[58787]今川焼さん
たいへん遅いレスで恐縮です。
レスありがとうございます。誰からの反応もなかったものでてっきり皆様の常識なのかなと早合点していたところです。
琵琶湖から関ヶ原-木曽三川-伊勢湾を結ぶ線が一大防御ラインというのはその通りであると思います。ただ個人的にはもう一つの理由もあるのではないかとひそかに考えます。それは将来の豊臣家との対決に際し軍を動かすのに2つの街道があった方がいいというものです。
これには前例があります。越前朝倉家は居城の一乗谷から加賀との国境に向けて2本の街道を整備していました。そして加賀一向一揆が越前に侵攻してきたとき、整備した2本の街道を利用した神出鬼没の用兵で数に勝る加賀一向一揆勢を数度にわたり撃退したことは有名な話です。
規模は違えどこういった理由もあるのではないかと。無論東海道の他に、江戸から京に行く別路の中山道を近い将来に整備するという前提ではありますが。うーん、かなり苦しい仮説ですね(笑)。
前記の中央日報の記事から思ったことですが、徳川政権は外国相手にいざこざを起こしたくなかった、朝鮮出兵で失敗した豊臣政権の轍は踏みたくなかったということがあるのではないでしょうか。各地で手厚くもてなし、琵琶湖が見たいと言われれば近江路を通り、富士山が見たいと言われれば中山道から分かれて名古屋を経て東海道へ案内すると。なんとか機嫌良く朝鮮へ帰って頂きたかったように思いますが。
そもそも徳川家康は豊臣秀吉のように外国に戦争を仕掛けて支配することよりは、貿易によって富を蓄える方がよいと考えていました。三浦按針を採用したのもその証左でしょう。
そして貿易をして富を蓄えるには平和が一番で、豊臣秀吉がやり残した朝鮮侵攻の戦後処理を迅速に進める必要もありました。具体的には捕虜として日本に連れ帰った者を朝鮮に帰還させることで、さらには両国間の国交回復です。
私は約150年ぶりに復活した1607年の朝鮮通信使は戦後処理の側面が大きいのではないかと考えています。戦後処理及び国交回復のためには今川焼さんが記述されましたような出来る限り友好的な姿勢を見せる必要があったのであると推測します。
#その後日本は自由貿易による利益も膨大だがキリスト教による政権への悪影響の方が大きいと判断して鎖国を行いますが、幕末期の開国交渉の際には江戸初期に徳川家康が海外との貿易を推進していた立場であることが忘れ去られていました。政治の意思決定の過程を正確に後世に伝えることの難しさを実感させられる事例といえます。
#豊臣秀吉の朝鮮出兵には、日本統一による余剰兵力の失業対策という側面が多分にあったのではないかと個人的に思います。無論失業対策のために戦争を仕掛けられたとしたら、侵略戦争以上に、戦争を仕掛けられたほうはたまったものではないのは言うまでもありません。
さて話は変わりまして、宮宿と桑名宿の間の海上を渡る七里の渡しのその後です。
徳川家光が七里の渡しを経由する東海道で上洛した時に酷く船酔いをしました。そこで家光の上洛に備えて、尾張徳川家が津島街道の一部区間などを整備して佐屋路という陸路六里(宮宿(愛知県名古屋市熱田区)~
佐屋)海路三里(
佐屋船着場~桑名宿(三重県桑名市))の東海道の脇街道を作りました。
佐屋路整備後には参勤交代の西国大名は七里の渡しではなく佐屋路を使うようになりました。
#ちなみに
「○里塚」コレクション向けに佐屋路の経路を詳述しますと、
ここで美濃路と分岐した後に、
・
五女子一里塚(愛知県名古屋市中川区露橋2丁目、跡地、石碑あり)
・岩塚一里塚(岩塚宿入口付近、痕跡なし)
・
千音寺一里塚(愛知県海部郡大治町大字三本木、跡地)
・
神守(かもり)一里塚(愛知県津島市神守町字下町、右塚(北塚)現存、江戸から93里)
の4つの一里塚がありました。ということで、これらの採用の検討をお願いします。>牛山牛太郎さん