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落書き帳

Google Earthに使われた地名(hmtさん)

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[52674] 2006年 7月 25日(火)23:07:14hmt さん
Google Earthに使われた地名(1)芥川
[52603] 音無鈴鹿 さん
高槻市が"Akutagawa"に!! これは西国街道の摂津芥川宿ですね。

西国街道(山崎通)が淀川の支流・芥川と交差する地点の東詰を中心に形成された芥川宿。
この名を引き継いだ大阪府三島郡「芥川村」は、1931年に高槻町と合併するまで存在していました。
# 同時に合併した芥川町というのもあったのですが、これは1929年に清水村が改名したもの。

元亀・天正の頃の切支丹大名・高山右近から江戸時代の永井家へと伝統ある城下町の高槻は、芥川のすぐ下流側。
1920年高槻町の人口は3897人で、芥川村は2816人。

…というわけで、「芥川」という地名は江戸時代まで遡らなくても存在していたわけですが、芥川宿の近くに明治9年(1876)に開業した鉄道の駅が「高槻駅」だったことからも、昔から「高槻」のネームバリューが上だったことがうかがえます。

Google Earthの地名に対する疑問と言えば、"Akutagawa"と記されているポイントは、交差点名「城東町」が示している通り、高槻寄りです。逆に、“takatsuki japan”で検索して示されるポイントは芥川寄り。どうも逆転している様子。

以前に話題になった新潟の「焼島潟」に関して、[42842] EMM さんが
もしかしたら、Google Earthを制作したKeyhole社が使用した日本の自然地形名の資料が古いものだから、と言うことではないかと思うのですが、いかがでしょうか??
と発言されていますが、自然地形名に限らず、都市名についても“資料が古い”疑いがあります。

そこで、 全国的に整備された「古い地図資料」の第1号とも言える、「揖製二十万分一図」と、Google Earthの地名とを比較してみました。この図は、明治19~24年(1886-1891)に参謀本部陸軍測量局により刊行されたもので、復刻されたものを平凡社の地名辞典で見ることができます。

この図で高槻付近を見ると、確かに「芥川」と「高槻」とが同程度の町として描かれています。
これならば、「高槻」でなくて「芥川」を選ぶこともあり得るように思われます。

次に「Yaketori-gata」[42684]ならぬ 「焼島潟」[42781]
[42835]では“明治の地図には出ていました”と書いたのですが、これは“地形として描かれていた”ということで、「焼島潟」という“地名が出ていた”わけではありませんでした。

なお、新しいGoogle Earthでは、島以外の自然地名は表示されなくなっているようです。
かつて話題にした品川湾[42889]、富士山[42664] [42681] [42695]などの自然地名表現は、すべて過去のことになってしまいました。
[52691] 2006年 7月 26日(水)22:35:44【1】hmt さん
Google Earthに使われた地名(2)鶴間・川和・関
Google Earthで私の居住地の近くを見ていたら、「Tsuruma」という地名が表示されました。
鶴間村は明治22年に鶴瀬村になり、現在は富士見市。でも、駅名になっている「鶴瀬」の知名度が一番でしょう

「Tsuruma」が使われているのも明治22年よりも古い資料のためと思われます。「揖製二十万分一図」[52674]で、「鶴間」を確認。

それでは出身地の付近はどうかと、Google Earthで、津久井湖の南岸を見ると“Kaawa”という地名が表示されています。

オヤオヤ、これは珍しい!
「川和」という地名は、私が子供の頃には聞いたことがあり、少なくとも20世紀前半には使われていました。
歴史的には、19世紀を中心として流行した「川和縞」 が、この地名に由来しています。

しかし、津久井の「川和」は、これまでに地図の上で見た記憶がありません。
【追記】Issieさん [52699]が指摘されたように、1940年代より前の地形図には出ていました。

同じ神奈川県でも、鶴見川沿いの「川和」(現・横浜市都筑区)の方ならば、ご存知の方もあるでしょうが。
相模川、鶴見川いずれの「川和」も、川が曲流した「川輪」地形に由来するものと思われます。

“Kaawa”から少し南の串川沿いに“Seki”の表記があります(本当はもう少し西)。
「関」は津久井町青山[48710]の主要集落ですが、これも「川和」と同様に行政区画としては使われていない地名です。
バス停としては現役。

さっそく「揖製二十万分一図」[52674](もちろん津久井湖[43001]のない時代)に当ってみると、「川和」の地名は見当たらず、「中野」と記されています。
どうやら「川和」は、中野村(→1925中野町→1955津久井町→2006相模原市)の内部に埋没している地名であり、明治時代から地図に現れる機会はなかったようです。
「関」の位置には「青山」と記されており、それ自体は当時の青山村の主要集落ですから納得できます。
しかし、不思議なことに、現在の青山バス停付近(狭義の青山)に「関」と書いてあります。これは?

結局、津久井の地名に関しては、Google Earthの表記と、「揖製二十万分一図」とは一致していないことがわかりました。
…というわけで、残念ながらGoogle Earthの使った「古い資料」の解明は不成功。
[52707] 2006年 7月 27日(木)16:13:30hmt さん
Google Earthに使われた地名(3)中野村Kaawa・根小屋村Nakano・青山村Seki、そして何故か消えた「Sagamihara」
[52699] Issie さん
もう少し縮尺の“大きい”5万分の1地形図では「川和」が表示されていました。
1)明治41年(1908年)鉄道補測
街道に沿った集落内の津久井郡役所と村役場の記号のそばに大きめの文字で「川和」。

ご教示ありがとうございました。調査不足(と記憶違い?)でした。
遅ればせながら「日本図誌体系」収録図(明治39年測)によって確認しました。

「組合中野外四村」の構成は、ご推察の通り「根小屋村」が入っていました。
根小屋村は、寛永検地で串川流域の長竹村から分村した村ですが、この付近では相模川本流とを隔てる峠は低く、[52691]で言及した川和縞を世間に広めたのも、根小屋村の豪商・久保田惣右衛門でした。
「根小屋」は、もちろん中世に城山(宝ヶ峰)にあった津久井城 [41805] の「麓の居館」に由来する地名です。

Google Earthで「Kaawa」の南東に「Nakano」がありますが、これはIssie さんならご存知の「根小屋中野」です。5万分の1地形図でも「根小屋村」の右に「中野」と記されていました。
大部分の方にとっては川和の中野村とまぎらわしいので、念のために記しておきます。

「根小屋村」と記された地形図が発行された直後の明治42年(1909)に、根小屋村は中野組合村を離れて、青山村・長竹村と共に「串川村」になりました。

その青山村。 Google Earthの「Seki」に対応して、地形図には「青山村関」などと記されています。
Google Earthには、地形図の「長竹」に相当するらしい「Nagarake」がありますが、綴りと位置が間違っています。

時代は遡りますが、1740年の南山入会事件[43357]の書類には、「青山村之内関村」と記されています(「串川財産区史」p.97)。
関村は、1590年の小田原攻めを境に徳川直轄地になった津久井領の中で、北条遺臣・井出氏の知行地として残されていた地ですが、1626年には召し上げられて天領の青山村になりました。しかし、その後も「村の中の村」という形があったようですね。

3)昭和22年(1947年)資料修正
「(川和)」の表記は同じ。中野村は又野村・三ヶ木村と合体していたので,通常の表記で「中野町」。

同じ頃の二万五千分一地形図「上溝」(大正10年測図 昭和24年資料修正(行政区画))が手元にあったので、確認したところ、北西隅に「中野村(川和)」。アレ、大正14年に4村(太井村[43001]を含む)が合併して中野町が誕生しているのが修正されていません。

この地図の東半分に大きく広がる桑畑の目立つ台地については、もちろん行政区画が「相模原町」(1941年成立)に修正されているのですが、行政区画以外のデータは大正10年(1921)のままであり、なんと1931年に開通した相模線(1944年買収)さえ記入されていません。
戦争の時代をはさんでいるとはいえ、昔の地形図は更新間隔が驚くほど長かったことがわかります。

旧版時代のGoogle Earth [42664]では、
更に拡大すると、浜松・相模原・八王子・浦和・船橋・千葉。(なぜか、静岡や甲府は出ない。)
と、かなり早い段階で現れた「Sagamihara」なのですが、なぜか新版では現れないのですね。(検索では、米軍相模原補給廠の地点が指示されます。)

ところで、中野村(川和)が出ている図幅名は、上記の通り二万五千分一地形図で「上溝」ですから、五万分一地形図では、「上野原」でなく「八王子」になります。
[52733] 2006年 7月 28日(金)20:10:19hmt さん
Google Earthに使われた地名(4)「Saitama」
[52591] くは さん
「Saitama」の位置が、どうみても、さきたま古墳の近くなのです。

"Akaho"[52597]、"Akutagawa"、"Ueda"、"Onahama"、"Taira"[52603]、"Tsuruma"、"Kaawa"[52691]など、19世紀から20世紀前半以前の地名が多用されている一方で、旧版にあった"Urawa"が消え、新版では"Saitama"が登場したということは、一部の主要都市については、近年生まれた都市名に修正する姿勢を示しています。

旧版の「Google Earth」について記した[42664]で、徐々にズームインしながら、画面に現れる地名を調べた結果を記したのですが、新版では、だいぶ様子が変わってきています。

「Eye alt」が3000miを切ると東京、横浜、名古屋、大阪。
1500 miを切ると政令指定都市が出てきます。少し遅れて出てくる神戸は、何故か位置が京都と逆転しています。
千葉と静岡は800mi、北九州市は200miになってやっと登場します。堺に至っては、相模原[52707]と同様に消失。
その一方で、岡山、熊本、鹿児島のように千葉、静岡と前後して出てくる都市もあります。
この段階で、島の名もいくつか出てきますが、その選定基準は不明。

350 mi付近で県庁所在都市が出揃って賑やかになりますが、福島、宇都宮Utsunmiya、那覇は100miまでお預け。
島の名になると、大島がないのに鵜渡根島([24286]新島の付属島)や銭洲(神津島の誤記らしい)があり、八丈島がなくて(八丈)小島があるという奇怪さ。
TakeshimaでもDokdoでもないLiancourt Rocksも、この段階で出現。
そう言えば、自然地名が消えた[52674] のは、日本海呼称問題 も影響しているのかな?

100 miを切ると更に多くの都市が出るが、場所の取り違え問題があることは既報[52591] [52597] [52603] の通りです。

ともかく、政令指定都市の「さいたま市」は、このように上位にランク付けされ、小縮尺図の段階から現れます。
ただ、その位置が旧・埼玉村になってしまったのは、「古い資料」で「埼玉」の位置を探したためでしょう。

旧版で比較的早い時期に出現した「Urawa」や「Shimizu」が新版では消えているから、県庁所在地クラスの都市では最近の合併を反映しているのかと思うと、「Omiya」は新版にも残っています。

以上、[52674][52691][52707]と本稿で、ズームにより「Google Earth」画面上の目安として出現する地名について記述してきました。
明治の市町村制よりも前、ないしは20世紀前半の「古い資料」を多用しているものの、一部については戦後生まれの都市名に改める姿勢も示しています。
しかし、それが中途半端な形になってしまった象徴が“さきたま古墳近くの「Saitama」”でした。

「Google Earth」の名誉のために?一言付け加えておくと、検索によって都市の位置を指示する機能に関しては、もっとデータ更新が進んでいるように思われます。
例えば、「omiya japan」で検索すると、常陸大宮の位置が示されます。おそらく旧・大宮市の方は検索データから削除され、茨城県那珂郡大宮町のデータが生きているのでしょう。

「saitama japan」で検索すれば、正しい「さいたま市」の位置(さいたま市役所の少し北)が指示されます。


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