都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

記事検索

>
3件の記事を検索しました

… スポンサーリンク …



[66582] 2008年 9月 2日(火)21:29:2988 さん
第二十回 十番勝負 問五・問六・問九に関連して その1 町、字、大字、小字について
今回の第二十回十番勝負の問五、問六、問九に関しては、皆さんの間でいろいろと議論になっているところですが、それに補足する形で投稿します。
今回のポイントは3つあろうかと思います。
(1)「町」「字」「大字」「小字」とは何か。
(2)「住所」とは何か。
(3)地図サイトでは何を基礎資料として「町」「字」「大字」「小字」を区別し(または区別せずに)記載しているのか。採用基準は何か。

まず、(1)について述べます。
町、字(大字、小字)について規定しているのは、地方自治法不動産登記法でしょう。
―――――――――――――――――――――――――
地方自治法
第二百六十条 政令で特別の定をする場合を除く外、市町村の区域内の町若しくは字の区域をあらたに画し若しくはこれを廃止し、又は町若しくは字の区域若しくはその名称を変更しようとするときは、市町村長が当該市町村の議会の議決を経てこれを定め、都道府県知事に届け出なければならない。
2 前項の規定による届出を受理したときは、都道府県知事は、直ちにこれを告示しなければならない。

不動産登記法
(土地の表示に関する登記の登記事項)
第三十四条  土地の表示に関する登記の登記事項は、第二十七条各号に掲げるもののほか、次のとおりとする。
一 土地の所在する市、区、郡、町、村及び字
二 地番
三 地目
四 地積
―――――――――――――――――――――――――
私も過去の投稿で、町、字、大字、小字について述べました。一連の私の投稿等をまとめると、次のとおりです。
・ 「町」「字」に機能などに違いはなく、どちらで告示したのか、の相違に過ぎない。
・ 「字」は、いわゆる字のみならず、「大字」又は「小字」も含まれる(行政実例昭和23年8月9日)。
・ 「○○町△丁目」となっている場合、地方自治法上は「○○町△丁目」が「町」である。従前の「○○町字□□」は、「△丁目」となる時に小字はなくなる。
 一方、不動産登記簿上は、「○○町」が「町」であり、「△丁目」は「字」欄で表記されている。
・ この「△丁目」以外の点については、地方自治法と不動産登記法での相違点は見当たらない。

まず、各県などの公報の告示を検証することにより、町・字の区別について判断は可能ではあるものの、いかに複雑・困難であるかについて述べたいと思います。

■青森県つがる市の例
平成17年2月11日付け青森県告示第87号(pdfファイル)で、地方自治法第260条第1項の規定により、「つがる市の町の区域を次のとおり新たに画する」とあります。「町」が、「木造赤根」「木造芦沼」「木造芦沼鈴鹿」などです。
町の名称変更ではなく、「新たに画する」ですから、旧木造町等の時代は「字赤根」という「字」であったことがわかります。なお、「赤根」という「字」ではなく、「字赤根」という「字」です。
従前の小字を名称としても位置づけとしても廃止し、その名称は町の名称の一部として使用することにしたようです。

■香川県丸亀市の例
拙稿[41581]にありますが、香川県報の香川県告示がリンク切れなので、再掲します。平成17年3月22日付け香川県告示第163号(pdfファイル)
「次の表の下段に掲げる字の名称を当該上段に掲げる字の名称に変更し」ですので、旧綾歌郡綾歌町及び飯山町部分は、合併前・合併後とも町ではなく字(大字)です。上記青森県つがる市との表現の相違をご確認ください。

■佐賀県佐賀市の例
平成17年(2005)10月1日付けで佐賀郡諸富町、大和町、富士町及び神埼郡三瀬村を編入合併しています。この4町村の町・字の取扱は異なります。
平成17年10月1日付け佐賀県告示第500号(pdfファイル)で、地方自治法第260条第1項の規定により、「佐賀市の区域内の町の区域を次のとおり新たに画する」で、次のとおりになっています。
新たに画する町の名称同上に編入する区域
諸富町旧佐賀郡諸富町の区域
大和町旧佐賀郡大和町の区域
富士町旧佐賀郡富士町の区域
おそらく、この下位区分として「字」(小字)があるのでしょうが、変更がないため告示対象となっていません。
その告示の続きとして、平成17年10月1日付け佐賀県告示第501号(pdfファイル)があり、地方自治法第260条第1項の規定により、「佐賀市の区域内の字の名称を次のとおり変更する」として、次のとおりになっています。
変更後の字の名称変更前の字の名称
三瀬村三瀬大字三瀬
三瀬村藤原大字藤原
三瀬村杠大字杠
三瀬村時代は「大字三瀬」「大字藤原」「大字杠」という「字」(大字)であったものを、合併後は「三瀬村三瀬」「三瀬村藤原」「三瀬村杠」という「字」(大字)に名称を変更したものです。
つまり、この2つの告示を見比べると、地方自治法上は、「諸富町」「大和町」「富士町」は町ですが、「三瀬村三瀬」「三瀬村藤原」「三瀬村杠」は字だということです。もちろん、「三瀬村三瀬」「三瀬村藤原」「三瀬村杠」という「町」を設定しても問題はないし、その逆に、「諸富町」「大和町」「富士町」という「字」(正確には例えば「諸富町大字大堂」という「字」(大字))を設定しても問題はありません。佐賀市がこういう「町」「字」を選択したからこうなった、というだけのことです。
この「町」「字」の違いは、市民の実生活上は何の支障もありません。もっとも、十番勝負で「町」「字」と定義するのであれば、いろいろと疑義が出そうです。

町はあるが小字がない例については、高松市鬼無町山口[49211]、大字はあるが小字がない例については、東かがわ市馬篠(元大川郡丹生村)[49209]などをご参照ください。

次回投稿に続きます。
[66728] 2008年 9月 13日(土)08:00:3788 さん
第二十回 十番勝負 問五・問六・問九に関連して その2 地図・字の成り立ちについて
[66582]拙稿の続きです。地図・字(特に小字)の成立過程について述べます。今回の投稿は[65276]拙稿の補足になります。ちょっと詳細過ぎ・長文ではありますが、現在の土地制度(字、地番を含む)への大きなポイントとなるところですのでご容赦を。
(参考資料)
「地租改正と地籍調査の研究」(塚田利和著、1986年2月20日第1版1刷発行、発行:御茶の水書房)
「公図 読図の基礎」(佐藤甚次郎著、H16(2004).3.1初版第3刷、発行:株式会社古今書院)
―――――――――――――――――――――――――
■土地の所有形態の歴史について
土地は、もともと各地の氏族が首長を中心として土地を私有していました。この土地を国有化して口分田を基礎とした「班田収授」を実施したのが「大化の改新」です。
時代はずっと下って江戸時代。慶長10年秋、徳川家康は全国の諸大名から領地の「石高」「物成」(年貢高)と「領地絵図」を提出させて「家康御前帳」を作成して幕藩制土地所有を具体的に公示し、全国すべての土地を幕府所有地として各地の大・小名領主に「領地目録」、旗本領主等に「知行地上」及び「知行地安堵状」等により諸大名・旗本に配分し、寛永20年3月に「田畑永代売禁止令」「田畑永代売御仕置」を発布して「土地占有借耕権」の移転に制限を加え、農民を検地石高制と結合させて幕藩制土地領有を確立させました。制度的には次のとおりで、土地の私有はありえませんでした。
・統治者・・・幕府
・領地権者・・・大名、小名、旗本等の領主
(領地権・・・検地石高(現代の土地所有権を考えられる)によって結ばれている農地及び農地と一体になっている農民を含めて支配する)
・名請人・・・庄屋・豪農等。農地管理者であり、耕作管理を領地権者から認可された代償として年貢を納付する義務を有する耕作請負人
・耕作人・・・小作人で農地と一体になる人。名請人の耕作代理人としての農業従事者。名請人に年貢を納めた後の余得で生活を支える

明治維新は、幕藩時代に「幕府直轄地」(天領・旗本知行地等)と「各藩領有地」に別れていた土地を「国有地」に統一して、その土地に「私有権」を確認・設定した変革でした。
まず、版籍奉還願が各領主から提出され、政府はで各領主に版籍(土地及び人民)奉還を命じました(M2.6.17太政官布告第543号・第544号)。旧幕府所有地は、既に政府の所有になっており、政府直轄地と諸藩主の領有地とに分かれていたのですが、版籍奉還により、諸藩主が領有する土地・人民ともに政府に返還したため、すべて政府の統括下に置かれ、太閤検地以来280年継続された「幕藩領国制の領主的土地所有体制」は崩壊し、国土は政府直轄の「国有地」と確定しました。この時点では、私人の所有権はまだ皆無です。

その後、M3.6太政官布告第430号・第431号により「御国絵図改正」が行われました。政府は、国家財政の確立と税法論議に対応するため、幕藩時代から個々に区画されている毎筆の土地を把握する必要性がありました。このため、幕藩時代最後の全国検地「天保検地絵図」を基礎素図として毎筆の土地を現地に確認し、各筆の土地の形状・位置及び農道・水路・溜池・河川等の公共物の位置・形状を確認して、現況と「天保絵図」とが符合しない箇所は現況に符合した現況測量図である改正御国絵図を作製し提出するよう、全国の各府藩県に命じました。

版籍奉還令により国有地となった土地は幕藩体制時代から国民が占有している実態に沿って個々に区画されており、その区画ごとに占有権を確認したうえで、政府が旧来の占有権を近代的土地占有権として法的に追認して区画ごとに所有権を確立し、国民に再配分所有権を国家が保証することにより、M5.2.15太政官布告第50号の「地所永代売買禁止の解除」が有効になります。

■明治初期の各土地制度・地図等の変遷について
明治政府は、明治初期において各土地制度の充実に際し、さまざまな制度により、さまざまな地図を作ります。地図と共に、字名・地番も変更になったり、そのまま踏襲したり、複雑です。まずは地図を中心とした観点から、各制度等を表にします。
年月日法令番号等法令名等地図名称担当部署趣旨
M5.2.24大蔵省達第25号地所売買譲渡ニ付地券渡方規則壬申地券地引絵図大蔵省壬申地券の確認のため
M6.7.28太政官布告第272号地租改正条例地租改正地引絵図地租改正事務局土地を課税の対象とし、所有者個人に課す。面積は実測
M7.12.28内務省達乙第84号地籍編製調査実施通知地籍編製地籍地図内務省民地のみの地租改正に官有地を追加
M17.3.15太政官布告第7号地租条例地押調査更正地図大蔵省地租改正の脱漏の補足等
M22.3.23勅令第39号土地台帳規則土地台帳附属地図*大蔵省地券台帳を基礎に脱落等を調整

このように、大蔵省、内務省等が、それぞれの観点から制度をつくり、地図等を作成しました、よって、上記のとおり名称も中身も似通っていますが、正確には異なります。また、現在法務局にある「旧土地台帳附属地図」、つまりは「公図」を見る場合に、注意を要します。[65276] 拙稿でも述べたように、この「公図」は、字や地番区域等を見るときには、「宝の山」です。

▼壬申地券と地引絵図
政府は土地整理と共に国家保証による土地所有権を認め土地私有制度を確立するために、M5.2.24大蔵省達第25号「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」を布達しました。こうして作られた地券が「壬申地券」です。これは当初は売買譲渡の場合に所有権を公証するものとして地券を付与したものでしたが、M5.7.24大蔵省達第83号ですべての土地所有者に交付するように改められ、これらは「一般地券」とも呼ばれました。
これには地所1筆ごとの反別、地目、地代及び所有者の確認が必要ですが、この調査は所有者の申告制を採り、従前の検地帳・名寄帳などを基礎としました。申告書が「地引帳」(府県によっては「丈量帳」「反別帳」とも)、これに添えた地図が「地引絵図」です。地所各筆の位置を特定し脱漏を防ぐためにも地所番号(地番)が付けられました。

▼地租改正と地引絵図
M6.7.28太政官布告第272号の地租改正条例では、従来の貢租が生産物(生産高)を対象として「村」(現実にはさらに按分されて作人)が納付していたのを、土地を課税の対象とし、所有者個人に課すようにしました。このため、土地と所有者の正確な把握、さらには土地の面積が基本要素であるので、面積は実測し、字名と地番や所有者を示した「地引帳」とその事実を図示した「地引絵図」をもって申告させました。

#なお、地租改正に先立ち、字及び村は一部再編されます。
検地帳などに記載され一応は確定した字も、時間的経過につれて、村人たちの生活にかかわりが多い地区などでは細分化が進行し、明治初期には一村における字の空間的規模はきわめて不均衡になっていた場合が多くなっていました。また、無住家村や数戸という小規模村は、改租作業の負担に耐えられないので地租改正を前にして合併が進められ、M6.7.17大蔵省第99号達「村市改称分合方」により合併を促進しました。
村市改称及ヒ分合追々伺出候処中ニハ簡略ニ過キ夫カ為メ調査推問等徒ニ時日ヲ費シ事務遷延致シ不都合ニ付以後分合之分ハ其村市苦情之有無取糺差支無之分ハ四隣囲繞村市境界ヲ記候絵図面並反別戸口詳細取調改称候分ハ其村市差支之有無取糺可申出最両条其旧新称呼之側ヘ仮名ヲ附シ可申候此段相達候事
また、地租改正に先立つ地籍編製において、字名は、M9.5.23内務省丙第35号達「地籍編製地方官心得書」に付け方が示されており、第8条で、
字ハ旧慣ニ依ルヲ旨トス然レトモ実際広大ニシテ已ヲ得ス分裂セサルヲ得サルモノハ成ルヘク字ニ上中下或ハ一二三ノ文字ヲ加ヘ旧字ヲ存シ分裂ヲ為シ之ニ反シ狭小ニシテ合併セサルヲ得サルモノハ旧字ノ広ク唱フル一字ヲ採リ合併ヲ為スモ妨ケナシトス
となっています。

▼地押調査と更正地図
地押調査はすべての府県で新規に行ったものではありません。改租作業(地租改正)が不備であったり、改租後に開墾などで土地に変動があったところについて実施されました。
丈量、つまり面積測量の方法として、分間略器に代わりアリダードなど近代的測量機械を使う等が指示され、精度が高められるよう図られました。

▼地籍編製と地籍地図
壬申地券交付や地租改正、地押調査は地租賦課のためものなので、対象は課税対象(有租地)の民有地に焦点があわされていました。このため、官有・民有すべての地所を対象として内務省により行われたのが「地籍編製」です。
実務としては、地租改正の地番はそのまま使い、道路・堤塘・沼沢などには地租改正の末番から追加の番号を付けることとしました。しかし、地租改正時に町村通し番号の地番を付けたものを、この機械に字限り番号に付けかえた県もありました。

▼土地台帳規則と添付地図
M22.3.23勅令第39号土地台帳規則は、地券台帳を基礎に脱落等を調整し、移記して編製する方針で進められました。しかし、異動する筆数が膨大で手間が予想以上にかかり編製作業は難渋しました。添付地図も帳簿上の整理が終わったところで作成されるため、調製はさらに遅れました。このため、土地台帳規則施行日(M22.4.1)の直前に、地券台帳の整理補修によって新規作成の土地台帳に代えるものとする大蔵省から通知がなされ、施行日を迎えました。
しかし、地券台帳の整理補修したうえでこれを基に土地台帳を編製するのでは、異動筆数が全国で2707万8000筆に及ぶことから、手数と経費が膨大であるため、再び方針を変更して修補作業を中止して3箇年で新規することとしました。
添付地図に関しては、各県まちまちで、地租改正地図に訂正を加えた県や、地籍地図を充てた県、新規に更正地図を調製した県などまちまちでした。
これらの添付地図が、現在、法務局に「旧土地台帳附属地図」として存在しており、何人もこれを利用することができます。

#ちなみにこの土地台帳規則が、(旧)不動産登記法(明治32年法律第24号)、土地台帳法(昭和22年法律第30号)(中野文庫)、不動産登記法(平成16年法律第123号)と引き継がれ現在に至っています。
[66729] 2008年 9月 13日(土)08:00:4988 さん
第二十回 十番勝負 問五・問六・問九に関連して その3 地租改正と字・地番について
[66582][66728]拙稿の続きです。特に[66728]の続きとなります。字・地番の成り立ちを詳しく述べます。
参考文献は[66728]と同じです。
―――――――――――――――――――――――――
■地租改正と字名について
字と地番は、組み合わせて各筆地所の所在場所を特定することができます。
現在の字名及びその区画・範囲については、江戸時代において使用されていたもの、むしろそれ以前の中世あるいは古代からのものが継承されている、と思われがちです。ところが、実は、M6(1873)~14(1881)年に行われた地租改正の作業で、字が新たに区画され、命名され、この新字区画に基づいて地所番号(地番)が付けられたもので、これが基本的に現在に至っています。
近世初期の検地で、地所の場所を特定し、地域を区画する単位とされた字(字名)は、条里制の坪付や中世の名田に基づくもの、あるいは地形や土地の利用上などの場所的特徴によって発生したものなど、成立の事情は実に多様です。
地租改正の作業にあたって、これを調査の単位地域として適正規模に区画しなおし、新区画に基づいて新字名と字番号が命名されました。
これは、最小の行政区画として、また場所を特定する公の地名として使われ、基本的に現代に至っています。

全体としては、旧来の字名を継承したかに見えるものも、従前のものを分合して再構成し、旧字名のなかで新区域に関して最も適切なものを選択してつけた場合が一般的でした。
もっとも、まったく新規に区画され字名を付けたというよりも、従来の字区画を基本としながら区画し直し、字名も旧来のものを基礎としたものが多く、無関係とは言えません。
▼埼玉県新座郡下新倉村(現和光市)では、従来の87字を名称・区画ともそのまま踏襲しました。
▼三重県では、1村内で同名のもの、小地区が各字に分かれていて不便なところ、字界が判然としないところ等問題がある箇所に限り「部分的な改正」を指示しています。
▼歴史的あるいは場所的な特徴とは無関係な字名がつけられた場合もあります。
M8(1875).10名古屋の慶雲堂刊行の「地方丈量法」(太田正公)では、
村内ニ旧来称ヘ来リシ字称数多ニシテ、煩シキモノハ合併シテ新字ニ改正スルモ可ナリ。字称ヲ改製スルニハ、従前ノ字称ノ首文字ヲ一文字ツツ採リ合セ、称書ヲヨシトス(サレド五、六字称ヲモ合併セバ、其首文字ヲトル事カタシ。如此モノハ、新ニ名クルモ又便宜ニ依)。其例三、四ヲ示ス。
として、例として、
字洞田 字石神 合併 改石田
字御堂跡 字一本松 字新開 合併 改御一新
字弥兵田 字生田 字田神 合併 改弥生田
字朝田 字橿ノ木合併 改
を挙げています(体裁は引用者が変更)。
同書は改租作業にあたって区戸長層を主対象とした参考書で、愛知県、岐阜県、三重県その他でかなり広く手引書として使われ、この影響かどうかはさておき、このような命名法による字名も生まれました。
明治の大合併のときに、M21.6.13内務大臣訓令第352号で、「互に優劣なき数小町村を合併するときは各町村の旧名称を参互折衷する等」とあり、(参考:[37482] hmt さん、[62864] むっくん さん)、折衷地名(合成地名)が続出する根拠でもあったのですが、この訓令以前(明治の大合併以前)でもこの折衷地名は合併よりいくつか発生していました。この書籍またはこの考え方が各地に伝播していたのかもしれません。
▼石川県では、新字区画に包含された従来の小字名はイロハ、または甲乙丙丁に替え、例えば「字○○イ25番」「字△△乙35番」などとされました。(参考:[51948] EMM さん)

■地租改正と地番・地番区域について
再掲ですが、字と地番は、組み合わせて各筆地所の所在場所を特定することができます。
しかし、地租改正において地番をつけた直接的な理由は、丈量検査に際し、その道順に従って各筆に番号を付け、地番順に記載した地引帳をもって地引絵図及び現地を対照しながら検査を行い、脱漏や重複を防ぐことでした。

地番のつけ方は、[65276]拙稿と一部重複しますが、「村単位」で通し番号をつける場合」と、「字単位」で通し番号をつける場合、の大きく分けて2通りあります。
各県の例を挙げてみます。
・浜松県・・・村通し単位
・石川県・・・字単位
・愛知県・・・村通しを原則としたが、例外的に大村のみ字単位
・長崎県・・・全村通しを原則としたが、大村は甲乙に分ける
・熊本県・・・全村通しを原則だが、一部(約1割)は字単位
・青森、岩手、磐井、宮城、鶴岡、石川(現石川県及び現福井県の越前7郡)の各県・・・各字単位
・秋田県・・・村により、字単位と全村通しを村により選択
例えば村単位で地番をつける場合には、例えば字○○で100番までつけた場合には、隣接する字△△では101番からつけました。

■大字について
大字については、小字と比べるとその成立経緯はシンプルです。明治の大合併までは、村の中には字(いわゆる小字)しかなかったのですが、明治の大合併時に、従前の村名を、新町村名の「大字」として残すようになった、ということです。これは、M21.6.13内務大臣訓令第352号「町村合併基準」([62864] むっくん さんも参照)の第6条に、
旧各町村ノ名称ハ大字トシテ之ヲ存スルコトヲ得
とあり、これを受けて、例えば岐阜県ではM22.6.27付け県令第39号で、
但現町村ノ名称ハ大字トシテ之ヲ村ス
とあり、各府県とも同様の取扱いをしています。
ちなみに、この旧各町村(現町村)というのが曲者で、明治初期に合併をしたところは、大合併までの数年しか経ていない町村が「旧各町村」(現町村)とされ、それ以前の町村名が大字として残らなかった例があります。
(参考:高知県高岡郡七里村(現四万十町)をめぐる過去記事集)
明治の大合併時にはこのとおりであったのですが、その後、市町村の地域区分(下位区分)として、この「大字」という制度を利用し、明治の大合併前の町村名とは一致しない大字名が増えてきています。また、当初は「大字○○」という大字名だったのですが、単に「○○」という大字や、「○○町」「○○町△△」といった大字も増えてきています。
現在の地方自治法での位置づけは、第二百六十条に規定され、
 ・「字」は、いわゆる字のみならず、「大字」又は「小字」も含まれる(行政実例昭和23年8月9日)。
となっているのは[66582]拙稿で述べたとおりです。
―――――――――――――――――――――――――
次回投稿に続きます。
[66599] 千本桜 さん
エールありがとうございます。資料を収集し準備中です。しばらくお待ちください。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示