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[54351] 2006年 10月 6日(金)18:36:27【1】hmt さん
神奈川・横浜(1)横浜の居留地は、文字通りの「関内」だった
兵庫開港と神戸との関係について[54297]「兵神市街之図」、[54322] [54339]兵庫開港の3編を記しました。
関連して、「神奈川」開港と横浜との関係について続けます。
[54340] ezekiel さんの
神戸の場合と横浜の場合との相似と差異とを比較すると面白いだろうなあ~と思います。
の趣旨にも沿うものになるかどうかわかりませんが。

最初に、「神奈川」(実際は横浜)開港の日付から。
日米修好通商条約による「神奈川」の開港日は、条約締結の翌年・1859年の7月4日(米国独立記念日)となっていましたが、続いて締結されたロシア・イギリスとの間の修好通商条約において、切りのよい7月1日開港とされたので、最恵国条項により3日繰り上がりました。当時の暦では安政6年6月2日。
横浜開港記念日は、7月1日(西洋流の日付)だったものが、わざわざ6月2日(日本流の日付)に変更されたのですね。

「兵庫」(実際は神戸)開港は、[54322]で詳しく記したように8年半後の1868年1月1日。明治になる直前とも言える時期で、この間に、政局も治安の状態もも激変しています。

さて、地形条件に目を向けると、もちろん横浜と神戸とは大幅に異なります。

中世文書に神奈河として現れる神奈川(金川)は、近世には東海道でこの付近で最も大きな宿場町として繁盛していました。
神奈川港もあり、三浦方面の産物を江戸に運ぶ中継地でもありましたが、貿易港としての長い歴史を持つ兵庫津には及ぶべくもない、ローカルセンターという程度の存在でしょう。

神奈川宿と海を隔てた横浜村は、大岡川低地の前面をふさぐ砂洲の上の漁村でした。横浜村の漁師が、対岸の神奈川宿に船で魚を運び、納めていたという関係でしょう。
かつて砂洲の内側に入り込んでいた入り江は、江戸時代後期に干拓されて、横浜新田・太田屋新田・吉田新田などが開発されていましたが、本土との間には水路が残り(派大岡川)、ここに大岡川の分流の中村川が流れ込んでいました。現在の横浜市中区に、太田町1丁目~6丁目、吉田町という名を残しています。

条約文の「神奈川」の解釈を巡って、米国総領事ハリスは、商売上の見地から東海道神奈川宿を主張しましたが、幕府は横浜村を出島化して外国人を隔離しようと対立します(安政6年「神奈川宿本陣対話書【誤記訂正】」)。
結局のところ、幕府は外国側の反対を無視して横浜に開港場の建設を開始し、既成事実化してしまいました。
パークスの賛同[54339]を経て神戸に建設された「兵庫居留地」とは大きな違いです。

万延元年(1860)、幕府は中村川の川尻から海岸までを直結する長さ580間の堀川を開削。
これによって居留地は、北を海、西を内海(大岡川末端部)、南西を派大岡川、南東を堀川に囲まれた「出島」になりました。
派大岡川の大岡川への合流点の南側にある吉田橋などには木戸門と見張番所が設けられました。
このような関門に囲まれた内側が「関内」、外側が「関外」です。

[54297]で参照した講談社「日本の古地図7」(1976)には、横浜も収録されていますが、安政6年の「横浜御開地明細之図」では堀川が未開削の時代、また文久の頃と思われる「御開港横浜正景(YOKOHAMA CHART)」や「御開港横浜大絵図」では、堀川開削後の島状になった横浜居留地が描かれています。

現代の地図 では、首都高速道路の石川町JCTから海岸までの間が堀川の上を覆い、石川町JCTから桜木町駅の少し南までが派大岡川の跡で、島状の横浜居留地の形がわかります。

【1】 N-H さんのご指摘[54352]により、“堀川の跡”を“堀川の上を覆い”と修正

Mapionの中心・神奈川県庁の位置には、絵図で「御運上屋舗」があり、その南側・横浜新田の中には、目立って大きく外国人向けの遊郭街(岩亀楼など)が描かれています。現在の横浜スタジアムの位置でした。開港神戸之図にも福原町遊郭がありました[54297]

そうそう、[54297]に、明治13年の地図で“兵庫県庁の海側には「神戸市役所」らしい文字”と書いた部分がありました。実は印刷の解像度が低くてよく読めないものの、この年代には、もちろん「神戸市」ではあり得ません。「神戸区役所」と書くべきところを、誤記していました。

兵庫と神戸の間には、湊川や宇治川があるだけで、神奈川と横浜のように、複雑な地形条件によって隔てられるということはありません。
兵庫開港の時代には、「居留地」とは言っても、警備の厳重な「関内」を作る必要性も少なくなっていました。居留地造成工事の遅れが理由ですが、臨時の措置として「雑居地」が設定され、しかも居留地完成後も既得権として存続を望んだ外国側に応えて混住状態が維持されたくらいです。
「関内」という言葉に象徴される横浜と、特有の「雑居地」を生んだ神戸では、外国文化の流入に違いが生じたはずです。
[54388] 2006年 10月 9日(月)23:38:56hmt さん
神奈川・横浜(2)神奈川奉行所・条約改正
居留地の外、すなわち「関外」に目を転じます。
「御開港横浜正景(YOKOHAMA CHART)」や「御開港横浜大絵図」などの絵図[54351]で、帆船の浮かぶ海の手前に描かれた神奈川宿は、Mapion では上方に現れます。

絵図の右上、入り江を隔てて居留地を見下ろす戸部の丘の上には、「御奉行所」が描かれています。 Mapionでは桜木町駅の北西、市教育会館という文字のあたりです(西区紅葉ケ丘)。開港場を管轄する役所が、横浜の外、しかもわざわざ急な坂を登った上にある通称「戸部役所」であるという姿は、当時外交姿勢を窺わせる姿です。

神奈川奉行所 の設立は、安政6年の開港と同日。5人の外国奉行 のうち水野忠徳と堀利煕とが神奈川奉行を兼任しました。

慶応4年(1868)になると、明治政府の「進駐軍」がここに入り、幕府の神奈川奉行から事務を引き継いだ東久世通禧 (みちとみ)が「横浜裁判所」総督に任じられますが(3月19日)、1ヶ月後の4月20日には「神奈川裁判所」になっています。
開港地は「横浜」だと思っていた新政府が、条約の建前上「神奈川」で押し通した幕府を引き継ぐ立場にあることに気が付き、その結果の朝令暮改ではなかろうかという推測を、[20917]で記したことがあります。

この神奈川裁判所が、「神奈川府」を経て明治元年と改元された9月に「神奈川県」と変わり、これ以後も、横浜区や横浜市が生まれた後までずっと、横浜は神奈川県の管内ということになっています。
なるほど、こうして「横浜は神奈川の一部」ということにしておかなければ、外国に対して“条約に定めた通り「神奈川」を開港した”と主張することができません。

樋口雄一氏 によると、東久世日記(慶応4年6月26日)に、“此迄横浜県と唱来候処、爾来神奈川府と被改候”と書かれているものの、公文書には「横浜県」の名は見えず、「横浜県」は慣用的なものとされています。
たしかに、「神奈川開港」という条約の建前からすると、県の名前まで、横浜にするわけにはゆかなかったのですね。

兵庫県庁が神戸に移っても、神戸区や神戸市が生まれても、県の名前まで神戸県にするわけにはゆかず、あくまでも「兵庫」県というのも、同じように安政条約による足かせということになります。

言うまでもないことですが、横浜県や神戸県になれなかったことは派生的な問題であり、安政条約の本質的な問題点は、「治外法権」という言葉に代表される当事国の不平等関係にありました。

締結当時の国際常識からすれば、安政条約は驚くほど日本に有利な“外交史上の奇跡”だったとする評価もありますが、明治になってみれば「治外法権」が問題になったのは当然であり、長年にわたる条約改正交渉の末、日英通商航海条約が調印されたのは1894年でした。

日英通商航海条約 第二十条
本条約ハ其ノ実施ノ日ヨリ両締盟国間ニ現存スル…安政五年七月十八日…締結ノ修好通商条約…ニ代ハルヘキモノトス。而シテ該条約及諸約定ハ右期日ヨリ総テ無効ニ期シ、随テ大不列顛カ日本帝国ニ於テ執行シタル裁判権及該権ニ属シ、又ハ其ノ一部トシテ大不列顛国臣民カ享有セシ処ノ特典、特権及免除ハ本条約実施ノ日ヨリ別ニ通知ヲナサス全然消滅ニ帰シタルモノトス。而シテ此等ノ裁判管轄権ハ本条約実施後ニ於テハ日本帝国裁判所ニ於テ之ヲ執行スヘシ。

他の列強もこれに続き、5年後の1899年7月に居留地が返還され、わが国の裁判権が開港場にも及ぶことになり、日本はようやく一人前の独立国になったのでした。

# Great Britainに「大不列顛」という字をあてています。[40148]ではAngliaに「諳厄利亜」という文字を当てた時代もあったと記しましたが、その一例は後にシーボルト事件に巻き込まれた高橋景保が吉雄忠次郎に翻訳させた「諳厄利亜人性情誌」(文政8年・1825)です。
[54415] 2006年 10月 12日(木)16:01:18hmt さん
神奈川・横浜(3)外国人遊歩区域
[54388]では、安政条約を話題の中心に据えて、神奈川奉行所から、条約改正による居留地の消滅(明治32年)までを語りました。
今回は、その安政条約に規定されていた「外国人遊歩区域」のお話です。

米利堅合衆國修好通商條約 安政五年六月十九日
第七條 日本開港ノ場所ニ於テ亜米利加人遊歩ノ規程左ノ如シ
神奈川 六郷川筋ヲ限トシテ其他ハ各方へ凡十里
函館 各方ヘ凡十里
兵庫 京都ヲ距ル事十里ノ地ハ亜米利加人立入サル筈ニ付其方角を除キ各方ヘ十里且兵庫ニ来ル船々ノ乗組人ハ猪名川ヨリ海湾迄ノ川筋ヲ越ユヘカラス
都(すべ)テ里數ハ各港ノ奉行所又ハ御用所ヨリ陸路ノ程度ナリ
一里ハ亜米利加ノ四千二百七十四ヤルド日本ノ凡ソ三十三町四十八間一尺二寸五分ニ当タル
長崎 其周囲ニアル御料所ヲ限リトス
新潟ハ治定ノ上境界ヲ定ムヘシ

横浜開港資料館所蔵の「横浜周辺外国人遊歩区域図」 には、 DESCRIPTIVE MAP SHEWING THE TREATY LIMITS ROUND YOKOHAMA と記されており、1865-1867年というから慶応年間に作成された地図です。
横浜から半径約10里の扇形が、江戸の方角だけは、六郷川(多摩川)によって大きく切り取られている姿を見ることができます。

この遊歩区域内には、江戸市民にとっての著名な観光スポットでもある鎌倉、江ノ島や金沢八景があり、更には信仰と遊覧を兼ねて人気のあった大山参りの対象の地も含まれていました。
なお、「遊歩」とは、ウォーキングに限らず乗馬も含んでいます。上記安政条約の英文では、“Americans shall be free to go where they please”と表現しています。
横浜居留地には、外国人のウォーキング専用道路(遊歩新道)も建設されました(慶応2年)。

F・ベアトも、厚木から丹沢山地に入った宮ヶ瀬、そして関東シルクロード[30364]になる八王子・鑓水・原町田方面にも出かけて、写真を残しています。

遊歩区域は、横浜の居留地に準じた重要警戒地域だったわけですが、現実には、遊歩中の外国人がサムライの襲撃を受ける事件もありました。
最も有名なのは、川崎大師への遊歩途中の英国人力査遜(碑文の表記による)が島津久光の行列と遭遇して切り殺された生麦事件(文久2年・1862)です。
ベアトの写真にも、「リチャードソン氏殺害現場」があります。
# 生麦とは珍しい言葉ですが、生麦生米生卵でも有名。この地が麒麟麦酒の工場になっているのは「麦」の縁でしょうか。

生麦事件は正当な遊歩区域内で起きた事件ですが、時にはこの境界を越えて行動する外国人もあり、その冒険体験が、話題になっていたそうです。(J.R.ブラック 「ヤングジャパン」)。
津軽海峡のブラキストン線で有名な博物学者で貿易商の T.W.Blakiston が、旅行免状を持たずに遊歩区域外を旅行したことを問われた事件(明治7年)等を機に、遊歩境界傍示杭についての周知不足や、その距離の不正確について外国側からの苦情が出て、きちんとした測量による境界標石が建てられることになりました。

もちろん、制限付きながら遊歩区域外への旅行も実施されました。外交特権のある外交官は、富士山にも登りました。
明治2年頃からは、病気療養名目で箱根や熱海への湯治にも「内地旅行免状」が交付されました。
hmtの出身地・津久井も遊歩区域外でしたが、幕府のお雇いフランス人技師が業務出張で現れています(慶応3年)。もちろん幕府役人と同道で、横須賀製鉄所建築用材入手のための検分が目的でした。
実家に残る「仏人御林御見分ニ付立替物控」には、 hmt幼少の頃には残ってた旅館に宿泊した異国人へのご馳走品やその値段が記されています。津久井県[41805]の青山村は、幕末には小田原藩領になっていましたが、御林関係ですから幕府の御用を勤めたわけです。

後にトロイア発掘で有名になった ハインリッヒ・シュリーマン も、来日中に許可を得て江戸を見聞し、また遊歩区域内では八王子や原町田を訪れています。小野路村[33902]の記事で触れたことがあります。
[54421] 2006年 10月 13日(金)19:47:08hmt さん
神奈川・横浜(4)県域の変遷
神奈川宿から海を隔てた横浜村の砂洲の上に造成された開港場[54351]、開港場を見下ろす丘の上に設けられた戸部役所[54388]、その神奈川奉行所が慶応4年に新政府に移管された後、慌しく何度かの改名を経て明治元年(1868)9月21日に「神奈川県」と改称され、現在に続く名前が生まれました。

今回は、開港場・横浜の外国人と深い関係にあった「神奈川県」の管轄区域の変遷を振りかえります。

[54415]で紹介した「横浜周辺外国人遊歩区域図」
この区画、現在の「神奈川県」の管轄区域と似ているようでもあり、違うようでもあり…

発足当初の神奈川県の管轄区域は、この外国人遊歩区域内の旧幕府領・旗本領を引き継いだものでした。
遊歩区域内には、武蔵金沢の六浦藩、相模の荻野山中藩、その他諸藩の飛び地が存在し、神奈川県管内図は虫食い状態でした。その一例である高座郡の状態が、Issieさんのページ の中で詳細に紹介されています。

この虫食い状態は、廃藩置県後の明治4年(1871)11月、旧藩領だった六浦県及び各県の飛び地が神奈川県になって解消されました。しかし、11月14日の(第1次府県統合) 太政官布告 では、武蔵国多摩郡と相模国高座郡とは神奈川県に含まれていませんでした。
これに対して神奈川県は、外国人遊歩区域に含まれる多摩郡と高座郡とは、従前通り神奈川県の管轄区域であるべきとする上申書を提出しました。

この上申が認められた結果、神奈川県の区域は多摩川以北の多摩郡にも拡がりました。
一方、相模川から酒匂川の間は足柄県になっており、県域は外国人遊歩区域と比べて少し北東にずれてくることになりました。
なお、多摩川以北の多摩郡のうち、東京市街地の西に隣接する地域は、明治5年(1872)8月に東京府に移管されました(後に東多摩郡→豊多摩郡の一部→中野区・杉並区になった部分)。

神奈川県の管轄区域は、第2次府県統合(明治9年4月)によって足柄県(伊豆国を除く)を併せ、相模国全域と武蔵国4郡(多摩郡の分割後は6郡)に拡大し、最大の領域になりました。

しかし、明治26年(1893)に至り、神奈川開港以来横浜と密接な関係にあった多摩川以南(南多摩郡)を含む三多摩を失います。

[33700] Issie さん
北・西多摩郡はともかく,南多摩郡の東京府移管については,(中略)自由民権運動の盛んな地域であったことがしばしば指摘されています。
やはり神奈川県にとって,南多摩郡を失ったことは返す返すも残念なことだったかもしれないなあ,と思ったりもします。

東京の水源確保関連では、既に1881年に玉川上水の左右十数尺の東京府移管が合意されました。
その後も、コレラ流行に端を発する上水汚濁取締強化のための北多摩郡・西多摩郡移管上申(明治19年=1886)があり、甲武鉄道開通の翌年(1890)には、住民からの北多摩郡・西多摩郡管轄替の建白も出されていました。この段階まではいずれも両多摩移管案です。
南多摩郡を含む三多摩の東京府移管上申は、明治25年(1892)9月に東京府知事から出されたものですが、これは既に神奈川県知事の積極的な合意を得ていたものでした。

南多摩郡は、生糸貿易の横浜との関係が深い繭・生糸の集散地である八王子や原町田を含み、県の財政にも重大な影響があります。それにもかかわらず、南多摩郡を東京府に移管することに神奈川県知事(内海忠勝)が賛成したことは、たしかに異常なことでありました。

その背景としては、1892年の「大干渉選挙」で罷免要求を突き付けられていた内海による、南多摩自由党に対する報復的措置と伝えられています。三多摩移管の政治的背景参照。


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