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長崎県西彼杵郡淵村の消滅時期について

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[58149]2007年4月25日
むじながいり
[58172]2007年4月26日
88
[58201]2007年4月29日
むじながいり
[58221]2007年4月30日
oki

[58149] 2007年 4月 25日(水)19:11:29むじながいり さん
淵村はいつ消えたのか
>88 さん
長崎県西彼杵郡淵村の消滅時期が資料によって分かれていまして、ちょっと相談させて下さい。市区町村変遷情報では1920/10/01に長崎市へ編入とされています。しかし、1898/10/01に長崎市へ編入し消滅しているとする資料もあります。

A.1898(明治31)/10/01に消滅
(1)『角川日本地名大辞典 42長崎県』1991年
(2)『長崎市制六十五年史 前編』長崎市役所 1966年(図の部分)
ただし、本文では拡張区域として、明治31年淵村一部表示。1920年に淵村編入の記述なし。
(3)長崎市役所公式サイト内資料(PDF)

B.1920(大正9)/10/01に消滅
(4)『幕末以降市町村名変遷系統図総覧』原書房 1995年
(5)『新版 全国市町村名変遷総覧』日本加除出版 1999年
(6)『市町村名変遷辞典 補訂版』東京堂出版 1994年


このように分かれる原因となったのは1898/10/01の合併or境界変更にあると思います。

1898/10/01
・淵村の一部が長崎市へ編入
・淵村の一部が浦上山里村へ編入

この変更についてはA,B両者とも共通しています。つまりここで淵村に残余部があったのかどうかということが問題になります。(1)(6)の資料ではどの範囲が編入されたか書かれていました。どちらも浦上山里村への地域は「寺野郷」、長崎市への地域は「竹ノ久保郷、稲佐郷、船津郷、平戸小屋郷、飽ノ浦郷、水ノ浦郷、瀬ノ脇郷、岩瀬道郷、立神郷、西泊郷」で一致していました。さらに(1)で明治22年時の行政区として記されていた郷は、分立した小榊村部分を除き上記11郷と一致しています。実際、明治22年時の淵村と現在の大字を比較する限り、1898年に編入された11郷というのは淵村のほぼ全域にわたっていると思われます。以上のことから私はAが正しいのではないかと推測していますが、いかがでしょうか?
[58172] 2007年 4月 26日(木)23:15:4988 さん
長崎県淵村はいつ消えたか? その変遷資料も消えた!?
すみません。今回は「後入れ先出し」でレスします。

[58149] むじながいり さん
淵村はいつ消えたのか
ご紹介いただいた文献のうち、(4)(5)(6)は私も所有していますので(版が異なるものものはありますが)、確認しました。
なお、補足すると「旧市町村名便覧」(1999年4月、日本加除出版株式会社出版部編、日本加除出版) では、Aパターンでした。それによると、1898(M31)年の浦上山里村及び長崎市への編入地区の説明は、ご紹介の(1)(6)と同じでした。で、
つまりここで淵村に残余部があったのかどうかということが問題になります。
ですが、むじながいりさんご紹介の(1)はさすがに手元にないので不明なのですが、今までにいろんな資料を見てきた”勘”からいくと、むじながいりさんの推測どおりの可能性は高いと思います。
一点気になるのは、現在の長崎市淵町の存在。Bパターンが事実であると仮定すると、ひょっとするとここが最後まで残った淵村なのでは?と思ってしまいました。まあ、現在の稲佐町や竹の久保町に挟まれたところにありますから、1898(M31)年に長崎市に編入された箇所だとは思うのですが・・・。この町名の由来(変遷)が分かれば、もっと明白になるかも、と思いましたがいかがでしょうか?

―――――――――――――――――――――――――
今後の投稿(レス)予定です。
(1)「府藩県一般戸籍ノ法」、大区小区制、など
(2)郡区町村編制法 など
(3)藩政村 など
[57479] 拙稿でも(1)(2)については少し触れたのですが、今回いろいろな資料を見ていると、新たな発見もありました。補足したい内容もありますので、現在準備中です。
また、「大区小区制など、郡区町村編制法、藩政村を市区町村変遷情報でどう取扱うか」についても、案をお示ししたいと考えています。
[58201] 2007年 4月 29日(日)08:55:18むじながいり さん
淵村は1898年に消えたんじゃん?
昨日は国会図書館に行ってきたわけですが、システム障害で紙に書いて申し込みしたりとかでした。電子化する前はこんなんだったのかなとか思いつつ、効率悪いったらありゃしない。

[58149]自分
[58172]88 さん
さすがに町名の由来となると資料がなくて調べられませんでした。改めて別の資料を探してみると、『長崎県市町村便覧』(長崎県市町村振興協会,2006/03/31)ではAパターン(1898年消滅)でした。そして、かなり決定的?と感じた資料が、日本地図センターが発行している『地図で見る長崎の変遷』(2000/05/01)です。これは複数年次の国土地理院地形図をセットにしたもので、その中に明治34年(1901)測量のものがありました。これに淵村は存在していません。後世に発行された数々の資料と違い、その当時測量されたものですから存在する村を消し去るなんてことはまずないでしょうし、信頼性はもっとも高いのではないでしょうか。

本当は県報を調べられればベストなんでしょうが。
[58221] 2007年 4月 30日(月)18:51:08oki さん
淵村の存否 明治31年長崎県治一斑
[58149] [58201] むじながいり さん
[58172]88 さん

むじながいり さんの[58201]で結論は出ていると思いますが、傍証をもう一つ。
上記国会図書館近代デジタルライブラリーにある「明治31(1898)年長崎県治一斑」の25ページ(25枚目?)に、当時の長崎県の市町村名一覧が出ています。
西彼杵郡に、小榊村はありますが淵村はありません。この時点で淵村が存在しなかったことは間違いないと思います。長崎県発行の資料ですから、県報ではないにしろ、それに準ずるものと見なすことが可能ではないでしょうか。
また、同じページに、長崎市に編入された淵村の郷名が掲載されていますが、これから見て、淵村から分村した小榊村は現在の長崎市小瀬戸町、神ノ島町の辺りだと思われます(当時、神ノ島は離島だったようです)。

なお、天保郷帳で見ると、村として石高がついているのは「浦上村」だけで、淵村に相当する長崎港西岸の部分はすべて枝村としての郷です。東岸には浦上山里村に相当すると思われる枝郷があります。
しかし、浦上淵村、浦上山里村は、江戸初期から独立した村であり、それぞれに庄屋もいたようです。このあたりの藩政村のあり方は、調べれば調べるほど例外的な事象が山のように出て来るようです。

[58172] 88 さん
一点気になるのは、現在の長崎市淵町の存在。Bパターンが事実であると仮定すると、ひょっとするとここが最後まで残った淵村なのでは?と思ってしまいました。
淵町には淵神社があります。おそらく、この神社が江戸時代の浦上淵村の総鎮守で、村の中心地だったと思われます。江戸時代にも、明治以降にも淵郷というのは存在しないようなので、淵村の時代、もしくは長崎市編入以降に創設された大字だと思いますが、確証はありません。


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