銀山としてはジリ貧状態になり、藤田組としては閉山も考えた小坂鉱山。
硫化金属鉱物を酸化熱により溶融状態にして精錬する方法の存在を知った久原房之助は、小坂付近に豊富に埋蔵されている「黒鉱」
[67407] から銅を生産することに挑みました。そして、武田恭作と共に「自熔精錬法」の開発に見事成功。小坂を生き返らせました。
さて、小坂の基礎を築いた久原房之助は、その後でさっさと藤田組を退社し、独立しました。
1905年に細々と稼動していた赤沢銅山
[2364] を買収しましたが、この山を選んだ理由は、“山相に惚れ込んだから”とか。
当時の茨城県多賀郡日立村の名にちなんで「日立鉱山」と改称し
[2369]、設備を近代化して能率を向上させ、新たな山を開いて、日立を日本有数の銅山に仕立て上げました。
久原は、1906年に小坂鉱山で電気技師だった
小平(おだいら)浪平 をこの日立鉱山に招きました。
日立における小平の最初の仕事は、久原が小坂の近代化にも取り入れた、自家水力発電所の建設でした。実は小平の小坂での初仕事も発電所で、その後、東京電燈で駒橋発電所
[43001]にも関わっていました。
このように、日立の工作部門を率いる小平の活躍の場は、鉱山機械の動力として取り入れられた重電機と深く関るものでした。
小平浪平は、精錬所のあった日立村大雄院の鉱山機械修理工場で、1910年に5馬力誘導電動機を製作し、好成績を得ました。
これに自信を得た小平は久原に電気機械製造事業への進出を申し出て許可され、 芝内に新工場が建設されました(現・山手工場)。
日立マークもこの時に作られ、1910年が日立製作所の実質的な創業とみなされています。復元された「創業小屋」には、最初に製作された電動機が動態展示されているそうです。
第一次大戦により外国製品の輸入が途絶し、国産品の注文は増加。工場火災などのトラブルにも遭いましたが、1920年には株式会社日立製作所となって、久原鉱業所から完全に独立しました。
少し前の日立鉱山に戻ります。藤田伝三郎がこの世を去り、明治天皇も崩御して大正元年となった1912年、日立鉱山を経営する久原鉱業所は、近代経営の会社組織に改めました。
この久原鉱業株式会社は、間もなく始まった第一次大戦による経済繁栄の機会をとらえて、非鉄金属鉱山だけでなく、石油・石炭の資源開発にも積極姿勢を示しました。秋田県雄物川油田の探鉱にも着手。日本産業になった昭和に入ってからですが、この油田で大噴油も見ました。
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第一次大戦中の久原は、日米合弁の製鉄事業や下松の工業都市建設も計画したようです。
このような 行け行けモード は、第一次大戦の動向次第では危ないことになります。
久原自身も そのことはよく心得ていて、パリに赴任する腹心に大戦終結の兆しを察知したら暗号電報で知らせるよう指示していたそうです。
ところが手違いで、パリからの暗号電報が久原の手元に届かず、彼は方向転換の機会を逃してしまったとか。
結果的には、久原の事業は大戦終結後の不景気の直撃を受けました。
1928年、久原鉱業の経営を(最初の)妻の兄である鮎川義介に譲り、実業界を引退。
政界入りした久原は 政友会に属し、初当選ながら逓信大臣に就任。
余談ながら、翌1929年には民政党内閣に変り、そこで逓信大臣になったのが小泉純一郎の祖父・小泉又次郎でした。
産業界から政界入りした久原房之助という人物の名は昔から聞いていましたが、それは年老いた政治家、
「昭和の怪物」 と呼ばれた姿でした。
今回の小坂訪問を機会に、技術開発に力を注いだ青年時代の久原房之助の姿を知り、思わず詳しすぎる紹介文を書いてしまった結果が、前回
[67466]と今回の記事でした。