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[61108] 2007年 9月 9日(日)18:19:51【1】hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(1)国有化前史
[61073] Issie さん
明治から阪和間の輸送を担ってきたのは南海鉄道であって,なぜかその南海が国有化されなかったにもかかわらず

たしかに、大阪・和歌山間という重要路線であるにもかかわらず、「南海鉄道」が、明治39年(1906)の 鉄道国有法 第2条による買収対象にならなかったのは、「なぜだろう?」という疑問がわきます。

実は、明治39年3月に政府案として衆議院に提出されて可決された法案では、買収対象 32社 で、その中には「南海鉄道」も含まれていました。それが貴族院の審議で南海など 15社 が除外された 17社 に修正されました。その後は、大混乱の衆議院を経て、結局のところ賛成派(政友会)の単独採決で貴族院の修正案により成立させたという経過でした。

南海は、まさしく瀬戸際で国有化を免れたのでした。

1907年10月1日、17社のうち最後まで抵抗していた関西鉄道と参宮鉄道の買収により幹線鉄道の国有化が達成されました。それから ちょうど100年になります。
この間、80年目の1987年4月に国鉄が分割民営化され、単一の企業体ではなくなりましたが、「JRグループ」という形での統一性は保持されています。

百年という節目にあたるので、「南海鉄道」が国有化されなかったいきさつ調べも兼ねて、「100年前、国有化の頃の鉄道」を振り返ってみましょう。

明治5年(1872)の京浜間に続いて阪神間(1874)京阪間(1877)の鉄道が開通しました。その後、大津までの延伸は実現しましたが、幹線鉄道建設の基本方針は定まらず、資金の目当てもありませんでした。
そうした中で、鉄道建設を民間に委託する方針も生まれ、半官半民の日本鉄道は、将来の中山道幹線鉄道の一部となるべき関東平野部分(現・高崎線)や青森への鉄道(東北線など)を建設してゆきました。
純民間資本の私鉄も明治18年(1885)に開業。これこそ現・南海本線の一部になった阪堺鉄道でした。

結局、東西両京を結ぶ幹線鉄道のルートは東海道線ときまり、明治22年(1889)には全通[49808]
当時、日本鉄道は上野から塩竃まで開通、高崎線の先は官設鉄道で、アプト式で工事中の碓氷峠(横軽間開通は1893)を残して直江津まで開通。
その前年には、馬関(下関)をめざす山陽鉄道が神戸-姫路間を開通させるなど、日本の鉄道網は官設鉄道と私設鉄道とが入り乱れて伸び始めており、「鉄道一千哩祝賀会」が開かれたそうです。

基本方針の定まっていなかった政府も、明治24年(1891)になると鉄道国有主義の代表的人物である鉄道庁長官・井上勝の建議に基づいて、私設鉄道買収法案を衆議院に提出しましたが、否決されました。1890年の経済恐慌後には、民間の一部から買収を望む声も出ていましたが、財界では、まだ鉄道民営主義が主流だったのでした。

政府はあきらめずに、翌年改選された議会での再議をはかり、議員立法の法案との折衷により、明治25年法律第4号 「鉄道敷設法」 として帝国議会で成立しました。(北海道は明治29年法律第93号)
第2条「予定鉄道線路」(リンク)を見ると、この法律が日本の鉄道網の骨格を規定したものであることがわかります。

こうして、長期的視野による将来像をふまえた鉄道計画が実施されることになり、第一期線(第7条)である中央線・北陸線・奥羽線から調査・着工されることになりました。
中央線の予定線路の起点は「八王子若ハ御殿場」で、甲府・諏訪の先は「伊那郡若ハ西筑摩郡」ですから、起点の選定と伊那谷/木曽谷のいずれを選ぶかでルートは大きく変ります。結局八王子起点、木曽谷経由が選ばれたのは、勾配などの技術的理由が主たるものと思われます。

この計画実行に伴なうエピソード。諏訪から木曽谷に出るルートは、現在のように塩尻峠をトンネルで抜けずに、南に大迂回する辰野経由になりました。そのために、鉄道会議のメンバーだった伊藤大八代議士の力により、少しでも伊那に近づけたのではないかという,「大八回し」が伝えられていることは Issieさんの記事[2842] [2897]にあるとおりです。

それはさておき、この法律では既存の鉄道国有化を実現できないだけでなく、幹線鉄道網に私鉄による新線建設をも容認するものでした。
第十四条
予定鉄道線路中未だ敷設に着手せさるものにして若私設鉄道会社より敷設の許可を願出る者あるときは帝国議会の協賛を経て之を許可することあるへし

明治ニュース事典を見ると、鉄道国有に関する新聞記事は明治31年(1898)から急増しています。東京商業会議所の建議(請願)とか、福沢諭吉が「国有は断じて不可」と時事新報で力説した記事などがあります。翌年には政府の調査会が法案を作成したが、政党は意見を集約できず握りつぶし。

このようにして、1900年の営業キロ数は、私設鉄道(軌道を除く) 4674km、官設鉄道 1206kmという私鉄優位の状態で20世紀を迎えます。
[61109] 2007年 9月 9日(日)18:25:24【1】hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(2)買収を免れた南海鉄道
明治25年(1892)の「鉄道敷設法」で、国による一元管理の基本方針が打ち出された後も、私鉄優位の現実は動きませんでした。
官設鉄道の営業キロ数は、1890年の 886kmから1900年には 1206kmに増加しますが、同じ期間に、私鉄は 1365km → 4674km と、はるかに上回る勢いで増え続けます。

このような状況に大きな影響を与えたのが明治37年(1904)から翌年にかけての日露戦争です。
動員された兵士は、当時広島まで開通していた鉄道によって運ばれ、宇品港から海外派兵されました。

東京を例にとり鉄道輸送の実務を考えると、千駄ヶ谷駅付近の青山練兵場から新宿までは甲武鉄道、そこで反転した山手線は日本鉄道、品川から神戸までは官設鉄道、神戸から先は広島まで山陽鉄道という具合です。
品川・横浜のスイッチバック[49808]こそ解消されていたものの、列車の編成・運行ダイヤ・乗務員手配・費用清算・機密保持などで複数会社にまたがる処理の複雑さに悩まされました。

日露戦争中から行なわれた鉄道国有化のための調査の結論は、その趣旨として「運輸の疎通」、「運賃の低減」、「設備の整斉」の3項目を挙げており、これに基づいて戦後の明治39年(1906)3月の帝国議会に鉄道国有法案が提出されました。

新聞記事によると、原案は 17社買収 だったものが、提出直前に 32社 に改められたとか。
既に記したとおり、貴族院の修正で 15社 が削除されて 17社 に戻り、南海鉄道は買収を免れました。

南海鉄道を含む 15社が買収を免れた理由を一番単純に考えれば、鉄道国有法
第一条 一般運送ノ用ニ供スル鉄道ハ総テ国ノ所有トス但シ一地方ノ交通ヲ目的トスル鉄道ハ此ノ限ニ在ラス
の第一条但し書きによる除外というのがその答えになります。

しかし、買収対象になった 17社 中の 7社 (房総、参宮、七尾、甲武、京都、徳島、西成)は、南海線よりも短距離です。
距離こそ南海よりも長いが、岩越(福島県)、北越(新潟県)、総武(千葉県)は“県内鉄道”。
どうも線引きが不透明です。

短距離または県内であっても、幹線網の一部として買収対象に含まれるのが妥当な鉄道もあります。
中央線の一部である甲武鉄道(御茶ノ水-八王子)、山陰線の一部である京都鉄道(京都-園部)。
まだ「日本海縦貫線」という概念がなかった当時でも、信越線の一部たるべき北越鉄道(直江津-新潟)。

ところが、買収対象線の中で不思議の極致は、西成鉄道(大阪-天保山)です。
僅か7kmのミニ路線ながら、身分不相応な全国幹線ネットワークに入れてもらったのは、瀬戸内海航路への連絡鉄道という視点を強調したロビー活動の成果でしょうか?

“入れてもらった”と書いたのは、この西成鉄道は、営業成績が低迷していたからです。
株価が額面を大幅に割り込んだ状況を考えると、建設費をほぼ回収できる金額で買収してもらえることは大歓迎。
# 西成鉄道も西成区と同様に大阪府西成郡に由来する名前でしょうが、ずいぶん違う場所で「西成」という地名が使われるのには、いささか違和感がありました。現在は線名も桜島線(JRゆめ咲線)になっていますが。

法的には、私鉄条例による買い上げ権が 25年後(日本鉄道だけは特許条約により 50年後)であるという問題もあったようですが、日本鉄道、山陽鉄道、九州鉄道と大手が大勢に従う姿勢をとったために、鉄道国有化は実現することになりました。
17社の買収路線延長合計は 約4550km(資料により相違あり)。
国鉄(1907年4月帝国鉄道庁発足)と私鉄との市場シェアは逆転しました。
買収価格の総額は4億6737万円。うち大手の5社が4億円近くを占めます。1899年頃に論議されていた2億円に比べて、だいぶ高くなっています。

大阪-名古屋間で激烈な乗客獲得合戦を演じて官鉄に対抗した関西鉄道は、国有化に反対の立場で、最初に書いたように法律成立後1年半も抵抗したのですが、結局は屈しました。
関西鉄道の買収によって和歌山線が国有化されたことにより、首都と和歌山県庁所在地との間を国有鉄道で結ぶ形は整ったわけです。

[53947] じゃごたろさん によると、
明治の国道は交通というよりも、東京からの指令等を各都道府県に達するための径路的なものでありますけど。。。
だそうですから、鉄道の場合にも同じ考え方があったとすると、奈良経由でも国有鉄道線路がつながればよかったのかもしれず、このことが“買収を免れた南海鉄道”にも有利に作用した可能性があります。

一部修正すると共にタイトルも改めました。
[61225] 2007年 9月 19日(水)18:04:06【1】hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(3)買収された五大私鉄・その1 日本鉄道
だいぶ間が空いてしまいましたが、「100年前、国有化の頃の鉄道」 の続編です。

1906年の鉄道国有法によって、同年から翌年にかけて買収された17社のうち、五大私鉄と呼ばれた5社は、当時の大企業でした。

中でも、その名のように全国展開の大構想で発足した「日本鉄道」は、財政難により鉄道工事を着工できなかった明治政府を代行する民間資本として、華族・士族の持つ金禄公債による出資を中心に岩倉具視らが1881年に創立した会社です。
用地の払下・買収や地租免除、配当保証、建設工事・資材手配などで政府の手厚い保護を受けた特殊会社で、当初は保線や運行も官鉄への委託経営で、日本鉄道会社がやっていたのは営業だけでした。

上野-熊谷間から開業した(現)高崎線が、翌1884年に全通した後の開業式には、明治天皇の行幸があり、お召し列車を運行。
まさに“国家的行事”であり、高崎への鉄道が、単なる“私鉄の開通”ではなかった事実を如実に示しています。

創業時にはまだ私鉄用のルールも制定されていなかった日鉄線は、99年期限の「特許条約」により敷設されました。
条約上は、政府による買上権も満50年後にならなければ発生しないことなっていたのですが、20年余での国有化に直面したわけです。
でも、もともとの半官半民の会社で、政府の方針変更に対する強い抵抗はなかったようです。

日本鉄道会社は、将来の中山道幹線鉄道の一部となるべき上野から高崎、前橋までの区間[39336]に続いて、赤羽から分岐し 東京の山の手を通って官鉄の品川と連絡する山手線[38130]、その支線の巣鴨線[49796]も作りました。
青森への鉄道の分岐点は、熊谷との比較検討の結果 大宮と決まり、1885年着工して半年で宇都宮まで完成します(利根川橋梁のみ翌年)。

1887年に仙台・塩竈、1890年に盛岡まで開通した後、鉄道工事に適さない冬季の労働力を利用し、関係者3人(日本鉄道の小野義真、三菱の岩崎弥之助、鉄道庁長官の井上勝)の名を冠した小岩井農場を開いたという話は有名です。1891年に青森まで全通[43090]KMKZ さん。

支線として日光線も敷設。水戸鉄道買収後に土浦線[49796]と磐城線とを統合して海岸線(常磐線)も全通しました。
両毛鉄道線[39338][39370]は、日本鉄道の経路にならなかった桐生・足利などの繊維工業地帯を日鉄線と結ぶ産業鉄道で、水戸鉄道に続いて統合(1897)。

かくて、日本鉄道は、1906年の買収時には、延べ1384kmの日本最大の私鉄でした。(資料により距離の相違あり、以下同じ)
[61226] 2007年 9月 19日(水)18:09:18【1】hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(4)買収された五大私鉄・その2 山陽鉄道と九州鉄道
日本鉄道(1883年開業)、そして純粋の民間資本による都市近郊鉄道の第1号である阪堺鉄道(1885年開業)の成功は、ようやく蓄積されてきた民間資本による 各地の私設鉄道建設計画(第1次私鉄ブーム)を招きました。

しかし、杜撰な計画も多く、私設鉄道条例(明治20年勅令12号)、続いて商法の制定に伴なう私設鉄道法(明治23年法律64号)が定められ、官設鉄道と同じ水準による監督を受けることになります。3ft6in(1067mm)に統一された鉄道の軌間は、このルールに従ったものです。

「山陽鉄道」はこの時代の会社で、採算見込みのある神戸-姫路間の当初計画が、将来の幹線構想をふまえた政府の意向により、馬関(下関)までの大規模プロジェクトに変身しました。
姫路以西の不採算区間については建設補助金を得ていますが、政府の援助は日本鉄道に比べると少なくなっています。

中上川彦次郎(福沢諭吉の甥)を社長とする山陽鉄道は、1888年から先進的な設備の模範的幹線鉄道を敷設しました。東海道線でも40分の1勾配があった時代に、100分の1勾配、曲線半径300m以上を守った立派な線路を作りました。
# 中上川が山陽から三井へと去った後ですが、瀬野・八本松間だけは、やむを得ず45分の1勾配になっています。

山陽鉄道は、急行列車(1894)・照明の電灯化(1898)・食堂車(1899)・寝台車(1900)などの先進的サービスで瀬戸内海航路に対抗し、九州とは航路(1898徳山-門司)による連絡を経て、1901年に馬関まで全通させました。
# [61109]で“(日露戦争)当時広島まで開通していた鉄道”と書きましたが、“日清戦争当時広島まで開通”の事実と混同していました。

神戸-馬関間の本線のほかに大嶺への支線があり、播但鉄道と讃岐鉄道(高松-琴平)とを買収しており、延べ673km。

「九州鉄道」も、官設鉄道の敷設を待てないとして、福岡・佐賀・熊本県令を含む設立委員により 同時代(1888)に発足しました。政府の援助は山陽鉄道と同様でした。技術的には、本州のイギリス、北海道のアメリカに対して、新興のドイツから車両を輸入して発足したのが特徴ですが、後期の機関車はアメリカ製が主体になりました。

1889~1891年に、博多を起点として門司(現・門司港)・熊本・佐賀までの鉄道が開業しました。1891年開業の黒崎-小倉間は、軍艦からの攻撃を避けるという陸軍の要請により、山側ルートをとりましたが、1902年に現在の海岸ルートに変更しています。

そして、1898年までには行橋・八代・佐世保、そして大村経由で長崎にも達しています。この間に、筑豊鉄道(若松-飯塚ほか)・伊万里鉄道を合併。その後も、豊州鉄道(行橋から田川地区と宇佐方面)・唐津鉄道の合併、筑豊地区や三角への延伸などで国有化時の路線延長は718kmになります。

特に筑豊鉄道は石炭輸送で潤う優良会社でしたが、この合併は経営方針をめぐる九鉄騒動の原因になったとのことです。九鉄の経営は、当時近代産業の柱であった炭鉱経営に影響し、三井三菱を巻き込む争いになったようです。

そういえば、九州鉄道の大株主で沿線に炭鉱を経営する三菱財閥は国有化に反対で、三菱と関係の深かった外務大臣加藤高明が、西園寺内閣の鉄道国有法案に反対して辞職するという一幕がありました。
結局は九州鉄道も買収に応じましたが、翌1907年半ばまで粘り、買収価格も日鉄に次ぐ1億円以上を獲得しました。

鉄道趣味の世界に深入りしてしまいますが、この買収価格に含まれていた九州鉄道の資産の中に、「或る列車」 がありました。昔の雑誌記事に由来する呼び名です。
このアメリカ製の豪華客車は現存していませんが、九州鉄道の遺物としては、それよりも古い 初代2号御料車 (ドイツ製)が現在も残っています。

九州鉄道の遺物を考えた時に、国の重要文化財に指定されている門司港駅の駅舎が浮かんだのですが、国有化後の1914年に移転した際に新築されたもので、違いました。
[61246] 2007年 9月 20日(木)23:04:32hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(5)買収された五大私鉄・その3 関西鉄道
「関西鉄道」も、山陽鉄道・九州鉄道と同様に、明治21~22年(1888-1889)にピークのあった第1次私鉄ブーム[61226]の時代の鉄道です。
明治20年の私設鉄道条例よりも後、国による全国鉄道網の建設を視野に入れた鉄道敷設法(明治25年)[61108]の制定前に発足した鉄道です。

草津-岐阜間の官設鉄道が中山道ルートで敷設され、後の「東海道線」沿線から外れてしまった滋賀県南部・三重県の「東海道筋の地域」は、両県知事の後押しで私設鉄道を作ることになりました。

出願したのは関西鉄道(かんせいてつどう)という大きな名の会社ですが、最初に得た免許は、草津から四日市・津までの区間でした。幹線でないという理由で、山陽鉄道や九州鉄道の得た政府援助は受けられない不利がありましたが、東海道官設鉄道と競合する幹線だったら許可されないのだから仕方ありません。

工事上の難関は加太(かぶと)越え。トンネルに列車が入ると、煙の逆流を防ぐため入口の遮断幕を引く作業が、SL廃止の1972年まで行なわれていた場所です。
この大工事に成功した関西鉄道は名古屋進出を申請。鉄道局は、弥富・桑名間の木曽・長良・揖斐三川の大橋梁工事を理由に難色を示しましたが、関西鉄道は東大土木科教授の白石直治(加太トンネル工事も指導)を社長に迎え、1888年に草津で着工してから7年後の1895年に、名古屋駅までの線路を全通させました。

競合線出現を危惧する官鉄を尻目に、関西鉄道は1896年に名古屋駅の西0.6kmに豪華なターミナル「愛知駅」を設置し、柘植から西へ、大阪への路線延長に着手します。1897年に買収した浪速鉄道(片町-四條畷)の路線と合わせて、後の片町線経由で名古屋・大阪(網島)間に急行列車を走らせたのが1898年。

王寺経由で湊町(現・JR難波)と奈良とを結んでいた大阪鉄道は、これにより経営が傾いてきたので1900年にはこれを買収。
こうして距離は四條畷経由よりやや長くなるものの官鉄よりは短く、奈良駅や天王寺駅を通る経路に勝れた 後の関西本線ルートが形成されました。

大阪鉄道からは、大阪環状線の前身の城東線や王寺-桜井間も引き継ぎましたが、その後も、1904-1905年に統合した紀和鉄道・南和鉄道(高田-二見)・奈良鉄道(京都-桜井)を含めて、関西鉄道の路線網の形成史はなかなか複雑です。
ともかく、鉄道国有化当時には、関西鉄道は、その大きな名にふさわしく、東海道線より南の地域の鉄道網の大部分を占める路線延長452kmの大規模私鉄になっていました。

紀和鉄道は、五条-和歌山間が1900年に全通していますが、1903年になると難波から伸びてきた南海鉄道が紀ノ川を渡り、和歌山市駅が開設され、同時に紀和鉄道の和歌山(1968年より紀和)駅との間に、両社からの連絡線が作られます。

南海難波から南紀方面への直通列車[61073]が通った線路の起源はここにありますが、まだ紀勢線がなかった時代のこと、「南紀直通列車」はあり得ません。おそらく橋本方面からの紀和鉄道の列車が、大阪への便利がよい和歌山市駅まで乗り入れるのに使われたのでしょう。

大阪-名古屋間をメインとする関西鉄道は、日露戦争前の1902~1904年に、官設鉄道との間で 異常とも思われる運賃ダンピングを含む激烈な 乗客獲得合戦 を演じたことが語りぐさになっています。

鉄道国有化にあたり、買収反対の先鋒だった関西鉄道には、ライバルの軍門に下ることへの抵抗が強かったのだと思います。
官設鉄道と対抗した関西鉄道の意気込みを示す象徴ともいえる「愛知駅」も、国有化によってその存在意義を失い、廃止されました。

関西鉄道は、運賃以外の面でもサービス改善に熱心でした。客車の窓下の色帯と切符の色(白、青、赤)で等級をわかりやすく区別するアイディアを創始し、これは鉄道局の指導により各鉄道の採用することとなりました。

急行用の「早風」、短距離用の「池月」など、機関車には優雅な形式名称を付けていました。国有化直前の輸入で、使いこなすには至りませんでしたが、ハンガリー製蒸気動車導入の試みもなされました。戦後の関西本線は、気動車準急や通勤型気動車の活躍する舞台となった時代がありますが、このような関西鉄道の歴史と何かの縁があるのかもしれません。

幹線鉄道の技術分野では、関西鉄道から国有鉄道に引き継がれた財産の一つとして、「広軌改築」や「弾丸列車」の計画で知られる鉄道技術者・島安次郎があります。標準軌・高速列車の夢は息子の島秀雄に受け継がれ、それまでに培った技術的蓄積をうまく利用した東海道新幹線が実現したのは1964年でした。
[61271] 2007年 9月 22日(土)18:43:18【1】hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(6)北海道の鉄道 その1 幌内鉄道と北海道炭礦鉄道
鉄道国有化で1906-1907年に 買収された五大私鉄 は、半官半民の日本鉄道と、第1次私鉄ブームで出願された山陽鉄道・九州鉄道・関西鉄道、そして もう1社、北海道炭礦鉄道があります。

この通称「北炭」という会社による私鉄営業の開始は、山陽・九州・関西の3社と同じ頃(明治22年)なのですが、鉄道そのものは、官営幌内鉄道(明治13年開業)と、日本鉄道よりも古い独自の生い立ちがあります。
今回は、開拓事業の進展と共に、「官営鉄道」を民営化したものの、やがて開拓が既に進んだ地域では「私設鉄道」、フロンティア地域で「官設鉄道」と、両者が並存する時代になり、そして、北海道全土の鉄道が「国有鉄道」になるという変遷の歴史をたどります。

はじめに余談めいたお話から…
実は、明治5年の京浜間鉄道開業よりも3年前に、日本最初の「鉄道?」が北海道で誕生していました。

安政元年(1854)に幕府が結んだ日米和親条約では、下田と箱館(函館)を開港し、食料、石炭などの供給も約束しました。
第二ヶ条
一 伊豆下田、松前地箱館の両港は、日本政府に於て、亜墨利加船薪水、食料、石炭、欠乏の品を日本人に而調候丈は給候為め、渡来の儀差免し候。尤下田港は約条書面調印之上即時相開き、箱館は来年三月より相始候事。

燃料供給体制としては、茅沼(かやぬま)炭山を開発し、海岸まで約3kmの運炭鉄道工事も始めました(慶応3年、1867)。
その場所は、積丹半島の付け根、小樽の反対側です。
政権交代に伴ない、この事業が開拓使に引き継がれ、明治2年(1869)から稼動したものが日本最初の「鉄道?」です。

梅木通徳氏 によると、その設備は、木製の角材の上面に鉄の角棒を釘で固定したレール(軌間2ft6in)を ゆるやかな傾斜路に敷設し、運転者と石炭を乗せた制動付き4トン貨車を、自重により山麓から海岸まで下降させるというものでした。空貨車の返送は牛による牽引であり、機関車は使用されませんでした。
その他に、炭山坑口と山麓の間には1トン貨車を用い、釣瓶方式の索道で輸送しましたが、これも無動力です。

これが軌条を利用した日本初の事例のようですが、「無動力」なので、やはり「これが鉄道?」という感じです。
「貨物専用」であるのはともかくとして、企業内の「専用鉄道」であり、運賃を払えば誰でも利用できる「公共運送手段」ではありません。

それはさておき、本物の鉄道も、明治20年代になった四国や九州よりもずっと早い明治13年に実現しました。

発足したばかりの明治政府が設置した開拓使は、アメリカ農務局長ケプロンを招き、その報告により有望とされた幌内川上流の炭田開発計画を実施しました。
その一環として、クロフォード技師による幌内から積出港・小樽までの鉄道が1880年に着工され、年内には港側の手宮と札幌の間が開業しました。1882年に炭山のある幌内(三笠市)まで全通。幌内鉄道は、1882年の開拓使廃止後は工部省や北海道庁が管轄していました。

本州の官設鉄道はイギリスの技術で建設されました。しかし北海道では、官営ながら独自にアメリカ流の技術を採用しています。但し軌間については、西部開拓の3ftでなくて本州と同じ3ft6inに揃え、後に問題を残すことがなかったのは幸いでした。
西部開拓史に登場するようなスタイルの機関車が、小型ながらボギー式の客車を牽引しました。西部開拓鉄道は簡易線路なので、脱線しにくいボギー車を使ったのですね。最初から自動連結器を使ったこともアメリカ式です。

幌内鉄道で使われた 弁慶号機関車 と 大型の最上等客車・開拓使号 とは、神田の万世橋から近々(2007年10月14日)大宮にオープンする鉄道博物館に場所を変えて、再び公開展示されます。

「北海道炭礦鉄道」は、官営幌内鉄道(手宮-幌内など97km)と幌内炭鉱とを1889年に払い下げを受け、引き継いだ会社です。
鉄道路線は、その後 1891-92年にかけて岩見沢を機軸として歌志内、空知太、室蘭、夕張への路線を展開し、最終路線延長は合計334kmになっていました。

つまり、産業鉄道としての性格が著しい点は特異ですが、官営時代の2倍半近くの路線は、私設鉄道として作られたわけです。
1906年の鉄道国有化にあたり、北海道炭礦鉄道には、建設費の2.5倍にあたる約3000万円の買収価格が付きました。鉄道専業でない同社は、国有化を歓迎する姿勢で、買収第1号になっています。

鉄道以外の事業は「北海道炭礦汽船」として買収後も存続し、幌内・夕張・空知・真谷地・楓・万字・平和などの炭鉱を経営しました。石炭積出港として小樽の他に室蘭を整備し、室蘭では日本製鋼所、輪西製鐵場などの事業も展開しました。
# 日本製鋼所は、アームストロング砲 で知られるイギリスの武器メーカーとの合弁企業です。

このように、過去は栄光の時代があった会社ですが、近年は、石炭をめぐる環境が厳しくなった上に、1981年に起こした夕張新炭鉱での事故で大打撃を受け、遂には会社更生法の適用を受けるに至りました。
[61273] 2007年 9月 22日(土)19:11:14【1】hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(7)北海道の鉄道 その2 北海道官設鉄道と北海道鉄道
明治の鉄道事情に戻ると、本州以南では明治25年の鉄道敷設法[61108]によって国の長期展望が示されると共に、日清戦争の頃から私設鉄道への第2次投資ブームが起きて、多数の会社が名乗りを上げました。

北海道は、既に開拓使が廃止され、3県1局時代(1882~1885)を経て、明治19年に設置された「北海道庁」の時代に入っています。念のため記しておくと、この組織は地方自治体ではなく、国の地方機関と理解すべきものです。[53577]など参照

開拓推進のために不可欠な鉄道については、本州以南よりも4年遅れて 北海道鉄道敷設法 が制定され、北海道庁鉄道部が直接運営することになりました。つまり、官有物を払い下げ、民営化した北海道炭礦鉄道ですが、東と北に伸びてゆくフロンティア開発に関わる鉄道は、この会社に任せず、国の事業とする方針が確認されたわけです。

かくして、1898年7月には、北海道庁鉄道部による「北海道官設鉄道」が空知川を越えて旭川まで延伸され、それまで北海道炭礦鉄道の、そして日本の鉄道路線の北端駅だった「空知太」駅は、対岸に新設された滝川駅に取って代わられ廃止されました。

「北海道官設鉄道」は、旭川から北は名寄へ、そして旭川から十勝を目指す線路は富良野経由落合までが延伸され、また、狩勝峠の東側では釧路から池田へと進み、帯広に近づきました。
1905年4月に、北海道庁から鉄道作業局への移管により、合計350kmが官設鉄道に編入されました。

ここまで記してきた北海道の鉄道の歴史で、重要な区間が抜けています。それは、もちろん函館-札幌間です。
千歳線を経由する現在のメインルートは戦後に形成されたものであり、千歳線自体も1926年開業の私鉄(1943年戦時買収)だから、「100年前」にピントを合わせた今回のシリーズの対象にはなりません。

従って、ここで記しておく必要があるのは、通称「山線」経由の函館本線ルートです。小樽-札幌間は既設ですから、北海道鉄道敷設法では、次のように記されています。
第二条 北海道予定鉄道線路は左の如し(5項目省略)
後志国小樽より渡島国函館に至る鉄道

この区間を1902年から1905年にかけて開業したのは、「北海道鉄道」という私設鉄道でした。
後に千歳線を作った私鉄と同名ですが、全く別の会社です。

函館-小樽間が北海道官設鉄道でなく、本州以南と同様の私設鉄道として敷設されたことは、この区間が既にフロンティアではない「本土並み」の地域であったことを如実に示しています。

さすがに広い北海道だけあって、鉄道国有法により買収された17社の中では五大私鉄に次ぐ延長256km。但し営業成績は芳しくなく、株価は額面を大きく下回っていた会社なので、買収価格も建設費をやっと回収できる額で、はるかに短い路線ながら高収益を挙げていた甲武鉄道の買収価格には及びません。

100年前の国有化によって、北海道の鉄道は、釧路から帯広まで開通して371kmになっていた官設鉄道に、北海道炭礦鉄道334kmと北海道鉄道256kmが加わり、合計約961kmの国有鉄道になった計算です。

北海道鉄道敷設法の計画と比較すると、主な未開業線は、落合-帯広間のほかに、網走、根室、宗谷、留萌への鉄道ということになります。

石狩と十勝の間は、国有化完了の直前、つまり今からちょうど100年前の1907年9月に狩勝トンネルにより開通しました。
その後も1966年新線移行、1981年石勝線開業という具合にトンネル技術の進歩でルートが改良されています。石狩側のアクセス地点も、旭川→1913年滝川→1981年千歳と移り、国名から合成された用語も「狩勝」から「石勝」へと遷移しました。

網走への線路も、かつて網走本線だった池北線ルート→名寄・湧別線ルートを経て1932年の石北トンネルと、変遷しています。

後日談ついでに、長万部-東輪西(東室蘭)間は、1923-1928年に長輪線として敷設されましたが、北海道鉄道敷設法では全く触れていません。
次回のサミットが開かれる洞爺湖の近くを通るこの路線が、函館-札幌間のメインルートになったのは、進駐軍の命令で横浜から千歳・札幌への直通列車を運転したことに伴なう「怪我の功名」でした[51787]


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