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落書き帳

「豆相」を含む記事(記事引用も含む)

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[61304] 2007年 9月 25日(火)16:24:29【1】hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(9) 東日本の鉄道
タイムマシンの設定を、鉄道国有化が完了した1907年10月、つまり100年前に合わせて、今回は東日本の鉄道が、この時点までにどのように敷設されてきたかを概観します。

1886年の閣令[61303]で中山道鉄道は廃止されましたが、直江津から伸ばした官設鉄道線は、1893年に軽井沢まで到達しました。
横川-軽井沢間に残された碓氷峠は、ルート選定に問題を投げかけました。結局、当時の標準的技術による40分の1(25‰)勾配を断念し、ドイツに派遣された仙石貢[34522]により進言されたアプト式を用いた15分の1(66.7‰)勾配線が採用され(1889)、1893年に開通しました。
# 中山道幹線をあきらめた後なので、想定輸送量が減少し、アプト式採用に踏み切ることができたのでしょうか。
# アプト式は1963年に廃止されましたが、路線は1997年の長野新幹線開業前まで使われました。

このようにして、1906年の国有化直前の状態は、上野-高崎間が日本鉄道、高崎-直江津間が官設鉄道であり、直江津から先には新潟まで「北越鉄道」が存在しました。
この北越鉄道は、日清戦争後の1897年から翌年にかけて開業した私設鉄道です。多数の私設鉄道が出願・開業した第2次私鉄ブームの時代です。

清水トンネルのなかった時代には、新潟と東京とを結ぶ鉄道は直江津経由の路線であり、買収反対派の北越も、当然に国有化の対象になりました。
国有化後の1909年に、高崎-直江津-新潟間が一本化して信越線という名になりましたが、キロポストの数字が、直江津でリセットされるのは、北越鉄道時代からの慣行が続いているのでしょう。

東日本では、最大の私設鉄道事業者「日本鉄道」[61225]と、上記「北越鉄道」とを含めて6社が買収されました。

買収された6社中、日本鉄道に次ぐ歴史を持つのは、第1次私鉄ブームの1889年に、日本鉄道(山手線)の新宿を起点として、八王子までを開業した甲武鉄道です。
この甲武鉄道は、その後、青山軍用停車場への軍用線を外濠沿いに延長した「市街線」を作り、買収時には、御茶ノ水-中野間で電車を運転していました[35062]。後の省線電車→国電の元祖です。
甲武鉄道は、収益率の高い都市鉄道で、建設費の2.9倍にも及ぶ1421万円という買収価格を得、北海道炭礦鉄道と共に買収第1号になりました。

1892年の鉄道敷設法では、中央線の起点として“八王子若は御殿場”と記されていましたが、甲武鉄道の延長線の形で八王子起点の官設鉄道が敷設され[61108]、国有化後は両者が統合されて中央線になりました。
トンネルをできるだけ避けたルートを選んできた鉄道も、この頃から小仏トンネル・笹子トンネルと、大トンネルで抜けるルートが可能になりました。1903年甲府、1906年塩尻まで開通し、既に1902年に篠ノ井から開通していた官鉄と一体化しました。

東日本の官設鉄道は、東海道・信越・中央各線のほかに、奥羽線があります。
福島県下福島近傍より山形県下米沢及山形、秋田県下秋田青森県下弘前を経て青森に至る鉄道及本線より分岐して山形県下酒田に至る鉄道

鉄道敷設法に上のように記された奥羽線のうち本線部分は、1894年から奥羽北線、1899年から奥羽南線として敷設され、1905年に全通しました。

奥羽線起点の福島より少し南の郡山から喜多方へと分岐する岩越鉄道、千葉県の総武鉄道(両国橋-銚子)と房総鉄道(千葉-大原など)が、日本・甲武・北越と共に買収された6社の残りです。

その一方で、同じく第2次私鉄ブームの1894年から1900年頃にかけて敷設された私設鉄道の中にも、買収の対象にならなかった会社があります。

シリーズの最初[61108]に記したのように、最初の 32社に入っていたが、貴族院の修正により削除された 15社がそれで、東日本の会社は6社ありました。

川越鉄道(国分寺-川越)。甲武鉄道の支線で、資本的にも関係があり(雨宮系)、甲武鉄道への直通運転をしていましたが[41513]、買収からは取り残されました。
後日談ですが、1927年に途中の東村山から高田馬場への電車路線を新設しました[20513]。これにより、川越(現・本川越)側は「西武新宿線」という名になっています(新宿延長は戦後の1952年)。国分寺線はローカル線として残存。

東武鉄道。1899年北千住-久喜開業以来現在まで同じ会社名で存続しています。ターミナルを浅草の対岸の吾妻橋から亀戸に移して、当時経営関係が近かった総武鉄道の両国橋まで乗り入れをしていましたが、これも乗り入れ先が買収されてしまい、1908年には乗り入れ中止。
鉄道国有法の1906年当時の路線は、架橋工事中の利根川南岸・川俣(現在の駅と違う)までで、その翌年足利町まで開通しました。

上武鉄道。日本鉄道熊谷からの支線で、1906年当時は波久礼まで。現在の秩父鉄道。

成田鉄道。佐倉-成田-佐原・我孫子間。名阪間の関西鉄道[61246]vs官鉄のケースほど大規模ではありませんが、成田山詣で客獲得に、我孫子経由上野直通列車を走らせ、佐倉乗換の総武鉄道よりも優位に立とうとする競争を演じた会社です。1906年には買収から除外されましたが、1920年鉄道省が買収(成田線)。

水戸鉄道。日本鉄道水戸から太田まで。この時は国有になりませんでしたが、1927年鉄道省が買収し水郡線になっています。

豆相鉄道。東海道線三島(現・御殿場線下土狩)から大仁までが開通していました。駿豆鉄道時代の1923年に堤康次郎が買収し、1957年伊豆箱根鉄道と改称しています。

実はこのほかにも、1906年当時には次の鉄道が存在しましたが、買収対象32社には含まれていません。当時は 762mmゲージだった故でしょう。
青梅鉄道(現・青梅線)。上野鉄道(現・上信電鉄)。龍崎鉄道(現・関東鉄道竜ヶ崎線)。

また1067mmの鉄道でも、佐野鉄道は、買収候補に含まれていません。石灰石の産地・葛生と渡良瀬川水運とを結ぶ、異色の鉄道でした。現在は東武鉄道佐野線。
[61507] 2007年 10月 4日(木)22:23:38hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(13) 人車鉄道
「陸蒸気(おかじょうき)」(1872)に遅れて登場した馬車鉄道(1882)[61502]も「動力近代化」に逆行するものでしたが、更なる逆行現象がありました。
それは、人力で動かす「人車鉄道」です。最初の事例は、馬車鉄道から更に9年後の1891年 藤枝焼津間軌道 とか。

明治初年の日本の都市で、駕籠に代って爆発的に普及した フロントドライブの人力車は、「リキシャ」の名と共に、中国・インド・東南アジア諸国に広く輸出された大発明でしたが、軌道を使う リアドライブの「人車鉄道」は、さほどのインパクトはなく、日本独自の乗り物に終始したのではないかと思われます。

最も有名な存在は、小田原-熱海間の「豆相人車鉄道」です。
幹線鉄道のルートが中山道から東海道に変わり(1886)、横浜からスイッチバックして建設が始まった東海道鉄道は、翌明治20年には国府津までが開通しました[49808]。更に翌年には、小田原・湯本までの馬車鉄道も国府津から開通しました(1888)。
箱根に向かう客を横目に見て、自分たちも鉄道で客を呼ぼうというのが、温泉地・熱海の目算です。

しかし、1889年に願書を出した鉄道は、資金が集まらないので着工できず、とうとう「安かろう悪かろう」を知りながらも、やむを得ず手を出して 1895年にやっと開業したのが「人車鉄道」でした。
610mmゲージの小型客車(復元)を押す人夫の苦労は言わずもがな、25.5kmもの距離をガタガタと運ばれる乗客にとっても、決して快適な乗り物ではなかったでしょう。

尾崎紅葉の死去で未完に終わった小説「金色夜叉」が読売新聞に連載されたのは1897~1902年ですから、豆相人車鉄道にとっては、良いタイミングだったと思われます。
# 個人的な記憶としては、教科書で 塩原 の「美文」に出会い、この小説を読みました。上野から西那須野まで日本鉄道で5時間とは遠い。

豆相人車鉄道は、1907年に762mmの蒸気軌道に改良され、雨宮の大日本軌道を経て、関東大震災で被害を受け、鉄道省の熱海線全通を前に廃止されました。熱海駅前の機関車

もっと短距離の人車鉄道ならば、東日本の各地にありました。
東京では、日本鉄道土浦線(常磐線)の金町駅から柴又帝釈天への参詣用に作られた「帝釈人車軌道」(1899)。距離は僅かに1.2kmです。これは、京成の経営に移った翌年(1913)電化。

早くから蒸気の軽便鉄道で成功した伊予鉄道の事例 [61378]があった西日本では、人車鉄道は殆んど作られませんでしたが、1907年度末に営業していた人車鉄道は全国で11社(馬車鉄道は37社)だそうです。

これよりもずっと後(1922)の開業ですが、車両の実物が残っているのが宮城県(現・大崎市)の 松山人車軌道 2.5kmです。同様の客車が万世橋の交通博物館にもありましたが、鉄道博物館の収蔵資料 には見当たらず、大宮で見ることはできないようです。
[61937] 2007年 10月 14日(日)20:33:04伊豆之国 さん
鉄道博物館開業記念・「鉄ネタ」
「鉄道の日」の今日、さいたま市に新「鉄道博物館」が開業しました。テレビで見た映像によると、9000人以上の入場者があり、「前の交通博物館に比べ、広くて気持ちよかった」など入場者の評判も上々のスタートになったようです。中でも自慢は超大型模型ジオラマで、車両や駅などだけでなく市街地や田園風景が精巧に再現されており、「日本最大級」との触れ込みでした。(ちなみに、私は開業当初の混雑が一段落してから行こうかと思っています。)
さて、[61507]hmtさん
私もいわゆる「鉄道マニア」の端くれだと自認してはいますが、hmtさんの鉄道の歴史に関する書き込みの驚くほどの緻密さには、まさに敬服しています。
この中で、
最も有名な存在は、小田原-熱海間の「豆相人車鉄道」です。
(中略)豆相人車鉄道は、1907年に762mmの蒸気軌道に改良され
この軽便鉄道を題材にした短編小説に、芥川龍之介の「トロッコ」があります。私は中学校の国語の時間にこの小説を習った記憶があります。この小説は、湯河原出身のジャーナリスト・力石平三氏が自身の少年時代を回想して書いた手記を元に、龍之介が潤色したものと言われています。(注1)
なお蛇足ですが、「力石」さんは湯河原町に非常に多い苗字で、町内に100軒以上もあり、町内のベスト5に入ります。この苗字、漫画の影響で「りきいし」と呼ばれることが多いようですが、「ちからいし」と読むのが本来のようです。
尾崎紅葉の死去で未完に終わった小説「金色夜叉」
この「金色夜叉」には、続編があるそうです。紅葉の死後、別の作家によって貫一とお宮のその後の消息を書き綴ったもので、この中で、北海道の置戸に開拓で移住した貫一が、そこで熱海の「お宮の松」によく似た松の木を見つけて「お宮のことを思い出した」ということが書いてあるようです。ちなみにこの置戸の「お宮の松」は、昨年廃業した「ふるさと銀河線」の置戸駅の構内にあるようです。
ところで、熱海経由の現在の東海道線が全通した昭和9年12月1日、この日からそれまでの国府津-御殿場-沼津間の旧東海道線は、「御殿場線」という支線に「格下げ」ということになりましたが、この直後に静岡県小山町の商工会が出した宣伝ビラに、こんなことが書かれていたそうです。
「熱海線の全通で 愈々疲弊せんとする 吾が小山町を 生かすも殺すも 皆様方の御心一つ 年末年始のお買い物は 是非共土地の商店から」
これは、小山町の商工会が「支線への転落」を前に、この年の夏にまず富士登山客を相手に土産物の即売所を設けたものの、成果が上がらなかったため、結局「せめて地元で買い物を」といったことしかできなかったという「苦渋の選択」の表れではなかったかと思われます。(注2)
現在、小山町には「富士スピードウェイ」があり、先日「F1」レースが開かれましたが、これが小山町の商業・経済にどれだけ寄与したか、前記の「支線転落前夜」の状況に重ね合わせると、甚だ疑問に思われますが、いかがでしょうか。
(注1.2-参考文献:JTB「鉄道唱歌の旅・東海道線今昔」)
[61944] 2007年 10月 14日(日)23:32:52faith さん
富士スピードウエイ
[61937] 伊豆之国 さん
芥川の小説と豆相人車鉄道のつながりなど、大変興味深く読みました。
現在、小山町には「富士スピードウェイ」があり、先日「F1」レースが開かれましたが、これが小山町の商業・経済にどれだけ寄与したか、前記の「支線転落前夜」の状況に重ね合わせると、甚だ疑問に思われますが、いかがでしょうか。
この一節はやや唐突に感じました。富士スピードウエイも、そこで開かれるF1レースも、地元の発展を主目的にしているわけでもない、単なる商業的施設や商業的イベントです。
それとも、「支線転落前夜」の状況と重ね合わせると、何か見えてくるのでしょうか。
[62419] 2007年 11月 7日(水)18:35:00【1】スピカ さん
駅名由来
昨日、4週間ぶりに休みだったので開館時間に中央図書館に行きました。すると優に100人を超す人が並んでいてびっくり。職員が適度に間を空けながら4回目で入れました。入ったのは良かったのですが、家を出る直前に印刷した旧国名町名の下調べの紙(隙間に由来を書いておいて、帰ってまとめれば完成)を忘れてきたことに気づき落胆。

[62407] 2007 年 11 月 6 日 (火) 21:32:58 Issieさん
[62408] 2007 年 11 月 6 日 (火) 22:55:36 にまんさん
そんな訳で港北NTについて調べたのですが、町名に関する資料まで行きつく事ができませんでした。


[62414] 2007 年 11 月 7 日 (水) 01:11:38 ぺとぺとさん
一概にダメともいえませんし、かといって無条件で採用というわけにはいかないでしょう。やはり個別に判断とせざるをえないと思います。決め手は「学校名に由来すること」が、市史、自治体や学校のHPなどで確認できるかどうかだと考えています。
了解です。学校由来は小中学校まで降りていくと数が多すぎますね~。

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[62402] 2007 年 11 月 6 日 (火) 18:29:48 星野彼方さん
了解です。神奈川県内の駅名を洗いざらい調べてみると出るわ出るわ。備考を書く欄が足りなかったので、記号で示して下に引っ張りました。見にくくなってすみません。
対象は以下の範囲です。
・現役駅名(例:横浜駅、東逗子駅)
・改称前の駅名(例:相模厚木駅、太尾駅)
・廃止された駅名(例:新川島駅、新太田町駅)
・川崎市電、横浜市電、湘南軌道、熱海鉄道

☆前菜として?東京都からいくつか。
自治体名・町名路線名駅名
世田谷区梅丘1~3丁目昭和41年~小田急電鉄小田原線梅ヶ丘昭和9年
同区尾山台1~3丁目昭和45年~東急電鉄大井町線尾山台昭和5年
同区桜上水昭和42年~京王電鉄京王線桜上水
練馬区区桜台1~7丁目昭和37年~西武鉄道池袋線桜台昭和11年
西東京市東伏見1~6丁目昭和41年~西武鉄道新宿線東伏見昭和4年(改称)
西東京市柳沢1~6丁目同年同線西武柳沢昭和2年
小平市花小金井1~6丁目昭和37年~同線花小金井同年
同市花小金井南町1~3丁目同年同線同駅同年
同市たかの台同年西武鉄道国分寺線鷹の台昭和23年
東村山市萩山町1~5丁目昭和39年~西武鉄道拝島線・多摩湖線萩山昭和3年
多摩市桜ケ丘1~4丁目昭和46年~京王電鉄京王線聖蹟桜ケ丘昭和12年(改称)
A…元々あった由来不明の地名を駅名に採ったのかもしれません。(参考:Wikiですが),生活経堂組合
B…旧玉川尾山町
C…京浜地名由来総覧
D…東伏見稲荷神社に由来する駅名
E…尾張徳川家の鷹狩り場に由来
F…駅開設時は萩の咲く雑木林であった

東京周辺は戦前の開発が多いので、僕の感覚では新興住宅地が判断できません。見た感じでは駅名が戦前、町名が戦後の所が多いですね。


☆自治体名
□山北町
東海道本線(現・御殿場線)の山北駅に由来。山北の由来は[59396]Issieさんに詳しいです。その書き込みの時は気づきませんでしたが、中心部にある抽象的駅名を採ったものと思われます。
角川の地名大辞典にも駅名から採ったと明記しています。

□湯河原町(駅・明治23年?/町名・大正15年)
駅の開業は豆相人車鉄道(→熱海鉄道)のもので「湯河原」は小字由来。。国鉄熱海線が開通して湯河原駅が開設されたのは大正13年のことです。人車鉄道は駅が多かったので小字を採って駅名にして、その近くに熱海線の駅が出来、それを採ったところ名がしられるようになり、土肥村(!)町制時に駅名から持って来たのではないかと考えます。

□藤野町(駅・昭和18年/町名・昭和30年)
「藤野」の名は駅所在地である小原の小字で、合併時の新町名に町の中心地にある駅の名前を採ったものです。相模原市に編入されましたが、「相模原市藤野町○○」の形で残っています。


☆これが本題です。さらにグレーなものは下に別にしました。ご意見を聞きたいです。
箱根町小涌谷昭和31年~箱根登山鉄道小涌谷大正8年
秦野市鶴巻昭和30年~小田急電鉄小田原線鶴巻(当時)昭和2年
藤沢市本鵠沼昭和40年~小田急電鉄江ノ島線本鵠沼昭和4年
藤沢市本町(ほんちょう)昭和40年~同線藤沢本町(ほんまち)昭和4年[49271]
藤沢市善行昭和42年~同線善行昭和4年
大和市鶴間昭和40年~同線鶴間昭和4年
川崎市麻生区栗平昭和52年~小田急電鉄多摩線栗平昭和49年
川崎市宮前区宮前平昭和47年~東急電鉄田園都市線宮前平昭和41年
横浜市青葉区田奈町昭和46年~同線田奈昭和41年
横浜市鶴見区尻手町昭和43年~JR東日本南武線尻手昭和2年
藤沢市片瀬山昭和48年~湘南モノレール片瀬山昭和45年
藤沢市片瀬目白山同年同線目白山下同年
相模原市南橋本昭和42年~JR東日本相模線南橋本昭和19年

A…もともとは小地獄と呼ばれていた。
B…駅名は昭和5年に鶴巻温泉に改称するものの昭和19年に鶴巻に戻る。昭和33年に鶴巻温泉に再改称。元々は大字落幡字鶴巻で、大字の改称も温泉の影響が大きいかもしれません。
C…江戸期に善行寺があり、駅周辺集落がそう呼ばれていたことから。
D…駅開設時、周辺は大字下鶴間。公共施設の多い駅の東側を鶴間と名付けたと推測します。駅西側の西鶴間を含めるのは違う感じもしますが…。
E…駅周辺の「栗木」「片平」の合成。土地区画整理事業の名前は「栗木・片平」。
F…『横浜の町名』,青葉区HP
G…周辺の通称から駅名が付けられ、町名に採った。
H…「下」の駅名から元々目白山と呼ばれる山があったことも推測されます。


○川崎市中原区木月住吉町(昭和17年~)/東急電鉄東横線・元住吉(大正15年)
明治22年から大正14年までは住吉村、駅開設時は中原町だったのでこの駅名になりました。その後、駅の北西部が木月住吉町になりましたが、町内に住吉神社があることからも駅名から来ている根拠は薄そうです。

○横浜市保土ケ谷区西谷町(昭和35年)/相模鉄道本線・西谷(大正15年)
明治22年からの西谷村の中心部(大字川島)に設置された駅に村名を採って西谷と名付けました。昭和14年に横浜市に編入されて西谷村は消滅しましたが、昭和35年に駅周辺は西谷町となりました。


鶴間は微妙としてもこれらがすべて採用されたら小田急江ノ島線で約半数が駅→町名を辿っている事になりますね。


☆デザート?
阪和線の津久野も周辺の地名の字を簡単にした駅名を付けてそれが町名(津久野町)になったとか。Wiki情報ですが。
#実は阪和線はその次の鳳までしか乗った事がないのです。

大量になってしまってすみません; すべて、駅名を入れて記事検索を掛けているので手間は出来るだけ取らせないようにしたつもりです…。


【1】漢字のミスを直した折に、津久野の話を追加。(9日0:05頃)
[63656] 2008年 2月 5日(火)01:04:39ぺとぺと さん
もったいぶっているわけではないんですが
[63649] 星野彼方さん
近日中に更新します。
何だかストーカー状態になってしまってしまい申し訳ありません。昨日の今日なのでしばらくストックしておこうかとも思いましたが、まだ更新作業をなさっていないようなので書き込んでしまいます。次回更新時に以下についてもあわせてご検討いただけると幸いです。一生懸命「学校由来町名」を探しているはずなんですが、なぜか「交通由来町名」候補ばかり見つかります。

川崎市多摩区西生田
現在の読売ランド前駅は、昭和39年に改称するまでは西生田駅でした(同日に東生田駅が生田駅に改称)。町名の成立は駅名改称から14年後の昭和53年ですが、元は大字生田の一部であったこと、及び当初は駅前の1丁目のみで成立していることなどから、駅名由来と考えてもよいのではないかと思います。
三島市広小路町
辻真澄氏の著書「沼津・三島・清水町 町名の由来」(静岡新聞社)に、
広小路という町名は江戸時代中ごろから六反田町内で特別に呼ばれていた土地の名称であったが、しだいに通称名として広がっていった。特に明治時代を迎え豆相鉄道が開通し、その後駿豆鉄道となり、大正3年三島広小路駅が開設となってから、広小路の土地名は定着するようになり、昭和40年の新住居表示によって正式な町名となった。
との記述があります。元々「通称名」として存在していたので微妙な物件だとは思いますが、駅が出来たことによって定着した町名ということで紹介いたします。
神戸市須磨区鷹取町
神戸史学会編「新神戸の町名」(神戸新聞総合出版センター)に、
高取山にちなんだ名であるが、ここはむしろ浜に近く、旧字名にも鷹取はない。なぜこのあたりを鷹取と呼ぶようになったのであろうか。鷹取駅ができてからのことか。
と、駅名由来であることを窺わせる記述があります。また、Wikipediaにも、駅名は高取山にちなむこと、及び鷹取町が駅名に由来する町名である旨が記載されています。


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