都道府県市区町村
落書き帳

小倉町の議論

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[55501] 2006年 12月 10日(日)09:08:4388 さん
市町村合併情報 履歴情報 苦悩日記 No.4
私は最近、「幕末以降市町村名変遷系統図総覧 改訂版(1,2)」(2000年9月、西川治監修、太田孝編著、東洋書林)をもとに、藩政村・城下町をExcelで整理しています。一方、明治末期の合併情報(今は1908年頃)を市町村合併情報を入力・編集したり、市制町村制時の自治体名を整理したり・・飽きが来ないように同時並行でいろいろやっています。

さて、藩政村・城下町についてですが、例えば、私が既に手元に整理した数は、ほんの数県ですが以下のとおりです。まだチェックはしていないので少々の数字の異同はあるのでご勘弁を。
県名藩政村・城下町数現在の市町村数
徳島県65324
香川県52117
愛媛県1,14720
高知県1,07435
福岡県2,31768
全国では、明治11年5月の元老院会議における報告によれば、町村数は「約8万」とのこと(「地方自治百年史 第一巻」(平成4年3月30日発行、地方自治百年史編集委員会編集、地方自治法施行四十周年・自治制公布百年記念会発行、財団法人地方財務協会発売)。現在の約1,800の40倍。単純にいえば、現在の市町村は藩政村・城下町40町村が集まって成立している、というところでしょうか。

藩政村・城下町の概説を。
幕藩時代の町村は、一種の法人であり、村自体として財産を保有し、あるいは債務を負担することもありました。今日の地方公共団体のように、住民とは別個の法人格をなすものではなく、村民の総体でありました(「総有」)。村の役員は「村方三役」または「地方三役」と呼ばれ、その役割等は次のとおりです。
関東関西人数役割
名主庄屋1人村長。半官半民で、行政官の手先でも、村の理事者でもある。
組頭年寄(または脇百姓)3~5人名主(庄屋)の補助者、五人組の頭分かつ村民の代表
百姓代2~3人純然たる村民の代表者、名主(庄屋)・組頭(年寄・脇百姓)に対する監督者
これらの名称は地方によって一様ではないようです。
また、城下町では「町」一つ一つが藩政村と同様に自治団体であり、例えば江戸、大阪、福岡といった都市が全体として自治体であったことはありません。

現在、「藩政村」「城下町」について、疑問な点がいくつかあります。
(文献は前述「幕末以降市町村名変遷系統図総覧 改訂版(1,2)」)
(1)「○○郡××村」ではなく、「○○郷××村」や「○○郷上分××村」となっているところがあります。これらは「郡」には属していなかったのでしょうか? また、この時代の「郡」や「郷」の位置づけは、どうなのでしょうか?
(2)城下町は、「郡」(あるいは「郷」)には属するのでしょうか? 例えば、福岡の城下町の一つである「天神町」の、「那珂郡馬出村」に対応する呼称は、何でしょうか。 単に何もつかずに「天神町」?「那珂郡天神町」?「福岡天神町」?「福岡城下天神町」?・・・
(3)福岡県(豊前)の小倉は、上記書では「企救郡小倉町」の表記しかありません。福岡には155の町が並んで表記されているのに・・・(久留米や柳川も町名が並んでいる)。小倉は例外でしょうか? それとも単なる表記誤り?
このあたりになると、「地理」より限りなく「歴史」に近くなってきますが、まだまだ私は不勉強なのでご教示いただければ幸いです。参考図書などもお示しいただければありがたいです。

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[55497] 紅葉橋律乃介 さん
もちろん市町村制以前に、北海道にも町村があったわけですが、明治以前の歴史が“ない”以上は、興味が湧かないのも無理がない…かも。
確かにおっしゃるとおり、他の地域とは北海道の歴史はかなり異なりますから、地元の方からするとやむを得ないところもあるでしょうね。明治以降の制度も北海道はかなり独特のものですしね。
ところで、「市町村合併情報」がどんどん遡っているようですが、全データを1ページに表示するのはそろそろ限界ではないでしょうか。
おっしゃるとおり、私の環境でもかなり苦しくなって来ております。まさしくちょうど今、グリグリさんが改善作業(step.1)を行っていただいている最中ですので、近々、改善版をupできると思います・・といっても、私はグリグリさんにおんぶにだっこなのですが。
[55766] 2007年 1月 1日(月)03:03:03【1】矢作川太郎 さん
矢作の新年大花火・・・(1) 小倉関連
明けましておめでとうございます。

レスしようと思っていましたが、新年にまで持ち越すとは・・・(汗)

[55501]88さん

(3)福岡県(豊前)の小倉は、上記書では「企救郡小倉町」の表記しかありません。福岡には155の町が並んで表記されているのに・・・(久留米や柳川も町名が並んでいる)。小倉は例外でしょうか? それとも単なる表記誤り?
このあたりになると、「地理」より限りなく「歴史」に近くなってきますが、まだまだ私は不勉強なのでご教示いただければ幸いです。

小倉町の表記見た上で、結論から言わせて頂くと、私の中で「幕末以降市町村名変遷系統図総覧」の位置付けは参考資料の一つでしか有りません。

確か「幕末(中略)総覧」での小倉町を構成する市制町村制以前の町村は「小倉町・長浜村・平松浦」となっていたはずです。一方、角川(地名辞典)に於いては小倉25町(いちいち書くのは気が引けますが・・・ 町は省略させて頂きます。)一応は「京・博労・船頭・舟・新魚・魚・鳥・大坂・宝・船場・米・鍛冶(鍛治?)-昭和46年から現在の1・2丁目が付く・堺・紺屋・古船場・馬借・室・西魚・八百屋・大門・堅・西紺屋・西鍛冶・田・鋳物師」と砂原村のうち長浜浦、干上(日明)村のうち平松浦となっています。(詳細を言えば、この付近では明治20年に町村の統合が行われたので、長浜浦は砂津村の旧:砂原村域の一地域である長浜浦、平松浦は板櫃村の旧:干上(日明)村域の一地域である平松浦となっています。)この後、小倉町には、25町と2大字(長浜・平松)が編成されました。(この点では市町村名変遷辞典にも若干の相違があります。)

まあ、市制町村制以前の変更については告示には多分出ない(実際どうなのでしょうか?)事項なので、参考に出来る資料はごく限られて来るでしょうね。例えば、私は地元の県の市町村変遷を記録した書物を自らの仮説(諸資料が全て矛盾する事項に対する)を補強するために読んでいました。しかし、仮説には符合する部分がある中で明らかに間違った箇所も見受けられました。言うなれば、市制町村制以前の町村の変遷(地租改正や郡区町村編制法に関わるモノ)を追う作業と言うのは大変な事だと察します。(現に私はやろうとしていますが、その後の大字と現町名の関係が解らなければ余り意味が無いと思い、そればかり調べてます・・・)あと、市制町村制の前後に於いて直前の町村名から大字・町名への変換が図られますが、その際に村名の用字の変更や区域の変更が複雑にあり解りづらくさせています。(どちらかと言うとそれ以前は仮の段階(江戸期の自然村に準じた形)で、これを機会に用字や区域を確定させた“自治体を構成する「大字」”を形成したと言う側面も有りますが。)一応参照する資料が多い方が格段にイイと思うので、市町村史にあたってみるのも手だと思います。(でも、市制町村制以前であれば自分が正しいと思った説で行くしか無いように思います。こんなアバウトが許される時代があったのかと考えてみるのも一興でしょう。)

【1】-冒頭の挨拶を追記(築城?)
[58922] 2007年 6月 9日(土)04:20:14oki さん
「小倉町」についての情報
[55501] 88 さん 市町村合併情報 履歴情報 苦悩日記 No.4
(3)福岡県(豊前)の小倉は、上記書(幕末以降市町村名変遷系統図総覧)では「企救郡小倉町」の表記しかありません。福岡には155の町が並んで表記されているのに・・・(久留米や柳川も町名が並んでいる)。小倉は例外でしょうか? それとも単なる表記誤り?

上記の件は私も疑問に思っていたのですが、真相究明につながる(かもしれない)資料を見つけたのでご報告しておきます。
資料名は1887(明治20)年付け内務省地理局編纂の「例規類纂(近代デジタルライブラリー所収)」で、その71ページを見てください。
福岡県が1886(明治19)年10月に、豊前国企救郡郡小倉旧25町の町名復活を求めて提出した「伺」と、それに対して87(明治20)年に内務省が発した「指令」が記載されています。引用すると長いので原文はデジタルライブラリーを見ていただくとして、要旨は以下の通りです(私の解釈が入っています)。
・小倉は本来25の町からなっていたが、1875(明治8)年の地租改正の際に、旧小倉県がこの25町の地番を「小倉町」の名で1町に編制したため、公式には25町が存在せず、小倉町のみが存在することになってしまった。
・しかし、小倉町は25町の総称で、実際には旧25町が存続しており、それぞれが「小倉○○町」として通用している。旧25町を一括して小倉町として扱うのはきわめて不便なので、旧来通り25の町名を使用できるようにして欲しい。
・これに対する内務省の指令は、現在のまま「小倉町」1町とすべし。ただし、室町、八百屋町のような旧町名を「字として加用」するのは構わない、というものです。

これから見ると、郡区町村編制法の時代、公式には、小倉は「小倉町」という一つの町として扱われたようで、その点では「総覧」の記述は正しいと考えることができます。

しかし、ここで新たな疑問が生じます。内務省地理局が同じく1887(明治20)年に編纂した「地方行政区画便覧」には、小倉室町、小倉八百屋町をはじめとする25町が記載されており、小倉町はどこにもありません。この扱いは、久留米、柳川など他の城下町とまったく同じです。小倉室町等の25町は、福岡県(豊前国)企救郡に直結する独立した町で、同県(筑後国)御井郡久留米両替町などと同等の存在と見ざるを得ません。この扱いは、1881(明治14)年の「郡区町村一覧」でも同じです(こちらは「小倉」の冠称がありませんが)。
上記「伺」の記述が正しいとすれば「地方行政区画便覧」の記載はそれと矛盾しますし、「便覧」が実態を反映しているなら、「伺」に記述されたような不都合が生じるとは思えません。
一体どちらが正しいのか、ひょっとして両方とも正しいのかもしれないが、それは当時の地方制度が非常に混乱していて、明治政府の担当部局である地理局でも実態を把握しきれていないということではないのか、色々考えるのですが、正直言って私には判断がつきません。

却って謎を深める結果になってしまったかもしれませんが、とりあえず、ご報告です。
[59280] 2007年 6月 19日(火)22:54:2988 さん
市区町村変遷情報 苦悩日記 No.11 城下町・藩政村について
市区町村変遷情報関連ですが、城下町・藩政村に関しての、okiさん関連ばかりです。

まずは別件から。
[58590] oki さん
調べた結果はご報告したいと思うのですが、落書き帳に直接書き込むのは量が多すぎます。エクセルやCSVのファイルをやり取りできる方法はないもんですかね。
市区町村変遷情報の最下部にもありますが、「upd%uub.jp」(%は@に置き換えてください)あてにメールをいただけると、グリグリさん、でるでる編集長、そして私88の3人あてにメールが届きます。なお、この場合、okiさんのメールアドレスが我々に知らされますので、もしこの方法をとられる場合は、この点をご承知の上でよろしくお願いいたします。
これ以外の手法は・・・都道府県市区町村の「ファイル交換システム」を作れば可能ですが・・・これは将来計画としておきましょうね(>グリグリさん)。

[58209] oki さん
◆福岡・天神町について
個々の藩は日本の中の自治国家であり、城下町はその首都であると考えることができます。城下町は、領主直轄の特別な地域であり、「年貢を納める藩政村の上に君臨する」もので、郡や村と同一のレベルにあるものではない、というのが私の考えです。・・・(中略)・・・「天神町」は、それが属する城下町福岡が一体となって「那珂郡馬出村」などの村の「上」に君臨する存在で、馬出村と同一レベルで扱うことはできない、ということになります。
あえて住所として表記すれば、「筑前福岡天神町」となるでしょうから、福岡は郡と、天神町は村と同一レベルと言えるかもしれません。しかしこれは、福岡が黒田藩の首都であり、領下の村々から年貢を収奪する領主支配の拠点であるという事実を前提として、あえて言えばそう解釈することもできる、ということです。
「城下町福岡が一体となって」という考え方は理解できます。しかし、城下町には、支配者側の武家の町と、商人町が同居しています。支配者側でないという意味では、商人町は藩政村に近い存在ともいえるのではないでしょうか。
市区町村変遷情報で、江戸期を表そうとした場合には、okiさんご指摘の支配体制の件を意識しつつ、天神町は那珂郡には属さない「福岡天神町」として表し、「那珂郡馬出村」同列として表記しようかと思います。もっとも、この表記をするのは江戸期には適切かもしれませんが、明治初期には合わないかもしれません(後述)。

[58922] oki さん
◆小倉町について
ご紹介の「例規類纂(近代デジタルライブラリー所収)」、拝見しました。各資料をまとめると、
「例規編纂」・・・1875(M8)年の地租改正以降は「企救郡小倉町」
1881(M14)「郡区町村一覧」では・・・「企救郡室町等25町」
1887(M20)「地方行政区画便覧」・・・「企救郡小倉室町等25町」
ですね。「幕末以降市町村名変遷系統図総覧」では、他の町村の例によると明治初期の合併も本来記載があるべきところですが何の記載もないので江戸期から「(企救郡?)小倉町」のような表現に見えます。
一体どちらが正しいのか、ひょっとして両方とも正しいのかもしれないが、それは当時の地方制度が非常に混乱していて、明治政府の担当部局である地理局でも実態を把握しきれていないということではないのか、色々考えるのですが、正直言って私には判断がつきません。
市制・町村制以降地方自治法施行までは、内務省告示(市)・都道府県告示(町村)が「正式な(根拠となる)文書」と判断していいと思うのですが、それ以前となると何が公式なものなのでしょうか? ・・・個々のものを継ぎ合わせるしかないのでしょうか? 確かに、わからなくなります。また、M元年から市制・町村制までの間を制度の変遷にあわせて検証すべきところなのでしょうか? 実はそれもあって、私の一連の投稿「明治初期 地方自治制度の変遷について」で私自身も勉強したところです。この明治初期が複雑であり、かつ情報が不確実過ぎて手に負えないのであれば、市区町村変遷情報の対象は藩政村・城下町まで遡るのではなく、市制・町村制直前(あるいは可能な限りに絞った明治初期)を起点とした方が賢明なのかもしれません(少し弱気ですね)。私としてもこれは不本意なので、なんとかある程度の目星をつけて、江戸期に到達したいのが本音です。

明治初期の城下町等の表現は、[58209]oki さん の例ご紹介を元に例を記すと、広島と徳島の例では、次のような感じでしょうか?
広島徳島(城下町)徳島(藩政村)備考
江戸期安芸国広島水主町阿波国徳島寺島町阿波国名東郡田宮村
版籍奉還(*)
廃藩置県広島県安芸郡広島水主町名東県名東郡徳島寺島町名東県名東郡田宮村
郡区町村編制法広島県広島区水主町高知県名東郡徳島寺島町高知県名東郡田宮村
市制・町村制広島県広島市水主町徳島県徳島市寺島町徳島県名東郡加茂村(大字田宮)
(*)支配者としての城下町の位置づけは廃止
#徳島県の変遷を結果として追ったことになったのは、たまたまとはいえ一興です。

さきほどの福岡天神町・那珂郡馬出村や、小倉室町も同様に整理できるのかもしれません(が、「事実」は如何に・・・)。
[59624] 2007年 7月 4日(水)15:10:35【1】むっくん さん
小倉町
[58922]okiさん
[59280]88さん
◆小倉町について
『明治前期全国村名小字調査書第四巻(著:内務省地理局編纂物刊、出版:ゆまに書房、昭和61年)』収録の『豊前國字小名取調書』(明治14年)によると、「企救郡室町等25町」でした。

以前[54378]で記したように、
この本は、(a)内務省地誌課が明治7年4月に各府県に村名の調査を命じ、これを受けて明治7年5月27日には提出された『各府県村名調査報告』と、(b)内務省地理局が明治14年11月26日に各府県へ宛てて町村の字小名を照会した『各町村字小名取調書』『各町村字名称調』等のうち現存しているものを影印複製されたもの
でして、これは(b)にあたります。(a)のほうは小倉県の物は現存していないとのことでした。
以上ご報告まで。


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