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[5567] 2002年 11月 28日(木)22:47:36Issie さん
国郡制
[5536] f さん
>藩は明治時代初期の廃藩置県で県に生まれ変わりましたが、国は廃止されていませんよ。ただそれを使う習慣がなくなっただけです。

[5543] 夜鳴き寿司屋 さん
>明治の県の再編では国は解体しても郡の解体の例はなかったはずです

そうですね。これは f さんの言い方が適当だと思います。
「県」と「国」とは別の体系による区分ですから,「国」が「廃止・解体」されて「県」に置き換えられたわけではなくて,「府県-市郡-区町村」という体系が公私両面で定着するとともに,従来の「国-郡」という体系が使われなくなり,次第に表面から姿を消した,ということです。
それでも時々顔を出しますよね。「さぬき市」とか「飛騨市」とか…。まだ「国」が生きている証拠です。

「国(くに)」「郡(こおり/ぐん)」という行政区画が公式に位置付けられたのは8世紀に確立した「律令制」によるものです。その整備が始まるのは7世紀後半の天武朝(もしかしたら,もう1つ前の天智朝=近江朝)にまでさかのぼるようですが,現在の形がほぼ確立するのは奈良時代半ばのことです。今の表現を使えば,718年制定(701年の大宝令を改定)・757年施行の「養老令」を“根拠法令”としています。
「令」とは現在の“行政組織法”に相当しますが(「律」は“刑法”),この「令」によって国内は「国-郡-里」という体系に区分されました。ただし,末端の行政区分に当たる「里」は,奈良時代後半になると「郷」という単位に変わります(詳しくはもう少し複雑なのだけど,ここでは省略)。

一方で平安時代には「荘園」が形成され,それが都のエライ人(皇族・上級貴族・大寺社)の所に集まってくるとともに「不輸・不入の権」を獲得して「国」の行政機関(国衙,国庁,国府などと呼ばれる。少しずつ意味が違うけど)の支配が及ばないところとなります。荘園は「○○荘」と呼ばれ,これも地域区分の単位となっていきます(「荘」は「庄」とも書かれます。つまりこの場合,この2つの字は“同じ字”です。たとえば「本荘」も「本庄」も同じ地名です)。
それに対して,国府の支配下にある地域を現在の用語では「公領」「国衙領」と呼びますが,「国領」とも呼ばれました。各地に存在する「国領」という地名はこれに由来します。
律令制では中央から国府に派遣される行政官(国司:長官(かみ)=守,次官(すけ)=介,三等官(じょう)=掾)が「国」の行政を行うことになっているのですが,平安時代後期に荘園制が確立するのと並行して国司は実際には任地へ赴任せず,「国」は中央の有力貴族の領地に近い存在に変質して,国司の代理として派遣された「目代(もくだい)」が現地採用の国府の役人(在庁官人。地元の有力武士)を統括して行政実務(主に税の徴収)を行うようになりました。
こうして地方行政レベルでの律令制(国郡制)は形骸化してゆきます。

鎌倉時代,「守護・地頭」支配を通じて地方現地での支配権は武士のものになります。荘園では,名目上の支配者である公家や寺社と現地での支配者である武士との間で“縄張り”を折半したりもしたのですが,戦国時代までに彼らの名目上の支配権も失われます。
この間,「国」は全国を適当に区分する単位として律令時代以来のものがほぼそのまま使用され続けますが,「郡」や「荘園」は様々に分割されました。「荘(荘園)」を分割する単位として「条」が使われたりもします(上条・中条・下条,北条・南条・西条・東条など)。

16世紀末の豊臣秀吉の天下統一によって久しぶりに成立した強力な中央政権の下で,かなり混乱していた「郡」が再編され,同時に「国」の範囲も確定されました。明治以降の「国」の領域は,この時のものを基本的に継承しています。
また,全国的に行われた検地によって「村」が基礎的な行政単位として位置付けられました。「村」単位で期待される収穫高が算定され,年貢を徴収する基礎単位ともなりました。
こうして整理された「国-郡-村」という区画を単位にして,大名や旗本に対する領地の“あてがい”が行われました。で,そうしてあてがわれた大名の領地が「藩」と呼ばれる,幕府の直轄地が「天領」と呼ばれるわけです。

明治維新で天領や旗本領などが没収され明治政府の直轄領となりました。政府はそこに「府」(主要都市など)や「県」を設置します。
1869(明治2)年の「版籍奉還」で諸侯(大名から改称)たちが所領の支配権を天皇に返還し,改めて天皇から「知藩事」に任命される,という手続きを経て,はじめて「藩」が“公式の行政区画”として位置付けられます。
そして1871(明治4)年の「廃藩置県」で「藩」が廃止されて「県」に置き換えられたのです。

この間,「国」は全くいじられていません。
“根拠法令”たる「養老令」は形式上は実に幕末まで行き続けて「王政復古の大号令」(慶応3年末,太陽暦では年が明けて1868年初)でようやく廃止されるのですが,「国」はとっくに政治上の実質を失って慣習上の地域呼称になってしまっていたので関係なかったのでしょうね。そしてそれっきり,そのまんま現在に続きます。
「郡」は1890年の「郡制」で府県と町村の間の“制度上”の行政区画として郡役所と官選の郡長,および郡会と郡参事会が置かれますが,1921年・1926年の2段階に分けて行政上の機関は廃止されました。以来,単なる地域呼称として現在に至ります。
そして「市」は「郡」に含まれないという規定により,市の増加とともに郡の範囲は徐々に縮小しているのです。
[59110] 2007年 6月 14日(木)21:39:39hmt さん
「国」という区画(1)ずっと昔の「国」
[58515] スピカ さん
港南区が武蔵・相模両国に跨っていますがどうしてでしょうか。

港南区の件に関する答えは、[58545] Issie さんの “たまたまです。”で尽くされているわけですが、せっかく「国」という区画の存在に注目したので、それがどのような区画なのかを考えてみましょう。

ずっと昔の「国」は、律令制度による「行政区画」でした。お題の武蔵国を例に取れば、現在でも「府中」という地名を残す国府があり、その長官(カミ)として、国司が任命され、口分田を耕す農民に租庸調を課していたわけですね。
相模国には、 淘綾(ゆるぎ)郡→中郡に「国府村」(現・大磯町)がありましたが、他の候補地もあり、相模国府所在地は未特定とか。

やがて、墾田開発のために特例が裏目に出て、「不輸・不入」の荘園が増殖して、公地公民制の律令政治は事実上崩壊します。
でも、建前としては有効だった律令に基づいて、国司の任官は続けられました。
「武蔵守」で有名なのは高師直です(実は武蔵権守?)。
相模守には、鎌倉時代の執権が名を連ねていますが、江戸時代の将軍は「武蔵守」ではありません。地方長官である「武蔵守」よりも、「令外官」である「征夷大将軍」の方が値打ちがあると考えて任官を拒否したのでしょうか。

そして、江戸幕府から「大政奉還」を受けた新政府は、王政復古の大号令(慶応3年12月9日=西暦1868年1月3日)で、
自今、摂関・幕府等廃絶、即今先仮ニ総裁・議定・参与ノ三職ヲ置レ
と仮の新体制を作りますが、まだ「律令制の廃止」は宣言していません。王政「復古」ですからね。

明治新政府組織の実質的な発足は、慶応4年閏4月21日の「政体書」 で、
天下ノ権力総テコレヲ太政官ニ帰ス則チ政令二途ニ出ルノ患無カラシム太政官ノ権力ヲ分ツテ立法行政司法ノ三権トス…
と宣言し、太政官の下の地方制度として、府藩県三治制を実施します。

すなわち、旧幕府直轄地のうちの重要地には江戸府・神奈川府などの「府」、それ以外の旧幕府直轄地には品川県・韮山県などの「県」、旧大名家領地には六浦藩(現横浜市金沢区)・荻野山中藩(現厚木市)などの「藩」が置かれます。
武蔵・相模の府藩県を例示している中に「韮山県」があるのを奇妙に思われるかもしれませんが、江川代官所(韮山)の支配地は、伊豆だけでなく、武蔵・相模・駿河・甲斐の各国に及ぶ広大なものだったのでした。

この政体書でも「養老律令を廃止する」と直接に宣言したわけではありませんが、「行政区画としての国」に代る府藩県三治制によって、建前だけでも有効だった「令制国」は、遂に引導を渡されたものと理解できます。

蛇足ですが、このように名目的にも律令体制から決別した新政治体制だからこそ、「太政官」の呼び方も、律令時代の「だいじょうかん」と異なる、「だじょうかん」なのでしょう。

[5567]Issieさんの記事も参照してください。
明治以降の「国」の領域は、豊臣秀吉による中央政権の下で行なわれた「郡」の再編成に伴なってほぼ確定したことが記されています。
[59112] 2007年 6月 14日(木)21:50:31【1】hmt さん
「国」という区画(2)明治になってから誕生した「国」もある
[59110]で記したような経過を経て、かつて行政区画だったいわゆる「令制国」が1868年に廃止されたわけですが、「地理的名称としての国」は存続します。
これは、一時行政区画だった「郡」が大正の末年に廃止された後も「地理的名称としての郡」として存続し続けているのと同様です。

# 郡の場合は、明治初期の戸籍制度から展開した大区小区制の後、「郡区町村編制法」(1878)で行政区画として復活し、市制・町村制より後の「郡制」(1890)とその全部改正法(1899)により、府県の出先機関と地方自治体としての性格を兼ねることになりましたが、「郡制」廃止(1923年施行)、郡長・郡役所廃止(1926)で、「行政区画としての郡」は消滅しています。

単なる「地理的名称」へと性格が変わった「国」ですが、消極的に存続しただけでなく、陸奥国・出羽国を分割して7ヶ国とし、北海道の11ヶ国も新設しています。

明治元年12月7日 太政官布告 第1038 奥羽両国ヲ七国ニ分チ国郡石高ヲ定ム
陸奥国を磐城岩代陸前陸中陸奥と五国に出羽国を羽前羽後と二国に分国被 仰付候條此旨可相心得事
(各国の範囲を示す郡名を列挙。明治2年の改正で、刈田郡は岩代国から磐城国へ所属替え)

明治2年8月15日 太政官布告 第734 蝦夷地ヲ北海道ト称シ十一国ニ分割国名郡名ヲ定ム
蝦夷地自今北海道と被称十一ヶ国に分割国名郡名等別紙之通被 仰出候事
別紙 北海道十一ヶ国 渡島国 後志国 石狩国 天塩国 北見国 胆振国 日高国 十勝国 釧路国 根室国 千島国(各国の郡名省略)

琉球国については、行政的には明治5年(1872)の「琉球藩」、明治12年(1879)の「沖縄県」設置により日本の一部としています。
北海道と同様の国名郡名を定めた布告は見当たりませんが、
明治15年3月15日 太政官達 沖縄県下琉球国首里城ヲ陸軍省ニ受領ス
という用例から見ると、地理的名称の「琉球国」も、「石狩国」などと同列であったと思われます。

江戸時代に存在した「国」の数は68国。「日本六十余州」と言います。「六十六州」というのは、壱岐嶋、対馬嶋を数えていないのでしょう。
明治になって奥羽両国が分割されて5増、北海道の11国を加えると84国。琉球まで入れて85国。

これで日本全国が「国」でカバーされたのかと思うと、「小笠原諸島」[26683]は、伊豆国でも武蔵国でもありません。
ここは、文久元年(1861)に咸臨丸派遣により回収をしたが、1863年に開拓移民を引き揚げてしまい、1875年明治政府による再回収と、いささか腰の据わっていないところがあります。いずれかの「国」に編入するだけの領土意識がなかった?

府藩県三治制や、その「藩」を「県」に置き換えただけの3府302県時代の行政区画は、飛び地だらけのモザイク状態( 兵庫県を例示 )であり、とても「地理的な広域名称」として使えるものではありませんでした。だから、「地理的名称としての国」の存在意義は十分にありました。

でも、廃藩置県から4ヶ月後には第1次府県統合によって、ほぼ昔の「国」に匹敵する広さの「県」が生まれます。
「山梨県」のようにちょうど「甲斐国」と同じ領域の県ができたにもかかわらず、おそらく意識的に「甲斐県」を避けたのは、どのような理由からでしょうね。

「行政区画たる県」と「地理的名称たる国」との区別を明確にしておきたかったからでしょうか。
[59116] 2007年 6月 14日(木)23:30:10むっくん さん
[59112]hmtさん
郡の場合は、1878年の「郡区町村編制法」で行政区画になった後、大区小区制で一旦消え、1890年の「郡制」で府県の出先機関として復活し、
本来#にレスするのは遠慮すべきなのでしょうが・・・。
滋賀県では郡というものが出来て以来、郡は消えたことはありません。また、大区小区制は1878年の「郡区町村編制法」施行で消滅しています。この2点から考えると、上記表記は誤りを含んでいるのではないでしょうか。
[59131] 2007年 6月 15日(金)19:01:42hmt さん
ご指摘を受け、コメント行「郡」を修正
[59116] むっくん さん
コメント行に取り違えた内容を書いていましたが、ご指摘を受けて修正しました。

戸籍編成の単位として設けられた明治初年の大区小区制は、地方制度としてはうまく機能せず、その失敗から「郡区町村編制法」で「郡」や町村を行政区画として復活したのでした。

滋賀県では郡というものが出来て以来、郡は消えたことはありません。

確かに明治政府が画一的な大区小区制度を押し付けた時代にも、「地理的名称たる郡」は生き続けていたのだろうと思います。
公式文書の表記が大区小区になっていても、長年使ってきた地理的名称の「郡」が、そう簡単に世の中から消滅しないであろうことはごもっともです。

どのような使われ方をしていたのか、具体的には知りませんが。
[59173] 2007年 6月 16日(土)19:08:31hmt さん
「国」という区画(3)20世紀まで事例のある「国界変更」
[58897] Issie さん
「令制国」という呼称について,どうしても違和感があって受け入れたくないのです

11世紀頃から実体を失い、明治になって名実共に廃止された律令制に基づく、建前上は「行政区画たる国」[59110]
近代国家の中で、新しい地方行政制度と共存しながら使われてきた「地理的名称たる国」[59112]

「令制国」という呼称が、前者に限定されるものならば、理解できないこともないのですが、後者(明治以後の「国」)を含めて使われる呼称だとすると、両者の区別をわざわざ混乱させているように思われます。
# 実は私は「令制国」という呼称を知りませんでした。目立って使用されるという“某所”がどこなのかもわかりません。

# [55523]で、天領を含めて使われる「藩政村」という用語に違和感を表明したことがありますが、近代を含めて使われる「令制国」に比べたら、こちらの方がずっと「まし」なようです。「幕藩政治体制下の村」の省略形ともとれますから。

それはさておき
「行政区画たる県」と「地理的名称たる国」と使い分けながら、両者を併用するやり方は、明治以後ずっと続きました。
そして、ある時期までは、後者を前者に整合させるための「国界変更」が行なわれました。

例えば [46981] “地勢図で「県界変更史跡」めぐり” で紹介した、江戸川と庄内古川(現・中川)との間の地、行政的には埼玉県でありながら、地理的な区域は「下総国」だった中葛飾郡。
明治29年法律第40号 埼玉県下国界変更及郡廃置法律 の中には次の項目があり(次頁です)、郡の廃置分合と共に、ここが武蔵国に所属替えになっています。
埼玉県武蔵国北葛飾郡及同県下総国中葛飾郡を廃し其の区域を以て北葛飾郡を置き武蔵国に属す

同じ記事に登場する「岡山県美作国」の石井村などが兵庫県に編入された事例では、「国界変更」が表面に出ていません。しかし、編入先が「兵庫県播磨国佐用郡」と明記されており、行政区画が兵庫県佐用郡に編入されると同時に、地理的名称も播磨国に変更されたものと理解できます。
明治29年法律第56号
第1条 岡山県及兵庫県の境界を変更すること左の如し
岡山県美作国吉野郡石井村を兵庫県播磨国佐用郡に編入し岡山県美作国吉野郡讃甘村大字中山を兵庫県播磨国佐用郡江川村に編入す
# 現・佐用町の北部で、3市町に跨る光都1丁目[59152]の20kmほど北のようです。

ついでに、同時に行なわれた福岡県・大分県の境界変更については、[47106]で“変更地は不明”としていたのですが、第2条でわかるように、山国川支流に関するものでした。国界変更とは無関係。

リンクした法令全書の右側のページには、「鹿児島県下国界並郡界変更及郡廃置法律」が見えます。明治29年法律第55号の冒頭部は1枚前にめくってください。
日向国南諸県郡が大隅国噌唹郡へ、大隅国北大隅郡(桜島)と菱刈郡とが薩摩国鹿児島郡と伊佐郡へと、いずれも郡の廃置分合と共に国界も変更されています。

このように、「地域名称たる国」の範囲を変更していたのは いつまでか?
少なくとも、20世紀になってから制定された法律にも「国界変更」がありました。
明治35年法律第14号
京都府丹後国与謝郡雲原村を同府丹波国天田郡に編入す

この事例を利用して、「国」に関する基準時点[58847]について 考察してみます。
既に、廃藩置県(明治4年)の前日[58852]とか、郡区町村編制法 か,あるいは 郡制施行 のあたり[58897]というご意見がありました。

私としては、「国境に跨る市町村」というテーマで考える場合には、「国境の基準時点」と「市町村の基準時点」とは同一であるべきだと考えます。
つまり、一方が「現在の市町村」なら、他方は「現在の国境」。もし「1900年当時の国境」を使うなら、「1900年当時の市町村」の領域から該当するものを拾うべきでしょう。

具体的な問題を挙げます。
現在の福知山市は丹波・丹後両国に跨っています。いつから両国に跨がることになったのか?
答えは2006年1月1日に丹後国である加佐郡大江町を合併した時からです。

ところが、1955年に福知山市に編入されていた丹波国天田郡雲原村を遡ると、上記のように1902年4月1日に丹後国与謝郡から丹波国天田郡に所属替えになったものなのですね。
つまり、国の基準時点だけを郡制施行や廃藩置県前に遡らせることになると、福知山市は1955年から丹波・丹後両国に跨っていたことになってしまう。
これでは、ちょっとおかしいというのが、私の意見です。

参考までに、中世の雲原村は丹波国天田郡だったようですから、中世基準時点に取れば、福知山市が両国に跨がるのは2006年ということになります。

たもっちさんの パラパラ漫画風市町村合併史 で、1902年に郡境(この場合国境でもある)の赤線が移動した雲原村を確認しました。
天座川は、雲原村から金山村へと東に流れるので、中世のように天田郡に戻すのが確かに自然ではありますが、この小さな山村の所属変更のためにわざわざ「法律」を制定するとは…。
[59178] 2007年 6月 16日(土)20:14:28hmt さん
「国」という区画(3.1)誤解を避けるためのコメント
[59173] hmt において、
「国境の基準時点」と「市町村の基準時点」とは同一であるべきだ
と記しましたが、この意見を他の方に押し付けるつもりはありません。

特に、[30496] いっちゃんさん の
市域が複数の旧国(幕末~明治初期)にまたがっている。
の場合は、明治の新体制になる前の 建前上は 「行政区画たる国」[59110]であると 比較対象を明確にしていますから、私が対象とした「地理的名称たる国」[59112](あえて言えば「現在の国」)とは全く異なり、前者を「(投稿当時における)現在の市」と対比することはおかしくありません。

私が例示した「丹波国天田郡雲原村」(1955年福知山市に編入)についても、これを先に例示された[30517] 今川焼さん の記事では“旧国(幕末~明治初期)”基準ですから、
旧丹後国に属していました。(旧与謝郡雲原村)
で、正しいわけです。

この2つの記事の当時は、丹後国加佐郡大江町に福知山市域が及んでいなかったので、旧雲原村の存在がポイントになったのでした。
[59199] 2007年 6月 17日(日)16:46:53hmt さん
「国」という区画(4)明治以降の使われ方
ずっと昔からあった国[59110]が、近代国家の中で性格が変り、新設されたり[59112]、境界変更があったり[59173]しました。

「地域名称たる国」は、20世紀になってからも、しばらくは広域地域名称として普通に使われていたようです。
夏目漱石の「坊ちゃん」に登場する“日向の延岡”や、 「我輩は猫である」の“ 肥前の国は唐津の住人多々良三平君”を例示した記事 [47036]を書いたことがあります。

ところが、住所表記として行政区画の「県」の使用が定着したためか、「国」は次第に広域地域名称の地位を奪われ、「国の化石」状態に移行してゆきました。

日常の会話における「国名」の使用が稀になりつつある現代において、国名の保存に貢献?しているものの一つに、鉄道の駅名や線路名称があります。
多くの地域で、鉄道駅名に冠される広域地名としての「国名」の使用は、本州・九州・四国のほぼ全域62ヶ国(岩代[47045]を含む)に及びますが、「上野こうづけ」だけは例外です[47036]
JRにない「志摩」も、「国名愛好家」の近鉄のおかげで入っています。美乃坂本、播州赤穂、上州富岡の類もあります。
会津・伊那・津軽など国名に準ずる広域地名を使った駅もありますが、「岩手」[47045]と「群馬」以外の県名は、使用例 (岐阜羽島、愛知御津)が少ないようです。

「国名」が、意外に多用されているのが「市の名前」ではないでしょうか。
泉大津、泉佐野、大和郡山、大和高田、豊後高田、陸前高田、安芸高田、…のように頭に国名を付けて先輩の都市と区別する正統派。
そのものズバリの国名を名乗ってしまった日向市、長門市、美濃市、伊予市、…。でも、安芸市は安芸国でなくて、土佐国でした。
いわき市、さぬき市のように、かな書きも出現。
伊豆市と伊豆の国市、淡路市と南あわじ市、そして、甲斐市と甲州市となると、大先輩の甲府市をさしおいて国名の取り合い。

このように、「国名由来の造語」は行なわれていますが、国名自体が日常で使われなくなっている傾向は、紛れもありません。
そして、行政区画の変更があっても、かつては行なわれた「国界変更」の手続きが行なわれなくなりました。

備前福河など戦後の県境変更事例[54264]の多くが、これに該当します。事例のすべてが「国界」というわけではないし、逆に県境でない「国境越しの合併」もあるわけですが、とにかく行政界が「国界」の存在を意識しなくなったことも、国境に跨る市町村を生み出す一因になっています。


もともと、「行政区画たる都道府県市区町村」と「地理的名称たる国」とは別体系の区分[5567]ですから、「たまたま」国境に跨ることになっても、実用的には何の不都合もないことです。
趣味的に該当する箇所を列挙してみたり、その来歴を考察して面白がる程度のことでしょう。

社会科の地図帳や市販の多くのアトラスにも「国界」が表示されていないようです。
地図の元締め・国土地理院の地形図にさえ表示されなくなっています。ずいぶん前のことかな?
「二十万分の一地勢図」だけは、国界を表示してくれています。しかし、[17073] YSKさんの記事にあるように、作業ミスもありました。国界のミスではないのですが、[46981]で記した石徹白や神坂の事例のように、新しい県界の方がきちんと記入されていない例もありました。

一応、 国にまたがる市区町村 の記事を集めておきました。
[59238] 2007年 6月 18日(月)22:44:06オーナー グリグリ
現代における国名の使われ方
[59199] 2007 年 6 月 17 日 (日) 16:46:53 hmt さん
日常の会話における「国名」の使用が稀になりつつある現代において、国名の保存に貢献?しているものの一つに、鉄道の駅名や線路名称があります。
(中略)
このように、「国名由来の造語」は行なわれていますが、国名自体が日常で使われなくなっている傾向は、紛れもありません。
とのことですが本当でしょうか。まだまだ旧国名は日常的に生きていると思います。

「加賀」「能登」「若狭」については地域を特定するために、日常的に現代も使われ続けているように思います。とくに石川県の場合、地元の会話においても加賀、能登は頻繁に使われます。出身地や居住地などを特定する場合に、石川県よりも加賀や能登の方が頻度高く使われる、もしくは意識して使うような気がします。若狭はさらにその傾向が強くないでしょうか。若狭以外の福井県の場合(つまり越前ですが)は、越前よりも福井県の方が使用頻度は高いと思うのですが、若狭の場合は圧倒的に若狭ではないかと推測します。

加賀と能登を比較した場合も、加賀よりも能登の方がこの傾向が強いでしょう。加賀は加賀市を特定する場合にはまず使いません。加賀市を特定する場合は加賀市ですが、日常的にはあまり使わないと思います(大聖寺、動橋など主要地域名を使う)。能登は半島名からの特定のように思われるかもしれませんが、地元の感覚では旧国名ですね。

さて、他の地域に目をやってみると、伊豆や志摩は能登や若狭と似た状況でしょうか。大隅と薩摩、尾張と三河、美濃と飛騨、周防と長門などはどうなんでしょうか。加賀と能登ほどの日常性はないのかなとも思いますが比較は難しいですね。佐渡や対馬などは旧国名というよりもむしろ島名に引っ張られているように思います。また、土佐、甲斐、近江など現在の県域と同じ場合は、県域を特定するという日常性はなくて、文化的伝統的に旧国名を意識して使う場合かなと考えます。

以上、故郷を離れて既に30年が過ぎているので、現在の状況はよく分かっていません。いかがでしょうか。
>EMMさんほか地元の皆さん
[59243] 2007年 6月 18日(月)23:39:39Issie さん
国は生きている?
[59238] グリグリ さん
まだまだ旧国名は日常的に生きていると思います。

一言で言えば,「生きている」ものもあれば,そうでないものもある,ということなのだろうと思います。

たとえば,千葉県と茨城県に分断された「下総」,埼玉県と東京都と神奈川県に分断された「武蔵」。
「下総」や「武蔵」という呼称で,旧国の領域全体を“一まとまりの地域”と理解されることは,現代ではないように思います。
少し以前から話題になっているように,神奈川県における武蔵と相摸の境界を「正しく」理解している人はそう多くはないでしょう。

複数の府県に分断された「国」の中で「丹波」はまだ“一まとまりの地域”としてイメージできそうな気がしますが,これは例外であって,
たとえば,三重県の南西部が「紀伊」であることを知っていても,「紀伊(紀州)」と聞けばまずは 和歌山県 が想起され,和歌山県の紀州と三重県の紀州とを“一体的”な地域とイメージする人は今では恐らくは少ないのではないでしょうか。

今現在でも「国」という区画が“生きた”ものとして使われているのは,
たとえば,信濃(信州)≒長野県,上野(上州)≒群馬県,甲斐(甲州)≒山梨県 のように「国」の領域と県の領域がほぼ一致する場合,
あるいは,加賀+能登=石川県,越前+若狭=福井県,尾張+三河=愛知県,遠江+駿河+伊豆=静岡県 などのように,いくつかの「国」のほぼ全域が統合されて1つの県となり,それぞれの「国」が現在でも県内を下位区分する地域として有効な“まとまり”としての性格を失っていない場合の,いずれかであるように感じます。

一方で,たとえば 新潟県 では,「佐渡」対「越後」 という区分よりは,越後をさらに細分して 「佐渡」「上越」「中越」「下越」に4区分する方が現在では有効であるように感じられます。

ここでは一見,「旧国」が現在でも“生きた区画”として使われているように見えますが,そこにはまず「県」という大区画があって,それを下位区分する際の単位として“昔の国”が使われているのであって,かつて「六十余州」に我が国を分かった“全国的な区分”としての「国」とは性格の違うものであるように思います。
…もっと言えば,たまたま“昔の国”を県内の区分に使っているに過ぎない,と言えなくもない。

以前にも話題にした記憶がありますが,こんな場合もあります。
天気予報の地域区分は,地域性といった“人文的要素”だけで行われるわけではなく,何より気象(気候)という“自然的要素”を背景に行われるものですが,

・福岡県の「筑後地方」には「筑前」の 朝倉市・朝倉郡 が含まれます。
・鹿児島県の「薩摩地方」には「大隅」の 霧島市・姶良郡 が含まれます。

ここで「筑後」「薩摩」とは,あくまで福岡県や鹿児島県を下位区分する区画の呼称であって,必ずしも「旧国」と一致しなければならないものではない,ということを表わした例とも考えることができそうです。

ここに見られるのは,都道府県>旧国 という“力関係”ないしは“包摂関係”であるように思うのです。
[59245] 2007年 6月 19日(火)00:04:27まるちゃん さん
周防と長門
[59238] グリグリさん
大隅と薩摩、尾張と三河、美濃と飛騨、周防と長門などはどうなんでしょうか。加賀と能登ほどの日常性はないのかなとも思いますが比較は難しいですね。

私の地元の周防、長門について言えば、加賀と能登ほどに日常的に使うことはないと思います。周防、長門にほぼ一致した地域区分で思い浮かぶのは、衆議院選挙の昔の中選挙区時代ぐらいのものですかね。(周防;山口2区、長門;山口1区)
山口県では、山陽・山陰(北浦ともいいます)で分けるか、県西部、県東部などの言い方の方がまだ一般的ではないでしょうか。
特に長門地域との表現であれば、旧大津郡、現長門市域をほぼ指すことになってしまうし、むしろ、旧国名を使用したものでは、周防と長門を一つにした、防長○○(防長路など)の方が目にするかも。。
[59247] 2007年 6月 19日(火)00:33:21【1】オーナー グリグリ
生きている国名もある
[59243] 2007 年 6 月 18 日 (月) 23:39:39 Issie さん
一言で言えば,「生きている」ものもあれば,そうでないものもある,ということなのだろうと思います。
はい、[59238]は、hmt さんの「国名自体が日常で使われなくなっている傾向は、紛れもありません」に対して、まだ日常的に「生きている」国名もあると言いたかったのです。[59243]のIssieさんの考察「まず「県」という大区画があって」はその通りだと思います。そう言う意味では、確かに丹波は特別かもしれないですね。

今現在でも「国」という区画が“生きた”ものとして使われているのは,
たとえば,信濃(信州)≒長野県,上野(上州)≒群馬県,甲斐(甲州)≒山梨県 のように「国」の領域と県の領域がほぼ一致する場合,
あるいは,加賀+能登=石川県,越前+若狭=福井県,尾張+三河=愛知県,遠江+駿河+伊豆=静岡県 などのように,いくつかの「国」のほぼ全域が統合されて1つの県となり,それぞれの「国」が現在でも県内を下位区分する地域として有効な“まとまり”としての性格を失っていない場合の,いずれかであるように感じます。
丹波もそうですが、河内や摂津なども上記の枠組みから外れるケースではないでしょうか。

また、[59238]の繰り返しになりますが、土佐、甲斐、近江など現在の県域と同じ場合は、県域を特定するという日常性はなくて、文化的伝統的に旧国名を県名の代わりに意識して使う場合であり、必然性があるかないかという視点からは、加賀と能登などのケースとは微妙に違うのではないかと思います。
[59253] 2007年 6月 19日(火)01:20:16今川焼 さん
「生きている国名」ですが・・・
[59243]Issie さん
複数の府県に分断された「国」の中で「丹波」はまだ“一まとまりの地域”としてイメージできそうな気がしますが,
京阪神地区から見て北側の、「日本海に面した丹後・但馬より手前の山地と小盆地の点在する地方で松茸とか栗とか猪とかの産地」を漠然とイメージする地域名としては、まだ何とか残っていると思います。あくまでイメージとして。
しかし、実際にはそれぞれの府県ではその下位区分として使われていることの方がずっと多いように感じます。そこが京都府か兵庫県かで、「丹波」と言った場合、指し示す地域はそれぞれの府県内の「丹波」に限定されています。(例えば京都新聞で単に丹波と言えば京都府内を、神戸新聞なら自動的に兵庫県内の丹波を指すというように)まさに
ここでは一見,「旧国」が現在でも“生きた区画”として使われているように見えますが,そこにはまず「県」という大区画があって,それを下位区分する際の単位として“昔の国”が使われているのであって,(中略)…もっと言えば,たまたま“昔の国”を県内の区分に使っているに過ぎない,と言えなくもない。
と言うことですね。
しかし、両府県で同じ名称を使っていれば問題がおきることもあります。市名決定に際し擦った揉んだがあった「丹波市」もそうでした、兵庫県の丹波地方の2郡のうち多紀郡は合併に際し市名に「篠山」を選びました。それなら残った氷上郡が「丹波」を名乗っても問題ないだろうと考えた人達にとって、京都府側の丹波は全く眼中になかったし、兵庫県の丹波地方が丹波国の西側に位置するから「西丹波市」にしようと言う発想もありませんでした。
[59254] 2007年 6月 19日(火)01:37:31EMM さん
地元ネタ2題
[59236] オーナー グリグリ様
金沢のレンコンというと八田みみずの八田辺りが産地だと思っていたのですが、調べてみると、旧小坂村が産地だったんですね。それとも小坂村周辺として八田も産地に含まれているのでしょうか。
加賀れんこんの概要については金沢市農産物ブランド協会と言う団体が作っているいいね金沢 加賀野菜と言うHP中のれんこんの説明ページが分かりやすいです。
栽培が始められた江戸時代は大樋町付近での栽培だったので「大樋れんこん」、明治に入り小坂村内で広く栽培されるようになり「小坂れんこん」、後に県外出荷される分は「加賀れんこん」とも呼ばれるようになっています。
小坂村内でも元々は小坂・三池・神宮寺・大衆免(現・元町付近)・浅野と言ったあたりが主な栽培地だったのですが、金沢の市街地が拡大するにつれて浅野川に近い方はレンコン田が無くなっていき、その代わりに小坂村でも北の方…現在の千坂小学校校下の方に広がっていったようです。
それでも長らく小坂町・三池町が栽培の中心だったのですが、小坂町はここ20年ほど、三池町にしてもここ10年ほどの間にレンコン田が激減してしまい(かろうじて0ではない)、旧小坂村域での現在の栽培の中心は横枕町・金市町・千木町付近…丁度金沢東インターの周辺…となっています。
現在は旧小坂村以外の地域…薬師谷とか、才田とか、津幡町とか…にも広まっていますし、小坂地区の農家が河北潟に出耕作もしていたりもするので、「小坂れんこん」という名称はあまり使われなくなり、出荷箱は全て「加賀れんこん」となっています。
八田町は…産地としては挙げられてませんね。でもレンコン田が1~2枚ぐらい有るのは見た記憶があります。多分作られ始めてからそんなに経ってないんじゃないかと。
私の子供時代には金沢近郊で蓮根栽培が盛んだったことから、煮〆(煮しめ)として普通に蓮根が食卓に上りました。シャリっとした歯応えと糸を引く様が面白く大好きな食材の一つでした。故郷を離れてからはなかなか美味しいレンコンに出逢えていません。
現在こちらで作られている品種は‘支那白花’と言う品種で、歯ごたえよく、デンプン質が多くて粘りが強く、味は天下一品…と言われています。
(他の品種と食べ比べたことがないのでどの程度なのか分かりませんが)
この品種は昭和40年代に‘支那蓮種’と言う品種から選抜育成されたと言うことで、グリグリさんの子供時代だとギリギリ品種の切り替わりの境目頃かもしれません。
そう言えば手持ちの資料に千葉県でもこの品種でレンコンを作って居るところがあるようなことを書いてあったのですが、原稿がちょっと前のものなので今でも作っているかどうかは分かりません。
その後、結婚したあとのおせち料理に「酢ばす」が出てきてハス(蓮)を食品名に使う例を知りましたが、これ以外には思い当たりません。「ハスの天ぷら」ではなく「レンコンの天ぷら」がフィットしますね、私は。
石川だと酢れんこんですね。
他の料理でも「れんこんのみそ汁」とか「蓮根羹」とかとにかく「れんこん」なのですが、唯一「はす」が使われる料理がありました。
それは「はす蒸し
なぜこれだけが「はす」なのかは謎。他から入ってきた料理法なのかも???

#余談ですが、グリグリさんの文中にチラッと出てくる「八田みみず」。
何者かをご存じの方はほとんどいらっしゃらないと思いますが、このハッタミミズというのは体長60cm~1mも有る長~いミミズで、日本では金沢市八田町付近の水田にしか生息していません。
同種のミミズはフィリピンやインドネシアなど東南アジアに生息しているそうで、江戸時代の加賀の豪商・銭屋五兵衛が東南アジアと密貿易を行う中で持ち込んでこの地に定着したのでは?と言う説もありますが、具体的なところは不明です。(参考ページ

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[59238] オーナー グリグリ様
とくに石川県の場合、地元の会話においても加賀、能登は頻繁に使われます。出身地や居住地などを特定する場合に、石川県よりも加賀や能登の方が頻度高く使われる、もしくは意識して使うような気がします。
加賀と能登を比較した場合も、加賀よりも能登の方がこの傾向が強いでしょう。加賀は加賀市を特定する場合にはまず使いません。加賀市を特定する場合は加賀市ですが、日常的にはあまり使わないと思います(大聖寺、動橋など主要地域名を使う)。能登は半島名からの特定のように思われるかもしれませんが、地元の感覚では旧国名ですね。
今でもそんな感じです。特に能登の人、中でも奥能登方面の人と接していると感じますね。
加賀方面は「加賀と金沢で更に分けられる場合がある」「加賀市という名称もある程度定着してきてして、加賀…で加賀市を指すような会話も時になされる(とは言ってもやはり大聖寺、山代、山中、橋立、塩屋、…と言った旧町村名を使う方が多いような。動橋は使われる頻度が低くなってるかも…)
そりゃ性格的には「石川県の下位区分の地域割り」的な使われ方になってますし、その境目は旧国境と違ってかほく市と羽咋郡の間になっちゃってますし、どうにかすると衆議院選挙の選挙区の関係で河北郡・かほく市が「中間地域」的な扱われ方することもありますが、それでもなお石川県における「加賀」「能登」は旧国を引きずったものである、と捉えて良いと思います。
この場合の「能登」が「能登国」か「能登半島」か、と言うのも問われるだろうと思いますが、地形的に能登半島に入る氷見市はあくまで「越中」で、「能登」ではない…と言うのが石川の人間の感覚ですので、やはり「能登」は「能登国」由来の地域区分なんですね。
でもこれ以上のことは…上手く言葉で説明できないんですが、とにかく石川県における「加賀」「能登」という地域区分は「県>旧国」でもあり「県<旧国」でもあるとしか言いようが無いです。
この辺の感覚は、何というか、石川の人間、特に能登の人と直に接してもらって感じてもらうしかない…と言ったところでしょうか。

#でも旧国が隣県と跨る形にならなかったからこそ今でも旧国を引きずっている、と言うことなんでしょうね、多分。

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おまけ。
[59252] ぺとぺとさん
この重複、EMMさんに[59207]でやんわりと指摘されるまで全く気付いていませんでした。せっかく、関連記事をまとめていただいたのに恐縮至極です。。。
白状しますと、[59161]は中身を見落としてました。
[59205]を見ていろいろと調べているうちに、「そう言えば軽井沢だかどっかあっちの方の物件の投稿記事を見て回りを見渡していたら何か見つけたのを書いてなかったぞ」というのを思い出して[59207]の後半を書き足したのでありました(汗)。
[59271] 2007年 6月 19日(火)20:03:00【1】hmt さん
現代に生きてる国名
現代に生きてる国名 に関するご意見、ありがとうございました。

[59199]で、“国名自体が日常で使われなくなっている傾向”と書いたのは、全国的にあてはまることではないようですね。

私の地元での日常感覚は、[59243] Issieさんの発言にある
「武蔵」という呼称で,旧国の領域全体を“一まとまりの地域”と理解されることは,現代ではない
ということなのですが、「県」という大区画の下位区分としての使い方にしても、[59238] グリグリさんが示されたように、「能登」や「若狭」という “国名自体を 日常で使っている” のだとすると、国名不使用は全国的な傾向ではなく、地域差が存在するということのようです。
[59254] EMMさん の記事を見ると、「能登」と「加賀」でも使い方に地域差がありそうだし…

府県で分断された「丹波」が、県境の両側で“別々の丹波”として使われているという[59253] 今川焼さん の記事も、興味深く拝見しました。

「国名」ではないのですが、“別々の丹波”から思い出したのは、「葛飾」という広域地名の運命です。
もともと下総国葛飾郡だった区域が、江戸時代に下総国葛飾郡と武蔵国葛飾郡になり、明治11年に、下総国葛飾郡は千葉県(東…)、茨城県(西…)、埼玉県(中…)に、武蔵国葛飾郡は東京府(南…)、埼玉県(北…)と5つの葛飾郡([755] Issie さん)と東京府の2区(本所・深川)に分かて編制されました。

茨城県西葛飾郡は1896年施行の郡制で猿島郡に編入されて消滅。
本家格の千葉県下総国東葛飾郡でさえ、9市(市川・船橋・松戸・野田・柏・流山・我孫子・鎌ヶ谷・浦安)の出現で領域を狭めたあげく、平成の合併により遂に2005年消滅。
武蔵と下総に分かれていた埼玉県の区域は、北葛飾郡として統合後、三郷・幸手・吉川各市の出現や庄和町の編入で狭まりましたが、まだ存続。
東京府は、郡部として残った地域も1932年に東京市に編入されて更に4区が誕生しますが、そのうちの一つが、「葛飾区」として現存します。寅さんの葛飾柴又[59285]はここ。

その結果、本来「下総国」だった「葛飾」という広域地名は、行政区画としては、その一部が東京都・埼玉県に、“別々の葛飾”として残存することになっています。
ところで、江戸川よりも東の地域では、“また別の葛飾”であるという感覚は、現在も生きているのでしょうか?

【追記】
[59285] 役チャンさんご紹介の京成電鉄「葛飾」駅の改称は、本家葛飾がその地位を失墜したことを感じさせます。
それにしても、「西船」とは!! あまりにも大きな落差に唖然。
[59296] 2007年 6月 20日(水)22:08:04オーナー グリグリ
日常に残る旧国名
[59271] 2007 年 6 月 19 日 (火) 20:03:00 hmt さん
現代に生きてる国名 に関するご意見、ありがとうございました。
hmtさん、記事のまとめをありがとうございます(アーカイブズリニューアルを進めなくっちゃ_o_)。
「現代に生きている国名」でもまったく問題ないのですが、私は表題のように「日常性」を強調したいですね。旧国名を継承した自治体名とか、[59276]でYSKさんが書かれているような旧国名の一字を継承したような地域区分にまで話を広げるのではなく、旧国名そのものが地域名として日常的に使われている事例をまとめてみたいなと思った次第です。これまでの議論と私なりの判断をもとに整理してみると(かなり強引ですが)以下のようになります。

1.旧国名が地域名として日常的に使われている
・伊豆(地元の方による検証はありませんが異論はないでしょう)
・能登
・若狭(地元の方による検証はなし)

2.旧国名が地域名として準日常的に使われている
・加賀
・三河(日常的にランクアップしても良いかも)
・尾張
・飛騨(これはどうでしょうか、自信なし)
・河内
・丹波(京都府と兵庫県に跨る広域の用法はまれ)
・土佐(高知県で代替できるので必然性はない)

豊橋出身の人に聞いたところ、三河は日常的に使うし尾張も使うとのこと。岐阜県の場合、飛騨は使うかもしれないが美濃は使わないと断言していました。静岡県では伊豆は文句なしだけど、駿府や遠江は使わないなぁとのこと。西日本については感覚的にもつかめてないのですが、志摩、丹後、出雲、石見、日向などが気になります。

河内については、大阪に住んでいたときに頻繁に「俺は河内の人間やから」という会話を聞いた影響です。反対に「私は摂津の住人です」は聞きませんでした。また、土佐を入れるのなら讃岐や伊予だってと思いたくなりますが、「出身は?」と聞いて「高知県、土佐です」という反応はかなりの確率でありますが、「愛媛県、伊予です」「香川県、讃岐です」は聞いたことがないです。そういう意味では、「愛知県ですが三河です」もよく聞きます。
[62763] 2007年 12月 3日(月)21:49:09【1】hmt さん
北海道の地名表示書式 (5)明治になってできた北海道の「国」は、広域地名として根付く
「本籍地の表示書式」から話題を拡大して、北海道において「国」という広域地名につき考察します。

明治の初期における「府県」は、「近代国家の地方行政組織」つまり「出先機関」の名称であるという認識だったと思われます。
その「府県」の管轄する区域(行政区画)を表す言葉としては、「○○県管内」とか「○○県下」とかがありましたが、次第に「行政区画」そのものを単に「○○県」と呼ぶ使い方が広がってきたようです。

これに対して、広域の「地理的名称」は「国」でした。歴史を遡れば、これも「律令国家の地方行政組織」であり、「行政区画」であったわけですが、政治の仕組みの変化に伴なって、意味あいが変わったのですね。

さて、北海道。
そもそも律令時代には「国」などなかった蝦夷地を北海道と改称し、11国86郡を新設したのは明治の新政府でした[59112]
明治2年8月15日 太政官布告 第734 蝦夷地ヲ北海道ト称シ十一国ニ分割国名郡名ヲ定ム
蝦夷地自今北海道と被称十一ヶ国に分割国名郡名等別紙之通被 仰出候事
別紙 北海道十一ヶ国 渡島国 後志国 石狩国 天塩国 北見国 胆振国 日高国 十勝国 釧路国 根室国 千島国(各国の郡名省略)

「国」を制定した経緯については アーカイブズ もありますが、“日本の領域”として正式に編入[46273]したこの地域には「日本の地名」を付ける必要があり、松浦武四郎の提言 などを取り入れて命名したものでしょう。
なお、全体の地域名である「北海道」という名も、松浦武四郎が 北海道々国郡名撰定上書 で提案した6案中の「北加伊道」の「カイ」の文字を修正して採用されたものとされています。「カイ」は「蝦夷」の音読みにも通じます。
いずれの資料も、[46207] 北の住人さん がリンクしています。

それはさておき、明治政府においては、行政機構が「国」を単位として整えられることはなく、北海道においても、「国」は「地理的名称」に終始しました。
行政機構として、他の府県では明治11年に「三新法」が施行されますが、開拓使時代の北海道では、(府県会規則、地方税規則は除外され、)「郡区町村編制法」だけが、1年遅れの明治12年7月に施行されます。

これにより 明治13年に90郡区826町村に設けられたのは、2区役所(札幌・函館)、19郡役所、136戸長役場ですから、郡も町村も一つ一つが独立した行政区画ではなかったことがわかります。

このように、開拓使の下に90もの小さな郡区が存在していた北海道において、「11ヶ国」は広い地域を示すのに適切な「地理的名称」として根付いたものと思われます。
この点、明治元年に設定された奥羽7ヶ国[59112]が、「三陸」の地理的名称や「陸前高田市」「羽前千歳駅」などの同名回避符合に跡を留める程度で、実質的な広域圏を形成せず、「県」の陰に埋没したのと、かなり異なる経過をたどったようです。

明治15年に開拓使が廃止されると、函館・札幌・根室の3県が設けられます。これらの「県」も「3県1局」[276]という併称が示すように「行政組織」なのですが、既にこの頃になると国名に冠した地名的な用法を見ることができます。
例えば 明治18年工部省第25号告示
今般札幌県北見国宗谷郡宗谷村の内宗谷岬に建設したる灯台に於て…点火す


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