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落書き帳

美濃馬場

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[61560] 2007年 10月 7日(日)19:47:05【1】EMM さん
敢えて地雷原に飛び込んでみる
[61492] スピカさん

白山神社に関しての記述に関して、2点ほど。
まずは当たり障りの少ない方から。
以前[46241]にて白山信仰の拠点は元来3つあった旨書かさせて頂いています。
関東地方は歴史的に美濃馬場の勢力の強い地方のはずなので、お示しの白山神社は白山市の白山比め神社ではなく郡上市の白山長滝神社より勧請されたものと推測します。
もしかしたら現地の神社の縁起に白山比め神社の事が書いてあるのかもしれませんが、それはおそらく明治以降に書き換えられたものです。
江戸時代以前は、加賀は白山本宮(現在の白山比め神社)、美濃は白山本地中宮長滝寺(現在の白山長滝神社)、越前は平泉寺(現在は勝山市にある平泉寺白山神社)が信仰集団の中心となっていました。
この中で加賀と越前は一向宗との勢力争いの最前線であり、美濃馬場が最も他所での勢力拡大を勧めていたようです。
ところが、明治の神仏分離令の際、かつての延喜式に載っていたのが白山比め神社で、その直系が白山本宮であったことから全ての白山神社の総本宮となってしまいました。
(この時に白山本宮から白山比め神社に名を改めています)
その際に美濃馬場系・越前馬場系の白山神社で勧請元を白山比め神社に書き換えたところがあったようです。

次は、かなり当たり障りのある話です。
これを書くべきかどうかかなり悩みましたが、白山のお膝元としては書かずにおられず筆をとった次第です。
スピカさんは書き込みの中で白山神社を「何かを連想させるキーワード」として使っていらっしゃいます。
私が過去にしらやまさんの書き込みをした際、いろいろ調べ物をしているとその「何か」について触れたサイトをいくつも目にすることになり、非常に当惑したものです。
しかし、それらのサイトを見ていて分かったのは、「その事実」がとある地方限定であること、さらにその地方でも「その事実」とは全く関係ない白山神社が多数あることでした。
これは、その地方の「その歴史」と白山神社との関係が、上からの押しつけでないらしい事によるもののようです。
ところが、それを知らずに白山神社が全て「その歴史」と結びついている、と思っている人もいるらしく、加賀人としては憤慨しきりなのであります。
そもそも、「その歴史」自体がかなりデリケートなものであり、記述するにも慎重を期するべき話題と考えます。
スピカさんがどこまでの情報を持っていて書かれているのか分かりませんが、「それ」に本当に関係があろうが無かろうが慎重に扱うべき内容であります。
また、白山神社を「それ」を匂わせるキーワードとして使うのは上記に書いた理由により極めて不適切であり、こちらも慎重な取り扱いを望みます。


#とはいえ、地名を扱っていると「その歴史」どこかでかち当たる可能性があるんですよね。地名コレクションを担当している中でも、自分で認識しているものだけでも直接的に1回、間接的に1回それらしい話題に行き当たったことがあります。
大字名の変更や改廃の中にも「その歴史」にジャストミートしている事例もある可能性はある訳で…



おまけ:
[61556] Issieさん
[61559] オーナー グリグリ様
私は直接やっているところを目にしたことは少ないのですが、ほかから情報が飛び込んでくるんです。
この御仁の持ちネタです。
[54300] 2006年 10月 1日(日)23:40:49ズッキー さん
越峠合併?
[54264] hmt さん
1958年10月15日 福井県大野郡石徹白(いとしろ)村が、岐阜県郡上郡白鳥町に編入(現・郡上市)[31291]
九頭竜川水系の村が、中央分水嶺を越えた長良川の方に鞍替え。どんな事情があったのかな?

石徹白村から福井方面に行っても、何十キロも山間部で、生活にならないけれど、桧峠を越えればすぐに、旧北濃村の集落そして数キロで白鳥町市街地と言う事で、石徹白村の場合は、生活上、白鳥町との合併が、一番だったようです。
桧峠に詳しく載っています
[68397] 2009年 1月 19日(月)19:18:30hmt さん
昭和大合併を前に桧峠にジープを通した石徹白、スキー場で冬季も“実質的な飛び地”でなくなる
[68387] ぼたん さん
石徹白村は福井県大野郡から岐阜県郡上郡白鳥町に越県合併した地域ですが、合併当初は白鳥町の中心地域とは車道が通じていなかったと聞いた気がします(裏を取ろうとしたのですが、見つかりませんでした…)。

白山の神地として、無主無従の村民自治体制が中世から維持されてきた越前と美濃の国境の村・石徹白(いとしろ)。
18世紀には、郡上藩の取り潰し・幕府幹部の処罰という結果をもたらした石徹白宝暦騒動の舞台でもありました。
明治になると、この地は九頭竜川水系の上流にあたる越前国ということで、郡上八幡の支配を離れて、福井県に所属することになりました。

この山里の交通事情が、[54300] ズッキーさん がリンクした資料「桧峠」(現在はリンク切れ)に出ていたので、紹介します。

自動車が普及してきたのは、昭和10年代後半のこと。福井県は当然のことながら、大野市への道を優先。岐阜県側の郡上への道の新設には消極的でした。
石徹白村は、そこで岐阜県北濃村と力を合わせて林道で結ぶことになり、1943年着工。戦後の1951年念願の桧峠林道が開通したが、まだ自動車の通行は不可でした。

桧峠を越える自動車道路の開通は、昭和28年施行の町村合併促進法がもたらした結果した。
この時に、福井県大野郡石徹白村が選んだ道は、全国でも例の少ない越県合併(→岐阜県郡上郡白鳥町)でした。
奇しくも、石徹白宝暦騒動のあった郡上サイドに戻ることになるわけですが、ズッキーさんも書いているように、(桧峠さえ越すことができれば、)生活上は白鳥町との合併が有利と判断されたのでしょう。

この合併を実現させる環境整備として、白鳥町と石徹白村双方から桧峠への工事が行なわれ、昭和32年(1957)7月、ジープが通行可能になりました。

越県合併事案は、下記の2件と共に新市町村建設促進中央審議会で審議され、いずれも認められて、一部を分村(前日に境界変更)して元の県に残した上で、1958年10月15日に「越県合併」が実現しました。
長野県西筑摩郡神坂村→岐阜県中津川市 [55505]、埼玉県入間郡元狭山村→東京都西多摩郡瑞穂町 [4049]

つまり、昭和合併が実現する前年には、石徹白と白鳥町の間に自動車通行可能な林道が一応は完成しており、合併後は役場のジープが日に3往復ほど連絡しました。
この林道は、合併実現後に県道になり、変更・改良工事が加えられました。
しかし、通行量の少ないこの道は、冬季常時除雪体制をとることは不可能。
穴馬(福井県和泉村、現・大野市)経由で白鳥町本体と結ばれていた冬季に限れば、石徹白地区は岐阜県白鳥町の“実質的な飛び地”であったと言えるかもしれません。

この状態が解消したのは1972年でした。この年に石徹白地区内有志がスキー場を建設。全国的な雪不足の中で雪に恵まれた幸運もあって、名が売れました。岐阜県もこれに応じて除雪体制を整備。

石徹白小学校の元教師の回顧による、戦時中~戦後の交通事情(特に冬季の交通途絶)。これも出典はリンク切れの資料「桧峠」
当時、石徹白は福井県だったので、学校といえば当然福井の学校へ通ったのです。夏の間は、石徹白から福井県和泉村、大野市へバスが通っており、大野市から福井まで電車で出て、そこから鯖江までは電車でもバスでも行けました。
それが11月から4月の冬の間だと大変です。新学期になって学校へ戻ろうと思っても、雪が多く、和泉村へ出ることはできません。桧峠を越えて(中略)北濃駅まで歩いて、そこから越美南線、高山線東海道本線、北陸本線と乗り継いで、鯖江まで行ったのです。行くだけで1日がかりでした。
[68512] 2009年 1月 30日(金)22:21:46むっくん さん
越前と飛騨の大野郡
[68491]hmtさん
現在の地図を見ると、大野市(もと越前国大野郡)と高山市(もと飛騨国大野郡)の境界線は僅かに2kmほどの長さで、しかも2000m近い高峰が連なっています。1958年の石徹白村越県合併[68397]以前の境界線は、もう少し長かったのですが、それにしても越前と飛騨の大野郡は、交通路のない高峰に隔てられていたことに違いありません。
hmtさんの話の本旨からずれますが、越前国大野郡と飛騨国大野郡の境界線の距離について記してみます。
まず、年代によって越前国大野郡と飛騨国大野郡の境界線の距離は以下のような変遷をたどります。

年代越前国大野郡と飛騨国大野郡の境界線の距離
~1580年ごろ約15km(キョリ測
1580年ごろ~1872年約25km(キョリ測
1872年~1958(S33).10.14約15km(キョリ測
1958(S33).10.15~現在約2.5km(のように見える)

古来、越前国大野郡と飛騨国大野郡の境界線は、三ノ峰の若干南側(地図)(加賀・越前・飛騨3国境で現在も石川県・福井県・岐阜県3県の県境)~大日ヶ岳(地図)(美濃・越前・飛騨3国境で現在は岐阜県内)でした。

それが1580年ごろ、古来加賀国能見郡に属していた白山直下の16村(瀬戸村、女原村、二口村、五味島村、釜谷村、鴇ヶ谷村、深瀬村、下田原村、島村、牛首村、風嵐村、杖村、小原村、丸山村、須納谷村、新保村)が越前国大野郡に属することになりました(参考:図説福井県史12越前・若狭と周辺地域(1)牛首道)。これにより加賀・越前・飛騨3国の境が従来の箇所よりかなり北の、現在では岐阜県と石川県の県境の山として理解されている白山のやや北側に移動しました。
そのため越前国大野郡と飛騨国大野郡の境界線の距離が約10km延びたことになったのでした。
例えば江戸時代後期の天保国絵図・越前国天保国絵図・加賀国天保国絵図・飛騨国でも、このことは見て取れます。

白山直下の地では、江戸時代の明暦元(1655)年に、白山での杣取りなどの権利をめぐる争論が加賀国能美郡の尾添村と越前国大野郡牛首村・風嵐村で起こり、それが加賀藩と福井藩も巻き込んでの大争論へと発展してしまいました。(参考:谷峠
この時、加賀藩は加賀国能美郡の尾添村・荒谷村の支配を返上し、寛文8(1668)年に江戸幕府の裁定で前述の越前国大野郡16村と加賀国能美郡の2村は幕府領(天領)になりました。以後これら18村は「白山麓十八ヶ村」と国を越えて一体となった村々として人々に認識されるようになりました。

その後「白山麓十八ヶ村」は明治になって、明治3(1870)年12月に本保県、明治4(1871)年11月には福井県(同年12月に足羽県と改称)大野郡所属となります。しかしその直後の明治5年に嘆願書が出され、その時の実地調査によって同年11月に「白山麓十八ヶ村」はすべて石川県の加賀国能美郡所属となりました。(参考:白山信仰の一大拠点-平泉寺(勝山高校HP内)北陸歴史の謎
#「白山麓十八ヶ村」のうち、手取川沿いの村々は明治22(1889)年4月1日に能美郡尾口村&白峯村となり、昭和24(1949)年の石川郡への変更(尾口村白峯村)を経て、現在は白山市になっています。大日川・杖川沿いの村々は明治22(1889)年4月1日に能美郡新丸村となり、現在は小松市になっています。

これが明治5(1872)年の変化で、古来と同じ国郡に戻ったため、越前国大野郡と飛騨国大野郡の境界線の距離もまた以前に戻ったのでした(約10km短縮されました)。

その後、昭和33(1958)年の福井県石徹白村の岐阜県への越県合併に伴い、元・越前国大野郡と元・飛騨国大野郡の境界線の距離は、約2.5kmしかないように見えるようになったのでした。
[68519] 2009年 1月 31日(土)17:02:07hmt さん
美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (2)拡大していた越前側の大野郡
[68512] むっくん さん
1580年ごろ、古来加賀国能見郡に属していた白山直下の16村(瀬戸村、女原村、二口村、五味島村、釜谷村、鴇ヶ谷村、深瀬村、下田原村、島村、牛首村、風嵐村、杖村、小原村、丸山村、須納谷村、新保村)が越前国大野郡に属することになりました。

近世には、越前側の大野郡が、現在は加賀国と認識されている白山西麓の16村に拡大していたというお話、興味深く拝見しました。天保国絵図・越前国を眺めたことはあったのですが、気がついていませんでした。
その範囲を、20万分の1地勢図で確認して、改めてその広大な面積に感嘆!

朝倉氏に代って勢力を増した一向一揆は、天台白山教団と対立して平泉寺を焼討ち。
その一向一揆も、柴田勝家に討伐されました。
白山信仰は依然として無視できない存在でしたが、戦国末期以降は、武家の力関係がこの地でも所属を決めるようになりました。
江戸時代を通じて、外様大名の加賀前田家でなく、親藩の越前松平家が支配する大野郡という状態が続いていたというわけですね。

巨視的には白山信仰により“国を越えて一体となった村々”だったのでしょうが、禅定道(登山ルート)の拠点(馬場)は、ライバル関係にあります。
越前勝山の平泉寺。その越前馬場に属しながら、平泉寺とも利害の衝突がある手取川上流の牛首村・風嵐村(明治以後の白峰村)。加賀馬場(旧・鶴来町に白山本宮の白山寺)とその前進基地の尾添村。それに加えて美濃馬場(旧・白鳥町の長滝寺)からの信者を迎えるのが石徹白村。
どこにお金が落ちるかは地元としては大問題です。

江戸時代を通じて福井藩と加賀藩とを巻き込んだ抗争対立を経て、「白山麓十八ヶ村」は幕府直轄領になりました(1668)。
そして、最有力勢力の平泉寺のある越前側が、事実上の支配権を失うことになったのは明治維新でした。

「白山麓十八ヶ村」は明治4年になって、福井県(足羽県と改称)大野郡所属となります。しかしその直後の明治5年に嘆願書が出され、同年11月に十八ヶ村はすべて石川県の加賀国能美郡所属となりました。【一部省略して引用】

リンクしていただいた資料によると、尾添村・荒谷村が“石川県に属したい”という嘆願書を出したのですね。もともと加賀馬場だった村ですから当然とも言えます。
ここで、2村を切り離して加賀(石川県)に戻すのなら普通の処置ですが、従来からのしがらみと絶縁した明治政府は、18ヶ村の一括処理を検討すべく、足羽県と石川県とに調査を命じました。
そして、足羽県と石川県の対応の違いが、「白山麓十八ヶ村」の帰属に影響した……

この説は、なかなか興味深いものでしたが、それはともかく。
この2村も福井県になっていたということは、越前国大野郡が、16ヶ村に及んでいた江戸時代よりも、更に拡大していたという事実を示しています。
明治4年から5年にかけてのごく短期間ですが、越前側の大野郡を更に拡大させていた2村は、旧・尾口村の東部です。
越前・飛騨両国の大野郡の境界線は、5kmほどプラスした約30 kmになっていた可能性があります。


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