都道府県市区町村
落書き帳

「明治初期 地方自治制度の変遷について」

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[58214] 2007年 4月 30日(月)08:27:45【1】88 さん
「府藩県一般戸籍ノ法」、大区小区制などについて
[57479]拙稿でも市制・町村制以前の明治初期の市町村制度については触れたのですが、拡充版です。
全国に同じ制度を導入したものの、(後年の市制・町村制と同様に)施行の時期は異なるものも多いようですが、香川県の例を併記してみました。各地域によって異なる部分があれば、置き換えてみていただけると幸いです。
参考文献
「地方自治百年史 第一巻~第三巻」平成4年3月30日発行、地方自治百年史編集委員会編集、地方自治法施行四十周年・自治制公布百年記念会発行、財団法人地方財務協会
「香川県史 第五巻 通史編 近代I」昭和62年3月30日発行、編集・発行:香川県、四国新聞社
「香川県史 第十一巻 資料編 近代・現代資料I」昭和61年2月28日発行、編集・発行:香川県、四国新聞社

年月日事項香川県の例
(1)M4(1871).4.4太政官布告第170号「府藩県一般戸籍ノ法」
(2)M4(1871).7.14廃藩置県
(3)M4(1871)11.15第一次香川県設置
(4)M5(1872).2.1「府藩県一般戸籍ノ法」実施
(5)同上「区」設置第一区~第八十八区
(この頃次第に)(地方によっては区が大区・小区に移行)
(この頃次第に)(従来の庄屋等と戸長との権限の競合の問題)
(6)M5(1872).4.9太政官布告第117号(詳細は下記)
(7)M5(1872).5.3「大里正・里正・年寄」の制廃止
同上「戸長・副戸長・村役人」設置
同上「戸長職掌大概」制定
(8)同上区の区画改正(小規模、総数は変わらず)
(9)M5(1872).10.10大蔵省布達第164号(いわゆる大区小区制、詳細は下記)
(10)M6(1873).2.20香川県は名東県(阿波国、淡路国)に編入
(11)M7(1874).2.13大区区画編成:第十三大区~第二十四区
(12)M7(1874).2.20小区区画編成:五十七小区
(13)M7(1874).4.23小区の改編:五十五小区
(14)M8(1875).9.5名東県から分離、第二次香川県発足
(15)M8(1875).9.25大区名改称:第一大区~第十二大区
(16)M9(1876).8.1大区区画改編十二大区を七大区に(小区はほぼ従前どおり)
(17)M9(1876).8.21香川県を廃し、愛媛県に編入
(18)M9(1876).9.14大区名改称:第一大区~第七大区(順序入替)
(郡区町村編制法以降については別稿にて)

(1)(4)(5)(8)
太政官布告「府藩県一般戸籍ノ法」
版籍奉還、廃藩置県と、府県段階の中央集権化が推進されたあと、明治政府は、従来まちまちであった町村の区画及び統治機構にも、中央集権化の方向に沿った改編を行っていきます。
そうしたなかで、「府藩県一般戸籍ノ法」、いわゆる「戸籍法」が布告されます。構成は全文三十三則と附録から成ります。
第一則では、「臣民一般其住居ノ地ニ就テ」として、(従来の族属身分別ではなく)住居主義の戸籍編成を採用しています。実施は翌M5(1872).2.1からとされ、この年が干支では「壬申」にあたることから「壬申戸籍」と呼ばれ、M19(1886)年の全面改定まで引き継がれました。
また、「各地方土地ノ便宜ニ随ヒ予メ区画ヲ定メ、毎区戸長並ニ副ヲ置キ、長並ニ副ヲシテ其区内戸数人員生死出入等ヲ詳ニスルヲ掌ラシムヘシ」と、「区画」を定め、戸長と副戸長を置くように規定されています。これが、「区」です。
第二則では、「但戸長ノ務ハ是迄各所ニ於テ荘屋名主年寄触頭ト唱ルモノ等ニ掌ラシムルモ、又別人ヲ用イルモ妨ゲナシ」とあります。戸長は旧来の村役人が任命される場合が多かったのが現実でした。
第三則では、「一府一郡ヲ分ケ何区或ハ何十区トシ其一区ヲ定ムルハ四五町モシクハ七八村ヲ組合スヘシ、然レトモ其小ナルモノハ数十ニ及ビ、大ナルモノハ一二ニ止ムルモ、都テ其時宜ト便利トニマカセ妨ケナシ」とあり、区画の広さに一応の標準を示してはいますが、地域の実情による編成を許容しています。
区は、「府藩県一般戸籍ノ法」の施行のM5.2に設置されました。
香川県の例では、区は第一区~第八十八区まで設置され、「八十八区制」とも呼ばれました。同年M5(1872).5には早くも一部で区画改正が行われました(増減はあるが計八十八区は変わらず)。
戸長らは、「戸籍事務だけの取扱者」としておかれました。土地人民に関することは従来どおり庄屋・名主・年寄等が取扱いました。次第に権限が競合するようになり、また、地方によっては区に大小の区別をつけ、大区がいくつかの小区を包括するところも出てきました。

(6)(7)
M5(1872).4.9付け太政官布告第117号は、旧来の荘屋(庄屋)、名主、年寄等をすべて廃止して戸長・副戸長と改称し、戸籍事務以外にも土地人民に関する事件一切を取扱わせる旨の通知です。
「戸長職掌大概」では、戸長の職務を定めたものです。以下に記します。
 一 政令の布達と施行、村民への解説
 一 戸籍調査、人口増減と牛馬数の調べ
 一 正租・雑税の徴収
 一 郷校(学校)の開設と啓蒙
 一 孝子篤行者及び窮民の状況調査
 一 風紀の監督、矯正
 一 火災水害の救助
 一 荒蕪地の開墾と植栽
 一 堤防の修築
 一 村役人の監察
 一 郡村入費明細の記帳
また、副戸長は戸長を補佐し、村役人は各村に設置され戸長・副戸長の指揮に従って各村の事務を遂行するもの、と規定されています。
従来、寄合で決めていた村の自治に関する事項は少なく、中央政府や地方長官の命をうけて、県の行政事務を分担執行する任務が主でした(村落自治の理事者というよりも国政や県政事務を分担する末端行政官)。

(9)
M5(1872).10.10付け大蔵省布達第164号は、「大区小区制を原則とする」旨の通知です。各地方土地の便宜により、大区に区長、小区に副区長等を置くという原則とするもので、既に地方で事態が進行したものを、中央政府が追認した例です。こうして、県からの布達の取扱いや町村本来の事務に及んでくるようになると、当初戸籍編成のために設置された区がいつしか普通行政区画に変わってきました。
大区小区制の導入の理由もいくつかありますが、主たる理由としては次のものが挙げられます。
・ 政治的配慮
 戸籍作成のみならず徴兵制の実施、学校の設立、地租改正の前提としての地券発行業務等、戸長の行政事務はますます多端となり、県-区の二段階の行政区画では対応しきれなくなり、県の行政事務を補佐し小区を監督する大区の設定が必要となり、県-大区-小区の三段階行政区画が導入
・ 地理的・財政的配慮
 戸数及び石高をできるだけ平均化するとともに、多端な行政事務の負担に応じうる財政能力のある地方行政区画を編成

(16)
「大区小区の区画改編」は、内務卿大久保利通に提出された「大区画合併及大小区長職制章程等ノ儀ニ付伺」によるものです。方針としては、従来の郡ごとに一大区を置き「事務取扱来候処、実際不都合ノ廉不尠候ニ付、篤ト熟慮ノ上」、改編するものです。
5戸=1伍
5伍=1組(組長を置く)
12組(=300戸)=大組(戸長兼書記を置く)
10大組(=3,000戸)=1小区(小区長を置く)
8小区(=24,000戸)=1大区(大区長を置く)
を目安としましたが、実際には、現香川県では、1小区あたりの平均戸数は2,059戸となりました。平均石高は5,802石であり、5,000石台に58%、6,000石台をあわせると92%にのぼります。
八十八区制の編成が一定数の戸数(1,200~1,600戸程度)を基準にして同一郡内の村を機械的に組み合わせていたことに対し(M4(1871).7.4太政官達郷村定則では概ね1,000戸程度を想定)、「小区編成の基準を戸数から石高へ」変化させました。
[58394] 2007年 5月 8日(火)22:29:5688 さん
郡区町村編制法について
[58214] 拙稿 「『府藩県一般戸籍ノ法』、大区小区制などについて」の続きです。郡区町村編制法以降、市制・町村制の直前までです。
参考文献は[58214]と同じです。

年月日事項香川県の例
(19)M11(1878).7.22「郡区町村編制法」公布
(20)M11(1878).12.16郡区町村編制法適用
(21)M11(1878).12「戸長職務心得」
(22)M17(1884).12.25太政官布達第204号(連合戸長役場区域の拡大等)
(23)同上愛媛県大書記官甲第207号同上布告
(24)M18(1885).1.15同上施行

(19)(20)
従来の大区小区制(当時は全国に907の大区と7,699の小区があった)は「制置宜シキヲ得ザルノミナラズ、数百年慣習ノ郡制ヲ破リ、新規ニ奇異ノ区画ヲ設ケタルヲ以テ頗ル人心ニ適セズ、又便宜ヲ欠キ人間絶テ利益ナキノミナラズ、只弊害アルノミ」(「地方体制三大新法理由書」)と反省されました。郡区町村編制法の主旨は、
 第一 大小区ノ重複ヲ除キ以テ費用ヲ節ス
 第二 郡町村ノ旧ニ復シ良俗ニ便ス
と、伝統的な町村自治・良俗を容認しながらも、
 第三 郡長ノ職任ヲ重クシ以施政ニ便ス
であり、町村及び戸長に対する郡長の監督的権限を強化することを忘れませんでした(同)。

また、大区小区制では小区のもとに町村が埋没されがちでした。しかし共同体としての町村が不必要となって消滅したわけではなく、かつて町村内に関する協議事項、例えば年貢の割付、村入用費の勘定、村役人の選定、他村との貸借や訴訟、用水の配分、入会地の管理、祭礼の打合せ等を協議してきた寄合の制は廃され、町村共同事務は戸長の権限に吸収されました。にもかかわらず、町村住民の協議・協賛なしに、戸長といえども一方的に町村事務を遂行することは困難になってきました。このため、寄合の制に代わるべきものとして、大区小区制期に「町村会議事仮規則」、三新法(郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則)のもとで「町村会規則」が制定されるようになったのも十分理由があったといえます。
――――――――――――――――――――――――――――――
「郡区町村編制法」明治11年太政官布告第17号(M11(1878).7.22布告)
郡区町村編制法左ノ通被定候条此旨布告候事
第一条 地方ヲ画シテ府県ノ下郡区町村トス
第二条 郡町村ノ区域名称ハ総テ旧ニ依ル
第三条 郡ノ区域広濶ニ過キ施政ニ不便ナル者ハ一郡ヲ画シテ数郡トナス(東西南北上中下某郡ト云カ如シ)
第四条 三府五港其他人口輻湊ノ地ハ別ニ一区トナシ其ノ広濶ナル者ハ区分シテ数区トナス
第五条 毎郡ニ郡長各一員ヲ置キ毎区ニ区長各一員ヲ置ク郡ノ狭少ナルモノハ数郡ニ一員ヲ置クコトヲ得
第六条 毎町村ニ戸長各一員ヲ置ク又数町村ニ一員ヲ置クコトヲ得
――――――――――――――――――――――――――――――
この第二条により大区小区が廃され、郡及び町村が行政区画として復活しました。
第六条の「数町村ニ一員ヲ置クコトヲ得」とあるように、狭小町村は数町村連合して一戸長役場を置くことが認められていました。
[57479]拙稿でも述べましたが、町村は「純然たる自治体とし、国の行政区画たる性質は与えない」とうのが当初案でしたが、元老院で変更され、、町村は「行政区」の性格もあわせもつことになり、戸長も「町村の理事者であるとともに、国の出先機関たる性格」をもあわせもつようになりました。

第四条の「区」(計33区)については、概ねその後の「市」にあたるものですが、これについては[7772] Issie さん が詳しいのでこちらをご参考に。この「区」の特徴は、
・ 例えば京都は「上京区」「下京区」の2区であり、この2区を総括する「京都市」の類のものは存在しなかった
・ 「区」は「郡」の外にあった
・ 「区」の中に「町村」を含んでいた
ということが挙げられます。つまり、言うなれば
・ 県-郡-町村
・ 県-区-町村
の2種類により県の行政体制が整備されたことになります。
ただし、「区」は自治体ですが、「郡」はこの時点では自治体ではありませんでした(後述)。

第三条の「郡」に関して。郡は、明治維新前においては、自治体ではなかったが一つの行政区画であり、「郡代」というような行政機関が存在していました。しかし、維新後は、大区小区制の実施によって行政区画たる性質も消滅し、単なる地理的名称に過ぎないものになっていました。この郡区町村編制法の制定により、再び行政区画たる地位を与えられることになりました。
(その後M23(1890)の郡制により「自治体」、T12(1923)の郡制廃止により再び「行政区画」となりますがこれはまた別稿にて)

香川県の例では、M13(1880)の香川県令の「県政引渡演説書」によると、郡町村編制に際し、「各町村ノ内従来名称ノ判然タラサル者アリシカ為メニ、既ニ分離シテ独立ノ実アル数村モ強テ之ヲ合セテ一村トナシ、或ハ又其実財産ヲ共有シ利害ヲ相同フスル一村モ強テ之ヲ二村トナシ」と、実情に合わない町村名も見られたようで、「是等ハ更ニ実際ニ就キ其名称ヲ正シ之ヲ確定シ、本年二月四日付ヲ以テ内蔵両卿ヘ申報セシ」とあります。県庁において町村の実情を掌握したのはM13(1880)初頭らしく、東西または上下を冠する町村においては、そのような分離又は統合の扱いを受けたことが想定されます。

(21)
「戸長職務心得」(M11(1878).12)第一項では、「戸長ハ官民両属ノ性質ヲ有スルモノニシテ、或ハ行政吏員トナリテ上旨ヲ庶民ニ通シ、或ハ町村ノ理事者トナリテ下情ヲ官府ニ達スルノ任」と、行政吏員と町村理事者の二つの任務がうたわれています。
しかし、町村限りの事務といえども、「町村戸長職務規則」第三条にあるように「戸長ハ郡長ノ監督ヲ受ケ行政事務ニ従事シ、及ヒ町村共同ノ事務ヲ弁理スルモノトス」とあり、郡長の監督を受けることには変わりはありませんでした。

(22)(23)(24)
M17(1884).12.25太政官布達甲第204号、及びその施行に関してです。
時代は自由民権運動も急進化の傾向を見せ、国政のよき協力者であった戸長及び地方民会の議員たちも、民選の戸長や議員であるために住民寄りとなり、このため、政府は半ば地方自治的な三新法の再検討を行い、官治的統制の強化を図る必要があると判断しました。
この趣旨から、先行してM17(1884).5の太政官布達では、従来の民選による戸長の選出(M11(1878)内務省乙54号達、「戸長はその町村住民においてなるべく公選させ、府知事県令より辞令書を手渡し、公選方法は地方適宜に定める」旨)ではなく、戸長の官選制が布達されました。そして、あわせて、従来の町村戸長役場を廃し、新たに広域の町村戸長役場管轄区域及び役場の所在村を示す区画編成が布達されました。この結果、平均5町村、戸数500戸を標準にして1戸長役場を置くことになりました。
この連合戸長役場管轄区域の拡大は、国政事務の負担に応じうるだけの一定水準以上の財政能力を持った行政区画をつくり出すことを目的としていました。財政能力を高めることによって、例えば「良戸長ヲ得ントスルハ本案ノ希望スル所」(M17元老院会議)というのもその現れでした。しかし他方で連合戸長役場区域の拡大は、村落共同体を超えたもっと広い地域から戸長を選ぶことであり、町村は下級行政単位としての地位を再び失うことを意味していました。結果は、従来の町村戸長と住民を結びあわせていた連帯意識に楔を打ちこみ、行政官としての性質を濃くした戸長をつくり出すことに成功したといえます。しかし、更にもう一方では、戸長役場管轄区域は単一の行政単位ではなく、数個の町村の連合体であって、町村にはそれぞれ町村総代人が置かれ、日常の事務をつかさどっていたのが現実ですが、このことは、従来の「むら」を超えた広域の行政村を目指しながらも、「むら」(自治村)の独自性には十分配慮をしていたという点で、三新法と来るべき町村制の過渡期に位置づけられる改正でした。
また、連合戸長役場管轄区域の拡大によって、町村会よりも連合町村会に実質的機能が移っていきました。このこともまた、行政村としての議案審議が主となり、自治村(「むら」共同体)が抱えている問題は従属的にしか取り上げられなくなりつつあることを意味していました。

M17(1884).12.25香川県(当時は愛媛県)「町村戸長役場管轄区域の編成」の例です。他の村も同様です。
―――――――――――――――――――――――――
甲二百九号
明治十八年一月十五日限リ従前ノ町村戸長役場ヲ廃シ更ニ町村戸長役場管轄ノ区域及ヒ役場ノ位置別紙ノ通相定ム
右布達候事
明治十七年十二月二十五日
         令 関新平代理 愛媛県大書記官 湯川彰

  大内郡
一 坂元村 南野村 馬宿村 黒羽村
 右四ヶ村ヲ一区域トナシ戸長役場ヲ馬宿村ニ置ク
(以下略)
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[58627] 2007年 5月 23日(水)05:50:21【1】88 さん
市制・町村制について
[58214] 拙稿 「『府藩県一般戸籍ノ法』、大区小区制などについて」、[58394]「郡区町村編制法について」の続きです。
まず、引用ばかりですが、市制・町村制の背景及び趣旨を説明する、いい文章が続出していますので、ご容赦を。

参考文献
(1)「地方自治百年史 第一巻」平成4年3月30日発行、地方自治百年史編集委員会編集、地方自治法施行四十周年・自治制公布百年記念会発行、財団法人地方財務協会
(2)「香川県史 第五巻 通史編 近代I」昭和62年3月30日発行、編集・発行:香川県、四国新聞社

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★その1 文献(1)より
(二重引用になる「  」は、山縣有朋談「徴兵制度及自治制度確立ノ沿革」(明治憲政経済史論、明治百年叢書 山縣有朋意見書 所収)です。
山縣原文(「  」内)はカタカナをひらがなに引用者(88)が置き換えました。(これだけで私にとっては随分読みやすくなりました。))
 江戸時代の町村の規模は、幕藩体制が下部単位に対して採った要請に基づいて成立していた。一言でいえば、その区域の要件は、年貢を請負ってそれを領主に確保する能力であった。そこでは村費において用排水関係の経費が大きなウエイトを占めていた。・・江戸時代の村は、・・・基本的には、一つの生産共同体であったということがいえよう。
 明治以降になると、町村費の中で、地方村役場関係の経費のウエイトが高まり、その中に地券、戸籍、徴兵等明治国家の形成に伴う政府関係の仕事が増えてくる。特に、学校関係の経費の増大が顕著になる。
 こうなってくると、江戸時代以来の生活・生産共同体的な村の規模では、これに対応が困難になってきた。・・・本格的な地方制度である市制・町村制の施行をひかえ、制度が要求する行政単位としては、従来の町村の規模では、人的能力も負担能力も十分でないと認識されるに至ったのである。
 このように、明治の大合併は、社会経済の発展による生活空間の拡大というような自然発生的な要因に基づくのではなく、明治国家の下部機構を担う行政単位としての能力の創出という行政便宜的な要因に基づくところにその大きな特色がある。
 この矛盾は、明治政府の当局者も認識していた。町村合併の強行には、政府部内にも金子堅太郎のように、将来実体が伴うようになってから自然な形で町村合併をすべきである、という意見を主張するものもいた。制度の創立責任者である山縣有朋自身が、後年、「従来より存在せる町村の区域を濫りに変更す」ることは、「恰かも数家を合併して団欒たる一家を造成するの不自然にして、好結果を奏し得さるが如く・・・数箇町村を併合して一町村と為すとも、其の町村民相協同して能く自治を為すこと極めて難かるへし、是れ寧しろ当然の懸念たり」と述べ、町村合併の強行は、「自然に発達し来りたる天然の部落を併合するものにして、暴断なるか如き観なきにもあらす」と評している。
 しかし、山縣も述べているように、「・・・・・当時全国町村の数七万に余り、小町村に至りては、僅かに三十戸又は四十戸を有するに過ぎす。今之に対して新町村制を適用するとも、其の実効を奏するは、炭火を擁して涼風を求むるの類たるへし。則ち多数の町村は、到底自治体として独立の能力を有せさること、瞭として※日を覩るよりも明かなり」という認識が、「新自治制を実施する為めには、町村の併合を為すの必要已むを得さるものあり」として、「日夜殫思し、終に意を決して百難を排し、新町村制の実施以前に於て、先つ町村併合の処分を断行することとした」のである。
(※は白+「激-さんずい」)
★その2 文献(2)より
これも、カタカナをひらがなに引用者(88)が置き換えました。
「今市制・町村制を設くるは、地方自治及分権の主義を実行するに在り。自治分権の法を施すは即立憲の制に於て国家の基礎を鞏固にする所以のものなり。蓋町村は自然の部落に成立ち、百端の政治悉く町村の事務に係らさるものなし。今や中央政府の制度を整理するに方り、之に先て地方自治の制を立てんとするは目下の急務なり。地方の制度整備せすして独先中央の組織を完備せんことを求むるは、決して順序を得たるものに非ざるなり。故に国家の基礎を鞏固にせんと欲せは、必先町村自治の組織を立てさるを得す。之を喩へは町村は基礎にして国家は猶家屋の如し。基礎鞏固ならす、家屋独能く堅牢なるの理ある可からす。且今憲法を制定せられ、国会を開設せらるヽも僅々一両年を出てさるの秋に方りたれは、益々地方制度の確立は一日も猶予す可からさるを見るなり」(亀卦川浩「明治地方制度成立史」)
★その3 文献(2)より
これも、カタカナをひらがなに引用者(88)が置き換えました。
M21.6.13各地方長官あて内務大臣訓令
町村制を施行するに付ては、町村は各独立して従前の区域を存するを原則となすと雖とも、其独立自治の目的を達するには、各町村に於て相当の資力を有すること又肝要なり。故に町村の区域狭小若くは戸口僅少にして、独立自治に耐ゆるの資力なきものは、之を合併して有力の町村たらしめさるへからす。
★その4 文献(1)より
「自治制定の顛末」大森鐘一述、内務省書記官 大森鐘一の回顧談
「・・・一面より見ると、廃藩置県よりは寧ろ此の二二年の町村合併こそ明治政府の英断といふことができるであろうと思ふ。・・・往昔から自然に存在して居った天然の部落を適宜に分合するといふことは、是れ亦容易ならぬことである。・・・調査の時日が少なく、実施の日が切迫して居って、今日より回想すると、俗にいふ盆と正月が一緒に来たような有様であった。」
―――――――――――――――――――――――――

さて、時系列的に触れます。参考文献は冒頭のとおりです。
年月日事項香川県の例
(25)M21(1888).4.17市制・町村制公布(官報は4.25付け)
(26)M21(1888).12.3第三次香川県設置
(27)M22(1889).4.1市制・町村制施行(35府県)
----26府県(31市)、9県(市なし)
M22(1889).5.1市制・町村制施行(2府県)
----東京府(東京市)、宮崎県(市なし)
M22(1889).6.1市制・町村制施行(1県)
----岡山県(岡山市)
M22(1889).7.1市制・町村制施行(2県)
----山梨県(甲府市)、岐阜県(岐阜市)
M22(1889).10.1市制・町村制施行(3県)
----愛知県(名古屋市)、鳥取県(鳥取市)、徳島県(徳島市)
M22(1889).12.15市制・町村制施行(1県)
----愛媛県(松山市)
M23(1890).2.15市制・町村制施行(1県)香川県市制・町村制施行
----香川県(高松市)

郡区町村編制法の後、戸長役場管轄区域の拡大や戸長官選制などは、官治的統制の強化という色彩の強いものでした。しかし、これは財政面など町村情勢の緊迫化に対する応急処置的な性格を多分にもっているもので、憲法を頂点とする国会体制の整備の中において、永続性をもつ体系的な地方制度がいずれは必要という認識は政府にもありました。
M15には憲法調査のためにプロイセン帝国に派遣された伊藤博文の取調項目の中に「地方制度ノ事」が含まれ、また、内務大書記官村田保による町村法草案(M17.5)、政府雇ルードルフによる町村法草案(M18~19頃)、内閣雇ドイツ人顧問ロェスレルの意見書(M19.10.23)、内閣雇ドイツ人顧問モッセの意見書(M19.7.22)など、さまざまな検討がなされてきました。M20.1.24付けで政府は「地方制度編纂委員」を任命し、山縣有朋内務大臣が委員長に就任しました。そして何度も案を作成し、修正を重ねた上で、M21.4.17に市制・町村制が公布されました。

市制・町村制を導入した理由は、冒頭の各引用でも触れたように、明治政府の方針としての、国家の基礎の創造というのが主たるものでした。
市制は、M22.4.1より、地方の情況を裁酌し、府県知事の具申によって内務大臣が指定する地に施行することに附則で定められていました。内務大臣は、M22.2.2内務省告示第1号で36箇所を指定したのを初め、同年中に数回に分け計40箇所を市制施行地に指定しました(このあたりの詳細はIssieさんのHPを参照してください)。
町村制は、M22.4.1より、地方の情況を裁酌し、府県知事の具申によって、内務大臣の指揮をもって施行すべきこと、また特別の事情がある地方では、勅令をもってこの上記を中止することがあること、北海道、沖縄県その他勅令をもって指定する島嶼には施行しないことが附則で定められていました。
これらの規定により、市制施行と同時に町村制が施行され、市制施行地を持たない県では町村制のみが順次施行され、M23.2.15の香川県で予定された全土の市制・町村制の施行が終わりました。
(最初の「市制」に関しては、落書き帳創成期(記事番号二桁時代!)にこんな議論もありました。)

「独立自治に耐ゆるの資力なき」町村は、合併によりその資力をつくり出すことが要求され、その規模は「大凡三百戸乃至五百戸を標準」とする基準が示されました。独立自治の目的を達しうる町村は分合を必要とせず、またM17年改正による「現今の戸長所轄区域にして、地形民情に於て故障なきもの」は戸長役場管轄区域のまま町村合併を進めるよう指示されました。
なお、合併された旧町村は新町村の大字となり、その大字の名称のまま現在に至っているものが数多くあるのは、既にご承知のとおりです。
[58745] 2007年 5月 30日(水)19:08:2488 さん
府県制・郡制について
[58214] 拙稿 「『府藩県一般戸籍ノ法』、大区小区制などについて」、[58394]「郡区町村編制法について」、[58627]「市制・町村制について」の続きです。
参考文献は[58214]と同じです。

年月日事項摘要香川県の例
(28)M23(1890).5.17府県制・郡制公布
(29)M24(1891).4.1郡制施行(青森県など9県)最初の郡制
(30)M24(1891).7.1府県制施行(長野県)最初の府県制
(31)M32(1899).3.16(新)府県制・(新)郡制公布
(32)M32(1899).7.1(新)郡制施行(東京府など5府県)45府県中最後の郡制香川県郡制施行
(33)M32(1899).7.1(新)府県制施行(東京府など7府県)45府県中最後の府県制香川県府県制施行

山縣有朋内務大臣の地方自治制の構想では、市制・町村制の制定のあとは、郡制・府県制の制定を目指していました。そもそも、市制・町村制の検討過程でも、郡制・府県制は同時並行で検討されていました。
M21(1888).9.25には第一次案が閣議決定され、元老院において検討されましたが、次のような根本に関わる批判が続出しました。
廃案説
・郡及び府県は元来行政区画で自治体ではないので郡制や府県制は無用
・府県や郡に自治を与えれば、国政にも自治を要求する勢いを生み遂には国体を破るに至る
時期尚早論
・憲法をはじめ各種重要法律が次々と施行されるじきに郡制・府県制までも施行すると混雑をきたすから市制・町村制の施行を見てからでよい
・市制・町村制すら今日の民度に照らして尚早だと考えられるのに、さらに広汎複雑な郡や府県に自治を与えるのは尚早
結局、この第一次案は廃案となりました。
M23(1890).1.21には第二次案が閣議決定され、元老院において検討されました。この第二次案では、相当自治的な色彩が後退し、府県・郡の法人性や条例制定権などは全面的に削除され、府県会の権限についても明示的に限定して縮小されました。そして、一部修正の上正式決定し、M23(1890).5.17に公布されました。憲法発布(M22(1889).2.11)には遅れましたが、第一回帝国議会開会(M23(1890).11.29)の半年前、第一回総選挙(M23(1890).7.1)の一箇月半前で、モッセや山縣有朋が強く望んだ、国会開設以前の地方制度成立は、かろうじて間に合いました。

府県・郡は、府県会や郡会を有していることもあり、一応「自治体」とは言えます(府県知事・郡長が府県・郡の首長とされています)。しかし、本来府県・郡は国の行政区画であり、これを管轄する府県知事や郡長(幹部職員なども)は、国の官吏(国の行政のためにおかれた官吏)です。このため、執行機関に関する規定の一部は、府県制・郡制ではなく、「地方官官制」(M19勅令第54号)にあります。このため、市や町村と比べると、自治体とはいえ、その権限はかなり制限されていました。

府県制は郡制を実施した府県に施行するものとされていましたが、当時の郡は、規模・区域ともに不ぞろいで、この分合を行ってからでないと郡制が施行できないというところにありました。
当時の郡の総数は、M11年郡区町村編制法以来716郡でしたが、小さなものは一郡一村のもの(福岡県席田郡ほか)から、大きなものは一郡で人口20万人を有するもの(新潟県中頸城郡)まであって、著しく大小不同であり、また、区域の錯綜しているものも少なくありませんでした。政府は、当初は全国一斉に郡制を実施するつもりで、M23の第一回帝国議会に郡の廃置分合に関する法案を提出しました。しかし、そもそも前述のとおり府県制・郡制の成立までが難産であり、また、同国会には府県制・郡制の施行延期の法案まで提出され(衆議院では可決されたが貴族院で否決されて未成立)、こういった背景からもこの郡の廃置分合法案は廃案になりました。
結局政府は、取りあえず問題のない府県から郡制を施行し、その間に適切な廃置分合について調査することに方針を変更しました。その結果、郡制はM24.4.1から郡の配置分合を必要としない府県から順次施行され、M29の第九回帝国議会でようやく郡廃置法案が成立しました。このため、大半の府県で郡制が施行されたのはM29.4.1以降で、府県制の施行はそれよりもさらに遅れたところが多かったのです。
府県制・郡制は、M32.3.16に改正・公布されました。施行はいずれもM32.7.1です。上記の年表で、(新)府県制・(新)郡制とあるのは、このものです。つまり、東京府などの5府県では、(旧)郡制は施行されることはなく、また、東京府など7府県では(旧)府県制は施行されることはありませんでした。既に(旧)郡制・(旧)府県制が施行されていた府県では、M32(1899).7.1をもって(新)郡制・(新)府県制が施行されました。(改正内容は省略)

なお、沖縄県、北海道及び島嶼は、別の制度であるため、説明を省かせていただきました。三大都市(東京市、京都市及び大阪市)については、hmt さんによる六大都市等の制度についてをご参照ください。

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これまで4回にわたり、明治初期の地方自治制度について投稿して来ました。これまでのものを総括して整理し、また、市区町村変遷情報への対応方法についての案を今後お示ししたいと考えています。
[59148] 2007年 6月 16日(土)08:40:28【1】88 さん
明治初期地方自治諸制度と、市区町村変遷情報での対応について
過去の一連の私の投稿「明治初期 地方自治制度の変遷について」を受けた、取りまとめ版です。

年月日制度府県区(*1)区(*2)町村
(江戸期)行政区画自治体
M元.閏4.21府藩県三治の制
M2.1.21他版籍奉還
M4.7.14廃藩置県行政区画
M5.2.1府藩県一般戸籍ノ法地理的名称行政区画
M11(1878).12.16郡区町村編制法行政区画自治体
M17(1884).12.25戸長役場拡大
M22(1889).4.1他市制・町村制自治体
M24(1891).4.1他府県制・郡制自治体自治体
T12(1923).4.1郡制廃止行政区画
T15(1926).7.1郡役所廃止地理的名称
S22(1947).5.3地方自治法
(*1)「府藩県一般戸籍ノ法」によるもの。区だけではなく、大区・小区を含む。
(*2)「郡区町村編制法」によるもの。「三府五港其人民輻湊ノ地」。なお、「区」の中に「町」「村」を含んでいた。

定義は、次のように考えています。
(A)自治体首長・議会が存在し、域内のことを自治的に決定する制度がある
(B)行政区画国の出先機関としての組織(現在では財務局や地方整備局を統合したものに相当)
(沖縄総合事務局のようなもの?)
(C)地理的名称(A)(B)に該当せず、ただ名称として呼称する
もちろん、いくつかの権能を兼ねていることも多いのですが、より権能の強い方で表記しました。(C)より(B)、(B)より(A)の方をもちろん優先しました。
なお、北海道・沖縄、島嶼、東京都制、三大都市等はここでは省略させていただきました。

上記の取りまとめは、私も少し自信がないところもあります。さらなるご教授をいただければ幸いです。そもそも、単純化は困難なのかもしれませんが。

さて、市区町村変遷情報で、どう取扱うか、です。
特に注目したいのは、「府藩県一般戸籍ノ法」(いわゆる「戸籍法」)の「区」(後に「大区」「小区」を含む。上記(*1))です。この「区」は自治体ではなく、あくまで「行政区画」です。この状態はM5年からM11年の短期間であり、また、江戸期以前からの長年に渡り使用されてきた「郡」は、この6年間ほどの間も現実には併用されていたようです(注)。また、[58214]拙稿 の年表中の(8)~(18)のように短期間に何度も区画・名称変更をしているようで、あまりにも複雑です。このため、市区町村変遷情報では、この「区」(大区、小区とも)は割愛させていただこうかと考えています。
現在の政令市の区は行政区画であり、郡は地理的名称なのですが、現在はこれらは位置づけも明確になされていますので(地方自治法なり条例なりで)、既に対象にしている、ということにしたいと考えています。
府県の変遷については、範囲が市町村と重なることもあり、取扱うとしても別メニューが適切だと考えます(やはり何らかの対応はしたいですが)。
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(注)
「香川県史 第十一巻 資料編 近代・現代資料I」(昭和61年2月28日発行、編集・発行:香川県、四国新聞社)にある、「大区編成並びに区長任命の達」(明治7年2月13日名東県権令から各区戸長あて)によると、
今般讃岐国各郡並小豆嶋ヲ大区ト相定別紙ノ通区長申付候
(中略)
第十三大区大内郡区長並学区取締兼務
(後略)
[58214]拙稿の(13)と同日付け文書で、既に「区」が存在していましたが、新たに「大区」「小区」を定めたときのものです。

また、明治9年7月の「讃岐国公立小学校一覧」(前掲書)でも、
名称学科位置設立
東園小学讃岐国大内郡東山村明治7年
等と、やはり郡を使用しています。


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