都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

記事検索

>
14件の記事を検索しました

… スポンサーリンク …



[52603] 2006年 7月 24日(月)14:11:52【1】音無鈴鹿 さん
Google Earthで表示される地名の選定基準は?そして位置は?
[52591] くはさん
Google Earth
Google の中に「本来の埼玉」にこだわる人がいるのか…などと思ってしまいました。
いや、そんな高尚なものではなく、単に粗っぽいだけでしょ(笑)
アメリカ大陸とかヨーロッパの一部は結構細かい地名も入っていて位置も割合正確なのに、こと日本に関してはよ~く見ると都市の位置に関しては結構雑…というか間違いがおおくて。
関東地方だけでも、厚木が秦野に、鴻巣が菖蒲町に、伊勢崎が太田の位置にそれぞれあったり…。府県境を越えちゃってるのもあって飯能が青梅に、市川はなんと北千住。木更津に至っては対岸の磯子に(笑)。
ほかのアジア、アフリカ、オセアニアや南米なんかもいい加減なのかな?

[52597]じゃごたろさん
それととは別に、駒ヶ根市が"Akaho"になっていたりします。
同様に、いわき市も"Ueda"、"Onahama"と"Taira"です。もしかしてベースになった資料が1955年以前のものだったのでしょうか?それなら平市・小名浜町・植田町も、あるいは赤穂町もわかるのですが…。でも北九州市はしっかり"Kita-kyushu"になってますね。北九州だけ別格かな?と思ったら東大阪市も"Higashiosaka"としてちゃんと登場してるしー(おまけに位置が四条畷あたりだったり)。やっぱりよくわからない。

…っと近畿地方を見ていたら高槻市が"Akutagawa"に!!これは西国街道の摂津芥川宿ですね。もう時代もバラバラだー。思わず東京をマジマジと見返してしまいましたよ。"Edo"とか"Yedo"とか書いてなくって良かった。でも印が打ってあるのは深川のほう。
[52674] 2006年 7月 25日(火)23:07:14hmt さん
Google Earthに使われた地名(1)芥川
[52603] 音無鈴鹿 さん
高槻市が"Akutagawa"に!! これは西国街道の摂津芥川宿ですね。

西国街道(山崎通)が淀川の支流・芥川と交差する地点の東詰を中心に形成された芥川宿。
この名を引き継いだ大阪府三島郡「芥川村」は、1931年に高槻町と合併するまで存在していました。
# 同時に合併した芥川町というのもあったのですが、これは1929年に清水村が改名したもの。

元亀・天正の頃の切支丹大名・高山右近から江戸時代の永井家へと伝統ある城下町の高槻は、芥川のすぐ下流側。
1920年高槻町の人口は3897人で、芥川村は2816人。

…というわけで、「芥川」という地名は江戸時代まで遡らなくても存在していたわけですが、芥川宿の近くに明治9年(1876)に開業した鉄道の駅が「高槻駅」だったことからも、昔から「高槻」のネームバリューが上だったことがうかがえます。

Google Earthの地名に対する疑問と言えば、"Akutagawa"と記されているポイントは、交差点名「城東町」が示している通り、高槻寄りです。逆に、“takatsuki japan”で検索して示されるポイントは芥川寄り。どうも逆転している様子。

以前に話題になった新潟の「焼島潟」に関して、[42842] EMM さんが
もしかしたら、Google Earthを制作したKeyhole社が使用した日本の自然地形名の資料が古いものだから、と言うことではないかと思うのですが、いかがでしょうか??
と発言されていますが、自然地形名に限らず、都市名についても“資料が古い”疑いがあります。

そこで、 全国的に整備された「古い地図資料」の第1号とも言える、「揖製二十万分一図」と、Google Earthの地名とを比較してみました。この図は、明治19~24年(1886-1891)に参謀本部陸軍測量局により刊行されたもので、復刻されたものを平凡社の地名辞典で見ることができます。

この図で高槻付近を見ると、確かに「芥川」と「高槻」とが同程度の町として描かれています。
これならば、「高槻」でなくて「芥川」を選ぶこともあり得るように思われます。

次に「Yaketori-gata」[42684]ならぬ 「焼島潟」[42781]
[42835]では“明治の地図には出ていました”と書いたのですが、これは“地形として描かれていた”ということで、「焼島潟」という“地名が出ていた”わけではありませんでした。

なお、新しいGoogle Earthでは、島以外の自然地名は表示されなくなっているようです。
かつて話題にした品川湾[42889]、富士山[42664] [42681] [42695]などの自然地名表現は、すべて過去のことになってしまいました。
[52813] 2006年 7月 31日(月)02:13:36音無鈴鹿 さん
地名の「誤用」?正しい地名と間違っている地名?
こんばんは、音無です。

 今週末は休日出勤をしておりました。いいお天気だったので夕方にちょっとサイクリング。目白通りを練馬方面へ石神井公園あたりを散策。夏場はついつい涼を求めて水のあるところへ向かってしまいます。石神井川はずいぶんきれいになりましたね。かれこれ20年ほど前ですが、板橋に親類がいたので石神井川の近くを頻繁に通ったのものでした。当時は護岸が鋼矢板で覆われた狭い水路で、川に向かって坂を下りただけで下水特有のなんともいえないニオイが漂ってきて気分が悪くなる、もちろん川は紫がかった乳白色の水が泡立ちながら流れていて生命の気配を微塵も感じさせない空間でありました。いまは護岸こそコンクリート張りながら(それでも石を模倣したブロックで化粧されている)、透明度の増した水が小石の敷き詰められた川底をさらさらと流れておりました。所々流れの作用で砂洲が形成されていて植物が繁茂し、水面ではアジサシのような鳥が水浴び(あるいはお食事中かな?)をしていました。取り返しがつかない破壊がされてしまったように見えても、環境を整備すると自然は逞しくまた帰ってくるのだと感慨深い思いでした。

 さて、Ver4に進化したGoogle Earth。見れば見るほど奥が深いですねー。これは危険だ、危険すぎる。職場のPCには入れないでおこう(笑)。先週末(7月28日)深夜に放映された「タモリ倶楽部」において、”初潜入! Googleを巡る”と題し、タモリさん一行がGoogle日本本社を訪問、ここでGoogle Earthが紹介されておりました。ここで使用されているのはGoogle Earth Proのようで。あーGoogle Earth ProとかPlusとか、欲しくなっちゃうな。

 というわけで、地名の位置が間違っているお話。
[52733] hmtさん、[52591] くはさん
明治の市町村制よりも前、ないしは20世紀前半の「古い資料」を多用しているものの、一部については戦後生まれの都市名に改める姿勢も示しています。
しかし、それが中途半端な形になってしまった象徴が“さきたま古墳近くの「Saitama」”でした。
そういうことでしたか。詳細な解析には頭が下がります。
ということで[52603]において私が、
いや、そんな高尚なものではなく、単に粗っぽいだけでしょ(笑)
と書いたのは明らかに私の事実誤認で、実際には地名の上書きミスでありました。Google Earth関係者の皆様にはお詫び申し上げます。さらなる充実を期待しております~。

さて、本題。
[52805][52729] 般若堂そんぴんさん,[52731]矢作川太郎さん
[52796]じゃごたろさん
…このお題は熱くなりがちですね。どうか冷静に。

 地名の「誤用」について私の意見(というか感想ですね)。地名の間違いというと、たとえば
(1).位置の不一致
(2).範囲の不一致
(3).読みの不一致
といったところでしょうか?とりあえず上記3種類しか思いつかないのですが。ほかにもありましたらどなたか。
 さて、このうち(1)は上述のようにGoogle Earthで見られたような、表記されている位置と実際の位置とのあいだに不一致が生じている場合。さいたま市で待ち合わせるはずがGoogle earthの指すさきたま古墳群あたりに行ってしまったら喧嘩になってしまうかも。
 しかし、この分類も決して絶対的なものではないのはご存知の通り。「さいたま市の範囲はかつての埼玉郡とは違う」といい始めればそれは(2)の範囲の不一致ということになります。このあたりは落書き帳アーカイブス・広域地名の違和感についてにおいて語られております(結論はでません。当然ですけれど)。とはいってもどの範囲までを正当とするのかは、勿論その場所によって違いますし時代によって人間の移動可能な範囲は違いましたから、ここから一定の法則性は成立し得ない、つまり統一的な結論を導き出すことができない、と。結局程度の問題であり一概には決められず、その”程度”は”常識”というものに照らし合わせて妥協する問題に帰結してしまうのでしょうけれど。結局結論は出ないのですが、裏返せばある程度の柔軟性を持ち合わせているといえましょう。 で、もうひとつ(3)のような場合。代表的なものは”漢字表記の揺らぎ”や”清濁の揺らぎ”でしょうか?前者は日本語は音節が少なく同音異義語が多いこと、また漢字の字体による互換性が生じること、後者は日本語では発音においても表記においても濁音清音を厳密には区別していないことから生じるものでしょう。これらが地名の変化をもたらしています。
 東京近辺でも読みが揺らぐ地名がいくつかあると思います。例えば、竹ノ塚=たけのつか/たけのづか([25752])、尾久=おぐ/おく(落書き帳アーカイブズ・どうして尾久駅はつくられたのか? )、江古田=えごた/えこだ([20529])、都内ではないけれど長津田=ながつた/ながつだ([21694])なんかも過去に落書き帳でも話題になっていますね。ときにははっきりさせておかないと違う場所になってしまう場合も。「品川区荏原町(えばら)と中野区江原町(えはら)」、「中野区本町(ほんちょう)と渋谷区本町(ほんまち)[38515] 」、「大島=江東区おおじま/東京都・伊豆おおしま」は間違えないか。
 漢字も揺らぎますね。これもいろいろな例がありますけれど、私の記憶にある話。学生時代のころ、電車通学がイヤで二輪や四輪を愛用しておりました。通学ルートを気分によって変えてみたくなり、行きこそ時間的にそんな余裕はありませんが帰り道を中心にストレス解消もかねて結構な大回りなどして深夜のツーリング等しておりました。まだガソリンがリッター80円くらいだったかな。主に20号線を使っていたのですが時にルートを変えて町田あたりの多摩丘陵を突っ切ったりもしました。そんなときに目に付いた地名が「野津田」。のつだ?あるいはやつだ?と思ったのですが、どうやら青い看板では”Nozuta”と。上述の長津田(私も「ながつだ」だと思っていました)と同じパターンです。もともとこの地名は蔦の生えている「野蔦」・「長蔦」という地名だったようです。それが「蔦→津田」と書き換えられ、やがて漢字につられて「ながつだ」および「のつだ」と読まれるようになっていったご様子。野津田はまだ「のづた」と読むほうが多いようですが、リンク先の町田市役所のハイキングガイドでは"notuda"となっています。
 
 というわけで、地名って言葉と同じでどんどん揺らいでいくものです。そう言ってしまうと元も子もないですが、コレばかりは物理法則などとは異なり大多数が是とすればやがてはそれが事実として固定されていくということです。言い換えてしまえば要するにはだれかが”めくじら”をたてなければ一般的には問題ないということ。たとえば急性虫垂炎を「盲腸」と称しても一般的には問題ないわけです。これを盲腸というのは絶対間違ってる、「盲腸線」(鉄分たっぷりな方には好まれる表現ですよね)を「虫垂線」と呼べ!と拳を振り上げても仕方がないことです。だからといって医師が虫垂炎appendicitisのときに”大腸と小腸との接合部の盲端部分(=盲腸)”をごそっと切除されちゃあたまらない。ここではしっかり盲腸≠虫垂としておかなければならないわけです。
 結論として言いたかったことは、地名には正しいも間違っているもない、ということです。それが魅力なのではないかと思います。

[52798]huzisanさん
 平野と盆地に関するhuzisanさんの書き込み[52706]に関しては、すでにEMMさんが意見表明されています通り、「表記の揺れ」と言うことで扱われています。この件に関してはこれ以上に納得のいく説明はないのではないでしょうか。
それから、[52726][52794]に関しては、私が申し上げるのも僭越ですが、主張において論理性が皆無で、相手と議論をするかたちを為していないのではないでしょうか?論理性なくして議論はできません。議論をしたいのなら論理的に。掲示板には相手が居るわけですから、そのようにするのが最低限の礼儀です。
説明していないのに、説明したように取られるのは間違っています。
というのは自分の説明不足を相手の所為にする発言です。議論において真意が伝わらないのは、すべて自分の説明不足によるものです。これは掲示板だけではなく実社会でも当然のことです。留意しましょう。

※この記述はhuzisanさんの書き込みを制限するものではありません。掲示板という場において、その相手に対して敬意を払って礼儀を重んじて頂きたいのです。相撲でも柔道でも剣道でも相手を尊重する、礼に始まり礼に終わるものです。

少なくとも、あなたの書き込みに対して何名かの方が対応をしています。相手に失礼にならないように誠意ある対応をよろしくお願いします。

☆なんか寝付けないから書き込んでいたら長くなってしまいました。
[53451] 2006年 8月 17日(木)18:44:07【1】hmt さん
たまには地理の範囲を逸脱して天空へ
[53443] JOUTOU さん
太陽系惑星、新たに3個 国際天文学連合が定義案公表(毎日新聞)

新聞記事によると8月24日の全体会議で「承認されるかどうか予断を許さない」(国立天文台)とのことですが、IAUのプレスリリース によると、新しい定義による「惑星 planets」は、水禽地価も九度展開、もとい「水金地火木土天海」という8個の「古典的惑星」の他に、「冥王星族 plutons」と「Celes」とが含まれる総称であり、新たなグループの「プルートン」はさしあたり3個だが、これから増える見込みであるようです。

地球型4惑星とも、木星型4惑星とも明らかに異なる冥王星。
1992年以降に次々と発見されてきたエッジワース・カイパーベルト天体(EKBO)の中から、ついに冥王星よりも大きい2003UB313(愛称?・ゼナXena)が出現するに至って「鼎の軽重を問われる」ことになりました。

冥王星を惑星の定義から外して、8個にすれば事は簡単です。
しかし、1930年の発見以来長い間「planets」の一角を占めてきた冥王星を、おいそれとソデにするわけにもゆかない。
[53446] ハンブルガー さん ご指摘のような考え方をすると、アメリカ人(クライド・トンボー)が発見した唯一の惑星を惑星仲間から追放するなど もってのほか。いっそブラウンのゼナやクリスティーのカロン(1978年発見)ともども3つとも惑星にしてしまえ。

国際天文学連合の定義案に含まれている「セレス」は、19世紀の最初の日(1801年1月1日)の夜に発見されました。
1781年に発見された天王星は、ボーデが紹介(発見はチチウス)した惑星の位置に関する法則が予言する位置にありました。
この法則によると惑星がある筈の火星と木星の間についても探索が行なわれ、イタリア人のピアジが発見したのがこの天体でした。
しかし、この天体は「惑星 planet」と呼ぶのはあまりに小さく(直径913km)、その後発見された同類と共に「小惑星 asteroid」と呼ばれてきたわけです。

その「セレス」が、今回図らずも惑星に昇格?
アメリカ人の発見したプルートン・トリオも惑星とする案のバランスを取るために、ヨーロッパの顔も立てた苦しい定義案になったのでしょうか?
小惑星との間の線引きを直径でなく、「球形」に求めたあたりは苦心の作。

ところで、冥王星型惑星(プルートン)の中で、冥王星とカロンは引力で互いの回りを回る「二重惑星」です。
直径1172kmのカロンが冥王星の衛星でなく、「二重惑星」と位置づけられるとすると、直径3476kmもある「月」も、地球との「二重惑星」であることを認めても良いように思われるのですが、IAUの説明 によると、地球と月とは、互いにその回りを回るの「共通重心 barycentre」が地球表面の下にあるので、「二重惑星」ではなく、「惑星とその衛星」の関係にあるのだそうです。
理由付けはともかく、古くからの観念からして、もちろん「月」は「惑星」と認めるわけにはゆかないのでしょう。
[53466] 2006年 8月 18日(金)02:24:34音無鈴鹿 さん
バナナはおやつに入りますか? 星図は地図に入りますか?
表題。まあ地図といえば地図なんでしょうけれど…

[53446]ハンブルガーさん
それにしても、今回の惑星の新定義案は、アメリカ人の強引さが出ているような感じがするのは、私だけだろうか?
そりゃあアメリカですからねー(笑)。エッジワース・カイパーベルトEdgeworth-Kuiper Beltの名前も二人の天文学者アイルランドのエッジワースEdgeworth KSとアメリカのカイパーKuiper GPにちなんでいたのですが、アメリカの学界における不断の努力(?)の甲斐もあってか今ではすっかりエッジワースの名前は落っこちて専ら「カイパーベルト」ですから。エッジワースはカイパーのみならずオールトの雲でおなじみのオールトOort JHよりもずっと早く、後にEKBOと呼ばれる天体の存在を提唱していたのにね。

[53463]般若堂そんぴんさん
いずれでも可のようですね.

おっと、これは冥王星plutoの読みではなく、
地球型4惑星とも、木星型4惑星とも明らかに異なる
という冥王星とその衛星(と現在は定義される)カロン、それから2003UB313についての「新しい分類」ですねー。
ついでに惑星へと昇格となれば、2003UB313にも正式な名前をつけなければなりませんね。惑星ですから神話にちなんだ名前が与えられるのでしょう。非公式にはXena([53451]hmtさん)なんて呼ばれていますけれど。そのうち日本人が発見して日本神話にちなんだ名前の惑星もできるかも。
 そういえば天皇海山群っていうのがありましたけれど、あれはどういう経緯でそんな名前が付いたのでしょう?名前順とか規則性なさそうだし。もしかして宗谷海峡(La Perouse Strait)や間宮海峡(Tatar Strait)みたいに日本独自にそう呼んでるとか?

[53430]星野彼方さん
大阪桐蔭高校の校歌中に出てくる「大和平野」は生駒山の奈良側の盆地部分のことではなく、生駒山と上町台地の間にある旧大和川流域の平地部分のことではないか
それはちょっと難しそうですね。
歌詞を見てみると…「松風が、大和平野に聳え立つ生駒山から山麓に」と見えます。
これを見て思い出したのは羽田発伊丹行きの飛行ルート。名張上空あたりからゆっくりと降下を開始した旅客機は奈良県上空から生駒山を掠めるように大阪平野へと進入し、着陸態勢に入りながら大阪市の上空をゆったりと飛行します。飛行機から見れば生駒山はやはり大和平野に鎮座しているように見えるのではないでしょうか。作詞者の方も実はこの「松風飛行ルート」を参考にしていたのかも知れないと妄想してみましたが、いかがでしょう?

そして
[53465]いっちゃんさん
そういえば[41164]なんてミニクイズがありましたねー。
[53501] 2006年 8月 19日(土)21:53:44hmt さん
「デトロイト天皇」という名は、さすがに聞いたことがない
[53466] 2006 年 8 月 18 日 (金) 02:24:34 音無鈴鹿 さん
そういえば天皇海山群っていうのがありましたけれど、あれはどういう経緯でそんな名前が付いたのでしょう?名前順とか規則性なさそうだし。

ホットスポットの上にある活火山の島ハワイ。古い火山の痕跡は、活動をやめた後でプレートの動きに乗って西に進み、少しずつ海に沈んでゆきます。ミッドウエー島から先は海上に突き出た島はなくなりますが、頂上が海面付近にあった時に侵食されて平らになった平頂海山(ギヨーGuyot)の列は、更に沈みながら海面下に続きます(ハワイ海山列)。

この平頂海山の列が、日付変更線を越した東経170度あたりから向きを北寄りに変えて、カムチャツカの方を目指します。
http://highered.mcgraw-hill.com/sites/dl/free/0072402466/30425/VirtualVista1702.jpg アメリカのH.ヘスがこれを発見したのが1942年というから、ミッドウエー海戦の年です。
それぞれの海山に雄略、欽明、仁徳、推古など天皇の名を付けたのもアメリカの地質学者ディーツRobert S. Dietz で、1954年のことでした。そのために、天皇海山列(天皇海山群)と呼ばれます。

現在の地図に即した「地理的な説明」だとこうなりますが、「地球史的な説明」をすれば、天皇海山列のできた時代には北寄りに向かっていたプレート運動が、4000万年前頃に西寄りに変わり、その後ハワイ海山列が生まれたということになります(Morganの仮説1972)。
4000万年前頃にどんな事件があって、プレート運動の向きが変わったのか?
インド大陸がユーラシア大陸に衝突した影響とか、古いスラブが下部マントルに落下したためとか、諸説があるようです。

南から北へと続く海山の名を見ると、50「桓武海山」に始まって、29欽明、21雄略、58光孝、15応神、神功、16仁徳、33推古、1神武、38天智と続きます。(数字は参考までに付け加えた天皇の代数です。)
天智海山の北に何故か「デトロイト海山」。そして締めくくりが122「明治海山」。確かに規則性が不明ですね。

神功(じんぐう)皇后も125代の中には入っていませんが、実質的には14代と15代の間の天皇でした。しかし、「デトロイト天皇」の名は、さすがに聞いたことがありません。アメリカ人のやることは不可解。

天皇海山列の後、同じようなシリーズものの海山名が生まれています。
1983年以来、海上保安庁は日本周辺海域の詳細な海底地形の調査を行ない、約300個の海山や海底谷を発見しました。
2001年に、これらの海底地形に関して、日本の命名したグループ化地名が、国際的に推進されているGEBCO(大洋水深総図)事業の会議で高く評価され、承認されたとのことです。
海山群の名称(海山名の一例)を記しておきます。

太陰暦海山群(睦月海山)、七曜海山列(日曜海山)、秋の七草海山群(はぎ海山)、春の七草海山群(せり海山)、長寿海山群(還暦海山)、西海道海山列(筑前海山)、天の川海山群(連星海山)、七夕海山群(織姫海山)
興味があれば、水路部海洋情報課の発表 をご覧ください。

海山ではなくて ちゃんとした島ですが、かつて日本の委任統治領だった南洋群島のトラック諸島には、四季諸島(夏島・春島・秋島・冬島)や七曜諸島(日曜島・月曜島・…・土曜島)というシリーズ地名の島々がありました。[35703]

蛇足
海山のことを調べていたら、幻の日本最東端の島 (サンズイのない)「中ノ鳥島」[26266]続編 が出ているのを見つけました。
近くに(と言っても100kmも離れているが)マカロフ海山というのがあるようですが、これと結びつけるのはやはり無理でしょう。
[53673] 2006年 8月 29日(火)13:48:42音無鈴鹿 さん
オフ会のことなど
こんにちは、ちょっと遅い昼休みの音無です。

きのうメールチェックしたところオフ会の案内が。年いち開催だとそろそろだとは思っていたのですが、なんと日程が9月30日!!
既に仕事の予定が入っています。羽田には居るのですが、残念ながら小松へ向かって飛び発つことは許されない模様。…というわけで残念ながら不参加です。
金沢行きたかったのになー。

[53501] hmtさん
天皇海山列についてよくわかりました。ありがとうございます。

それぞれの海山に雄略、欽明、仁徳、推古など天皇の名を付けたのもアメリカの地質学者ディーツRobert S. Dietz で
世界共通なんですね。でも
しかし、「デトロイト天皇」の名は、さすがに聞いたことがありません。アメリカ人のやることは不可解。
どうせやるならそういう規則性は徹底してほしいですね、と思ってしまうのは日本人だからなのか、はたまた私の職業病なのでしょうか?
これらの海底地形に関して、日本の命名したグループ化地名が、国際的に推進されているGEBCO(大洋水深総図)事業の会議で高く評価され、承認されたとのことです。
とはいえ体系的ネーミングが高い評価を受けるのは喜ばしいですね。

そして。
[53467] KMKZさん
イザナキ、イザナミ、アマテラス、スサノオなど日本神話の神の名にちなんだ小惑星がありますが
もう存在していたのですね。惑星名に使えそうな一流どころの神様はもう小惑星名にあるから、日本神話惑星の夢は絶たれたも同然…と思いきや冥王星まで惑星の座から陥落([53604]
)してしまったとは。

そしてまたひとつ悲しいお知らせ。
[53597] みかちゅうさん
高速バスの休憩の際にSAやPAで無料配布の道路地図を手に入れるのが楽しみだったのですが、道路公団民営化に伴って配布をやめたようですね。スタンプも楽しみだったのに…。
はうっ。
どうやら4月1日付けで、サービスエリア管理団体の「道路サービス機構」(J-SAPA)と「ハイウェイ交流センター}(ハロースクエア)はネクセリア(株)という関連企業に衣替えしたみたいですね。で、地図のほうも衣替え。
先日関越道の三芳PAに立ち寄ったときに、確かに地図がなく、代わりにHighway Walker(ハイウェイウォーカー)なる情報誌が置いてありました。なんか○○ウォーカーそっくりだなー。悲しいかな申し訳ない程度の地図よりもにっこり笑顔の長澤まさみさんのほうが大きいなんて…。で、地図目的ではなく目の保養のためにお持ち帰りしたのはいうまでもありません。
遅い時間だったから地図がないのかと思っていたのに…まさか廃止だなんて。
[56491] 2007年 1月 28日(日)14:22:08【3】hmt さん
長瀞・寄居付近
[56459]で戦時合併した埼玉県美野町の解体手続きに触れましたが、この美野町が成立した1943年9月8日は、先に話題になった 桜沢村の寄居町への編入 と同日です。
つまり、荒川が秩父山地から関東平野へと流れ出るあたりで、この日に3件の戦時合併があったのです。

秩父郡皆野町、三沢村、国神村、金沢村、日野沢村、大田村、それに 白鳥村下田野 が合体して美野町成立。
秩父郡樋口村と白鳥村の大字岩田・大字井戸・大字風布の一部分が 野上町 に編入
大里郡桜沢村と秩父郡白鳥村大字金尾・大字風布の大部分が 大里郡寄居町 に編入

上記のように3分割されて消滅した白鳥村。名前の由来は、国指定名称「長瀞」の「白鳥島」 ですね。
見事な結晶片岩の露頭で有名な長瀞の右岸、観光客の視線で言うと「対岸」の山塊が白鳥村で、荒川はその山麓を北に回って寄居に出ます。

この白鳥村は、東斜面が 寄居町に、尾根を隔てた長瀞側の西斜面が 野上町(現・長瀞町)に、そして釜伏山の南西が 上流側に隣接する皆野町を中心として新設された美野町へと3分割されたわけです。
もともと山で隔てられた地形ですから、これが自然の成り行きと言えるでしょう。白鳥村の金尾・風布からも分村編入の陳情書が出ていました。言い換えれば、明治22年の町村制に際して作られた白鳥村は、かなり不自然な存在だったということでしょう。

桜沢村の件は[56265] Issie さんにある通りで、4度目の合併話でようやく実現しました。

最初、明治の町村制施行にあたっては、郡長の寄居合併試案に対して、地形・民情の相違が認められて独立で村制(1889年、当時は榛沢郡)。

2度目、日露戦争後の1908年に提出された合併案が内務大臣の許可を得られず不成立に終わった原因が 「基本財産問題」 にあったことも既に紹介されています。

寄居町が桜沢村と合併しても新・寄居町の基本財産が増えるわけでなく(←このあたりの理屈が今一つ理解できないのですが),これを問題とした内務大臣(←原敬でした)が合併の許可を与えず
と、すっきりしないようなので、もう一度問題を整理してみます。

要するに内務省としては、桜沢村の大字有林を基本財産に吸収して、町村財政の強化を図る目論見であったのに対して、桜沢村としては、こちらが山林を出すなら、寄居町は土地に代る金銭を拠出してこそ対等合併だと主張。

間に立った郡や県が、桜沢村所有の山林の権利を地元に残す形で調整を図った結果が、1908年の合併申請だったが、これが内務省の意向に沿わなかったために不許可に終わったということでしょう。
…若シ大字有土地ヲ新寄居町有ト為サゝレハ合併不許可相成次第ニモ候ハゝ甚ダ遺憾千万ノ儀ニ候得共…
(明治41年9月大里郡長より埼玉県内務部長への申報)

3度目の合併話は大正末期、鉄道を巡る感情的なしこりが失敗の原因になったようです。
坂戸町から高崎への計画線を寄居までに縮めて工事中だった東上線は、1923年(大正12年)11月に小川町までが開通し、1924年末という竣工期限には間に合わなかったものの、1925年7月に秩父鉄道寄居駅に乗り入れを果たしました。
実はそれよりも前、東上線乗り入れ駅の誘致を巡って、寄居町と桜沢村との競り合いがあり、その時の行きがかり上、桜沢村民は寄居との合併に反対する空気が強く、寄居町も断念に至ったと新聞は伝えています(東京朝日埼玉版1925/9/13)。

そして4度目が昭和18年の戦時合併。この時は有無を言わせず合併になったのでしょう。
日付については、前記白鳥村の3分割と同日、1943年9月8日ということになりました。
戦後は、美野町のように解体することもなく無事でした。

【追記】
寄居町風布(ふっぷ)の「北限のみかん」というキャッチフレーズを耳にしたのは ずいぶん前のこと。
最近は事情が変わっているかと調べてみたら、筑波山西麓のみかん園 の方が少し北のようです。常陸太田市のジュース工場 にも実をつける木があるらしいが、これは「産地」とは言えないか。
更に、「国見の里 みかんの実る 北限地」 というのもありました。那須烏山市のみかん園
【更に追記】
[56514] 音無鈴鹿さん から「福島県のみかん」を紹介していただきました。写真を見ると、立派に実っていますね。
[56514] 2007年 1月 29日(月)02:32:08音無鈴鹿 さん
駅弁とお茶とみかん
こんばんは、音無です。
そういえばお茶とみかんのような自分色…。

[56453]かすみさん
この水曜日から阪神百貨店で始まっている「有名駅弁とうまいもんまつり」でわたしもお祭り気分です。(爆)
あー阪神百貨店でもこの企画やってるんですね。関東では京王百貨店のそれが今年で42回の開催を数える年初の名物企画となっています。阪神百貨店のほうは京王百貨店と業務提携している関係ではじまったのでしょうか?業務提携としては、阪神タイガースの公式グッズ売場を設けたり(関東ではここだけ?)、優勝したときには優勝セールもやりました。

それから。
みなさんのお気に入りはどこのどんな駅弁ですか?
私のお気に入りは千葉駅の「はまぐり丼」です。アサリ出汁の薄味ご飯の上には、濃口醤油で甘く煮付けられたハマグリと、それと対照的に薄味で仕上げられたサザエが載る。はまぐり型陶器がかわいらしい(重いですが)なかなかの逸品。そのほかは横川の「峠の釜飯」も昔はよく食べましたが最近は信越方面へいくこともなくすっかりご無沙汰です。そのかわり最近は関西に行くことが多くなり、ここでは明石の「ひっぱりたこ飯」を贔屓にしています。

[56479]スナフキんさん
現地で買ったとっておきの弁当は、アクシデントに見舞われることも多く困りもの。
電車って想像以上に揺れますからね。レールの上なんだからもう少し静かに走れないものなのかしら?で、私は、山陰にいったとき([55524])米子駅で購入した吾左衛門寿司という高額商品が大変活きがよかったらしく、特急やくも車内で元気に跳躍してしまいましたとさ。

[56486]なると金時さん
ますのすし同様一人で食べるのには適しませんなあ。
「ますのすし」は確かに独り向けではないですねー。私も学生のころ、朝いちで買ったはいいけど食べ切れず、残りはお昼に食べたことがあります。独り身には量が多すぎです。ミニミニサイズとか作ってくれればいいのに。昨今は駅弁の物価が高うございまして…。

そして地球温暖化??
[56491]hmtさん
北限のみかん
温州みかんCitrus unshiuの栽培北限は、年平均気温15℃かつ最寒月の平均最低気温が5℃を下回らないこととされているのですが、地球温暖化ってやつの影響なのでしょうか?ついに東北地方、福島県までみかんが育つようになってきてるんですね。福島県広野町は浜通りの海沿いだから温暖なのでしょうか?ウンシュウミカンは柑橘類の中ではもっとも低温に強い品種ですが、それでも東北とは。さて、みかんとほぼ同じ北限をもつお茶Camellia sinensis(栽培北限は年平均気温11℃とされる)のほうはどうかと検索しましたら、新潟県の村上あたりで村上茶というものがあるんですねー。こちらは寛永の頃には栽培が始まっていたというので必ずしも温暖化とはいえないかもです。

駅弁のお茶も素焼きの器からいまやプラボトルになり、今ではペットボトルが全盛。旅行のおやつの代表格であった冷凍みかんなんていうものも、このところあまりお見かけしなくなりました。
[57214] 2007年 3月 8日(木)17:04:15【1】hmt さん
初飛行の地(2)代々木初飛行の1年前に 上野の不忍池で日本製のグライダーが初飛行
気球や飛行船はさておき、「空気よりも重い飛行機械」においても、1853年には、ケイリー卿 Sir George Cayley による有人滑空飛行が実施されました[47496]。場所は、イギリスのヨークシャー州、スカボロー近くの彼の領地でしょう。
この時、単葉グライダーに乗せられた大人は、ケイリー卿の馬車の御者で、“私の仕事は馬を操ることで、空を飛ぶことではない”と哀訴した話が伝えられています。
1849年には少年を乗せた「制御可能なパラシュート」(三葉グライダー)を飛ばしているとか。

この1853年の実機テストは、ケイリー卿79歳の晩年の話ですが、仰角のある固定主翼と調節可能な尾翼とを備えた最初の模型は、はるかに早い時期の1804年に作られています。
1809年には、“空気の抵抗に打ち勝つことのできる動力を用い、固定した翼面に働く揚力によって重量を支えること、これが問題のすべてだ”と飛行の原理を明確に認識しています。

ケイリーの説に基づいて、1840年に「空中蒸気車」を設計した人もいました。もちろん実現はしませんでしたが、日本の蘭学者も図面だけは見ていました。
ケイリー自身は重い蒸気機関を飛行機に乗せるのは無理なことを承知していましたが、このような野心家の動きが、長らく中断していたケイリーの飛行研究を復活させ、有人滑空飛行をもたらしたようです。

実は、ケイリーが飛行機から遠ざかっていた間に、最初に滑空したグライダーがフランスにありました。
ル・ブリ Jean Marie Le Bris が作った「人造アルバトロス」 がそれで、パイロットはル・ブリ本人でしたが、ここでも牽引用馬車の御者が吊り上げられるという御難に遭ったそうです。

そして、日本最初のグライダー飛行は、代々木で動力飛行よりちょうど1年前の 1909年12月、場所は上野・不忍池西側でした。
「江戸明治東京重ね地図」 [56611] (3月15日までなら古地図で東京めぐり でも OK)によって明治40年頃の不忍池を見ると、20~30m幅の草地が回りを一周しています。1884~1893年に「不忍馬見場」と呼ばれたコースの跡です(馬券とは無関係)。

グライダーを作って飛ばしたのは、フランス大使館付武官で通訳候補生の ル・プリウール Yves Paul Gaston Le Prieur。彼が田中館愛橘・相原四郎と協力した初飛行の物語は、村岡正明:航空事始 に詳しく紹介されています。

ケイリーの飛行理論が世に知られ、飛行機が手に届きそうになった19世紀後半のヨーロッパに戻ります。

ともかくも空気抵抗に打ち勝つ動力源を探して離陸することが先決と考える人々もいました。しかし、彼らの飛行機はジャンプするのが精一杯。

一方では、動力の問題は後回しにして、安定性や操縦性を無動力のグライダーで実地に研究しようとする人もいました。
その代表格がリリエンタール Otto Lilienthal で、ベルリンの郊外で 15タイプのグライダーによる試験飛行は、2500回に及びました。失速に備えて尾翼の操作を改良した新型機を作りましたが、新しい操縦法を会得する前に1896年に墜落死しました。

しかし、このリリエンタールの道を受け継ぎ、その飛行データを参照し、風洞実験に基づいて製作したグライダーによる実験を重ね、自ら12馬力ガソリン機関を製作して動力飛行を実現したのがライト兄弟でした。

なお、ライト兄弟と同時期に本命視されていたラングレー Samuel Pierpont Langley の飛行機は、ポトマック川の水上でのカタパルト発射でテストされましたが、制御に失敗して墜落しました。後にカーチスが復元して飛行可能であったことを立証しました。

ところで、ガソリン機関発明(1883 ダイムラー)よりも前、さしあたり利用できる軽い動力源はねじったゴム紐でした。

アマゾン流域に自生していた天然ゴムの樹脂を大改良して、強靭な弾性体に変えたのは、1839の冬にグッドイヤー Charles Goodyear が偶然発見した加硫法(硫黄による架橋法)です。これをハンコックが工業技術として確立したのは1843年。
余談ですが、グッドイヤー社の名前は彼の功績を讃えるものですが、借金を抱えて死んだ本人とも、その家族とも無関係な会社です。

1871年にフランスのペノー Alphonse Penaud は、自力で飛べるゴム動力の模型単葉機を作り、パリ・テュイルリー宮殿の庭60mを安定して飛行しました。もちろんまだ有人飛行は実現しませんが、1876年には多くのアイディアを盛り込んだ2人乗り水陸両用単葉機の設計に進んでいます。

ゴム動力の模型飛行機と言えば、丸亀連隊の看護卒・二宮忠八が、固定翼模型の飛行実験に成功したのが明治24年(1891)ですから、ペノーの20年後です。場所は丸亀練兵場でした。
彼の「軍用飛行機発明顛末」(1926)には、“前部の空気に抵抗する仰角翼を付し後部に推進力を施すの装置ある機体を用ふれば人体といえども空中飛行可能なるを発見”と記され、ケイリーの論文を思い出させます。

二宮忠八は、その後、玉虫型足踏み式人力機の実用化も構想し、日清戦争時に、長岡外史将軍に「軍用飛行器考案之儀ニ付上申」を送ったが却下されました。長岡は後に不明を詫びています。
[57218] 2007年 3月 8日(木)20:26:09【2】音無鈴鹿 さん
日本最初のグライダー飛行
[57214] hmtさん
日本最初のグライダー飛行
「日本最初の」というと、江戸時代に岡山の城下をグライダーで滑空した人物が居たという話を聞いたことがあります。奇行により世間を騒がせたという理由で死罪になったとか。
-----

調べてみました。岡山市役所によると表具師の浮田幸吉という人物(県庁のほうでは姓なしの幸吉となっています)が、1785年(天明5年)の夏に世界初のグライダー飛行をしたとあります。もともと藩お抱えの腕利き表具師だったようですが、大空を飛びたい~と人力飛行を試みてしまったと。
 かれは、鳥(ハトらしいですが)の翼と胴の長さ・重さを測定し、それをもとに人間が飛行(滑空)可能な翼長の羽根を設計したとのこと。製作されたのは胴長約2メ-トル、翼長約5メ-トルのグライダ-で、竹で作った骨格に和紙を張り付けるという技術は表具師の技を最大限に活用したものですね。グライダーの見た目はモデルとなった鳩にそっくりだったとか。早速その作品身にまとい、岡山の旭川に架かる京橋の上から滑空。飛行時間は約10秒ながら、風にあおられたのか距離およそ40~50メートルほど飛んで落下したとのこと。その騒ぎが元で岡山藩を追放(所払い)されたということで、上記の死罪というのは誤りでした。
かれの飛行が事実ならば、ジョージ・ケイリー卿のグライダーよりも早い、世界初の滑空飛行ということになります。いやはや江戸時代はわれわれが想像する以上に先進的なこともある時代だったのかもしれません。

※記憶をもとに中途半端なことを書いたので、後半部分を追加しました。
[57225] 2007年 3月 9日(金)16:47:40【1】hmt さん
伝説の鳥人
[57218] 音無鈴鹿 さん
表具師の浮田幸吉という人物が、1785年(天明5年)の夏に世界初のグライダー飛行をしたとあります。

クレタ王ミノスのために迷宮ラビリントスを作った名工のダイダロス。
息子と共に塔に幽閉されてしまったが、鳥の羽根を蝋(膠?)で固めた翼を作り脱出。しかし、父の注意を忘れた息子のイカロスは、太陽に近づき過ぎ、蝋が融けて墜落死したというギリシャ神話。

古代から、人は鳥の飛ぶ姿にあこがれ、鳥をまねて空を飛ぼうとしました。世界各地に多数の伝説があるようです。

それはさておき
表具屋の幸吉の話となると、比較的新しい事例だけに、ある程度の史実に基づいているのでしょうが、菅茶山「筆のすさび」 に記されているように鳩を真似したのだとすると、滑空よりも「はばたき」を狙った飛行機のように思われます。

備前岡山表具師幸吉といふもの、一鳩をとらへてその身の軽重羽翼の長短を計り、我身の重さをかけ比べて自ら羽翼を製し、機を設けて胸の前にて操りうちて飛行す。地より直ぐに揚がることあたわず、上よりはうちていづ。(機巧)

“胸の前にて操りうちて”、つまり「はばたき」とすると、まずパワー不足。おそらく、橋の上から「落ちた」のに近い状態と推測されるのですが、翼のおかげで少しは滑空した程度?
幸吉さんの「飛行」は、残念ながら「翼の揚力が機体の重量を定常的に支えていて、なおかつパイロットが自分の意のままに機体を操れる状態」[57213]からは程遠かったものと思われます。

…と否定的なコメントを書きながらも調べてみると、小松秀二さんの 「鳥人幸吉伝」 の存在を知りました。

これによると、最初は鳩をモデルにした「はばたき」式を試みたものの(第5話)、風に向かう鳶の翼の揚力に気が付き(第6話)、天明5年(1785)8月21日の滑空に成功しました(第7話)。10秒程度とは言え、操縦可能な飛行が実現していたようですね。

これはご紹介いただいたサイトにもありましたが、岡山を所払いになった後、駿府で入れ歯師として評判になったが、またも「フライング」をしでかし(第10話)、遠州見附に移ったとか。

1997年には、旧岡山藩主池田家の現当主によって幸吉の所払いが許されて名誉回復し、故郷の玉野市八浜で「本村戻り式」が行なわれたそうです。めでたしめでたし。

同じ時代の琉球では、「飛び安里」こと安里周祥という花火師も空を飛んだと伝えられています(1787年)。
こちらは イラスト からすると、幸吉の話のような現実性はなく、眉唾ものと思われますが、足踏の弓の弦により翼を羽ばたく人力飛行機で、明治時代まで詳しい設計図が残されていたと伝えられます。

これより後にも 江戸時代の発明家たち の人力飛行への挑戦は続きます。
寛政年間には羽後の農夫が羽ばたき機で200mを飛行、天保年間に伯耆国郡山市場の三刀屋某が松の木から飛んで負傷、同じく天保年間に伊勢久居の住人が羽ばたき機で飛んでお咎め、更には三河国御油町の戸田太郎太夫が飛行したが墜落、その他肥前の唐津、上総国久留里にも飛行伝説。
知られざる探険家・表具屋幸吉と安里周祥 により補足)

ついでに…
(県庁のほうでは姓なしの幸吉となっています)

[32084] KMKZ さん が次のように記されています。
江戸時代の「苗字帯刀」は誤解されているのですが、苗字帯刀の「苗字」とは苗字の公称(公式の場での苗字の使用)を許すという意味で、苗字帯刀を許されていなくても苗字を私称するのは許されていました。
伊能忠敬の略年譜からの抜粋(省略)
この年表でわかるように伊能忠敬は苗字帯刀を許される前から"伊能"忠敬なんです。しかも津田氏(地方役人)と幕府から2回も苗字帯刀を許されている。
[54421] 2006年 10月 13日(金)19:47:08hmt さん
神奈川・横浜(4)県域の変遷
神奈川宿から海を隔てた横浜村の砂洲の上に造成された開港場[54351]、開港場を見下ろす丘の上に設けられた戸部役所[54388]、その神奈川奉行所が慶応4年に新政府に移管された後、慌しく何度かの改名を経て明治元年(1868)9月21日に「神奈川県」と改称され、現在に続く名前が生まれました。

今回は、開港場・横浜の外国人と深い関係にあった「神奈川県」の管轄区域の変遷を振りかえります。

[54415]で紹介した「横浜周辺外国人遊歩区域図」
この区画、現在の「神奈川県」の管轄区域と似ているようでもあり、違うようでもあり…

発足当初の神奈川県の管轄区域は、この外国人遊歩区域内の旧幕府領・旗本領を引き継いだものでした。
遊歩区域内には、武蔵金沢の六浦藩、相模の荻野山中藩、その他諸藩の飛び地が存在し、神奈川県管内図は虫食い状態でした。その一例である高座郡の状態が、Issieさんのページ の中で詳細に紹介されています。

この虫食い状態は、廃藩置県後の明治4年(1871)11月、旧藩領だった六浦県及び各県の飛び地が神奈川県になって解消されました。しかし、11月14日の(第1次府県統合) 太政官布告 では、武蔵国多摩郡と相模国高座郡とは神奈川県に含まれていませんでした。
これに対して神奈川県は、外国人遊歩区域に含まれる多摩郡と高座郡とは、従前通り神奈川県の管轄区域であるべきとする上申書を提出しました。

この上申が認められた結果、神奈川県の区域は多摩川以北の多摩郡にも拡がりました。
一方、相模川から酒匂川の間は足柄県になっており、県域は外国人遊歩区域と比べて少し北東にずれてくることになりました。
なお、多摩川以北の多摩郡のうち、東京市街地の西に隣接する地域は、明治5年(1872)8月に東京府に移管されました(後に東多摩郡→豊多摩郡の一部→中野区・杉並区になった部分)。

神奈川県の管轄区域は、第2次府県統合(明治9年4月)によって足柄県(伊豆国を除く)を併せ、相模国全域と武蔵国4郡(多摩郡の分割後は6郡)に拡大し、最大の領域になりました。

しかし、明治26年(1893)に至り、神奈川開港以来横浜と密接な関係にあった多摩川以南(南多摩郡)を含む三多摩を失います。

[33700] Issie さん
北・西多摩郡はともかく,南多摩郡の東京府移管については,(中略)自由民権運動の盛んな地域であったことがしばしば指摘されています。
やはり神奈川県にとって,南多摩郡を失ったことは返す返すも残念なことだったかもしれないなあ,と思ったりもします。

東京の水源確保関連では、既に1881年に玉川上水の左右十数尺の東京府移管が合意されました。
その後も、コレラ流行に端を発する上水汚濁取締強化のための北多摩郡・西多摩郡移管上申(明治19年=1886)があり、甲武鉄道開通の翌年(1890)には、住民からの北多摩郡・西多摩郡管轄替の建白も出されていました。この段階まではいずれも両多摩移管案です。
南多摩郡を含む三多摩の東京府移管上申は、明治25年(1892)9月に東京府知事から出されたものですが、これは既に神奈川県知事の積極的な合意を得ていたものでした。

南多摩郡は、生糸貿易の横浜との関係が深い繭・生糸の集散地である八王子や原町田を含み、県の財政にも重大な影響があります。それにもかかわらず、南多摩郡を東京府に移管することに神奈川県知事(内海忠勝)が賛成したことは、たしかに異常なことでありました。

その背景としては、1892年の「大干渉選挙」で罷免要求を突き付けられていた内海による、南多摩自由党に対する報復的措置と伝えられています。三多摩移管の政治的背景参照。
[57304] 2007年 3月 17日(土)01:01:30【1】音無鈴鹿 さん
世の中に三多摩移管のなかりせば…
こんばんは、音無です。

しばらく暖かな陽気の日々が続いておりましたが、ここへ来て寒のもどり。皆様いかがお過ごしでしょうか?先日、新宿中央公園を通りましたところ、池のほとりで早くもオスのガマガエルがのそのそと集合していたのですが、その後すっかり寒くなってどうなったやら。繁殖失敗でしょうか?
気象庁発表の桜の開花予想は、なにやら計算式が間違っていたそうで訂正されています。

さて。
先週末3月11日づけで巨大相模原市が誕生しました。居住者ではないのであまり実感がなかったのですが、
[57277]geoさん
中央本線の神奈川区間が相模原市とはちょっと違和感が
とのこと。考えてみればいつの間にか八王子市と相模原市が接触してたんですね。その一方で相模原くんと町田さんとの恋はいまだかなわず。「ああ町田さん、あなたはどうして東京都なの?」恋仲の二人を引き裂くのは都県境というお家の事情。それは武相国境時代からの長い長い因縁なのでしょうか?そんな二人にも結ばれるチャンスがあったのに。嗚呼あの時…

[57220] Issieさん
「あの時!」,“三多摩移管”などと言わず,南多摩郡だけでも神奈川県に残っていれば,「神奈川県町田市」と相模原市の合併へのハードルは今よりもずっと低かったでしょうにね。

一度は同じ屋根の下”同棲”をしていた二人を引き裂いた三多摩移管。返す返すも口惜しい。
既に落書き帳でも話題になっておりますが、玉川上水の水源管理が目的であれば西多摩郡と北多摩郡だけで目的を果たすには充分であり、南多摩郡は移管せずともよかったはずなのですが。その政治的な背景に関しては、すでに触れられております通り、
「南多摩自由党に対する報復的措置と伝えられ」([54421]hmtさん)
「南多摩郡の東京府移管については,この地域が比較的高度に商業化した養蚕・製糸・絹産業の発展を背景に自由民権運動の盛んな地域であったことがしばしば指摘され」([33700]Issieさん)
と、自由民権運動との関連が指摘されています。

妄想しても仕方がないのですが、もし東京都へ移管されたのが「北西両多摩」だけだったなら、南多摩郡あるいは神奈川県はどうなっていたでしょうか?八王子市は神奈川県北の中心都市として発展していたであろうことはほぼ間違いなく、逆にいま東京都多摩地域の中心都市となりつつある立川市は、逆に現状よりは発展していなかった可能性があります。
そして南多摩郡の多摩丘陵で行われた最大の開発事業である多摩ニュータウン(事業主は東京都・都住宅供給公社と住都公団ですね)はできなかったかもしれません。なんらかの違った形で宅地開発されたでしょうが、計画人口35万人(結果は計画半分強の20万人程度で開発終了なのですが)の一大都市計画もなかったでしょう。考えれば考える(妄想ですが)ほど、三多摩移管は、神奈川県にとっては最大の失政…といっては言いすぎでしょうが、結果としては「痛恨のタイムリーエラー」であったのかもしれません。そしてそれは同時に多摩地域もいえることでしょうか。東京都という自治体の性格(東京府+東京市)もあいまって、東京都という領域内において、多摩地区は都市基盤の整備状況では400万人の人口を抱える地域としては決して恵まれた状況ではなく、都内(800万人)に対して、すくなくとも33%のエフォートを配分されてはいないようです。
…少し妄想が過ぎましたでしょうか?

そして思うこといろいろ。
[57288]ペーロケさん
かのサイトは大体当たっていますが、結構ウソが含まれていますからね。私は参考程度にしか考えておりません。
まったく同意いたします。
 誰でも記事を投稿したり編集したりすることが出来るというのは、多数の人間の意見が集約されるから公平かつ正確になるのでは~と誤解されがちです。学術論文等の審査においては、査読Peer Reviewというシステムが広く採用されています。これは論文を執筆した研究者やグループが導き出した実験結果あるいはその解釈の評価について同分野あるいは関連分野の研究者に判断させることで、間違いや語解釈を防止するものです。学術論文ではなくても、文章を書き出版という作業のなかで記事の校正という作業は何らかの形で必ずといっていいほど行われているはずです(私はこの業界でどうしているか詳細は存じ上げませんが)。そして誤りあるいは虚偽があれば文責者は相応の責任は免れません。しかしながら、この数年でインターネットの普及により誰もが自由に表現できるようになりました。それに加え検索システムも年々進歩していますから、単独あるいは少数のキーワードの入力により検索者が要求する情報を瞬時にして得られるようになってきています。それゆえに検索されて表示されてきた文章について、果たしてそれが正確なものである可能性はむしろ低下しているのではないでしょうか?当該文章が公正に記述されたものであり信頼度の高い情報であるかどうかまでは、検索システムは評価・判断してはくれません。基本として数多くリンクされているものを検索上位にするので、多数の虚偽情報により少数の正確な情報が検索から漏れてしまう、まさに悪貨が良貨を駆逐する事態が起こりうるわけです(有名なのは「売国新聞」と検索すると…なんてのもあります)。私の周りでも、明らかにネットで検索してあきらかにそのまま”コピペ”(=copy and paste)した文章をレポートとして平然と提出してきたりする学生さんとかいますから。
 他者のデータ等を使用するなとは言いません。知識の共有や次世代への伝達は、人間にとっての世代を超えた情報伝達を可能とする”もうひとつの遺伝情報”ですから。ただ、ちゃんとどこの何を引用したと明記し、その情報の正確さを保障するとともに、著作者に敬意を払わなければいけません。それと折角ですから、ただデータを羅列するのではなく、ぜひその内容に対する意見や見解を付け加えていただければ幸いなのですが。(この部分[57177]における白桃さんのご意見に対する返答でもあります。)
自戒を含めて書きとめておきたいと思います。

[57225] hmtさん
なんか茶々を入れるようになってしまい恐縮です。
残念ながら「翼の揚力が機体の重量を定常的に支えていて、なおかつパイロットが自分の意のままに機体を操れる状態」からは程遠かったものと思われます。
やはりそうなりますか。落下の速度を緩和したという程度で随意操縦にはならなかったのでしょうね。ほか名字帯刀に関してもフォローくださりありがとうございます。

※訂正
八王子市と相模原市は、2006年の相模原市と相模湖町・城山町を合併の時点ですでに接触していましたね。訂正いたします。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示