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落書き帳

東海道の変遷

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[58434]2007年5月12日
むっくん
[58787]2007年6月1日
今川焼
[58800]2007年6月2日
むっくん

[58434] 2007年 5月 12日(土)12:30:02【3】むっくん さん
京都~尾張間の東海道の経路変更
東海道の経路はどのようなものですか、また、その変遷はどうなのかと聞かれると皆様はどのように返答をされるでしょうか。

おそらく現在ですとJRの東海道本線を、明治維新より前の時代ですと東海道五十三次を念頭に置いて返答されることと思います。
また、過去の変遷についても[22890]Issie さんの
ところで,古代律令国家の定めた7本の官道のうち,「東海道」「北陸道」「山陰道」「山陽道」は,それぞれ当然のことである若干のルート変更をともないながら,近世・江戸時代の街道として継承され,現代の国道に直接つながる存在として残りました。
「東山道」もまた,奥羽から江戸へ終点を付け替えた上で「中山道」の名で近世に伝えられています。
との認識を基に返答をされる方が多いと思います。

ただ、現実には中世~江戸初期にかけては「東海道」は現在のJRの東海道本線類似の経路を取っていたようです。
例えば、鎌倉時代に藤原為家の側室・阿仏尼によって書かれた十六夜日記を見ると現在のJRの東海道本線類似の経路(京都→野路(現:草津市)→醒井(現:米原市)→鳴海(現:名古屋市))で京都から鎌倉へ旅をしていることが分かります。


それでは「東海道」が、なぜ船での伊勢湾横断を伴うルートに江戸時代になってから変更されたのでしょうか。揖斐川・長良川・木曽川を中流域で渡る中世のルートでは不都合だったのでしょうか。御教示いただけると幸いです。

また、朝鮮通信使の辿った経路を京都から名古屋の間だけ書きますと、京都→草津→彦根→大垣→名古屋という江戸時代以前の「東海道」類似の経路を辿っており、伊勢国を経由する東海道五十三次の経路は選択していません。東海道の経路を江戸時代になってからわざわざ変更しなければならないというような必然性は特にないように見受けられるのですが。。。

#本書込みで200回目の書込みとなりました。今後ともよろしくお願いします。
[58787] 2007年 6月 1日(金)22:49:32【1】今川焼 さん
東海道の変遷
[58434]むっくんさん
京都~尾張間の東海道の経路変更
「東海道」が、なぜ船での伊勢湾横断を伴うルートに江戸時代になってから変更されたのでしょうか。揖斐川・長良川・木曽川を中流域で渡る中世のルートでは不都合だったのでしょうか。
たいへん遅いレスで恐縮です。
伊勢を経由する近世東海道ルートの方が距離が短く、難所である木曽三川の河口付近は七里の渡しを設定することによってショートカットすることができます。江戸幕府はそうやって江戸と京の行き来を少しでも便利にしようと考えていたのでは、と私は漠然と思っていました。
が、先日、韓国の中央日報の<朝鮮通信使400年>将軍にだけ許された道、通信使一行を通すという記事を読んでいて、それは違うかもしれないと思うようになりました。その記事の中に、
通信使一行は摺針という峠道から琵琶湖を後にして関ヶ原を経て今の名古屋まで広い平野を横切って行った。この野原を通る時にも幕府は通信使のために船の橋を作った。平野には多様な河川があったが橋はなかった。当時、日本の築城・土木技術で橋を掛けることは難しくなかったが、江戸幕府がこれを阻んだ。徳川幕府がいつまた地方の大名たちが反乱を起こすか不安だったからだ。したがって河川を渡るときは大名といっても小さな渡し船に乗り換えなければならなかった。
とありました。
木曽三川の中流でも橋を架けないことで通行の障害になるのなら、河口付近ならなおのこと大きな障害となるでしょう。つまり、東海道をわざわざ伊勢湾岸の通行がより困難な場所に移すことによって、西から攻めて来る敵に備えたということですね。
そう考えるとこの付近の大名の配置も納得できます。有事の際は七里の渡しの東西を領する尾張徳川家、譜代の桑名藩に命じて船を焼くか沈めてしまえばこの間の交通は途絶します。中山道・美濃路方面は関ヶ原を挟んでやはり譜代の彦根・大垣藩を配置していますから、琵琶湖から関ヶ原-木曽三川-伊勢湾を結ぶ線が一大防御ラインになっていたのでしょう。(と、自分では納得したもののネット上ではそうはっきりと書いたものはなかなかありません桑名市のサイト
慶長6年桑名宿が設けられた際に、宮宿までは海路の渡船と定められた。それ以前の関東と京都を結ぶ幹線道路は関ヶ原を経由していたが、桑名経由に変更になった。その理由についてははっきりしないが、軍事的な目的からであろう。
とあるくらいでした)
そんなことに今ごろ気がついたのか、と仰る方もあろうかと思います。が、大井川に橋を架けなかったのは、軍事上の理由ということは学校の日本史でも習いますが、京~尾張のルート変更にまでは考えが及びませんでした。そういえば、関ヶ原と鈴鹿峠を比べても鈴鹿越えの方がはるかに峻険で、こちらもより防御に適した地形といえそうです。

では、そんなところが他にもあるのではないかと探してみると小規模ですが箱根にもありました。中世の東海道は、箱根湯本から尾根伝いに芦之湯へ出て元箱根へ降りる湯坂路でした。(十六夜日記の阿仏尼も通っていますね)それが江戸時代になると須雲川沿いに谷を詰めて九十九折りの急坂で元箱根へ上がる箱根八里ルートに変更になっています。
軍事的に見ると、西から尾根道を降りてくる相手を麓で迎え撃つのは明らかに不利で、狭い谷間を降りて来る敵を両側の山から挟撃する方が絶対に有利ですね。そのかわり以後二百数十年にわたって旅人はそれまでの明るい尾根道に代わって暗く狭い悪路に悩まされることになります。参考
中世のルート
近世のルート

ほかに中山道でも大井(恵那市)~御嵩間で東山道(中街道)から北寄りのより険しいルート(上街道)に変更になっています。(明治になればすぐもとの東山道ルートに戻り、のちにより平坦な現在の国道19号~国道21号へと移り変わっています)

と、いろいろ書きましたが理由は軍事上のことだけとは限りませんね、輸送力確保や大きな災害などに備えて江戸~上方のルートは二つに分けておいた方が良いという考え方もあるでしょうし、伊勢を通ればお伊勢詣りにも便利だという考え方もあるかもしれません。
まぁ、所詮素人の思いつきです。異論、ツッコミ等大歓迎です。

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朝鮮通信使の辿った経路を京都から名古屋の間だけ書きますと、京都→草津→彦根→大垣→名古屋という江戸時代以前の「東海道」類似の経路を辿っており、伊勢国を経由する東海道五十三次の経路は選択していません。
前記の中央日報の記事から思ったことですが、徳川政権は外国相手にいざこざを起こしたくなかった、朝鮮出兵で失敗した豊臣政権の轍は踏みたくなかったということがあるのではないでしょうか。各地で手厚くもてなし、琵琶湖が見たいと言われれば近江路を通り、富士山が見たいと言われれば中山道から分かれて名古屋を経て東海道へ案内すると。なんとか機嫌良く朝鮮へ帰って頂きたかったように思いますが。
[58800] 2007年 6月 2日(土)15:36:32【3】むっくん さん
Re:東海道の変遷
[58787]今川焼さん
たいへん遅いレスで恐縮です。
レスありがとうございます。誰からの反応もなかったものでてっきり皆様の常識なのかなと早合点していたところです。

琵琶湖から関ヶ原-木曽三川-伊勢湾を結ぶ線が一大防御ラインというのはその通りであると思います。ただ個人的にはもう一つの理由もあるのではないかとひそかに考えます。それは将来の豊臣家との対決に際し軍を動かすのに2つの街道があった方がいいというものです。
これには前例があります。越前朝倉家は居城の一乗谷から加賀との国境に向けて2本の街道を整備していました。そして加賀一向一揆が越前に侵攻してきたとき、整備した2本の街道を利用した神出鬼没の用兵で数に勝る加賀一向一揆勢を数度にわたり撃退したことは有名な話です。
規模は違えどこういった理由もあるのではないかと。無論東海道の他に、江戸から京に行く別路の中山道を近い将来に整備するという前提ではありますが。うーん、かなり苦しい仮説ですね(笑)。

前記の中央日報の記事から思ったことですが、徳川政権は外国相手にいざこざを起こしたくなかった、朝鮮出兵で失敗した豊臣政権の轍は踏みたくなかったということがあるのではないでしょうか。各地で手厚くもてなし、琵琶湖が見たいと言われれば近江路を通り、富士山が見たいと言われれば中山道から分かれて名古屋を経て東海道へ案内すると。なんとか機嫌良く朝鮮へ帰って頂きたかったように思いますが。
そもそも徳川家康は豊臣秀吉のように外国に戦争を仕掛けて支配することよりは、貿易によって富を蓄える方がよいと考えていました。三浦按針を採用したのもその証左でしょう。
そして貿易をして富を蓄えるには平和が一番で、豊臣秀吉がやり残した朝鮮侵攻の戦後処理を迅速に進める必要もありました。具体的には捕虜として日本に連れ帰った者を朝鮮に帰還させることで、さらには両国間の国交回復です。
私は約150年ぶりに復活した1607年の朝鮮通信使は戦後処理の側面が大きいのではないかと考えています。戦後処理及び国交回復のためには今川焼さんが記述されましたような出来る限り友好的な姿勢を見せる必要があったのであると推測します。

#その後日本は自由貿易による利益も膨大だがキリスト教による政権への悪影響の方が大きいと判断して鎖国を行いますが、幕末期の開国交渉の際には江戸初期に徳川家康が海外との貿易を推進していた立場であることが忘れ去られていました。政治の意思決定の過程を正確に後世に伝えることの難しさを実感させられる事例といえます。
#豊臣秀吉の朝鮮出兵には、日本統一による余剰兵力の失業対策という側面が多分にあったのではないかと個人的に思います。無論失業対策のために戦争を仕掛けられたとしたら、侵略戦争以上に、戦争を仕掛けられたほうはたまったものではないのは言うまでもありません。

さて話は変わりまして、宮宿と桑名宿の間の海上を渡る七里の渡しのその後です。
徳川家光が七里の渡しを経由する東海道で上洛した時に酷く船酔いをしました。そこで家光の上洛に備えて、尾張徳川家が津島街道の一部区間などを整備して佐屋路という陸路六里(宮宿(愛知県名古屋市熱田区)~佐屋)海路三里(佐屋船着場~桑名宿(三重県桑名市))の東海道の脇街道を作りました。
佐屋路整備後には参勤交代の西国大名は七里の渡しではなく佐屋路を使うようになりました。

#ちなみに「○里塚」コレクション向けに佐屋路の経路を詳述しますと、ここで美濃路と分岐した後に、
五女子一里塚(愛知県名古屋市中川区露橋2丁目、跡地、石碑あり)
・岩塚一里塚(岩塚宿入口付近、痕跡なし)
千音寺一里塚(愛知県海部郡大治町大字三本木、跡地)
神守(かもり)一里塚(愛知県津島市神守町字下町、右塚(北塚)現存、江戸から93里)
の4つの一里塚がありました。ということで、これらの採用の検討をお願いします。>牛山牛太郎さん


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