」を通常「なんもりちゅう」と呼んでいます。

学校当局も「Nanmouri Junior High School」と書いていますね。
南毛利小学校も「なんもうりしょうがっこう」

群馬県の「北橘村」について,行政上“公式”には「きたたちばな村」という呼称であっても,「ほっきつ村」という呼称が普通に行われていますね。
「南毛利村」もこれと似たようなケースかとも思われます。

現存する北橘村は、公式ページで「きたたちばな村」であると「意思表示」していますが、50年前に消滅した南毛利村の場合には、読み方についての公式文書が残っているでしょうか。

そもそも、50年前に「行政上“公式”の読み方」なるものは、存在したのでしょうか?
「東京」や「日本」の公式の読み方が(たぶん)定められてないのと同様に、そもそも「南毛利村」に、「行政上“公式”の読み方」を求めることが間違っているような気がしてきました。

正式に定められていたのは「書き言葉」の「南毛利村」だけであり、大部分の人々は「なんもうり」と読んでいたが、「みなみもり」と読んでいた人もいる。多数、少数で決まる問題ではないから、どちらかが間違っているとは言えない。読み方なんてものは「慣習」であり、通じさえすれば、どっちでもよい。

小学校や中学校は、多数派の呼び方に従って、現在も「なんもうり」になっている。
学校名の読み方としては、日本大学(にほんだいがく)のように、これが「正式」なのでしょうね。

しかし、旧自治体の読み方が、学校の読み方と一致している必然性はない。
大正時代に京都大学の小川研究室から読み方の問い合わせが来た時に、対応した役場の職員は、「みなみもり」と答えた。
間違いではないかもしれないが、少数派の読み方が「市町村大字読方名彙」[35703]に収録されてしまい、後々の文献に引き継がれた。

こんなところが真相ではないかと想像しますが、いかがでしょうか。

いや、正式の読み方は存在したのだよ という材料をご存知ならば、是非ご教示願います。
[44066] 2005年 8月 12日(金)01:17:00【2】Issie さん
もり/もうり
[44065] hmt さん
Nanmouri Junior High School

一般的に行われる英語(風)表記では日本語の母音の長短の区別には全く無関心ですから,これでは「なんもり」か「なんもうり」かわからないですねぇ。

…と思ったら -mou- と表記してあって,「もうり」と読んで欲しいという意思表示をしていますねぇ。逆に言えば,「一般的な」ヘボン式ローマ字表記(昭和29年内閣告示の第2表の参考にされた)には則っていないわけだ。


そもそも、50年前に「行政上“公式”の読み方」なるものは、存在したのでしょうか?
「東京」や「日本」の公式の読み方が(たぶん)定められてないのと同様に、そもそも「南毛利村」に、「行政上“公式”の読み方」を求めることが間違っているような気がしてきました。

正式に定められていたのは「書き言葉」の「南毛利村」だけであり、大部分の人々は「なんもうり」と読んでいたが、「みなみもり」と読んでいた人もいる。多数、少数で決まる問題ではないから、どちらかが間違っているとは言えない。読み方なんてものは「慣習」であり、通じさえすれば、どっちでもよい。

私,基本的に長い引用は意識して避けているのですが,
この部分に関して,私は全く同じ感覚でいるということを表明したく,
長い引用を行いました。
基本的にこのような考え方に立つ旨,これまで何度もこちらで表明しているところです。
[44105] 2005年 8月 13日(土)05:15:03ゆう さん
「あきよしのほらあな」も好きです
私も
[44065]hmtさん
「正式の読み方」など 存在しなかったのかもしれない
を支持する者のひとりです。「正式な読み方」を深追いしてもしょうがないとは思ってます。

とはいえ…
[4201]H2さん
いまでも地元では特に違和感なく「しゅうほうどう」も使いますよ。
個人的には「あきよしどう」を使うことの方が少ないです。
まさにこういう説明をするときのみ、ちゃんと「あきよしどう」を使うくらいです。
[43914]hmtさん
秋芳町のページによると、秋芳町になった現在も、地元では「AKIYOSHIDO」という読み方を守っていますね。
…地元は「しゅうほうどう」が優勢。でも観光関係では「あきよしどう」に統一。観光客は戸惑う…

[4199]なお[KN]さん
修学旅行の際、聞いたんですが、昭和天皇が80年前間違えて「あきよし」と呼んだのが由来で、それまでは「しゅうほうどう」と呼ばれてました。
…これはおそらく「ガセ」なんでしょうが、Webを検索すると現地のガイドからそのような説明を受けたと思われる話はいくつかありました。

「正式」かどうかにはこだわりませんが、このような「ねじれ」の経緯が何だったのかには興味があります。

[43914]hmtさん
証拠となる「命名書」の有無については知りませんが、常識的には「ふりがな」など付いているとは考えられません。
なるほど、命名者は現地でこの鍾乳洞を見学してその場で名前を考えて「あきよしどう」と発言したものだと勝手に思ってましたが、それにしても録音でもない限りどう読んだかはわかりません。

当時の「秋吉(あきよし)村」関係者が、自分たちの立場から「あきよしどう」の名を貰ったと思ったのではないでしょうか。
この説は魅力的ですね。


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