「内房/外房」という呼称(「ないぼう/がいぼう」期も含めて)がいつから行われ始めたのかはよくわからないのですが(さほど古くはなかろうと思います。少なくと明治以前にさかのぼることはないように感じます),これは基本的に海岸部についての呼称であって,内陸部についてはあまり用いられてこなかったような気がします。
だから,たとえば大多喜が「外房」で,久留里が「内房」というと,ちょっと違和感を感じないでもありません。
[19822] 月の輪熊 さん
大多喜署から勝浦署が分離し、のちに大多喜署が廃止されて勝浦署管轄になった
いつの間にか,そうなっていたのですね。
とはいえ,勝浦が“夷隅地域唯一の市”であったとしても,夷隅地域を代表するかというと多分に怪しいよな,とは思います。
むしろ市になって以降,勝浦の市勢は後退気味のような感じを受けるのですが,勝浦は“夷隅地域の中心”としてではなく,漁業を背景に“自力”で市になった,というイメージがあります。
位置的にも,夷隅地域の中ではかなり偏った位置にありますよね。
市域こそ隣接各村を編入して夷隅川上流域に及んでいるけれども,勝浦市街そのものは山を背に勝浦湾に臨んだ海岸部にあって,夷隅地域(郡内)の他町村との間に“壁”がある感は否めません。
夷隅地域(外房市予定地域)全体の広がりから考えれば,大原が市役所予定地というのは妥当なもの,と感じます。
それにしても,こうして「大多喜」が自治体名から姿を消すのですね。
房総半島の“くびれ”以南の「3大城下町」のうち,黒田家3万石の城下町であった「久留里」が「君津市」となって久しく(1970年の合併当時は「君津町」。それ以前,1954年の松丘村との合併以降は「上総町」),今また,家康の関東入部に伴って入封した本多平八郎忠勝に始まり,元禄末以降は大河内松平家2万石の城下町であった「大多喜」も姿を消すわけですか…。
千葉県北端の城下町「関宿」も自治体としては姿を消したばかりで,一面さびしくはありますね。
ちなみに,南房総のもう1つの城下町は館山。
戦国以来の里見氏の城下町(久留里と大多喜というのは,関東に移転したばかりの家康にとっては「仮想敵」である里見氏に対する前線基地なのですね。北総の方では,同じく仮想敵である水戸の佐竹氏に対するシフトで配下の有力武将が配置されています)であったけれども,大坂の陣を前に徳川にとっては念願かなって里見氏を伯耆倉吉に追い払い(ほどなく改易),しばらく城下町の地位を失いますが天明年間に稲葉家1万石の城下町として復活。ただし「お城」は復活せず,陣屋が置かれたようです。
(数週間前の「子連れ狼」で拝一刀父子が「館山藩」に来ているのですが,これは復活した稲葉家館山藩なんでしょうかね。)
ただし,鉄道駅や市役所その他,現在の館山市の中心市街地は“本来の「館山」”ではなくて,隣の「北条」にあります(鉄道駅は当初,「安房北条」という名前でした)。
実は館山藩がなかった間,寛永年間から文政年間までは途中一時期の中断をはさんでこちらに大名が配置されていた(前期:屋代家1万石,後期:水野家1.2~1.5万石)わけで,つまり,以来館山と北条はライバル関係にあるのですね。
私,館山はじっくりと歩いたことがないのですが,久留里も大多喜もゆっくり歩くと大変に趣のある町です(もっとも市街地として残っているのは,街道に沿ったかつての町人町の区域だけですが)。