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[51790] 2006年 6月 16日(金)22:21:09【1】hmt さん
宇高連絡船の客車航送は、大阪-八幡浜・須崎間
[51789] EMM さん
さて、青函連絡船は列車も運んでたのすっかり忘れてました。
宇高連絡船はどうでしたっけ?

[51787]で参照した1952年12月の時刻表に掲載された「主要旅客列車編成」を見たら、大阪21:15発の準急307列車呉線経由広島行(7両)の後に四国行が6両連結されており、これが宇野発2:20(宇高連絡船3便)3:30高松桟橋着の航路で運ばれていたようです。
真夜中ですから、客車航送の値打ちがありますね。

高松で4:10発の13列車に併結し、9:45松山着が3両(うち1両は八幡浜行)、3両は土讃線へ入り、10:50須崎着。

本題の「東京直行」には該当しませんが、宇高連絡船でも客車航送が行なわれていたことを、改めて認識しました。
この客車航送は、1955年5月11日の紫雲丸事故で終ったので、青函航路より少し後まで存在したことになります。
[51793] 2006年 6月 17日(土)00:29:05【1】88 さん
宇高連絡船 貨車・客車航送について
[51789]EMM さん
宇高連絡船はどうでしたっけ?

[51790]hmt さん
宇高連絡船の客車航送は、大阪-八幡浜・須崎間

[51787]で参照した1952年12月の時刻表に掲載された「主要旅客列車編成」を見たら、大阪21:15発の準急307列車呉線経由広島行(7両)の後に四国行が6両連結されており、これが宇野発2:20(宇高連絡船3便)3:30高松桟橋着の航路で運ばれていたようです。
私は時刻表は復刻版しか所有していないので(しかも他所においており、手元に無い)、助かりました。
国鉄(JR)の宇高連絡船では、客車航送をしておりました。残念ながら、hmtさんご紹介のとおり東京直行ではないようですね。


宇高連絡船の客車航送の記録です。
参考文献:「宇高連絡船78年のあゆみ」萩原幹生著 成山堂書店、H12(2000)年発行
※:萩原幹生氏は、宇高連絡線廃止時の土佐丸船長で、切絵の作者としても著名

M36(1903).3.18山陽鉄道株式会社(現JR山陽本線)が山陽汽船株式会社と共同運航で岡山(京橋)-高松桟橋間で営業開始
(岡山駅-京橋、高松桟橋-高松駅間は人力車継送)
M39(1906).12.1山陽鉄道株式会社の鉄道・各航路、国有化
M43(1910).6.12宇野線営業開始
岡山-高松航路を宇野-高松航路とする(宇高航路78年の歴史の始まり)
T10(1921).10.10渡艀を曳航して貨車航送開始
S11(1935)客載車両渡船建造計画はあったが、その後戦争のため中断
S21頃S20、S21の旅客輸送人員増を受け、根本的に輸送力を改革する計画が再び取り上げられる
将来の輸送要請量に対処するためにも客載車両渡船の製造は必然的なものであり、
財政上の困難を排除して建造、同時に水陸連絡施設も工事開始
S22(1947).7.6客載車両渡船第一船紫雲丸就航
S23(1948).2.26客載車両渡船第二船眉山丸就航
S23(1948).6.25客載車両渡船第三船鷲羽丸就航
S25(1950).5.12客車航送試運転実施
S25(1950).6.21客車航送試運転実施
S25(1950).10.1客車航送開始
S30(1955).5.11紫雲丸事故
S53(1978).10.10瀬戸大橋着工
S63(1988).4.9宇高連絡船廃止
S63(1988).4.10瀬戸大橋開通

この客車航送ですが、上記文献から引用すると、
"海を行く客車"のポスターで華々しく宣伝された直通夜行大阪発507便は168名の旅客を載せたまま連絡船に積み込まれ、初めて海を渡った。・・・・客車航送能力は1航海6両で一日上・下便合わせて2航海行い、航送定員は上・下とも432名であったが実数は定員を相当上回っていた。・・・・しかし、長距離旅客からはこのように歓迎された"海を行く客車"も、紫雲丸事故によって安全上の見地から昭和30年5月11日限り、好成績を残しながらわずか4年余りで中止となるのである。
とあります。
紫雲丸事故のとき、紫雲丸には、旅客781名、貨車15両、手荷物及び郵便車4両を積載していました(客車航送便ではありません)。犠牲者は、旅客166名(一般旅客58名、修学旅行関係者108名)、船員2名です。
(注:旅客の一般・修学旅行関係者の内訳は、『宇高連絡船紫雲丸はなぜ沈んだか』萩原幹生著、成山堂書店、H12(2000)年発行)による)

また、客車航送便輸送人員は、このように掲載されています。
下り上り合計1日平均記事
S25.1012,58514,29526,8808673便 20便
S25.1111,63612,65324,2898103便 20便
S25.1214,64814,11728,7659283便 20便
S26. 114,83617,87132,7071,0553便 20便
S26. 214,28015,75630,0461,0733便 20便
S26. 318,36619,09837,4641,2093便 20便
S26197,848200,951398,7991,0923便 2便
S27215,237212,883428,1201,1733便 2便
S28224,417219,205443,6221,2153便 2便
S29231,370216,391447,7611,2273便 2便
S30. 421,17121,43542,6061,4203便 2便
S30. 56,8406,26313,1031,1913便 2便
S25.10.1からS30.5.11まで、一日平均1,158人でした。

修学旅行生と思しき生徒が客車に乗ったまま積み込まれる写真が、同書にも掲載されています。私も幼少の頃他の文献でこの写真を見たことがあり、よく使われる写真でしょう。

紫雲丸事故を受け、明治以来あった本四架橋案が具体化し、瀬戸大橋につながって行きました。

なお、貨車航送は、瀬戸大橋開通前まで行われていました。桟橋から貨車が積み込まれていく情景は、私にとって連絡船甲板のうどんとともに既になつかしいものとなりました。

[51790]hmtさんの訂正([51800]hmtさん参照)により、引用部分を訂正
[51800] 2006年 6月 17日(土)19:37:39【1】hmt さん
宇高連絡船の客車航送利用人数
[51793] 88 さん
客車航送便輸送人員は…(中略)…S25.10.1からS30.5.11まで、一日平均1,158人でした。

座席車6両(2・3等合造車、3等・荷物合造車を含む)の往復でこの人数を記録しているとは、驚異的な盛況ぶりであったことがわかります。

青函連絡船の1等寝台車とは、利用人数的には雲泥の違い。

【訂正と補足】
土讃線に入る航送車両は大阪-須崎間でした(窪川まで行くのは、高松発の車両)。
[51790]は、訂正しておきました。

2・3等合造車は、八幡浜・須崎の両方にそれぞれ連結されていました。
広島行編成にももちろん2等車(全室)があり、大阪発の「準急列車」には行先別に2等が3両というわけです。
グリーン車の連結されていない「特急列車」も多い現在とは、時代が違うことを感じます。

青函連絡船で航送された1等寝台車は、2人用コンパートメントが8室で定員16人。おそらく1航海2両の往復ですから、利用人員は、最大に見積もっても1日あたり64人でした。


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