[51028] YSK さん
近代の行政機構としての市町村が出来上がったときに市部を郡部から独立させるというルールはどうして決まったのでしょうか。
「市」の前身は,1878年の
郡区町村編制法における「区」ですが(ご案内の通り,「区」という行政区画単位呼称はこの前にも後にもそれぞれ違った意味で様々に使用されています),この布告で「区」について定めた 第4条 の条文
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三府五港其他人口輻湊ノ地ハ別ニ一区トナシ其ノ広濶ナル者ハ区分シテ数区トナス
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の「別ニ一区トナシ」が,「区」を「郡」から独立させることを規定した部分になりますね。
さらに,「郡」について定めた 第3条 と,「区」について定めた 第4条 とが並列に置かれ,それぞれの行政官として「郡長」と「区長」を置くことを並列で定めた 第5条 から,「郡」と「区」が並列の区画であることが導き出せそうです。
これに基づいて実際に「区」が編制されたのは
・3府: 東京(麹町区以下,全15区),京都(上京区・下京区),大阪(東区・西区・南区・北区)
・5港:横浜区,神戸区,長崎区,新潟区,函館区
・その他:堺区,名古屋区,仙台区,金沢区,岡山区,広島区,赤間関区,和歌山区,福岡区,熊本区,札幌区
の各都市(函館と札幌は1879年)で,つまるところ,いずれも当時としては他の都市とは別格の大都市であり,通常の区域とは別に取り立てて治めるべき区域と考えられていたのかもしれませんね。
これらの都市は,いずれも1888年公布の「市制」(明治21年法律第1号)に基づいて 内務省告示 の栄えある“第1号”(明治22年告示第1号;1889年2月2日)で指定された「最初の市」に含まれます。ただし,この告示の筆頭に当然ながら挙げられた 東京市 の発足がこの年の5月1日で,同じ告示で指定されて4月1日に発足した他の30市だけでなく,あとから追加された 佐賀市 にも抜かれて,発足順では32番目であることもご案内でしょう。
「郡」が実質的な行政区画であった古代の律令制の下では,「平安京」は地理的には 山城国 の 愛宕郡 と 葛野郡 の境界上に位置していたけれども,京内は両郡の郡司の管轄ではなく,「京職」の支配下に置かれました。
江戸時代の幕府や藩でも,主要都市と(広義の)農村部とで別系統の支配体制をとることが多かったようです。
明治新政府の発足から廃藩置県直後まで“府・県”と“国・郡”とはお互いに独立した別個の区画であったものが,その後の府県統合が 郡 を単位に進められた結果,府県が膨張して 郡 との包括関係が本来の「郡>県」と逆転してしまうわけですが,その“前廃藩置県期”,政府は当初たくさんあった「府」を 京都・東京・大阪(←この順序に注意!) に限定します。
「府」は特別の存在と考えられたのでしょう(繰り返しますが,この時期,府・県と国・郡は別個の存在です。地理的な包括関係はともかく,行政上の上下関係ないし包含関係はありません)。
で,時を越えて1878年,今や領域内に複数の 郡 を含むまでに成長した 府県 の下位の行政区画として 郡 を位置づける 郡区町村編制法 が定められたとき,3府に限定される前に 府 を称した都市も含めた「枢要な都市」については,通常の 郡>町村 というラインとは別に取り立てて「区」とし,それが「市」に引き継がれた
…なんて,考えてみているのだけど,どうでしょう。
※ところで,私の永らくの疑問なのですが,
なぜ,「市制」で従来の「区」を「市」と呼ぶことにしたのでしょう。
今では韓国・北朝鮮や中国でも都市的行政単位をごく当たり前に「市」と呼んでいますが,このような用法は実は日本の「市制」が最初であるように思います。
台湾では日本の植民地統治下で「市」が編成されましたが,朝鮮では1945年の敗戦まで植民地時代を通じて「市」という呼称は用いられず,朝鮮王朝(大韓帝国)以来の「府」がそのまま(少なくとも公式には)用いられていました。「京城府」が「ソウル市」になったのは戦後のことではないかと思います。
逆に言えば,日本でも1888年の「市制」までは,そのような「市」の用法はなかったわけです。
「江戸市中引き回し」などという表現が時代劇などに登場しますが,もちろん「江戸市」なるものがあったわけではありません。
この「市」の用法,出所はどこなんでしょう。