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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[63001]2008年1月1日
白桃
[63017]2008年1月2日
hmt
[63019]2008年1月2日
稲生
[63024]2008年1月3日
千本桜
[63026]2008年1月3日
白桃
[63273]2008年1月8日
hmt
[63280]2008年1月8日
千本桜
[63434]2008年1月16日
oki

[63001] 2008年 1月 1日(火)02:04:28白桃 さん
浜名港
新年早々の質問で恐縮ですが、共武政表(明治8年)を見ていると、遠江に人口千人以上の都邑に「浜名港」の名が見えます。しかも、6,438人と並みの人口ではありません。現在の静岡県域においては、静岡、浜松駅、沼津駅、島田駅に次いでの第5位なんですから。
共武政表が地域人口統計書として決して完璧ではないことは理解しておりますが、全く信頼できないものではないと考えます。
「浜名港」とはいったい、今のどこなんでしょうか?新居の中に浜名村の名前が見えます。しかし、後の時代の人口統計から類推するに、どうもソコとは違うような気がします。また、新居と舞阪を併せた人口でもないように思えます。舞阪駅は1,822人と掲載されていますし・・・
このあたりにお詳しい方、お教え下さいますようお願い申し上げます。

ついで:真壁郡(常陸)の城廻村、田中村もどこだか特定できません。
[63017] 2008年 1月 2日(水)18:20:16hmt さん
三ケ日みかん
[63001] 白桃 さん
共武政表(明治8年)を見ていると、遠江に人口千人以上の都邑に「浜名港」の名が見えます。しかも、6,438人と並みの人口ではありません。

このあたりに詳しいわけではありませんが、「浜名港」とは、浜名湖の北西部に連なる猪鼻湖(いのはなこ)の奥、「三ヶ日」を中心とする港町ではないでしょうか。
2005年に浜松市に合併する前は、静岡県引佐郡三ケ日町でした。

履歴を記すと、明治22年(1889)の町村制により、三ヶ日村など13ヶ村から「西浜名村」が、都筑村など5ヶ村から「東浜名村」が成立。
明治29年の 静岡県下郡廃置法律 により、それまで浜松と同じ敷知(ふち)郡だった西浜名村・東浜名村は引佐(いなさ)郡になりました。
大正11年(1922)に 西浜名村が町制・改称。その後昭和30年(1955)に東浜名村と合併。「ケ」の字が大きく表示されてしまったのは、この昭和合併の際の告示ではないかと思われます。

…というわけで、明治8年には 三ヶ日は敷知郡だったので、共武政表 の敷知郡「浜名港」という記載と矛盾しません。

人口ですが、明治19年の市街名邑…戸口表の静岡県は12、28、53コマ なのですが、そのいずれにも三ヶ日村が見当たらないことが気になります。都筑村の1532人はあるのですが…

ずっと後になりますが、明治41年末の人口 は、引佐郡西浜名村8940、東浜名村4761と、かなり大きな数字になっています。比較までに、浜名郡浜松町30308、舞阪町3396、新居町7658。
[63019] 2008年 1月 2日(水)22:23:07【1】稲生 さん
新年のご挨拶&浜名港
落書き帳の皆様、明けましておめでとうございます。

昨年は、年頭のご挨拶をする機会を逃してしまい、気がつけば浜松市の政令指定都市施行の5日前の 3月27日[57442] が初登場となってしまいました。
それでも、地元・浜松市の話題、趣味の郵便局めぐりの話題と、それにより訪問した先の話題(相模国や尾張西部など)など、その時々に思うところを発言できたのかな?と思いました。

2007年の経県値は 19都府県での63点でして、生涯経県値としては、2006年より5点アップして128点となりました。郵便局めぐりは、千の大台を突破して、1079局もまわることができました。
今年も、私・稲生の活力源でもある郵便局めぐりをはじめとした趣味活動には、なるべく多く時間を割いて行きたいものと思っていますが、どうなることやら?(大晦日まで仕事でして、元旦の休みの次の休日は8日9日となっております。ガンバレ、ガンバレ)

話変わって、
[63001] 白桃 さん
[63017] hmt さん
明治8年の時点で 三ヶ日村>新居宿 というのは、にわかに信じがたいのですが、新居宿の明治22年時点の人口は4500人ほどでしたから、新居宿が×ならば、三ヶ日村=浜名港ということになるのでしょうね。

参考:現在の 浜名港
[63024] 2008年 1月 3日(木)03:57:09【2】千本桜 さん
浜名港
[63001]白桃さん
「浜名港」とはいったい、今のどこなんでしょうか?
浜松市雄踏町宇布見は考えられないでしょうか。明治時代の市街地を塗りつぶした簡略な地図を見たことがあります。それによると浜名湖周辺では宇布見村の市街地が一番大きかったような記憶があります。また、1954アメリカ製地図では、浜名湖に面した集落で市街地として描かれているのは新居と宇布見だけです。いま、昭和56年発行の国土地理院50,000分の1地形図を見ています。この地形図には宇布見の市街地(ハッチ表示された家屋密集地)が舞阪、新居、鷲津、三ヶ日、気賀よりも大きく描かれています。でも、周辺部への家屋分布の波及があまり見られず、鷲津、新居、舞阪に比べて発展が停滞しているような雰囲気が感じ取れます(念のために、現在のことではなく昭和56年の地形図を見ての印象です)。

こうして、市街地という観点から推察すると、浜名港とは宇布見のことではないだろうかとも思えるのですが、確信は全くありません。たぶん違っている可能性の方が大きいかもしれません。ですが、共武政表には浜名港の物産は「鰻○」とあります。○の部分が潰れていて読めないのですが、私としては鰻から連想するのは奥浜名ではなく、雄踏(宇布見)、舞阪、新居あたり。舞阪でもなく新居でもないとすると、浜名港は宇布見(雄踏)かな?と・・・。

でも、鰻だけで人口数千人の港町が成立するとは思えません。宇布見が人口6,438人の浜名港であるためには、他に何らかの都市機能を集積しなければ成り立たないことだと思います。そんなこんな考えているうちに、
宇布見から入野を経て菅原町の河岸に至る川沿いは明治の一時期、蒸気船によって東海道の大動脈の役割を果たしました。
と書いてあるHPにぶつかりました。そうか、宇布見は船運で浜松と結ばれていたのか。その時代と共武政表(明治8年)の時代が合致していれば、宇布見=浜名港も有り得る話になります。そして東海道本線の開通により宇布見の都市役割は短期間で終焉し人口減少に進んで行ったと勝手なストーリーまで考えましたが、想像、空想、妄想ですから当てにしないでください。夢は夜ひらくというか、妄想は夜さえるようですが、間違っていても「みんな夢の中」の♪高田恭子です。ところで、今夜は某温泉の高級ホテルに泊まって赤いチャンチャンコを着せられます。ついに来たか。

昭和56年発行の国土地理院25,000分の1地形図を昭和56年発行の国土地理院50,000分の1地形図に訂正しました。
[63026] 2008年 1月 3日(木)17:01:41白桃 さん
三ケ日か新居か宇布見か
[63017]hmt さん
[63019]稲生さん
[63024]千本桜さん

皆様、浜名港に関する私の書き込みにご対応いただき、ありがとうございました。
結論は出てませんが、十番勝負前に、取り急ぎ御礼申し上げます。
千本桜さんはレッドチャンチャンコのお祝いですか?
私は暖房のない職場で今これを書いておりますが、今から新浦安のホテルに戻り、ある方の誕生パーティに参加いたします。よって十番勝負参加は大幅に遅れると思います。
それにしても、三が日は良いお天気でした。TDRのむこうに富士もきれいに見えました。
[63273] 2008年 1月 8日(火)14:14:18hmt さん
「浜名港」再考・やはり現在の新居町か
[63001] 白桃 さん
共武政表(明治8年)を見ていると、遠江に…「浜名港」の名が見えます。しかも、6,438人と並みの人口ではありません。
新居の中に浜名村の名前が見えます。しかし、後の時代の人口統計から類推するに、どうもソコとは違うような気がします。

明治19年の「市街名邑…」による人口1733の浜名村(現在の新居町浜名)は、歌枕として名高い「浜名の橋」(862年架橋)があった場所です。11世紀の清少納言も、「橋コレクション」に集録しています。“橋は…浜名の橋…”(枕草子62段)。

明応地震以前の浜名湖図文献pdf によると、当時は淡水湖(遠つ淡海)だった浜名湖の南端(鷲津の東くらいの位置)から流出する浜名川は、南流した後で西に向きを変えて浜名村を経て遠州灘に注いでいました。

中世の東海道が浜名川を越えた「浜名橋」付近には、「橋本宿」がありました。
明応7年(1498)の東海地震でその1里ほど東で海岸が切れ、流入した海水により図のアミカケ部分が水没。拡大した浜名湖のために陸路の通行が不可能になりました。切れてから500年以上たっても「今切」[26278]という名はさておき、舞阪との間は渡船になり、東海道の宿場だった浜名村(橋本宿)は、新居宿にその地位を譲りました。

今切湊や新居関所が設けられて近世東海道の交通の要地となった新居宿は、元禄の暴風雨と宝永の地震に相次いで被災し、その都度位置を変えた結果、現在地になりました。
その今切湊も、宝永4年(1707)の大地震や津波の影響で大型船の利用が困難になってゆき、安政地震を経て明治を迎えました。

こんなことを調べているうちに、平凡社の日本歴史地名大系22巻1255頁に、次の記載があるのを見つけました。
明治7年(1884)今切湊は浜名港と名称を変え、近代的な港になった。

まさしく共武政表(明治8年)の時代です。遠江国敷知郡「浜名港」と呼ばれたのは、今切湊・新居宿のようです。
問題とされた人口6438人もあったのか?
町村制施行により新居宿・浜名村・内山村が新居町になった明治22年末、静岡県敷知郡新居町 の人口は5871人でした。新居宿だけなら4500人ほどで[63019]、江戸時代(正徳2年=1712に4103人)の水準とあまり変りません。
町村制施行は、東海道鉄道の浜松以西が開通した明治21年の翌年ですが、馬郡(舞阪)-鷲津間に新居町駅(1915年開業)が設けられていないことが示すように、新居宿の拠点性は既に失われていたのでしょう。
共武政表はこれよりもずっと前、港湾整備によって今切湊が近代的な浜名港として再生した時代ですから、新居宿の市街はもっと賑わっており、6000人を越えていたとしても不自然ではなかろうと考えます。

結局のところ、「浜名港」は「浜名村」ではなかったが、同じ新居町だったことになります。

ここで、先に提示した三ヶ日説[63017]につき補足しておきます。
三ヶ日は伊勢神宮領である「浜名神戸」の中心地です。浜名神戸 の設置は天慶3年(940)と伝えられますが、それよりも前から「浜名県主」が支配する領域で、これも長~い歴史のある「浜名」です。
そして、明治22年の町村制で敷知郡「西浜名村」を名乗り、明治22年末人口が6695人と6000人台を数えます。

それは良いのですが、上記西浜名村の人口は、旧三ヶ日村プラス13ヶ村もの合計です。新居宿プラス2ヶ村で5871人だった新居町に比べて周辺の村で稼いで6000人を超えた感じです。どうも
明治8年の時点で 三ヶ日村>新居宿 というのは、にわかに信じがたい
という [63019] 稲生さん の指摘が正鵠を射ているようです。

[63024] 千本桜 さん
宇布見から入野を経て菅原町の河岸に至る川沿いは明治の一時期、蒸気船によって東海道の大動脈の役割を果たしました。
と書いてあるHP(原資料)にぶつかりました。そうか、宇布見は船運で浜松と結ばれていたのか。その時代と共武政表(明治8年)の時代が合致していれば、宇布見=浜名港も有り得る話

浜松宿と浜名湖とを結ぶ堀留運河が完成して、浜松と浜名湖西岸の新所村(現・湖西市)との間に蒸気船が運航されたのは明治4年ですから、まさに時代は合致します。
しかし、宇布見(雄踏町は「おぶみ」でなく「ゆうとう」と音読み)が、「浜名」を名乗った事例を見出すことはできませんでした。
[63280] 2008年 1月 8日(火)23:35:42【2】千本桜 さん
浜名港はやはり現在の新居町かも知れない
[63273]hmtさん
遠江国敷知郡「浜名港」と呼ばれたのは、今切湊・新居宿のようです。
浜名港は新居ではないことを前提に宇布見と考えましたが、どうやら新居こそが浜名港のように思えてきました。古い地形図を探しているうちに浜名湖に面した主要市街地の発展過程が見てとれるHPを見つけました。明治8年当時の市街地が見れたら良いのですが、有りませんので明治23年の市街地を見てみます。これによると新居の市街が最も大きくて都市らしい形をしています。三ヶ日雄踏(宇布見)舞阪は新居に比べて小ぶりで、静岡、浜松駅、沼津駅、島田駅に次ぐ人口を有していたとは考えにくい形の町並みです。また、現在の鷲津駅付近に至っては人家の少ない寂しい所だったようです。新居の市街地は北部の新居宿と南部の浜名村の町並みが合体してできているように見えます。いつの頃から両者の町並みが連続状態になったか定かではありませんが、ひょっとして明治8年の浜名港6,438人は新居宿と浜名村の合算人口ではないかと思えてきました。と申しますのは、新居宿単独の人口なら「新居宿」と記せば良いわけで、それを敢えて「浜名港」と記すのは「新居宿」以外の区域をも含んでいたからではないかと思うのです。明治19年の人口は、4,082人の新居宿と1,733人の浜名村を併せて5,815人です。明治8年の6,438人に近い数字です。私は今、想像を楽しんでいる訳でして、間違っていたら笑って許して下さい。
東海道鉄道の浜松以西が開通した明治21年の翌年ですが、馬郡(舞阪)-鷲津間に新居町駅(1915年開業)が設けられていないことが示すように、新居宿の拠点性は既に失われていたのでしょう。
明治21年の鉄道開通時に浜松、舞阪、鷲津に駅が設置されて新居に設置されなかったのは地形要因によるものではないでしょうか。明治23年の地形図から判断すれば、どう見ても舞阪、鷲津より新居が上位都市です。鷲津には町並みすら存在しない状態でした。しかし新居には駅を設置する適地が無かった。それゆえに出遅れたのだと思います。新居町駅は大正4年に設置されましたが、それは浜名湖を埋め立ててこそ可能になったことで、明治21年の開通時には埋め立ててまで駅を設置することができなかったのでしょう。明治23年と大正6年の地形図を見比べて、そのようなことを考えました。これも想像ですから事実誤認があったら笑って許して下さい。こうして鉄道(東海道本線)と浜名湖沿岸市街地の係わりを眺めていると、損したのは新居で、得したのは鷲津のように思えてきました。鷲津は未訪地ですが、Yahoo!地図情報の航空写真で見る鷲津駅前は水田ばかりだった鉄道開通前に比べて随分都市化したものですね。

【訂正1】新居駅を新居町駅に訂正しました。
【訂正2】明治23年、大正6年、平成2年の三時代における浜名湖沿岸の市街地を見てとれるHPを貼りましたが、どうもリンク不可のHPのようです。「浜名湖展覧会パンフおねがい」と打ち込んで検索すると「浜名湖」というHPが出ますので、そこから入ってください。細江、三ヶ日、入出、鷲津、新居、舞阪、雄踏、村櫛、佐鳴湖の市街地の変化を見ることができます。
[63434] 2008年 1月 16日(水)04:03:27oki さん
その後の共武政表、および外海浦など
ご無沙汰しております。okiです。前回の書き込み(去年の6月ですね)以降、落書き帳を見られない状況になっていたのですが、年末になって何とか閲覧を再開しました。十番勝負の最中ということで、逆立ちしても1問も分からない身としてはただ傍観していたのですが、共武政表がらみの話題がちらほらしているので、話題に加わらせてください。

1.共武政表について
[63431] hmt さん 共武政表の戸数は連担接続せしもの
で引用された「陸軍省達第19号」には、「反別人口物産等之増減年末毎ニ詳細取調可差出」とあります。近代デジタルライブラリーに収載された共武政表は第1回のもので、それ以降、1882年(明治15)までに3回(合わせて4回)編纂されています。さらに、「徴発物件一覧表」と改称し、1884年(明治17)から1911年(明治44)まで発行されているようです。

2.外海浦、あるいは近世の漁村について
このうち、第4回共武政表(明治14年1月1日調)によると、外海浦の人口は次のようになっています。
外海浦内の小地名人口備   考
外海浦ノ内字深浦 940東外海浦
同浦ノ内字岩水浦 287(旧城辺町)
同浦ノ内字垣内浦 179
同浦ノ内字久良浦 1018計2424人
同浦ノ内字船越浦 1029西外海浦
同浦ノ内字久家浦 516(旧西海町)
同浦ノ内字樽見浦 254
同浦ノ内字福浦  633
同浦ノ内字外泊浦 190
同浦ノ内字中泊浦 396
同浦ノ内字内泊浦 943計3961人
          総計6385人

第1回共武政表(明治8年)で6,280人ですが、第4回でもそれに近い数字です。これらは、東は高知県境の愛南町(旧城辺町)脇本から西は船越半島西端の高茂(旧西海町)に至る非常に広い範囲の海岸部を含む地域で、[63423]千本桜さんの仰るとおり、直線距離でも東西18キロメートル以上あります。ただし、
行政的には大漁村かもしれませんが、集落的には小漁村だったのでしょう
とは必ずしも言えないと思います。人口1,000人前後の字が4つもありますが、1,000人の人口を数える集落を小漁村とは言わないでしょうからね。
むしろ興味深いのは、現在では過疎地の最たる地域とも言うべき四国西南部の海岸部に、明治初期には、これだけの人口を抱える漁村が成立していたと言うことです。これは、前に白桃さんが言及されていたように、伊予国宇和郡だけでなく瀬戸内沿岸に共通してみられる現象です。そして、その多くが、
[63420]白桃さん 後に都市に成長していく事例はごく少数
であるのも事実です。
この背景には、明治前期までの漁村が、単なる漁労集落ではなく、当時の物流の主要手段であった水運と密接に結びついた存在だったことがあると考えられます。江戸時代には、米はもちろんのこと塩、酒、藍、紅花等々のさまざまな商品が、水運を通じて全国から天下の台所である大阪に集められ、さらに大消費地である江戸に送られていました。海岸部に位置する漁村、特に流通の大動脈であった瀬戸内海周辺地域の漁村は、離島も含め、それらの海運に、船や水夫の提供という形で関わっていたと考えられます。また、漁村自体が交易の小センターで、自村の保有する廻船を通じ、後背地の農山村と全国の市場とを結ぶ役割を担っていたことも想定されます。要するに、漁村というのはその地域の交通と商業の拠点であり、農村に比べ、狭い地域に多数の人口を養うことが可能な存在だったということです。
近代になってこれらの漁村の多くが衰退したのは、物流の主体が鉄道に取って代わられたため、広い後背地を持つ有力な港町以外は、以前の拠点性を発揮し得ず、単なる漁労集落に戻ってしまったからではないか、というのが私の考えです。

3.浜名港
浜名港についてはすでに決着がついていますが、補足的に第4回共武政表による人口データをご呈示します。
地 名 人口備考
新居宿 3837
浜名村 1622
中之郷村1107
内山村  329計6895人
上記が、現在の新居町を構成する4大字の、明治14年時点での人口です。第1回が6,438人であることを考えると、浜名港とは、新居宿のほか、町屋が連担していた浜名村、中之郷村を指す(上記では6,566人)ものだと思われます。内山村は浜名・中之郷村と同様に明治合併時に合併していますが、純農村の趣が強く、浜名港には含まれていないのではないか、と考えます。

4.真壁郡城廻村、田中村
城廻村は、現在の下妻市下妻乙である、と断言できます。田中村は筑西市(旧下館市)甲の東南部から丙にかけての地域だと思われますがが、正確な範囲は不明です。
幕末以降総覧によると、城廻村は明治15年に、東・西・南当郷村とともに下妻町に合併されています。このとき、もしくはそれ以降に、大字名として旧村ではなく甲乙丙丁戊が設定されたと考えられます。ちなみに、城廻村以外は、下妻甲が旧下妻陣屋の所在地で合併時の下妻町、以下、丙が西当郷村、丁が南当郷村、戊が東当郷村と見られます。それ以外に本城町、本宿町などの住居表示されたらしい地名があり、そのかなりの部分が旧城廻村と推定されますが詳細は不明です。
田中村は、同じく明治15年に西郷谷村とともに旧下館城下に合併されており、同様に旧村名が消えて甲、乙、丙の大字が設定されています。下館城は現在の下館小学校周辺ですが、城下町はごく狭くて大字甲の北側に留まると見られ、甲の南東部および大字丙が田中村、甲の南西部と乙が西郷谷村だろうと思います。このように判断する根拠は、大字甲のほぼ中央に田中稲荷神社が存在すること、丙の南端に当たる下館駅周辺地域が、統計GISの大字区分地図で田中町になっていることですが、確証はありません。

以上、共武政表がらみの簡単なご報告です。


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