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落書き帳

鮎川義介

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[45169] 2005年 9月 26日(月)19:22:25Issie さん
鮎川さん
[45165] eiji_t さん
地元では日立製作所を「日製(にっせい)」、日立市を「日立」と呼び区別しています。

日立鉱山を経営していた日本鉱業は「日鉱」,かつて属していたコンツェルンで今も関係の深い「日産」などにつながる呼称なのでしょうね。

そういえば,最近意外な話題で(2度も)マスコミに登場した「鮎川さん」。
お祖父さんの 鮎川義介 が 日産コンツェルン の総帥で,日立製作所,そして日立市にとても関係が深いわけですが,
日立市 の前身の1つである 多賀町 の,そのまたさらに前身の1つに「鮎川村」があります。常磐線の 常陸多賀駅 の北側で,以前は日立電鉄に 鮎川 なんて駅もあって,やっぱり日立系列の工場があって…
すわ,「鮎川」とは“人名由来”か?…と,一瞬思ったりもしたのですが,

「多賀郡鮎川村」の発足は,明治の大合併の 1889年。
義介さんが山口県で生まれた(母方のお祖母さんの弟,だから大叔父は井上馨)のは1890年。
「日立金属」の前身に関わったのは1909年,だけど当時の社名は「戸畑鋳物」で,つまり北九州?…
日立鉱山を経営していた久原財閥に参加して,久原鉱業を「日本産業(日産)」と改称したのが1928年のことで,つまり,ここで 義介さん と 日立市 がつながった。

…わけだから,「鮎川」というのは偶然の一致,なんでしょうかね。
[45173] 2005年 9月 27日(火)00:13:07eiji_t さん
Re:鮎川さん
[45169]Issie さん
「鮎川」というのは偶然の一致,なんでしょうかね。
はい、全くの偶然です。
日立鉱山を興したのは鮎川義介の義弟の久原房之助です。やはり山口県萩出身です。最初の名称は「久原鉱業所日立鉱山」です。日立鉱山で成功した久原は各地の鉱山を開発し、久原財閥を作り上げますが、義兄の鮎川に経営を譲り政界に進出します。鮎川はこれを三井三菱を凌ぐ戦前最大の財閥「日産コンツェルン」に育て上げます。鮎川も後に政界入りします。
日立製作所を興したのは栃木県出身の小平浪平です。電源開発のため技師として日立鉱山に入社した小平はそれが一段落すると、日立鉱山の敷地に建てた30坪の掘立小屋で輸入機械の修理を始めます。
1910年電気機械の国産化に成功し翌年独立します。
[2369]たけもと さん
大正9年(1920):株式会社日立製作所発足。
とありますが、それは上記の名称を名乗った年で、実際の独立は1911年です。明治の男小平は恩義ある久原家に義理立てし、久原が久原鉱業所を引退するまでは、会社を久原鉱業所日立製作所としていました。日立製作所は鮎川義介の「日産コンツェルン」の傘下に入りますが、完全に支配されたわけではありませんでした。
今回のレスの為、google検索をしてみたら、日立製作所の創業者=久原房之介というのが多数ありました。明らかな誤りです。インターネットの危うさを感じます。

鮎川村の名の由来はそこを流れる「鮎川」です。全長わずか11kmですが深い渓谷を作って流れています。よって鮎川村と鮎川義介は完全に無関係です。
ちなみに私が今住んでいる所は、昔の鮎川村です。日頃はそんな事全然意識しませんが。

今年3月31日で廃線になった日立電鉄の「鮎川駅」は終着駅です。JR線との接続も無く「何で此処が終着駅?」という感じでしたが、それは日立市の中心部への線路の延長の計画が鮎川の渓谷を越える鉄橋の費用の点で、頓挫したからです。線路が市の中心部へと延びていたら、廃線もどうなっていたか。

日立市民にとって、上記3名のうち最も知名度が高いのは、圧倒的に小平浪平です。
尤も日立鉱山に関係の深い地区では久原房之介かもしれませんが、私はそちらは詳しくありません。鮎川義介は最も遠い存在です。
[67480] 2008年 12月 2日(火)21:37:07hmt さん
小坂鉱山に係る自然と人 (5) 日立鉱山に転じた久原房之助と 日立製作所を創業した小平浪平
銀山としてはジリ貧状態になり、藤田組としては閉山も考えた小坂鉱山。
硫化金属鉱物を酸化熱により溶融状態にして精錬する方法の存在を知った久原房之助は、小坂付近に豊富に埋蔵されている「黒鉱」[67407] から銅を生産することに挑みました。そして、武田恭作と共に「自熔精錬法」の開発に見事成功。小坂を生き返らせました。

さて、小坂の基礎を築いた久原房之助は、その後でさっさと藤田組を退社し、独立しました。
1905年に細々と稼動していた赤沢銅山[2364] を買収しましたが、この山を選んだ理由は、“山相に惚れ込んだから”とか。
当時の茨城県多賀郡日立村の名にちなんで「日立鉱山」と改称し[2369]、設備を近代化して能率を向上させ、新たな山を開いて、日立を日本有数の銅山に仕立て上げました。

久原は、1906年に小坂鉱山で電気技師だった 小平(おだいら)浪平 をこの日立鉱山に招きました。
日立における小平の最初の仕事は、久原が小坂の近代化にも取り入れた、自家水力発電所の建設でした。実は小平の小坂での初仕事も発電所で、その後、東京電燈で駒橋発電所[43001]にも関わっていました。
このように、日立の工作部門を率いる小平の活躍の場は、鉱山機械の動力として取り入れられた重電機と深く関るものでした。

小平浪平は、精錬所のあった日立村大雄院の鉱山機械修理工場で、1910年に5馬力誘導電動機を製作し、好成績を得ました。
これに自信を得た小平は久原に電気機械製造事業への進出を申し出て許可され、 芝内に新工場が建設されました(現・山手工場)。
日立マークもこの時に作られ、1910年が日立製作所の実質的な創業とみなされています。復元された「創業小屋」には、最初に製作された電動機が動態展示されているそうです。

第一次大戦により外国製品の輸入が途絶し、国産品の注文は増加。工場火災などのトラブルにも遭いましたが、1920年には株式会社日立製作所となって、久原鉱業所から完全に独立しました。

少し前の日立鉱山に戻ります。藤田伝三郎がこの世を去り、明治天皇も崩御して大正元年となった1912年、日立鉱山を経営する久原鉱業所は、近代経営の会社組織に改めました。
この久原鉱業株式会社は、間もなく始まった第一次大戦による経済繁栄の機会をとらえて、非鉄金属鉱山だけでなく、石油・石炭の資源開発にも積極姿勢を示しました。秋田県雄物川油田の探鉱にも着手。日本産業になった昭和に入ってからですが、この油田で大噴油も見ました。 写真

第一次大戦中の久原は、日米合弁の製鉄事業や下松の工業都市建設も計画したようです。
このような 行け行けモード は、第一次大戦の動向次第では危ないことになります。
久原自身も そのことはよく心得ていて、パリに赴任する腹心に大戦終結の兆しを察知したら暗号電報で知らせるよう指示していたそうです。
ところが手違いで、パリからの暗号電報が久原の手元に届かず、彼は方向転換の機会を逃してしまったとか。

結果的には、久原の事業は大戦終結後の不景気の直撃を受けました。
1928年、久原鉱業の経営を(最初の)妻の兄である鮎川義介に譲り、実業界を引退。
政界入りした久原は 政友会に属し、初当選ながら逓信大臣に就任。
余談ながら、翌1929年には民政党内閣に変り、そこで逓信大臣になったのが小泉純一郎の祖父・小泉又次郎でした。

産業界から政界入りした久原房之助という人物の名は昔から聞いていましたが、それは年老いた政治家、 「昭和の怪物」 と呼ばれた姿でした。
今回の小坂訪問を機会に、技術開発に力を注いだ青年時代の久原房之助の姿を知り、思わず詳しすぎる紹介文を書いてしまった結果が、前回[67466]と今回の記事でした。
[67501] 2008年 12月 4日(木)22:18:10hmt さん
小坂鉱山に係る自然と人 (6) 久原房之助の事業は、鮎川義介の日産に引き継がれた
小坂鉱山のオーナー・藤田伝三郎[67425][67436]は、重要な決定はするが、事業の実務は信頼する部下に任せるタイプでした。従って、小坂を事業の中心に据えた彼ですが、現地に赴くことは少なかったと思われます。

小坂の現場で、この鉱山を再生させた久原房之助と武田恭作の二人[67466]も、小坂鉱山事務所ができて間もなく小坂を去り、それぞれが日立鉱山と椿鉱山(秋田県山本郡八森村>>八峰町)の経営者として独立しました。
彼らの下で働いた小平浪平も、電力会社を経験した後に日立で仕事をすることになり、日立製作所を創業しました。

ここまでは、タイトルの“小坂鉱山に係る”人たちであることに間違いないわけですが、話の都合で、小坂で働いたことのない人物を一人登場させます。

それは、破綻に瀕した久原鉱業の経営を引き受けた鮎川義介です。
鮎川義介は久原房之助の義兄で、藤田や久原と同じく長州人。井上馨の縁者です。
鮎川は、久原鉱業の組織を持株会社に改めて「日本産業株式会社」と改称し、その株式公開により得た新たな資本により、新たな事業を展開しました。
日立鉱山は、「日産」傘下の事業会社「日本鉱業」になりました。現在の事業は、日鉱金属と石油を主体とするジャパンエナジーに受け継がれています。後者はJOMOのサービスマークでおなじみ。
今日の ニュース で、両社の持株会社・新日鉱ホールディングスと新日本石油との統合が報じられています。

「日産」コンツェルンに属する会社群には、日本鉱業及び日立製作所のほかに、日産化学・日本油脂・日本冷蔵などもありましたが、「日産」のブランドを最も有名にした会社は、言うまでもなく日産自動車です。この会社は、鮎川義介が1933年にダットサンの製造のために自動車製造株式会社として設立。

オフ会のついでに立ち寄った小坂ですが、調べてみると、日本の産業のいろいろなところに、小坂をルーツとする藤田・久原に縁のある産業人が関係していました。
縁をたどれば、日立製作所や日産自動車のような現代日本を代表する企業グループも、小坂とのつながりがあり、地理的な話題も、秋田県内や日立・石見大森の鉱山地帯だけでなく、干拓事業の児島湾に筆が及びました。


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