都道府県市区町村
落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[65038]2008年5月9日
播磨坂
[65048]2008年5月10日
むっくん
[65062]2008年5月11日
oki
[65091]2008年5月11日
oki
[65095]2008年5月12日
播磨坂
[65151]2008年5月17日
むっくん

[65038] 2008年 5月 9日(金)14:06:22播磨坂[伊那谷] さん
資料の信頼性、市区町村変遷情報等
[65014]紅葉橋律乃介 さん
現在「大多府」だからと言って、必ずしも百数十年前の施行時もその表記だったかどうかは、分からないと思います。
 あくまでも施行時の「原典」がどの表記なのか。仮に「大多布村」だったとすれば、あるいは「府」の誤記ではないか、との推測が出てくるわけです。単純に入力ミスかも知れませんが、併用(諸説あり)という厄介な例もないとは言い切れませんので、担当者様のご説明を待ちましょう。

本当に仰る通りだと思います。それに関連するのですが、私が普段から思っていたことを1つ。
当時の表記等を調べる資料として当時の出版物を参照することが皆さん多いかと思われますが、私はその資料が今一信頼出来ません。というのも、私は地元兵庫の自治体変遷を追うのに「兵庫県市町村名称区域及役所役場位置 福永惟精著(明治22年5月)」と「郡区町村一覧 内務省地理局(明治14年3月)」を参照していたのですが、誤植がどうも多い気がするのです。
前者は市制町村制に依り成立した市町村名とそれらを構成する郡区町村編成法下で存在した町村名、市制町村制下で各市町村の役所役場が所在した旧町村名が記載してあるのですが、たとえば、現在は川西市となっている川辺郡東谷村の項に於て、構成町村として「山下村」が記載されているにもかかわらず、役場所在地としては「元山下町」と記載されています。これを見て私は以下の三通りの可能性があると考えました。

1、郡区町村編成法施行時に山下村が発足し、市制町村制が施行されるまでの10年程の間に「町」となった(或いはその逆)
2、単純に地元では村とか町と呼ばれており、定まっていない
3、単なる誤植

一方で、後者「郡区町村一覧」では「山下村」と記載されていましたし、両書間で川辺郡に属す町村数の相違は見られませんでした(数え間違いがあるやもしれません)。
これらの事から、あくまでこれら資料を信頼した立場からは「尼崎」と「尼ヶ崎」の如く、「山下村」と「山下町」が少なくとも地元では公式非公式は分かりませんが併用されていたと考えるのが最も賢明で、2番目が事実かと考えるに至りました。
しかし、それだけならともかく、この兵庫県市町村名称区域及役所役場位置では、他にも現在の姫路市余部区(よべく)を構成していた揖西郡余部村を「あまるべ」と仮名を振っていたり、現在のJR姫新線余部駅(よべえき)周辺である飾西郡余部村も同様に「あまるべ」としています(「郡区町村一覧」でも同じような例がいくつも見られました)。勿論、現在の読みと当時の読みが同じとは言い切れませんが現在とは違い十分な通信環境なども整備されていなかった当時にその市町村から遠く離れた中央で編纂されたであろう書物ですから、単純な書き間違え、写し間違え、思い込み諸々の誤植と考えるほうが自然な気がするのです。
只、私の不勉強もあり、郡区町村編成法下での合併町制や単独町制の例は全く知らず、1の可能性も捨てきれませんし、そもそもこれらの書に記載されている町村名の時点すらもはっきり分かっておりませんので誤植とするのはいささか軽薄な感が否めませんが。

皆さんはこの点どう思われますか?

―――――――――――――――――――――――――

話は変わりまして、市区町村変遷情報に誤りかと思われる箇所を発見しましたので報告します。
「市制町村制施行時の情報」の岡山県吉野郡讃甘村の項の「市制町村制施行前の町村名等」に「小田原村」とありますが、正しくは「小原田村」かと思われます。「新旧対照市町村一覧 和泉橋警察署編(明治22年)」と現在の地名両方から確認致しましたので信頼性は高いとは思います。
ご検討よろしくお願いします。
[65048] 2008年 5月 10日(土)02:17:08【1】むっくん さん
郡区町村編成法下での○○町、○○村
[65038]伊那谷さん
現在は川西市となっている川辺郡東谷村の項に於て、構成町村として「山下村」が記載されているにもかかわらず、役場所在地としては「元山下町」と記載されています。これを見て私は以下の三通りの可能性があると考えました。

1、郡区町村編成法施行時に山下村が発足し、市制町村制が施行されるまでの10年程の間に「町」となった(或いはその逆)
2、単純に地元では村とか町と呼ばれており、定まっていない
3、単なる誤植
まず当時の○○村や○○町というのは、あくまでも行政区画名であるということを、念頭に入れておかなければなりません。
そして行政区画名である以上、当該区域が村であるか町であるかは、遅くても明治5年からの区制(大区小区制)が施行されたときには、内務省によって定められているはずです。

そして、もしも合併があった場合や町から村になった場合などは、区制(大区小区制)が施行されている時代の場合では、内務省布達によって行政区画名は変更されます。また、その後の郡区町村編成法が施行されていた時代では、所属する府県の布達もしくは告示もしくは県令によって行政区画名は変更されます。(*注)
伊那谷さん御提示の場合では、兵庫県の布達もしくは告示で行政区画名は定められることになります。
このような状況下で、兵庫県の公的表記として「山下村」もしくは「山下町」と行政区画名の要とも言える「村」もしくは「町」の部分が揺らぐことはおそらくありえないことなのではないでしょうか。
以上より、私は伊那谷さんの仮説の中では2だけはありえないと推察します。


次に、当時の各文献の信憑性についてです。
私も藩政村から現在の市区町村までの変遷に興味があり、その変遷の情報源として当時の文献を参照しています。しかしながら各文献の記述には相違があることもあり、いずれかが誤りと判断しなければならないという状況がしばしばあります。とりあえずは、正否は臨機応変に見極めざるを得ないということでしょうか。
一点だけいえるとすれば、「郡区町村一覧」については、後年に出された「地方行政区画便覧」と比較して明らかに誤記載が多いのではないか、というのが私の実感です。

#ただし、“私の実感”とは言っても、江戸時代末期から現代までの町村名の変遷の経緯を追ってきた滋賀県・京都府・大阪府の3府県のみからの感想ですので、他の都道府県においては成立しないかもしれません。


最後にこれだけでは何ですので伊那谷さん御紹介の2冊に、私からも2冊付け加えて比較してみました。

町村名書籍名
M13山下村郡区町村一覧(著:内務省地理局、明14.3)
M19.1.山下町地方行政区画便覧(著:内務省地理局、明20)
M22.3.31山下村兵庫県報類纂第2冊明治22年(編:今井馬吉,山下三郎、出版:神戸活版所、明25.9)
M22.3.31山下村/(元)山下町兵庫県市町村名称区域及役所役場位置(著・出版:福永惟精、明22.5)

うーん、何が正しいのか、どういう変遷を経たのかはこれだけでは判断することができませんでした。完全にお手上げです。将来、兵庫県の変遷を調べるときに私もおそらくぶちあたる問題なので、何かしらの結論を出したかったのですが。。。


(*注)明治10年7月以降郡区町村編成法が施行されるまでの間に町村の廃置分合が行われたときの根拠も、おそらく所属する府県の布達ではないか、と私は推測しています。
[65062] 2008年 5月 11日(日)01:08:56oki さん
山下町/村
ご無沙汰しております。

[65038] 伊那谷さん
[65048] むっくん さん

山下町/村について、むっくん さんが挙げられた以外の資料を含め、江戸末期~明治合併期までの経緯を整理してみました。

No調査時点出版年資料名編著者山下?備考
1天保9.5天保国絵図江戸幕府笹部村之内山下町
2明治最初期不明旧高旧領取調帳明治政府なし
3明治13年明治14.3郡区町村一覧内務省地理局山下村
4明治14.1.1不明第4回共武政表陸軍省参謀本部山下町山下町・下財屋敷併せて105戸480人
5明治14年中明治18.8明治14年兵庫県統計概表兵庫県庶務課山下町
6明治16.12明治18.4地名索引内務省地理局山下町
7明治17.7?明治17.11兵庫県管内郡区町村名一覧福本虎蔵山下村調査時点は識語の時点。内容は郡区町村一覧の引き写しでは?
8明治19.1明治20.10地方行政区画便覧内務省地理局山下町
9明治22.4.1明22.5.14兵庫県市町村名称区域及役所役場位置福永惟精山下村/山下町調査時点は県令施行日
10明治22.4.1明22.11.13新旧対照市町村一覧和泉橋警察署山下村同上
11明治22.4.1明25.9.20兵庫県報類纂第2冊明治22年今井馬吉,山下三郎山下村同上

まず、山下という地域は、遅くとも天保期(1830~40年代)から「町」と呼ばれていたことが分かります。笹部村の枝村の扱いですが、国絵図では山下町の北側に古城跡が記され(今も城山があります)、町の北隣に下財屋敷(現在は下財町)の地名があることからすると、中世に国人土豪クラスの居館があって一定の商業機能を備え、それが近世に引き継がれたのかもしれません。ただ、資料4で明治14年の人口が山下町、下財屋敷併せて500人弱ですから、さほどの規模ではなかったと思われます。
次に、資料2では山下の名称が記載されていないので、幕末明治移行期はまだ笹部村の枝村であり、資料3の明治13年までに独立して山下「村」になったと考えられます。
それ以降、資料4~資料8(明治14~19年)は基本的に山下「町」であり、資料3、4の調査時点が正しいとすれば、明治13年中に町になったのでしょう。なお、資料7では「村」ですが、この資料は町村の配列が資料3(郡区町村一覧)と同一であり、後者を引き写したものではないかと思います(資料7の時点は巻頭の識語の執筆時で、実際の調査時点は記載されていません)。
以上であれば、江戸時代に農村の枝村として小さな町場であった地域が、明治に入って独立、その後町になった、というよくある話です。奇妙なのは、明治合併時の資料9~11で山下「村」となっている点です。特に9の場合、東谷村を構成する旧村名としては山下「村」なのに、東谷村の役場所在地としては山下「町」である、という摩訶不思議な記載になっています。

この説明として考えられるのは次の3点。
1.資料9、10、11で、単純に町を村と誤植した。
2.資料8(地方行政区画便覧)の調査時点である明治19年1月から、合併県令の公布された明治22年2月までの間に、町から村に変更された
3.県が認定する公式の自治体名は「村」であるが、地元では江戸時代以来「町」と呼ばれており、それを採用する資料があった

以上のうち、3は伊那谷さんの
2、単純に地元では村とか町と呼ばれており、定まっていない
と同じような考えですが、兵庫県や内務省の公式資料である5、6、8に山下「町」とあるので、ちょっと採用しがたい。
2は、まったくないとは言い切れませんが、いったん町になった自治体が村に戻った例を知らないので、考えにくいと思います(明治維新後、大合併期までに町から村になった例をご存じの方はご教授下さい)。
1については、資料9は町、村の両方が記載されているのでどちらかが誤記であることは明白ですし、10も下財屋敷を下財屋村と誤植していることから、ほかにも誤りがある可能性は高い。11は県庁に直接調査を依頼しているため信頼性はありますが、誤植がないとは言い切れません。

したがって、私としては、町を村と誤植した可能性がもっとも高いと考えますが(3つの資料が揃って誤植した、とするのは躊躇する面があるものの)、伊那谷さん、むっくんさん、いかがでしょうか。

ただ留意が必要なのは、どの資料にも誤記、誤植は必ずあるだろうということ。たとえば、「地方行政区画便覧」の巻末には2ページにわたって正誤表が記載されており、その中には漢字の間違いとともに町と村の誤記も多数見受けられます。このような誤りは他の資料にもあるはずで、何らかの疑問が生じた場合、可能な限り複数の資料を援用してその整合性から当否を判断するしかないと思います。と言っても、一つの資料が間違っていた場合(特に県や国の公的資料)、他の資料にも誤りが連鎖する場合があってなかなか難しいとは思いますが。
[65091] 2008年 5月 11日(日)22:58:42oki さん
明治初期の地図情報について
明治大合併期までの市区町村変遷に関し、文字資料としては近代データライブラリなどを参照できるようになっています(特に、むっくん さんの「[62863] 市制町村制施行時の府令県令(ver2)」には大変お世話になっています。これだけの資料を発掘していただいたことに感謝いたします)。
加えて、ネット上で明治初期の地図情報を公開するサイトも増えてきました。皆さん、あまり触れられることがないようなので、私の知っているものをご紹介しておくことにします。

1.関東地方
歴史的農業環境閲覧システム
明治初期から中期にかけて作成された「迅速測図」のうち、関東地方の分を閲覧できるようにしたサイトです。確認した限りでは、明治13~15年時点の地図のようです。明治前期の市区町村変遷に興味がなくとも、地図好きであれば見逃せないサイトだと思います。

2.大阪府(および隣接地域)
大阪市立図書館イメージ情報データベース 地形図をさがす
「2万分の1仮製地図」を選ぶと、明治10年代の地形図の閲覧が可能です。画面が小さくて見にくいですが、現在の地形図を参照しながら閲覧すれば、見たい地域に素早くたどり着けると思います。
ちなみに、このサイトで「妙見山」を見ると、[65062]でご報告した山下町/村が、明治18年測量時点で山下「町」となっていることを確認できます。

3.奈良県
奈良県立図書情報館 絵図展示ギャラリー 古地図・地図
「大和全国地図」、「大阪府奈良県管内細見全図」などが明治10年代の地図です。後者は奈良県が大阪府と一体であった時期のもので、大阪府管内の摂河泉3国と大和国が1枚の地図に描かれています。

4.徳島県
徳島県立図書館 デジタルライブラリ 所蔵絵図
「阿波国全図」が明治3年の地図です。ほかに、明治合併期直後のものと見られる「徳島県明細全図」があり、合併後の村とその中の大字との領域が分かります。

5.岡山県
デジタル岡山大百科 コレクション一覧 絵図・古地図
(「絵図・古地図」ページには直接飛べず、「コレクション一覧」へのリンクです)
「岡山県管内地図 岡山県管内図」が明治12年、「岡山県三国地図」が明治18年の地図です。両者を比較すると、大多府村は明治12年から18年の間に日生村から独立したようです。

以上のうち、1以外では、明治前期のほか江戸期の絵図や大合併期以降の古地図も閲覧可能なので、興味のある方はご覧下さい。
また、これら以外で、村レベルの位置確認が可能な明治前期の地図を閲覧できるサイトをご存じの方は、教えていただければと思います。
[65095] 2008年 5月 12日(月)12:08:50播磨坂[伊那谷] さん
資料の検証方法など
[65048]むっくん さん
[65061]88 さん
[65062]oki さん

皆様、丁寧なレスありがとうございます。
やはり誤記が存在したと考えざるを得ないのでしょうか。「山下村(町)」に関してもいくつか資料を提供して頂いておりますが、これを拝見する限りでも誤記と考えないとやはり腑に落ちません。
こうなると何が真実かを解明するのは現代の私たちには難しく、88 さんのように「原典通り」を採るなどの何かしらの基準を持つことが必要かと思いました。
とりあえず、「山下村(町)」に関しては、川西市史あたりを当たってもう少し調べてみようと思います。
[65151] 2008年 5月 17日(土)14:10:49【1】むっくん さん
四日市次郎丸村&山下町/村
[65136]oki さん

納得できる話ばかりです。

明治3年の郷村高帳の存在はやはり大きいです。縦書表記について、「四日市|次郎丸村」という併称表記なのか、「四日市次郎丸村」という連称表記なのかということを明示しているわけですから。

また、旧高旧領取調帳データベースの記載にしても、広島県史・年表(別編1)の記載にしても、確かに縦書の併称表記を担当者がどのように解釈するのか、という余地があります。
担当者の解釈の余地の有無や原典の記載方式まで気を配らなければならないということにまでは、考えを巡らせることが出来ていませんでした。地方行政区画便覧の件につきましては単なる私の読み違えでした(恥)。

実は私は、滋賀県・京都府・大阪府の3府県の市町村の天保国絵図から現在までの変遷を、城下町・幕府直轄地の町場の変遷も含めて、その廃置分合の年月日を含めて既に(IssieさんHP類似の形式で)表にまとめています。
私がまとめた3府県においては、遅くても明治5年の区制(大区小区制)の時期には、okiさん定義の「連称表記」になるため、特に縦書表記に関しては深く考えたことはありませんでした。他の都県も同様だろうと考えていましたので。
それがひょんなことから、広島県史・年表(別編1)を調べることになり、たまたま「四日市次郎丸村」の記載に出会うことになり、旧高旧領取調帳データベースの記載と併せて考えることで[65106]拙稿のような疑問を提起した次第です。ひょっとしたら「四日市次郎丸村」は例外的に併称表記のまま奇跡的に残ったのではないかもしれないのではないかと思いましたので。
やはり例外的に併称表記のまま残ってはいなかったようですね。

最後になりましたが、ご解説ありがとうございました。


[65062]oki さん

山下町/村ですが、まずは資料の追加です。
兵庫県管下各区並村名取調書(編:兵庫県、M7)でも、第14区摂津国川辺郡 山下町との記載がありました。
そして山下町/村の判断ですが、私も
いったん町になった自治体が村に戻った例を知らない
ので、町を村と誤植した可能性の方が、山下町から山下村に改称した可能性よりは高いと考えています。


いったん町になった自治体が村に戻った例を知らない
に関連してですが、合併で村になったところが大阪府にありますので紹介します。

玉造西伊勢町(東大組),玉造紀伊國町(東大組),玉造左官町(東大組),玉造國分町(東大組),玉造八尾町(東大組),玉造半入町(東大組),玉造大和橋町(東大組),玉造越中町(東大組),東雲町通壱丁目(南大組),東雲町通二丁目(南大組),東雲町通三丁目(南大組),仁右衛門町(南大組),岡山町(南大組),彌宜町(南大組),東阪町(南大組)の15町が合併して西玉造村(東成郡)となりました。
#東大組,南大組とは共に、当時大阪市街地を4つに分けた大組の一つにあたります。京都での上京や下京に相当するものです。
参照:大阪府第438号達(M6.11.17)


以下大阪市街地に関連しての余談です。

#大阪市街地は、江戸時代からの三郷が明治2年5月4日に廃止され新たに東大組,南大組,西大組,北大組に分けられました。その後、東大組,南大組,西大組,北大組は明治8年4月30日にそれぞれ第1大区,第2大区,第3大区,第4大区と改称し、明治12年2月10日に第1大区,第2大区,第3大区,第4大区はそれぞれ東区,南区,西区,北区と改称し、明治22年4月1日に大阪市東区,大阪市南区,大阪市西区,大阪市北区となりました。

#大阪市街地は本来的には東成郡と西成郡からなっていたはずなのですが、江戸時代を通じて郡から独立した大坂三郷という形式で統治されており、京都([64725])とは異なり大坂三郷管下の各町が東成郡と西成郡のいずれに所属するかということに関して、あまり考えられてはいなかったようです。そして大阪市街地における東成郡と西成郡の境界は、おそらく谷町筋であろうとされているようです。


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