[62550]で記したように、夏目金之助の誕生は江戸時代の最後の年で、場所は牛込馬場下。
満1歳になった年の九月に明治元年と改元されるので、明治の年数と満年齢が一致しています。
「馬場下」は、その名のとおり、高田馬場から穴八幡の坂を下ったところです。名主だった父・夏目小兵衛は明治5年には第四大区の御用掛(明治6年12月区長)になっています。家紋由来の「喜久井町」や夏目坂の命名も、この頃でしょう。
八幡坂と夏目坂との底になるこの付近を流れる神田川の支流について、
[44006]では次のように記しています。
昔は、新宿歌舞伎町一丁目と二丁目の境から 東へ流れる 蟹川 という流れがあり、新田裏を過ぎてから北へ向きを変えて、現在の戸山ハイツ、早稲田大学を経て 神田上水(神田川)に合流していました。
神田川に近い早稲田には、名の示すように 田園がありましたが、戸山ハイツ付近には 江戸時代に 広大な尾張徳川家下屋敷[34120]があり…
金之助は一歳で塩原家に養子に出され、種痘をしたにもかかわらず疱瘡に罹りました(明治3年)。
主人は痘痕面である。御維新前はあばたも大分流行ったものだそうだが日英同盟の今日から見ると、こんな顔はいささか時候後れの感がある。…
これでも実は種え疱瘡をしたのである。不幸にして腕に種えたと思ったのが、いつの間にか顔へ伝染していたのである。(吾輩は猫である9)
枕噺はこのくらいにして、今回の主題は「漱石の住所・本籍、それに学校」にまつわる地理談義とします。
明治4年の戸籍法 に基づいて、明治5(壬申)年に金之助を長男として届出たのは、養父・塩原昌之助です。四谷太宗寺門前名主だった養父は、明治初期のめまぐるしく変る行政制度に伴なって、役職を変えています。明治6年には第五大区五小区(現・台東区駒形付近)の戸長になり、金之助も浅草の戸田学校に入学します。
小学校に入った時代は、明治5年発布の
「学制」 が実施され始めた頃で、学校制度も極めて複雑ですが、家庭の事情も複雑でした。
養父母の離婚を経て明治9年に塩原姓のまま夏目家に戻った金之助は、「道草」の中で、“実家の父に取っての健三は、小さな一個の邪魔物であった。”と描いています。
浅草の養家から実家に戻ったのに伴ない、下等小学時代に戸田学校から牛込柳町の市谷学校に転校します。
漱石卒業後のことですが、この市谷学校は、明治13年に加賀町の吉井学校と合併して北町の愛日学校になります。
私が入学した
[62333]当時の校歌の冒頭は、“♪始めは吉井・市谷の2校併せて名付けたる我が愛日の小学校…”でした。(国民学校になった昭和16年度以降は“♪…我が愛日の学校は…”。)
明治11年、市谷学校上等小学を終了、神田の錦華学校小学尋常科へと移り卒業。小学入学は満8歳に近いという遅さですが、飛び級で進んだために小学卒業は満11歳と4年で通過しています。
翌明治12年神田区表神保町の東京府第一中学正則科に入学したが14年中退、二松学舎、成立学舎を経て17年東京大学予備門予科(同級生に南方熊楠)、20年第一高等中学校予科。代数や幾何学の試験にも優秀な成績を残しており、周囲からも理科に進学すると思われ、漱石自身も建築家への道を考えていたようです。
この明治20年に 2人の兄が相次いで死去した後、父はようやく夏目家への復籍を考え、養育費240円を塩原家に支払って一応の解決を見ました。夏目金之助に戻る手続きが、
[62539]の復籍届だったわけです。
改めて復籍届を見直すと、慶応3年4月生と書いてあります。オヤオヤ、父は息子の誕生日を忘れていたのでしょうか?
そう言えば、現在の戸籍手続きなら必ず書くはずの「本籍地」という項目もありません。当時は本籍地と住所は一致しているのが原則だったので、その必要がなかったのでしょう。
本籍と言えば、帝国大学文科大学在学中の明治25年4月に分家届を出し、「北海道後志国岩内郡吹上町17番地」に送籍・分籍しています。
その時代背景を見ると、明治22年の
大日本帝国憲法 発布に先立つ「徴兵令」を見逃すことができません。高等教育機関在学者には徴兵猶予が認められていましたが、原則として「国民皆兵」になったのです。
ところが、まだ徴兵令が及ばない地域があったのですね。それが函館付近を除く北海道でした。
徴兵令第33条
本令は北海道に於て函館江差福山を除くの外及び沖縄県並東京府管下小笠原島には当分之を施行せず
漱石は、徴兵猶予の期限が切れる前に北海道に本籍を移したと推測されています。「本籍地」の形骸化は、もっと近年のことかと思っていましたが、早くもこの時代から実生活への関与は小さく、こんな細工に利用されていたのですね。
「流石(さすが)」と同じ故事に由来する 「漱石」という雅号は、既に明治22年に同級の正岡子規の和漢詩文集「七草集」への評に使ったのが最初とされますが、上記の戸籍手続きの際に「送籍」という言葉を知って面白く思ったようで、後に小説の中で利用しています。
せんだっても 私の友人で 送籍と云う男が 一夜 という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧として取り留めがつかないので…(吾輩は猫である6)