都道府県市区町村
落書き帳

「道府県庁所在地から東京23区に電車で直行」関連

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[51742]2006年6月13日
打吹
[51743]2006年6月13日
EMM
[51746]2006年6月13日
小松原ラガー
[51747]2006年6月13日
EMM
[51748]2006年6月13日
小松原ラガー
[51750]2006年6月13日
KK
[51751]2006年6月14日
ゆう
[51752]2006年6月14日
BEAN
[51764]2006年6月15日
EMM
[51767]2006年6月15日
N-H
[51772]2006年6月15日
suikotei
[51779]2006年6月16日
スナフキん
[51787]2006年6月16日
hmt
[51789]2006年6月16日
EMM
[51790]2006年6月16日
hmt
[51793]2006年6月17日
88
[51798]2006年6月17日
稚拙
[51800]2006年6月17日
hmt

[51742] 2006年 6月 13日(火)09:12:21【1】打吹 さん
小郡
[51738]88さん 内引用文
(略)
また、同市は「交通の結節点」で、高速道路は東西だけでなく、瀬戸大橋を通じて四国にも延びる。鉄道網は、岡山駅からは中四国9県の県庁所在市へ乗り換えなしで行けるなど、「広島より利便性は高い」といい、こうした「中核性」をアピールしたい考えだ。
(略)
新幹線1本で新山口まで行って「山口市まで来たぞー!!」と言って良いもんなんでしょうかね。
まぁ良いもんなんでしょうね。山口市は山口市ですし。

そういえば東京から乗り換え無しで行けない都道府県庁所在地ってどのぐらいあるんですかね(寝台列車可)?
中四国がかなり欠けますが。というか鳥取……

(2006 年 6 月 13 日 (土) 9:16修正)
ブルートレイン関連の記述の微修正。
[51743] 2006年 6月 13日(火)12:19:30【3】EMM さん
乗り換え無しで東京直行できない県庁所在地
[51742] 打吹さん
そういえば東京から乗り換え無しで行けない都道府県庁所在地ってどのぐらいあるんですかね(寝台列車可)?
「乗り換え無し」を23区内発の列車であればOK・とにかく県庁所在地内にある駅に到達できればOK、と言う条件で調べてみると、福井、津、奈良、和歌山、鳥取、徳島、松山、高知、佐賀、長崎、宮崎、鹿児島、那覇が乗り換え無しでは到達できませんでした。
(抜けてないつもりですが…抜けてたりして)
まぁ那覇はどうあがいても無理ですが。
上記の内、本州・九州の各市にはかつて東京直通の列車がありました。
四国の3市は…多分無かったはず…

#ちなみに上記以外で「怪しいかな?」と思ったのが岐阜と大津だったのですが、それぞれムーンライトながら・銀河で東京に直接行くことができます。

##東京駅発着オンリー、とするとさらに札幌・青森・富山・金沢が×になりますね…と思ったら水戸と前橋も仲間入りするのでは?


※誤字訂正、句点追加、かつての直通列車に触れた部分の修正、##の部分に札幌が抜けてたのを追加
[51746] 2006年 6月 13日(火)22:00:45小松原ラガー さん
視点を変えてみれば・・・って、ちょっと屁理屈でしょうか?
[51742] 打吹 さん
[51743] EMM さん

乗り換えなしで東京から到達できる道府県所在地ですが、確かに「鉄」だとEMMさんの述べられているものだと思います。普通皆さんも同じように「新幹線では・・・夜行の列車で・・・」とお考えになるかと思います。

が、私はほぼ同じタイミングで「あれ?福井って夜行バスあったっけ?」とか、「鹿児島は今ではだめだけど、宮崎空港は市内だったよなぁ。あれ?佐賀空港ってどこにあったっけ?」と「鉄」、「車」、「空」といっぺんに考えてしまいました。

結果、EMMさんの挙げられた
福井、津、奈良、和歌山、鳥取、徳島、松山、高知、佐賀、長崎、宮崎、鹿児島、那覇
の中だと、

バスで乗り換えなしで到達可能=福井、奈良、和歌山、徳島、松山、高知
飛行機で乗り換えなしで到達可能=鳥取、松山、宮崎、那覇
(奈良=無し、徳島空港=松茂町、などそれ以外は空港がない、又は道府県所在地に無い)

となるなぁ、なんて調べてみた私は、やはりちょっと異常? ?? ???(笑)
もっとも、羽田空港まで行くのに大抵は一度や二度の乗換えが必要だったりするので、(まさか徒歩で羽田空港に行く方はそうはいますまい。)飛行機で「乗り換え無し」なんてのはそんなに意味があるものではないのでしょうが・・・

P.S.
こうやって見ると、佐賀、長崎、鹿児島と津ですか。鉄道でもバスでも飛行機でも乗り換えなしで到達できないのは。でも正直、津はちょっと意外でした。
(一応は調べましたが、調査漏れや誤りがあればご指摘ください。)
[51747] 2006年 6月 13日(火)22:20:04【1】EMM さん
リニア新幹線ウルトラひかり号東京発那覇行き…毎度の如く分かった人だけ腹の中でほくそ笑んで下さい(爆)
[51746] 小松原ラガーさん
が、私はほぼ同じタイミングで「あれ?福井って夜行バスあったっけ?」とか、「鹿児島は今ではだめだけど、宮崎空港は市内だったよなぁ。あれ?佐賀空港ってどこにあったっけ?」と「鉄」、「車」、「空」といっぺんに考えてしまいました。
実はチラッと頭をよぎったんですけれども、打吹さんの書かれているのが「新幹線」「寝台列車」と言うことだったのと、昼休みであんまり時間がなかったので鉄だけで行きました。

#「夜行列車のみ」「新幹線不可」とかやるとまた意外な発見がありそうですが。

なお、西武バス・三重交通共同運行の大宮-伊勢・鳥羽便で池袋から津に行くことができますので、鉄・空・バスともに乗り換え無しでは行くことができないのは佐賀・長崎・鹿児島っちゅう事になりますです。

なぜこのバスのことを知っているかというと、かつて西武バス・北陸鉄道ほか共同運行の高速バス池袋-金沢便の夜行が1往復だけだった頃、池袋駅東口バス停で待っているとその1本前に伊勢・鳥羽便が入ってきていたからでした。
当時はパルケ・エスパーニャ行き…嗚呼、あの日は遠くになりにけり。


※池袋のバス停名を間違えていたので訂正
[51748] 2006年 6月 13日(火)22:32:22小松原ラガー さん
ちょっとホッとしました。
小松原ラガーです。

[51747] EMM さん
実はチラッと頭をよぎったんですけれども、

よかった。他にも考えた人がいた、というかEMMさんの頭をよぎったということで、私=異常というのはちょっと否定されたのかも。(笑)

なお、西武バス・三重交通共同運行の大宮-伊勢・鳥羽便で池袋から津に行くことができますので、鉄・空・バスともに乗り換え無しでは行くことができないのは佐賀・長崎・鹿児島っちゅう事になりますです。

あらま、あっさり見落としていました。申し訳ありません。というか、まだまだ出てくるかも。もうちょっとこちらでも調べて見ます。ご指摘有難うございました。が、流石に東京から佐賀、長崎、鹿児島までダイレクトのバスはなかなか無いのかもしれませんが・・・
[51750] 2006年 6月 13日(火)22:53:38KK さん
乗り換えなしで行ける都道府県庁所在地
[51742]打吹 さん
[51743]EMM さん

実は松山は鉄道でも行けてしまいます。ただし期間限定ですが。
東京と高松を結ぶ夜行列車「サンライズ瀬戸」が、不定期ですが松山まで延長運転するときがあるのです。時刻表によれば、今年も8月11日から14日まで延長運転されます。
徳島と高知は・・・さすがにないですよね?
[51751] 2006年 6月 14日(水)00:04:10【2】ゆう さん
乗り換えなし
このごろ大量に名刺を扱う仕事をしまして、そこに印刷された住所の数々をみて心躍らせております。。。


[51743]EMMさん
上記の内、本州・九州の各市にはかつて東京直通の列車がありました。
四国の3市は…多分無かったはず…
瀬戸大橋開通前に、鉄道交通の環境に大きな変化があったのでしょうね。サンライズ瀬戸やカシオペアは特殊な部類に入りそうです。

[51746]小松原ラガーさん
「鉄」、「車」、「空」といっぺんに考えてしまいました。
私は「那覇とか徳島とかはフェリーでも...」などと考えてしまいました。

ちなみに津と東京とで乗降できる高速バスはあるようです。【追記】[51747]でEMMさんが既にご提示でした。
[51752] 2006年 6月 14日(水)00:28:25BEAN さん
ワールドカップ会場も、実は会場名になっている市の外にあるかもしれない
「都道府県市区町村」は有害サイトとみなされているようです。うそだと思うならこちらで検索してください。
http://kids.goo.ne.jp/

[51743]EMMさん
大昔なら、東京駅発に限定しても本州のほとんどの県都には行けたようです。
しかし、意外なところに直通できない県都がありました。
1972年に総武線東京駅ができるまで、東京駅から千葉市に直通する列車はありませんでした。
ただし、それほどの大昔なら、東京駅前から千葉市に行く長距離バスがあったかもしれません。

それより後の東北・上越新幹線が上野始発だったころは、東京駅から盛岡・秋田・仙台・山形・福島・宇都宮・新潟・長野に行けませんでした。そして東京発着の「あずさ」がなかった頃の甲府も。

山形は東京駅に限定しなくても、山形新幹線建設中に空白期間があったかもしれません。

[51742]打吹さん
新幹線1本で新山口まで行って「山口市まで来たぞー!!」と言って良いもんなんでしょうかね。
まぁ良いもんなんでしょうね。山口市は山口市ですし。
新幹線1本で八戸まで行って「八戸市まで来たぞー!!」と言って良いもんなんでしょうかね。
まぁ良いもんなんでしょうね。八戸市は八戸市ですし。
なんちゃって。

新山口駅が山口市ということにも、いつか違和感はなくなるのでしょう。
 
[51764] 2006年 6月 15日(木)06:25:45EMM さん
「東京直行」レス
[51750] KKさん
実は松山は鉄道でも行けてしまいます。ただし期間限定ですが。
[51743]えきから時刻表で調べたので、臨時までは調べられませんでした。
松山以外に増えるところはあるんだろうか…?



[51751] ゆうさん
私は「那覇とか徳島とかはフェリーでも...」などと考えてしまいました。
船はさすがに頭をよぎりませんでした。
こちらのサイトによると定期便で東京港から直行できるのは徳島と那覇だけみたいですね。



[51752] BEANさん
1972年に総武線東京駅ができるまで、東京駅から千葉市に直通する列車はありませんでした。
房総方面のかつてのターミナルは両国でしたね。
実は甲府は直行できない方に入れるところだったのですが、再確認したら「あずさ」が東京まで行っていたのであわてて外しました。
東京駅一極集中が進んでいると言うことですね。



[51754] 牛山牛太郎さん
実は、その作品中の台詞などが、日本沈没に使われているそうです。
旧作は大好きなのですが、新作は、見たいような見たくないような・・・。
「旧作」が最初「日本沈没」の旧作かと思ったのですが、[51747]の元ネタの方ですね。
今度公開の「日本沈没」の監督はかの作品のスタッフでしたからねぇ。



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ところで、こんな時間に起きているのはいつぞや言っていた「センチメンタルジャーニー(爆)」に今日明日明後日の日程で行くことになったから。
本当は金土日にしたかったのですが、予約の関係で木金土にせざるを得なくなりました。
ちょうど仕事に空きができたのでうまく休みが取れて良かった…
どこに行くかは、帰ってきてから報告と言うことで。
ちなみに旅行先にロータリーがあるので、うまいこと写真を撮って来れたらレポート作ります。>たもっちさん
[51767] 2006年 6月 15日(木)16:58:17N-H さん
東京への直通
[51752] BEAN さん
1972年に総武線東京駅ができるまで、東京駅から千葉市に直通する列車はありませんでした。
[51764] EMM さん
房総方面のかつてのターミナルは両国でしたね。
確かに房総(千葉より先)から東京都内まで直通する列車のターミナルは両国でしたが、県都である千葉市・千葉駅についていえば、国電が両国から先、秋葉原、御茶ノ水を経由して、当時は確か荻窪まで頻繁に直通していましたね。
ですから東京駅には直通できなかったものの、都心には直通はしていたわけです。
たまに「湘南新宿ラインができて、大宮方面から横浜へ直通でいけるように云々」という表現を目にしますが、ずっと以前から横浜駅の4番線ホームには頻繁に大宮行きの列車がやってきていたわけでして……
[51752] BEAN さん
それほどの大昔なら、東京駅前から千葉市に行く長距離バスがあったかもしれません
そうなんですよね。1960年代ごろだと、通常の路線バスが東京都心から都県境を超えてずいぶん遠くまで行っていたようです。
東京駅から千葉市内へ行くバスがあったかどうかは知らないのですが、当時茂原駅前から神田まで1日1往復バスが走っていたことは確かです([10643] 参照)。
もっとも千葉市内は通過していただけですが。

それより後の東北・上越新幹線が上野始発だったころは、東京駅から盛岡・秋田・仙台・山形・福島・宇都宮・新潟・長野に行けませんでした。
この表現と、それより前にある
大昔なら、東京駅発に限定しても本州のほとんどの県都には行けたようです。
とをあわせて考えるに、東北新幹線が出来る以前には上記の各県都にはほぼ東京駅からいけたということでしょうか?
事実、かつては東京発の東北線の列車もあったようですが、どの程度遠くまで運転していたのでしょうか。そういえば「湘南日光」などという急行列車もあった記憶が。
[51772] 2006年 6月 15日(木)22:12:49suikotei さん
東京駅から特急で北へ
[51752]BEAN さん
[51767]N-H さん

かつては東京駅にも東北線・上越線・信越線・常磐線の列車が発着していました。
手許にある1972年3月の時刻表(復刻版)によりますと、特急列車では
つばさ1号(下り)・つばさ2号(上り) 東京-福島-秋田
はつかり2号(下り)・はつかり3号(上り) 東京-福島-青森
やまびこ3号(下り)・やまびこ1号(上り) 東京-福島-盛岡
ひばり11号(下り)・ひばり1号(上り) 東京-福島-仙台
あさま4号(下り)・あさま2号(上り) 東京-長野-直江津
あさま5号(下り)・あさま1号(上り) 東京-長野
とき7号(下り)・とき1号(上り)   東京-新潟
ひたち(上り)  平(当時・現在のいわき)-東京
また東京発高萩行や熱海発(東京経由)前橋行の普通列車もありましたので、少なくとも、青森・盛岡・仙台・秋田・山形・福島・水戸・宇都宮・前橋・新潟・長野には乗り換えなしで行けたことになります。

これらの東京直通運転列車は、1975年3月の時刻表(復刻版)からは消えています。
この間の経緯は私の手許の資料からはわからないのですが、Wikipediaによれば、1973年4月1日に乗り入れ中止になっているようです(裏は取れていません)。理由も「東北・上越新幹線の建設工事のため」(Wikipedia)とか「新幹線博多開業に備え、東京駅の新幹線ホームを増設するため」とか諸説あるようで、真相は申し訳ありませんが確認できませんでした。
[51779] 2006年 6月 16日(金)00:08:56スナフキん さん
東京駅のこと
[51767]N-Hさん
すでに[51772]でsuikoteiさんが書き尽くしていますが、念のため私のお宝である1972年11月号(suikoteiさんのものより、8ヶ月あと)の時刻表でも当たってみました。ちなみに私のものは復刻版でなく、実物です。紙はすでに変色し、文字も潰れかかっているものが散見されて見にくいことこの上ありませんが、これで徹夜しろと言われたら、やり通す自信はあります(爆死)。

特急に関しては、suikoteiさんの記述から若干の変更が見られます。ただ、東北線方面の青森・盛岡・秋田・仙台へは変わらずに直通特急が走っていますし、高崎線方面でも新潟・長野・直江津へやはり直通便があります。熱海-前橋の普通便も見えました。この他定期便で県庁所在地に絡むところでは急行「日光」が宇都宮、といったところでしょうか。

まあこれらに関しては、今の社会情勢とはまったく異なる時代の状況だけに一概に良い悪いを判断するのは難しいと思いますが、ただ1つ、いまよりもはるかに時はゆっくり流れていたであろうことは確かだと思います。
[51787] 2006年 6月 16日(金)19:05:19【2】hmt さん
青函トンネルのなかった時代に 東京駅から札幌駅まで直通した1等寝台車
[51742] 打吹 さん
そういえば東京から乗り換え無しで行けない都道府県庁所在地ってどのぐらいあるんですかね(寝台列車可)?
[51743] EMM さん
##東京駅発着オンリー、とするとさらに札幌・青森・富山・金沢が×になりますね…と思ったら水戸と前橋も仲間入りするのでは?
[51752] BEAN さん
大昔なら、東京駅発に限定しても本州のほとんどの県都には行けたようです。
[51772] suikotei さん
かつては東京駅にも東北線・上越線・信越線・常磐線の列車が発着していました。
手許にある1972年3月の時刻表(復刻版)によりますと、…(中略)…少なくとも、青森・盛岡・仙台・秋田・山形・福島・水戸・宇都宮・前橋・新潟・長野には乗り換えなしで行けたことになります。

青函トンネルが1988年に開業し、上野駅や大阪駅からの寝台列車が運転されている現在でも、東京駅からとなると、直通の汽車で札幌駅に至ることは不可能です。
ところが、1948年から1954年までの間、東京駅から札幌駅まで直通した1等寝台車があったのです。

津軽海峡はどうしたのかって? 寝台車ごと、青函連絡船に積み込んで航送したのですね。

日本鉄道時代から計画された津軽海峡の鉄道連絡船は、国有化後の1908年から運行を開始し、1925年からは貨車の航送が行なわれていました。鉄道車両の航送は、それよりも前1911年から関門航路でも行なわれていましたが、日本では貨車だけで、客車の航送はありませんでした。

# ヨーロッパでは、伝統的にフェリーによる客車の航送が盛んなようで、比較的近年の1994年にも、タリン(エストニア)からストックホルムに向かうエストニア号が高波に襲われてバルト海に沈没し、852人が死亡した事故がありました(生存者137人)。船首ドア・ロックの欠陥のため、車両デッキに海水が流入したことが原因とされています。

それはさておき
日本最初の客車航送により札幌直通を実現させたのは、「進駐軍」の命令でした。
# 第2次大戦後に日本を占領した米軍を主とする「連合国軍Allied Powers」の呼び名です。講和条約発効後は、日米安全保障条約に基づく「駐留軍」になりましたが、講和前の時代は実質的には「占領軍」でした。

須田寛さん(JR東海初代社長)の 講演pdf では、米軍第8軍司令部のあった横浜から、北海道における進駐軍の要地・千歳を経て札幌までの列車を出せという命令により、画期的な横浜始発、客車航送、千歳線経由の運行を無理やりやらされたが、けがの功名で、勾配のない千歳線経由が北海道のメインルートになったことが語られています。
この講演にはありませんが、「Yankee Limited」という列車名が付いていたと思います。

手元の「時刻表昭和27年12月号」を見ると、東京発19:00(常磐線経由)10:20青森着、青森発11:15(連絡船)15:45函館着、函館発16:20(室蘭本線・千歳線経由)22:58札幌着という1.2.3等特殊列車1201列車(上りは1202列車)が載っており、1等寝台車の記号に東京-札幌間の注記があります。

この「特殊列車」とは、1952年(昭和27年)4月に、連合国軍用の専用列車が一部ながら日本人に開放されて誕生した1、2等主体の急行列車で、上記の札幌行の他に佐世保行、呉線経由佐世保行もありました。
この時刻表では既に「特殊列車」(東京-札幌間)ですが、その少し前の「Yankee Limited」(横浜-札幌間)時代には、日本人のために上野発急行「みちのく」の1等寝台車も航送がありました(1950)。

いずれにせよ、東京-札幌間を直行する1等寝台車の運行は独立後の1954年まで続けられましたが、この年の9月26日に「洞爺丸事故」が起こり、札幌行の寝台車航送は廃止されました。10月には、占領下の遺物の「特殊列車」制度も廃止され、1201、1202列車は急行「十和田」に生まれ変わりました。

おまけ:時刻表のこと
上記の「(日本国有鉄道監修)時刻表 昭和27年12月号」も[51779] スナフキん さんの1972年11月号と同様に実物です。当時は現在の半分のB6判で、表紙の絵は、デッキ付きの電気機関車でした。昭和27年というと、半流線形車体になったEF58改良型が出始めた年ですが、まだ表紙に間に合っていません。「国鉄監修・交通公社の時刻表」は、創刊500号の1967年10月号から大型(B5判)になりました。表紙は寝台電車「月光」です。これも実物あり。
JTB時刻表の前身は1925年鉄道省編纂の 「汽車時間表」(復刻版あり)です。
残念ながら、「三本松の時刻表」[23129]は持っていません。
[51789] 2006年 6月 16日(金)20:40:35EMM さん
東京直行&堀川通
只今旅先のライブ居酒屋からです。
いい感じに一杯入ってます。

さて、青函連絡船は列車も運んでたのすっかり忘れてました。
宇高連絡船はどうでしたっけ?

それと、堀川と堀川通のアクセントの変化の話を読んで、以前に投稿した大阪の長堀と長堀橋の話を思い出しました。
神戸の地下鉄でも気になった所があった覚えがあるので、京都に限らず関西地方ではあちこちある事例かもしれません。


追記:
昨日今日で3ヶ所のロータリーの写真を撮って来ました。
明日もう1ヶ所撮って来る予定です。
[51790] 2006年 6月 16日(金)22:21:09【1】hmt さん
宇高連絡船の客車航送は、大阪-八幡浜・須崎間
[51789] EMM さん
さて、青函連絡船は列車も運んでたのすっかり忘れてました。
宇高連絡船はどうでしたっけ?

[51787]で参照した1952年12月の時刻表に掲載された「主要旅客列車編成」を見たら、大阪21:15発の準急307列車呉線経由広島行(7両)の後に四国行が6両連結されており、これが宇野発2:20(宇高連絡船3便)3:30高松桟橋着の航路で運ばれていたようです。
真夜中ですから、客車航送の値打ちがありますね。

高松で4:10発の13列車に併結し、9:45松山着が3両(うち1両は八幡浜行)、3両は土讃線へ入り、10:50須崎着。

本題の「東京直行」には該当しませんが、宇高連絡船でも客車航送が行なわれていたことを、改めて認識しました。
この客車航送は、1955年5月11日の紫雲丸事故で終ったので、青函航路より少し後まで存在したことになります。
[51793] 2006年 6月 17日(土)00:29:05【1】88 さん
宇高連絡船 貨車・客車航送について
[51789]EMM さん
宇高連絡船はどうでしたっけ?

[51790]hmt さん
宇高連絡船の客車航送は、大阪-八幡浜・須崎間

[51787]で参照した1952年12月の時刻表に掲載された「主要旅客列車編成」を見たら、大阪21:15発の準急307列車呉線経由広島行(7両)の後に四国行が6両連結されており、これが宇野発2:20(宇高連絡船3便)3:30高松桟橋着の航路で運ばれていたようです。
私は時刻表は復刻版しか所有していないので(しかも他所においており、手元に無い)、助かりました。
国鉄(JR)の宇高連絡船では、客車航送をしておりました。残念ながら、hmtさんご紹介のとおり東京直行ではないようですね。


宇高連絡船の客車航送の記録です。
参考文献:「宇高連絡船78年のあゆみ」萩原幹生著 成山堂書店、H12(2000)年発行
※:萩原幹生氏は、宇高連絡線廃止時の土佐丸船長で、切絵の作者としても著名

M36(1903).3.18山陽鉄道株式会社(現JR山陽本線)が山陽汽船株式会社と共同運航で岡山(京橋)-高松桟橋間で営業開始
(岡山駅-京橋、高松桟橋-高松駅間は人力車継送)
M39(1906).12.1山陽鉄道株式会社の鉄道・各航路、国有化
M43(1910).6.12宇野線営業開始
岡山-高松航路を宇野-高松航路とする(宇高航路78年の歴史の始まり)
T10(1921).10.10渡艀を曳航して貨車航送開始
S11(1935)客載車両渡船建造計画はあったが、その後戦争のため中断
S21頃S20、S21の旅客輸送人員増を受け、根本的に輸送力を改革する計画が再び取り上げられる
将来の輸送要請量に対処するためにも客載車両渡船の製造は必然的なものであり、
財政上の困難を排除して建造、同時に水陸連絡施設も工事開始
S22(1947).7.6客載車両渡船第一船紫雲丸就航
S23(1948).2.26客載車両渡船第二船眉山丸就航
S23(1948).6.25客載車両渡船第三船鷲羽丸就航
S25(1950).5.12客車航送試運転実施
S25(1950).6.21客車航送試運転実施
S25(1950).10.1客車航送開始
S30(1955).5.11紫雲丸事故
S53(1978).10.10瀬戸大橋着工
S63(1988).4.9宇高連絡船廃止
S63(1988).4.10瀬戸大橋開通

この客車航送ですが、上記文献から引用すると、
"海を行く客車"のポスターで華々しく宣伝された直通夜行大阪発507便は168名の旅客を載せたまま連絡船に積み込まれ、初めて海を渡った。・・・・客車航送能力は1航海6両で一日上・下便合わせて2航海行い、航送定員は上・下とも432名であったが実数は定員を相当上回っていた。・・・・しかし、長距離旅客からはこのように歓迎された"海を行く客車"も、紫雲丸事故によって安全上の見地から昭和30年5月11日限り、好成績を残しながらわずか4年余りで中止となるのである。
とあります。
紫雲丸事故のとき、紫雲丸には、旅客781名、貨車15両、手荷物及び郵便車4両を積載していました(客車航送便ではありません)。犠牲者は、旅客166名(一般旅客58名、修学旅行関係者108名)、船員2名です。
(注:旅客の一般・修学旅行関係者の内訳は、『宇高連絡船紫雲丸はなぜ沈んだか』萩原幹生著、成山堂書店、H12(2000)年発行)による)

また、客車航送便輸送人員は、このように掲載されています。
下り上り合計1日平均記事
S25.1012,58514,29526,8808673便 20便
S25.1111,63612,65324,2898103便 20便
S25.1214,64814,11728,7659283便 20便
S26. 114,83617,87132,7071,0553便 20便
S26. 214,28015,75630,0461,0733便 20便
S26. 318,36619,09837,4641,2093便 20便
S26197,848200,951398,7991,0923便 2便
S27215,237212,883428,1201,1733便 2便
S28224,417219,205443,6221,2153便 2便
S29231,370216,391447,7611,2273便 2便
S30. 421,17121,43542,6061,4203便 2便
S30. 56,8406,26313,1031,1913便 2便
S25.10.1からS30.5.11まで、一日平均1,158人でした。

修学旅行生と思しき生徒が客車に乗ったまま積み込まれる写真が、同書にも掲載されています。私も幼少の頃他の文献でこの写真を見たことがあり、よく使われる写真でしょう。

紫雲丸事故を受け、明治以来あった本四架橋案が具体化し、瀬戸大橋につながって行きました。

なお、貨車航送は、瀬戸大橋開通前まで行われていました。桟橋から貨車が積み込まれていく情景は、私にとって連絡船甲板のうどんとともに既になつかしいものとなりました。

[51790]hmtさんの訂正([51800]hmtさん参照)により、引用部分を訂正
[51798] 2006年 6月 17日(土)13:02:36稚拙 さん
Re: 東京駅から特急で北へ
[51772] 2006 年 6 月 15 日 (木) 22:12:49 suikotei さん
東京駅から特急で北へ

これらの東京直通運転列車は、1975年3月の時刻表(復刻版)からは消えています。
この間の経緯は私の手許の資料からはわからないのですが、Wikipediaによれば、1973年4月1日に乗り入れ中止になっているようです(裏は取れていません)。理由も「東北・上越新幹線の建設工事のため」(Wikipedia)とか「新幹線博多開業に備え、東京駅の新幹線ホームを増設するため」とか諸説あるようで、真相は申し訳ありませんが確認できませんでした。

前橋から京都へ修学旅行に行ったのですが、前橋から東京までは臨時列車に乗りました。
上野から東京まで直通で行ったのです。1981年11月のことでした。

とても貴重な体験だったはずなのですが、なにしろ新幹線にはじめて乗る日でしたので、新幹線の思い出はありますが臨時列車の上野~東京間の思い出はありません。

なお、この臨時列車を使ったのはぼくの学年までで、翌年からは高崎~大宮が上越新幹線、大宮~上野が新幹線リレー号、上野~東京が山手線だったそうです。
1981年11月以降に上野~東京間の直通線に乗った人はお教えください。
[51800] 2006年 6月 17日(土)19:37:39【1】hmt さん
宇高連絡船の客車航送利用人数
[51793] 88 さん
客車航送便輸送人員は…(中略)…S25.10.1からS30.5.11まで、一日平均1,158人でした。

座席車6両(2・3等合造車、3等・荷物合造車を含む)の往復でこの人数を記録しているとは、驚異的な盛況ぶりであったことがわかります。

青函連絡船の1等寝台車とは、利用人数的には雲泥の違い。

【訂正と補足】
土讃線に入る航送車両は大阪-須崎間でした(窪川まで行くのは、高松発の車両)。
[51790]は、訂正しておきました。

2・3等合造車は、八幡浜・須崎の両方にそれぞれ連結されていました。
広島行編成にももちろん2等車(全室)があり、大阪発の「準急列車」には行先別に2等が3両というわけです。
グリーン車の連結されていない「特急列車」も多い現在とは、時代が違うことを感じます。

青函連絡船で航送された1等寝台車は、2人用コンパートメントが8室で定員16人。おそらく1航海2両の往復ですから、利用人員は、最大に見積もっても1日あたり64人でした。


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