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[62613] 2007年 11月 22日(木)20:48:29hmt さん
夏目漱石の住所と戸籍、それに学校のこと(1) 塩原金之助が夏目家に復籍し、北海道へ「送籍」
[62550]で記したように、夏目金之助の誕生は江戸時代の最後の年で、場所は牛込馬場下。
満1歳になった年の九月に明治元年と改元されるので、明治の年数と満年齢が一致しています。

「馬場下」は、その名のとおり、高田馬場から穴八幡の坂を下ったところです。名主だった父・夏目小兵衛は明治5年には第四大区の御用掛(明治6年12月区長)になっています。家紋由来の「喜久井町」や夏目坂の命名も、この頃でしょう。

八幡坂と夏目坂との底になるこの付近を流れる神田川の支流について、[44006]では次のように記しています。
昔は、新宿歌舞伎町一丁目と二丁目の境から 東へ流れる 蟹川 という流れがあり、新田裏を過ぎてから北へ向きを変えて、現在の戸山ハイツ、早稲田大学を経て 神田上水(神田川)に合流していました。
神田川に近い早稲田には、名の示すように 田園がありましたが、戸山ハイツ付近には 江戸時代に 広大な尾張徳川家下屋敷[34120]があり…

金之助は一歳で塩原家に養子に出され、種痘をしたにもかかわらず疱瘡に罹りました(明治3年)。
主人は痘痕面である。御維新前はあばたも大分流行ったものだそうだが日英同盟の今日から見ると、こんな顔はいささか時候後れの感がある。…
これでも実は種え疱瘡をしたのである。不幸にして腕に種えたと思ったのが、いつの間にか顔へ伝染していたのである。(吾輩は猫である9)

枕噺はこのくらいにして、今回の主題は「漱石の住所・本籍、それに学校」にまつわる地理談義とします。

明治4年の戸籍法 に基づいて、明治5(壬申)年に金之助を長男として届出たのは、養父・塩原昌之助です。四谷太宗寺門前名主だった養父は、明治初期のめまぐるしく変る行政制度に伴なって、役職を変えています。明治6年には第五大区五小区(現・台東区駒形付近)の戸長になり、金之助も浅草の戸田学校に入学します。

小学校に入った時代は、明治5年発布の 「学制」 が実施され始めた頃で、学校制度も極めて複雑ですが、家庭の事情も複雑でした。
養父母の離婚を経て明治9年に塩原姓のまま夏目家に戻った金之助は、「道草」の中で、“実家の父に取っての健三は、小さな一個の邪魔物であった。”と描いています。
浅草の養家から実家に戻ったのに伴ない、下等小学時代に戸田学校から牛込柳町の市谷学校に転校します。

漱石卒業後のことですが、この市谷学校は、明治13年に加賀町の吉井学校と合併して北町の愛日学校になります。
私が入学した[62333]当時の校歌の冒頭は、“♪始めは吉井・市谷の2校併せて名付けたる我が愛日の小学校…”でした。(国民学校になった昭和16年度以降は“♪…我が愛日の学校は…”。)

明治11年、市谷学校上等小学を終了、神田の錦華学校小学尋常科へと移り卒業。小学入学は満8歳に近いという遅さですが、飛び級で進んだために小学卒業は満11歳と4年で通過しています。
翌明治12年神田区表神保町の東京府第一中学正則科に入学したが14年中退、二松学舎、成立学舎を経て17年東京大学予備門予科(同級生に南方熊楠)、20年第一高等中学校予科。代数や幾何学の試験にも優秀な成績を残しており、周囲からも理科に進学すると思われ、漱石自身も建築家への道を考えていたようです。

この明治20年に 2人の兄が相次いで死去した後、父はようやく夏目家への復籍を考え、養育費240円を塩原家に支払って一応の解決を見ました。夏目金之助に戻る手続きが、[62539]の復籍届だったわけです。
改めて復籍届を見直すと、慶応3年4月生と書いてあります。オヤオヤ、父は息子の誕生日を忘れていたのでしょうか?

そう言えば、現在の戸籍手続きなら必ず書くはずの「本籍地」という項目もありません。当時は本籍地と住所は一致しているのが原則だったので、その必要がなかったのでしょう。
本籍と言えば、帝国大学文科大学在学中の明治25年4月に分家届を出し、「北海道後志国岩内郡吹上町17番地」に送籍・分籍しています。

その時代背景を見ると、明治22年の 大日本帝国憲法 発布に先立つ「徴兵令」を見逃すことができません。高等教育機関在学者には徴兵猶予が認められていましたが、原則として「国民皆兵」になったのです。
ところが、まだ徴兵令が及ばない地域があったのですね。それが函館付近を除く北海道でした。
徴兵令第33条
本令は北海道に於て函館江差福山を除くの外及び沖縄県並東京府管下小笠原島には当分之を施行せず
漱石は、徴兵猶予の期限が切れる前に北海道に本籍を移したと推測されています。「本籍地」の形骸化は、もっと近年のことかと思っていましたが、早くもこの時代から実生活への関与は小さく、こんな細工に利用されていたのですね。

「流石(さすが)」と同じ故事に由来する 「漱石」という雅号は、既に明治22年に同級の正岡子規の和漢詩文集「七草集」への評に使ったのが最初とされますが、上記の戸籍手続きの際に「送籍」という言葉を知って面白く思ったようで、後に小説の中で利用しています。
せんだっても 私の友人で 送籍と云う男が 一夜 という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧として取り留めがつかないので…(吾輩は猫である6)
[62631] 2007年 11月 24日(土)06:52:14北の住人 さん
明治の戸籍法の本籍地に「国」は記載されていた?
とあることを調べに、戸籍を追っているのですが、明治41年届出の戸籍まで到達しました。何を調べようとしているのか、それは、明治15年から19年の、いわゆる北海道「三県一局時代」には、本籍地に「県」が記載されていたのか、ということです。私の予想は「記載されていない」(「県」は単に、国の政策上の区分けであり、戸籍の本籍地には影響を及ぼさなかった)ですが、今の所、その時代までたどりついていません。

記事のタイトルですが、[62613]hmtさんの記事によると、漱石の送籍地が「北海道後志国岩内郡~」となっており、「後志国」が含まれています。これが本籍地として記載されているのどうか、私の疑問となっているのです。

手元の明治41年届出戸籍では、本籍地が「北海道札幌区○○」で「石狩国」は入っていません。この戸籍の他の記載事項から考えると、おそらく、この戸籍以前の物にも「石狩国」は入っていないのでは、と想像しているわけです。同様に、北海道以外の県についても「国」は入っていないのではと思いますが、どうでしょう。(明治41年戸籍には、明治32年に他県から嫁いできた女性が入籍していますが「国」はありません。)

デジタルライブラリーを読めば、あるいは過去記事に当れば解決するのかも知れませんが、私のネット環境では苦しいものがあり、さらに古い戸籍を取り寄せようとしているのですが、現在、保存期間の壁に当っている所、苦しい状態になってます。まあ、親は2人いるので、別ルートを追っているのですが、そちらは本籍地が札幌でなく、取得に難儀しています。
[62667] 2007年 11月 25日(日)23:02:39hmt さん
Re:明治の戸籍法の本籍地に「国」は記載されていた?
[62631] 北の住人 さん  
[62613]hmtさんの記事によると、漱石の送籍地が「北海道後志国岩内郡~」となっており、「後志国」が含まれています。これが本籍地として記載されているのどうか
[62633] たもっち さん
「北海道後志国岩内郡吹上町17番地」…これは、戸籍に記載されている内容なのでしょうか。

[62539]で紹介した特別展の 展示資料pdf の中に、明治40年頃に書かれた夏目金之助の「直筆履歴書」があります。
これには、本籍地が「北海道後志国岩内郡~」と書いてありました(町名・番地は変更あり)。
このことから、漱石自身は「後志国が入った本籍地」であると主観的には心得ていたものと理解されます。

しかし、戸籍謄本の展示はなく、お2人から疑問が出たように、これが「戸籍簿の記載」として正しいか否かはわかりません。

明治以来の戸籍制度は、大別して5つあります。戸籍制度の変遷
“漱石の送籍”があった明治25年当時の戸籍制度は 「明治19年式戸籍」で、[62539]の中で明治19年内務省令22号「戸籍取扱手続」をリンクしておきました。仕事や学校のために(一時的に)都市に住む人が増え、本籍地と現実の住所地が一致しない人が多くなったために、「寄留」制度が設けられました。

明治19年式戸籍の書式を定めたものが同年の 内務省訓令第20号 であり、この中には “何県何郡何村何番地” とか “何府何区何町何番地” とか、地番による表示例が示されています。
「府県」については、上記の例のように「国」が使われておらず、このことは[62633] たもっちさん の
いちばん古いので明治25年に編製されたものがありましたが、やはり「国」は記載されていません。
を裏付けます。

ところが、いくら探しても「府県」でない「北海道」の例示がなく、「国」を使っていたか否かを知る決め手に欠けています。

戸籍制度を離れて、この時代の北海道庁の行政組織を見ると、明治30年11月2日勅令392号による改正北海道庁官制に伴なって、同日の勅令395号で 19支庁の名称位置及管轄区域 が定められました。

それによると、例えば北海道庁岩内支庁の位置は「後志国岩内郡御鉾内町」で、管轄区域は「岩内郡、古宇郡」というように定められています。
上川支庁の位置は「石狩国上川郡旭川村」で、管轄区域は「上川郡」と書いた下に小さく「石狩国」と書いてあります。「上川郡」は、天塩国・十勝国にもあるから、国名を書いて区別する必要がありました。

このように、「同名の郡が、北海道内の複数の国に存在する」という北海道特有の事情があるために、「北海道○○郡」でなく、「北海道△△国○○郡」という書式が定着していたと思われます。

現実に戸籍簿を見ていないので断言はできませんが、当時は「北海道後志国岩内郡」という書式が使われていた可能性が大と思っています。

最近は、国の違いにお構いなしに「北海道上川郡…」と書くようです。
町村の数が減り、郵便番号による特定も可能になったので、わざわざ区別する必要性が薄れた結果なのでしょうか。
[62678] 2007年 11月 26日(月)21:04:08北の住人 さん
明治18年の北海道の戸籍はこうなっている!?
あっさりとしたタイトルにしたかったんですが、新聞のテレビ欄のようになってしまいました、タイトル考えるのも難しいです。明治の本籍地記載に関するレスです。([62667]hmtさん、[62633]たもっちさん)

戸籍の収集は資金と時間がかかるので、ただで調べられる図書館に行って、とある本を借りてきました。その結果は「明治18年?の北海道の戸籍本籍地に『国』と『県』は記載されていない?」です。?マークが2つあるのがミソですが。

札幌の奥座敷に定山渓という温泉場がありますが、ここは「定山(戸籍名は美泉定山、みいずみ じょうざん)」というお坊さんにちなんで名付けられたといわれています。この定山さんの戸籍(除籍)の写真が「北海道と岡山の懸け橋 定山坊」(著者、合田一道)という本に載ってます。本文の内容はこんな感じです。

・開拓使が明治10年に戸籍調査をしたが、間違いが多かった。
・札幌県は明治16年から村役場戸籍係を動員して各戸の調査を行った。
・明治18年、定山の妻のもとに戸籍係がやってきて調査を行い、戸籍を作成した。

問題の戸籍ですが、掲載されている写真では、戸籍(除籍)の本籍地が「北海道札幌郡平岸村~」となっており、「石狩国」「札幌県」の記入は、加除も含めありません。

というわけで「明治18年の北海道の戸籍本籍地に『国』と『県』は記載されていない」と結論付けたいのですが、ちょっとした問題があるのです。この写真、よく見ると戸籍の編成日が書かれていない。さらに、本文では「明治27年に除籍」と書かれているのに、写真では「明治3?年」の家督相続について記載されており、除籍日との関係がおかしい。というわけで、?マークが2つ付いた結果になってしまったのでした。
多分、本文、写真とも信用できると思いますが、郷土史誌の掲載写真や地図に裏切られた経験のある私としては、一時資料でないものは全面的に信頼はしていないので、この結論を付けるには、自分の家系の戸籍を地道に集めるしかないようです。

この先は、単なるひとり言です。富山県(明治4年富山県成立・新川県と改称・同9年石川県に合併・同16年現在の富山県成立)のような場合の戸籍は、その都度本籍地が書き換えられたのだろうか。樺太の戸籍について、過去記事のどこかに出ていたような、いなかったような。
[62696] 2007年 11月 28日(水)18:41:21hmt さん
北海道の地名表示書式 (1)美泉定山の戸籍の謎
[62613]で、夏目漱石が明治25年4月に分家届を出し、「北海道後志国岩内郡吹上町17番地」に送籍・分籍したと書いたら、北の住人さん[62631]と たもっち さん[62633]から、戸籍の地名表示書式に本当に「後志国」が入っていたのだろうかという疑問が出されました。そして

[62678] 北の住人 さん
この定山さんの戸籍(除籍)の写真が「北海道と岡山の懸け橋 定山坊」(著者、合田一道)という本に載ってます。
明治18年、定山の妻のもとに戸籍係がやってきて調査を行い、戸籍を作成した。
問題の戸籍ですが、掲載されている写真では、戸籍(除籍)の本籍地が「北海道札幌郡平岸村~」となっており、「石狩国」「札幌県」の記入は、加除も含めありません。

なるほど。「北海道△△国○○郡」でなく、現在と同じように「北海道○○郡」と戸籍に表記した実例が、かなり古い時代にあったことはわかりました。
その時代とは何時か? そして現在までずっと「△△国」は使われなかったのか?

美泉定山の戸籍の件ですが、北海道読売 によると、彼は明治11年(1878)に失踪したと伝えられ、実際には明治10年に死んでいたということです。そのような故人の過去をわざわざ調査し、明治18年に戸籍を作り直すということがあり得るのでしょうか?

「北海道札幌郡平岸村~」と記されているという戸籍には謎がありそうです。少し考えてみました。
ポイント1:掲載された“定山さんの戸籍(除籍)”は誰の戸籍か? 本当に美泉定山本人が戸主である戸籍か?
ポイント2:書式と記載内容が戸籍の作成日の手がかりになるのではないか?

この写真、よく見ると戸籍の編成日が書かれていない。

問題の戸籍が作られたのは、明治5年、明治12年、明治19年の3つの可能性があります。

合田氏の本に掲載された写真が、美泉定山「本人の戸籍」とすれば、それは明治5年に作られた壬申戸籍ということになります。
壬申戸籍のサンプルを見つけることは困難かと思いましたが、「古い戸籍の知識箱」の中に、写真 がありました。

説明によると、特に全国的に統一された基本様式はなかったようですが、「戸」(単位となる人の集合)を「籍する」(台帳に登録する)ために、まず居住地、族籍、戸主の氏名を記載し、続いて、妻・子など家族を記し、各人の氏名の上の欄に身分、職業などの情報を記して登録するという形式は、ほぼ共通するものと思われます。

リンク頁の壬申戸籍では、戸主の氏名の右肩にその親(父母)の名が記されていますね。
明治19年式以降の書式でも、これに相当する「前戸主」の欄がありますが、そこでは母の名は無視されています。母の亡父の名まで記された壬申戸籍を見ると、かつては女系も注目されていたのではないかと感じます。
[62697] 2007年 11月 28日(水)18:48:38【1】hmt さん
北海道の地名表示書式 (2)美泉定山の相続人の戸籍かもしれない
定山渓温泉の開祖・美泉定山の戸籍の謎[62696]の続編です。
合田氏の本の写真は、美泉定山「本人の戸籍」ではなく、「定山の相続人の戸籍」である可能性もあるのではないでしょうか?
そうだとすれば、家督相続によって新しい戸籍が作られた時、又は戸籍制度が変って新しい戸籍簿に改製された時ということになります。

相続が何時だったかの問題は後回しにして、制度が変わって戸籍が改製されたのは、明治19年です。
この際に制定された 戸籍の雛形 を掲げておきます。

最初の欄に“此欄内には住所を記す”とあります。「本籍」ではなく「住所」と書いてあります。
ここで少し脱線して「本籍」という言葉に着目してみます。明治5年式にせよ、明治19年式にせよ、「北海道札幌郡平岸村~」の欄には、「本籍」とは書いてなかったと思います。しかし、明治19年内務省令22号の第8条や入寄留簿用紙第一、第二には「本籍」という文字がありますから、「戸主の住所=戸籍の所在地=本籍地」という使われ方は既に存在したようです。

「本籍」という言葉が正面から出て来るのは、明治31年「戸籍法」 です。
第170条 戸籍は戸籍吏の管轄地内に本籍を定めたる者に付き之を編成す

明治19年式戸籍の雛形に戻り、住所欄の下左に「前戸主」。私の推定では、合田氏の本の写真では、ここに「美泉定山」の名があったのではないかと思いますが、違いますか?
推測を続けると、「前戸主」の左の欄「戸主」が定山の相続人で、“「明治3?年」の家督相続”は、戸主の上欄に記載されていたのでしょう。

それにしても、失踪(死亡)したのが明治10年だとすると、“「明治3?年」の家督相続”と違いすぎます。

そこで気がついたことは、家督相続は「明治一二年」の読み違いではないか? これならば、妥当と思われます。
このように、明治12年の相続で作られた明治5年式戸籍である可能性もありますが、その可能性は低く、明治19年に「改製」された戸籍である可能性の方がが大きいと思います。

「明治27年に除籍」という記載について。
これが特定の個人の欄の上部にあったのなら、その人が除籍された年です。
戸籍簿自体が除籍簿に移された年かもしれませんが、大正15年、私の祖父の隠居により除籍簿に移された戸籍(明治19年式)の例では、“家督相続ありたるに因り本戸籍を抹消す”という表現になっていました。

合田氏の本の写真を見ていないのに、推測をもとに、勝手に謎解きをしてみました。当っているでしょうか?
[62719] 2007年 11月 29日(木)22:52:19北の住人 さん
美泉定山さんの戸籍
[62696] [62697] hmtさんへ。
私の[62678]は説明不足でした。問題の戸籍は明治19年式戸籍とほぼ同じです。写真の戸籍を横書きで表すと次のようになっています(かなり苦しい表現になってますが、文字で表すのは無理があるようです)。なお、この戸籍は全体が斜線で抹消されています。

<第一欄:住所と身分>
 ここには「本籍」という字句はなく「北海道札幌郡平岸村~」となっており、右下に身分が記入されてます。前戸主の記入はありません。
<第二欄:戸主>
 下段、「戸主」は「美泉定山」(「美」は異字体)で、「定山」には抹消線が引かれています(※注1)。左側、生年月日は「文化一二年~」です(実際には文化2年が正しいとされている)。
 上段、登記事項は「明治十一年十一月山中ニ入行衛不知」「明治廿七年一二月萬八十???除籍?(※注2)」です。
<第三欄:妻>
 下段に「妻」と書かれ、「養母」と修正されています(※注3)。また名前の右欄に「亡美泉定山妻」と追記されています(※注3)。
<第四欄:養子>
 下段に「養子」と書かれ、「戸主」と修正されています(※注3)。また名前の右欄に「亡定山養子」と追記されています(※注3)。
 上段、登記事項は、「~平岸村○○○○亡三男入籍」(※注4)、「明治参?年○月○日家督相続~」(※注5)となっています。

注記については次のとおりです。
※注1:私は、この本での「除籍」の意味について「戸籍を除票とする」と思っていたんですが、ここでは「線を引いて戸籍から抹消する」ということのようでした。
※注2:これが「定山」の除籍の日のようです。「明治十一年~」とは明かに記入者が異なっています。
※注3:これらの修正・追記は、文字の様子から「明治3?年(注5)に行われたのではないかと思います。
※注4:養子となったのが何時かは不明です。注2の「明治十一年~」と記入者は同じだと思います。
※注5:「明治参?年」の「?」は「壱」だか「七」だかよく分かりません。ということで、[62678]で、問題のある書き方「明治3?年」となってしまったのでした。戸籍全体の抹消はこの時だと思います。

北海道読売に「北海道と岡山の懸け橋 定山坊」の著者のことが書かれていますが、明治18年の戸籍調査時に、定山さんが死んでいては困る関係者がいたという推理になっています。

私は親の代から読売新聞なんですが、この手の郷土史的な記事(コラム)がよく掲載されています。ただ、記者さんも忙しいようで、深くは調べていないのか、ツッコミたくなることが多いんです。北海道読売にも、1つツッコミを入れて見ましょう。
「定山の前に温泉に小屋を建てた」云々から以降については、私の調査ではこうなります。

「明治35年頃の札幌周辺村の調査史料に、サッポロ開墾の祖である、早山清太郎翁からの聞き取りが載っている。早山翁の話では、温泉は早山翁が始めたもので、定山に請われ一代限りで貸す契約をしたということである。また、当時の長官が温泉の名を定山に聞いたところ、名が無いということなので、長官が定山渓と付けた、と話している。もっとも、この時の早山翁は高齢であり記憶をたどりながらの話と考えられ、またこの史料には早山翁の聞き取り部分が2ヵ所あり、今後の史料の分析が待たれる。」
[62722] 2007年 11月 30日(金)12:24:40hmt さん
北海道の地名表示書式 (2.1)時間稼ぎの改製戸籍
[62719] 北の住人 さん 美泉定山さんの戸籍
詳細なレポートありがとうございます。
「石狩国」が入っていない「北海道札幌郡平岸村~」は、明治19年式戸籍であったようですね。

つまり、[62678]で合田氏の本による“明治18年、定山の妻のもとに戸籍係がやってきて調査”が行なわれたとしても、それに続く“戸籍を作成”が実行されたのは、翌19年の内務省令に基づく全国的な戸籍改製作業の一環であったと理解できます。

また、“定山さんが死んでいては困る関係者がいたという推理”に基づき、「明治十一年十一月山中ニ入行衛不知」のままの状態で、とりあえず19年に定山の改製戸籍を作り、時間稼ぎをしたという筋書きも納得できます。
養子を取った上で、明治廿七年に定山本人の除籍(名に抹消朱線:サンプル )、明治参拾?年に家督相続という順序で手続き完了。この間には“一代限りで貸す契約をした”早山清太郎翁との間で、温泉の権利に関する話し合いもついたのでしょう。

[62678] のタイトルは、「明治19年の北海道の戸籍はこうなっている!?」が正しかったようです。
[62718] 2007年 11月 29日(木)22:42:12hmt さん
北海道の地名表示書式 (3)職権による本籍地の書き換え
[62678] 北の住人さん
富山県(明治4年富山県成立・新川県と改称・同9年石川県に合併・同16年現在の富山県成立)のような場合の戸籍は、その都度本籍地が書き換えられたのだろうか。

タイトルに掲げた「北海道」から離れた事項で、[62678] 北の住人さん も “単なるひとり言”とおっしゃっているのですが、ここに書いてしまいます。

後の時代の法律になりますが、明治31年の戸籍法第193条 には、次のようにありました。他の時代の制度でも 類似の取扱がされているのではないでしょうか。
行政区画、土地の名称又は地番号の変更ありたるときは 戸籍に記載したる区画、名称又は番号は当然之を改正したるものと看做す

現在でも、市町村合併などにより本籍地が変更になる場合は しばしばあり、職権で書き改められているようです。
私の場合も、平成18年3月20日付で、相模原市長から本人に通知がありました。

行政区画及び土地の名称変更(通知)
津久井町、相模湖町は、平成18年3月20日に相模原市と合併しました。
このため、あなたの本籍の表示が下記のとおり変わりますので、お知らせします。
(筆頭者、旧本籍、新本籍、構成員の表示)

住民基本台帳の本籍欄は訂正されているので(住民票で確認)、現住所の市役所にも通知されたものと思います。

その後、運転免許更新手続きの際に交付された「ICチップ登録」内容を見たら、旧本籍のままでした。県公安委員会への通知まではしていないのですね。つまり、本来は本籍地の表示変更を自ら申告すべきだったようですが、これを怠っていたわけです。
まァ、一向に不都合は感じないので、そのまま放置しているのですが…


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