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[61225] 2007年 9月 19日(水)18:04:06【1】hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(3)買収された五大私鉄・その1 日本鉄道
だいぶ間が空いてしまいましたが、「100年前、国有化の頃の鉄道」 の続編です。

1906年の鉄道国有法によって、同年から翌年にかけて買収された17社のうち、五大私鉄と呼ばれた5社は、当時の大企業でした。

中でも、その名のように全国展開の大構想で発足した「日本鉄道」は、財政難により鉄道工事を着工できなかった明治政府を代行する民間資本として、華族・士族の持つ金禄公債による出資を中心に岩倉具視らが1881年に創立した会社です。
用地の払下・買収や地租免除、配当保証、建設工事・資材手配などで政府の手厚い保護を受けた特殊会社で、当初は保線や運行も官鉄への委託経営で、日本鉄道会社がやっていたのは営業だけでした。

上野-熊谷間から開業した(現)高崎線が、翌1884年に全通した後の開業式には、明治天皇の行幸があり、お召し列車を運行。
まさに“国家的行事”であり、高崎への鉄道が、単なる“私鉄の開通”ではなかった事実を如実に示しています。

創業時にはまだ私鉄用のルールも制定されていなかった日鉄線は、99年期限の「特許条約」により敷設されました。
条約上は、政府による買上権も満50年後にならなければ発生しないことなっていたのですが、20年余での国有化に直面したわけです。
でも、もともとの半官半民の会社で、政府の方針変更に対する強い抵抗はなかったようです。

日本鉄道会社は、将来の中山道幹線鉄道の一部となるべき上野から高崎、前橋までの区間[39336]に続いて、赤羽から分岐し 東京の山の手を通って官鉄の品川と連絡する山手線[38130]、その支線の巣鴨線[49796]も作りました。
青森への鉄道の分岐点は、熊谷との比較検討の結果 大宮と決まり、1885年着工して半年で宇都宮まで完成します(利根川橋梁のみ翌年)。

1887年に仙台・塩竈、1890年に盛岡まで開通した後、鉄道工事に適さない冬季の労働力を利用し、関係者3人(日本鉄道の小野義真、三菱の岩崎弥之助、鉄道庁長官の井上勝)の名を冠した小岩井農場を開いたという話は有名です。1891年に青森まで全通[43090]KMKZ さん。

支線として日光線も敷設。水戸鉄道買収後に土浦線[49796]と磐城線とを統合して海岸線(常磐線)も全通しました。
両毛鉄道線[39338][39370]は、日本鉄道の経路にならなかった桐生・足利などの繊維工業地帯を日鉄線と結ぶ産業鉄道で、水戸鉄道に続いて統合(1897)。

かくて、日本鉄道は、1906年の買収時には、延べ1384kmの日本最大の私鉄でした。(資料により距離の相違あり、以下同じ)
[61226] 2007年 9月 19日(水)18:09:18【1】hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(4)買収された五大私鉄・その2 山陽鉄道と九州鉄道
日本鉄道(1883年開業)、そして純粋の民間資本による都市近郊鉄道の第1号である阪堺鉄道(1885年開業)の成功は、ようやく蓄積されてきた民間資本による 各地の私設鉄道建設計画(第1次私鉄ブーム)を招きました。

しかし、杜撰な計画も多く、私設鉄道条例(明治20年勅令12号)、続いて商法の制定に伴なう私設鉄道法(明治23年法律64号)が定められ、官設鉄道と同じ水準による監督を受けることになります。3ft6in(1067mm)に統一された鉄道の軌間は、このルールに従ったものです。

「山陽鉄道」はこの時代の会社で、採算見込みのある神戸-姫路間の当初計画が、将来の幹線構想をふまえた政府の意向により、馬関(下関)までの大規模プロジェクトに変身しました。
姫路以西の不採算区間については建設補助金を得ていますが、政府の援助は日本鉄道に比べると少なくなっています。

中上川彦次郎(福沢諭吉の甥)を社長とする山陽鉄道は、1888年から先進的な設備の模範的幹線鉄道を敷設しました。東海道線でも40分の1勾配があった時代に、100分の1勾配、曲線半径300m以上を守った立派な線路を作りました。
# 中上川が山陽から三井へと去った後ですが、瀬野・八本松間だけは、やむを得ず45分の1勾配になっています。

山陽鉄道は、急行列車(1894)・照明の電灯化(1898)・食堂車(1899)・寝台車(1900)などの先進的サービスで瀬戸内海航路に対抗し、九州とは航路(1898徳山-門司)による連絡を経て、1901年に馬関まで全通させました。
# [61109]で“(日露戦争)当時広島まで開通していた鉄道”と書きましたが、“日清戦争当時広島まで開通”の事実と混同していました。

神戸-馬関間の本線のほかに大嶺への支線があり、播但鉄道と讃岐鉄道(高松-琴平)とを買収しており、延べ673km。

「九州鉄道」も、官設鉄道の敷設を待てないとして、福岡・佐賀・熊本県令を含む設立委員により 同時代(1888)に発足しました。政府の援助は山陽鉄道と同様でした。技術的には、本州のイギリス、北海道のアメリカに対して、新興のドイツから車両を輸入して発足したのが特徴ですが、後期の機関車はアメリカ製が主体になりました。

1889~1891年に、博多を起点として門司(現・門司港)・熊本・佐賀までの鉄道が開業しました。1891年開業の黒崎-小倉間は、軍艦からの攻撃を避けるという陸軍の要請により、山側ルートをとりましたが、1902年に現在の海岸ルートに変更しています。

そして、1898年までには行橋・八代・佐世保、そして大村経由で長崎にも達しています。この間に、筑豊鉄道(若松-飯塚ほか)・伊万里鉄道を合併。その後も、豊州鉄道(行橋から田川地区と宇佐方面)・唐津鉄道の合併、筑豊地区や三角への延伸などで国有化時の路線延長は718kmになります。

特に筑豊鉄道は石炭輸送で潤う優良会社でしたが、この合併は経営方針をめぐる九鉄騒動の原因になったとのことです。九鉄の経営は、当時近代産業の柱であった炭鉱経営に影響し、三井三菱を巻き込む争いになったようです。

そういえば、九州鉄道の大株主で沿線に炭鉱を経営する三菱財閥は国有化に反対で、三菱と関係の深かった外務大臣加藤高明が、西園寺内閣の鉄道国有法案に反対して辞職するという一幕がありました。
結局は九州鉄道も買収に応じましたが、翌1907年半ばまで粘り、買収価格も日鉄に次ぐ1億円以上を獲得しました。

鉄道趣味の世界に深入りしてしまいますが、この買収価格に含まれていた九州鉄道の資産の中に、「或る列車」 がありました。昔の雑誌記事に由来する呼び名です。
このアメリカ製の豪華客車は現存していませんが、九州鉄道の遺物としては、それよりも古い 初代2号御料車 (ドイツ製)が現在も残っています。

九州鉄道の遺物を考えた時に、国の重要文化財に指定されている門司港駅の駅舎が浮かんだのですが、国有化後の1914年に移転した際に新築されたもので、違いました。
[61246] 2007年 9月 20日(木)23:04:32hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(5)買収された五大私鉄・その3 関西鉄道
「関西鉄道」も、山陽鉄道・九州鉄道と同様に、明治21~22年(1888-1889)にピークのあった第1次私鉄ブーム[61226]の時代の鉄道です。
明治20年の私設鉄道条例よりも後、国による全国鉄道網の建設を視野に入れた鉄道敷設法(明治25年)[61108]の制定前に発足した鉄道です。

草津-岐阜間の官設鉄道が中山道ルートで敷設され、後の「東海道線」沿線から外れてしまった滋賀県南部・三重県の「東海道筋の地域」は、両県知事の後押しで私設鉄道を作ることになりました。

出願したのは関西鉄道(かんせいてつどう)という大きな名の会社ですが、最初に得た免許は、草津から四日市・津までの区間でした。幹線でないという理由で、山陽鉄道や九州鉄道の得た政府援助は受けられない不利がありましたが、東海道官設鉄道と競合する幹線だったら許可されないのだから仕方ありません。

工事上の難関は加太(かぶと)越え。トンネルに列車が入ると、煙の逆流を防ぐため入口の遮断幕を引く作業が、SL廃止の1972年まで行なわれていた場所です。
この大工事に成功した関西鉄道は名古屋進出を申請。鉄道局は、弥富・桑名間の木曽・長良・揖斐三川の大橋梁工事を理由に難色を示しましたが、関西鉄道は東大土木科教授の白石直治(加太トンネル工事も指導)を社長に迎え、1888年に草津で着工してから7年後の1895年に、名古屋駅までの線路を全通させました。

競合線出現を危惧する官鉄を尻目に、関西鉄道は1896年に名古屋駅の西0.6kmに豪華なターミナル「愛知駅」を設置し、柘植から西へ、大阪への路線延長に着手します。1897年に買収した浪速鉄道(片町-四條畷)の路線と合わせて、後の片町線経由で名古屋・大阪(網島)間に急行列車を走らせたのが1898年。

王寺経由で湊町(現・JR難波)と奈良とを結んでいた大阪鉄道は、これにより経営が傾いてきたので1900年にはこれを買収。
こうして距離は四條畷経由よりやや長くなるものの官鉄よりは短く、奈良駅や天王寺駅を通る経路に勝れた 後の関西本線ルートが形成されました。

大阪鉄道からは、大阪環状線の前身の城東線や王寺-桜井間も引き継ぎましたが、その後も、1904-1905年に統合した紀和鉄道・南和鉄道(高田-二見)・奈良鉄道(京都-桜井)を含めて、関西鉄道の路線網の形成史はなかなか複雑です。
ともかく、鉄道国有化当時には、関西鉄道は、その大きな名にふさわしく、東海道線より南の地域の鉄道網の大部分を占める路線延長452kmの大規模私鉄になっていました。

紀和鉄道は、五条-和歌山間が1900年に全通していますが、1903年になると難波から伸びてきた南海鉄道が紀ノ川を渡り、和歌山市駅が開設され、同時に紀和鉄道の和歌山(1968年より紀和)駅との間に、両社からの連絡線が作られます。

南海難波から南紀方面への直通列車[61073]が通った線路の起源はここにありますが、まだ紀勢線がなかった時代のこと、「南紀直通列車」はあり得ません。おそらく橋本方面からの紀和鉄道の列車が、大阪への便利がよい和歌山市駅まで乗り入れるのに使われたのでしょう。

大阪-名古屋間をメインとする関西鉄道は、日露戦争前の1902~1904年に、官設鉄道との間で 異常とも思われる運賃ダンピングを含む激烈な 乗客獲得合戦 を演じたことが語りぐさになっています。

鉄道国有化にあたり、買収反対の先鋒だった関西鉄道には、ライバルの軍門に下ることへの抵抗が強かったのだと思います。
官設鉄道と対抗した関西鉄道の意気込みを示す象徴ともいえる「愛知駅」も、国有化によってその存在意義を失い、廃止されました。

関西鉄道は、運賃以外の面でもサービス改善に熱心でした。客車の窓下の色帯と切符の色(白、青、赤)で等級をわかりやすく区別するアイディアを創始し、これは鉄道局の指導により各鉄道の採用することとなりました。

急行用の「早風」、短距離用の「池月」など、機関車には優雅な形式名称を付けていました。国有化直前の輸入で、使いこなすには至りませんでしたが、ハンガリー製蒸気動車導入の試みもなされました。戦後の関西本線は、気動車準急や通勤型気動車の活躍する舞台となった時代がありますが、このような関西鉄道の歴史と何かの縁があるのかもしれません。

幹線鉄道の技術分野では、関西鉄道から国有鉄道に引き継がれた財産の一つとして、「広軌改築」や「弾丸列車」の計画で知られる鉄道技術者・島安次郎があります。標準軌・高速列車の夢は息子の島秀雄に受け継がれ、それまでに培った技術的蓄積をうまく利用した東海道新幹線が実現したのは1964年でした。


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