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[68491] 2009年 1月 28日(水)19:43:14hmt さん
美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (1)高い両白山地に隔てられた3つの大野郡
山地を流れてきた揖斐川が「大きな野原」に出た付近にある岐阜県揖斐郡大野町。Google地形。もとは 大野郡 でした。

そこから50km以上も北。分水嶺を越えた九頭竜川沿いにも同じ地名を名乗る福井県の大野市。
濃尾平野に比べれば小柄とは言え、越前の大野盆地も 両白山地の中では目立って「大きな野」です。

更に東に約70km。高山盆地も、山国の飛騨では希少な存在である「大きな野」です。

こんなことを考えたのは、
[68442] 88 さん
岐阜県大野郡には美濃国大野郡と飛騨国大野郡があります。
という記事から、ずっと前の記事を思い出したからです。

[732] Issie さん
越前国(福井県)の北東部に「大野郡」があります。九頭竜川と足羽川上流の山間部ですね。
実はこの郡と国境(県境)をはさんだ美濃国(岐阜県)側にも「大野郡」がありました。こちらは揖斐川上流の山間部となります。
(中略)ついでに,すぐ近くの飛騨国(岐阜県)にも「大野郡」がありますね。

ここにも記されているように、豊後大野を含めて4つの「大野郡」は、“山間部”にありました。
山地の中に ぽっかりと開いた平らな空間が「大野」と呼ばれ、それが郡名になったようです。越前の 大野盆地 の地形を例示。
飛騨と越前の山間部で、盆地を表す地名の「大野」が独立に発生し、それが郡名に採用された結果、範囲が拡大し、隣接するようになったものではないでしょうか。

明治30年(1897)まで存在した美濃国の「大野郡」も全体としては“山間部”になりますが、事情が異なります。
最初に触れた大野町は、広大な平野の中で「大野」を名乗っています。「大野」は山間部だけでなく、平野部の地名でもあります。
# 落書き帳の中で度々登場している「相模大野」も、かつては台地上の「大きな野原」でした。

大野町郡家(ぐげ)は、「美濃国大野郡」の郡衙があった地のようです。古代からの歴史に裏付けられた平野部の「大野」が、郡名になって拡大した結果、大部分は山間部にりました。

# 山間部と平野部といえば、揖斐の山さん 改め 山野さん。大野町の対岸で、同じような地形とお見受けしました。

上の引用の(中略)部分。
この2つの郡はもちろんお互いに別々の国の別々の郡ですが,お互いに似たような地形でお互いに隣接しているという点で,偶然「オホノ」というコホリ名が一致したのか,それとも意識的なものなのか,興味深いものがあります。

私の意見は、上に書いたように「独立発生説」です。
しかし、平凡社の日本歴史地名大系21巻73頁(美濃国大野郡)に「総称説」があったので、一応反論しておきます。
越美山地を挟む形で、飛騨国・越前国にも大野郡があり、当地方一帯をさす総称であったと考えられる(日本地理志料・濃飛両国通史)。

古代には越前・飛騨は無論のこと、越前・美濃の国境を越えるハードルも高かったはずです。
地図上では隣接する3つの地域ですが、同一の総称「大野郡」で呼ばれるほどの一体性ある地域であったとは、到底思われません。
その総称が「山」に関係した地名ならともかく、特に平地を意味する「野」のつく地名ですからね。

現在の地図を見ると、大野市(もと越前国大野郡)と高山市(もと飛騨国大野郡)の境界線は僅かに2kmほどの長さで、しかも2000m近い高峰が連なっています。1958年の石徹白村越県合併[68397]以前の境界線は、もう少し長かったのですが、それにしても越前と飛騨の大野郡は、交通路のない高峰に隔てられていたことに違いありません。
# 現在でも、大野市と高山市を結ぶ交通路は、国道158号で油坂峠([68410]ぼたんさん)を越え、郡上市の白鳥を経由します。つまり2つの大野郡の隣接部は通らず、もと郡上郡の区域を経由するルートです。

越前国大野郡と美濃国大野郡との境界線も、能郷白山(両白山地の名の由来)に連なる大分水嶺です。
こちらは古代はいさ知らず、少なくとも近世になると直結する交通路が開けていました。現在は国道157号。
でも、1000m級の峠道に隔てられた両側の大野郡に一体性はなかったでしょう。
[68519] 2009年 1月 31日(土)17:02:07hmt さん
美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (2)拡大していた越前側の大野郡
[68512] むっくん さん
1580年ごろ、古来加賀国能見郡に属していた白山直下の16村(瀬戸村、女原村、二口村、五味島村、釜谷村、鴇ヶ谷村、深瀬村、下田原村、島村、牛首村、風嵐村、杖村、小原村、丸山村、須納谷村、新保村)が越前国大野郡に属することになりました。

近世には、越前側の大野郡が、現在は加賀国と認識されている白山西麓の16村に拡大していたというお話、興味深く拝見しました。天保国絵図・越前国を眺めたことはあったのですが、気がついていませんでした。
その範囲を、20万分の1地勢図で確認して、改めてその広大な面積に感嘆!

朝倉氏に代って勢力を増した一向一揆は、天台白山教団と対立して平泉寺を焼討ち。
その一向一揆も、柴田勝家に討伐されました。
白山信仰は依然として無視できない存在でしたが、戦国末期以降は、武家の力関係がこの地でも所属を決めるようになりました。
江戸時代を通じて、外様大名の加賀前田家でなく、親藩の越前松平家が支配する大野郡という状態が続いていたというわけですね。

巨視的には白山信仰により“国を越えて一体となった村々”だったのでしょうが、禅定道(登山ルート)の拠点(馬場)は、ライバル関係にあります。
越前勝山の平泉寺。その越前馬場に属しながら、平泉寺とも利害の衝突がある手取川上流の牛首村・風嵐村(明治以後の白峰村)。加賀馬場(旧・鶴来町に白山本宮の白山寺)とその前進基地の尾添村。それに加えて美濃馬場(旧・白鳥町の長滝寺)からの信者を迎えるのが石徹白村。
どこにお金が落ちるかは地元としては大問題です。

江戸時代を通じて福井藩と加賀藩とを巻き込んだ抗争対立を経て、「白山麓十八ヶ村」は幕府直轄領になりました(1668)。
そして、最有力勢力の平泉寺のある越前側が、事実上の支配権を失うことになったのは明治維新でした。

「白山麓十八ヶ村」は明治4年になって、福井県(足羽県と改称)大野郡所属となります。しかしその直後の明治5年に嘆願書が出され、同年11月に十八ヶ村はすべて石川県の加賀国能美郡所属となりました。【一部省略して引用】

リンクしていただいた資料によると、尾添村・荒谷村が“石川県に属したい”という嘆願書を出したのですね。もともと加賀馬場だった村ですから当然とも言えます。
ここで、2村を切り離して加賀(石川県)に戻すのなら普通の処置ですが、従来からのしがらみと絶縁した明治政府は、18ヶ村の一括処理を検討すべく、足羽県と石川県とに調査を命じました。
そして、足羽県と石川県の対応の違いが、「白山麓十八ヶ村」の帰属に影響した……

この説は、なかなか興味深いものでしたが、それはともかく。
この2村も福井県になっていたということは、越前国大野郡が、16ヶ村に及んでいた江戸時代よりも、更に拡大していたという事実を示しています。
明治4年から5年にかけてのごく短期間ですが、越前側の大野郡を更に拡大させていた2村は、旧・尾口村の東部です。
越前・飛騨両国の大野郡の境界線は、5kmほどプラスした約30 kmになっていた可能性があります。
[68549] 2009年 2月 3日(火)17:32:30【1】hmt さん
美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (3)昔は美濃国大野郡:地震断層の西根尾村とダムに消えた徳山村
[68513] むっくん さん
越前国大野郡と美濃国大野郡との間で一番古くから開けていた峠道は、現在の国道157号の峠でもある温見峠
天保13(1846)年には、越前国大野郡と美濃国大野郡を結ぶ越前街道の本道の地位を這法師峠に譲り渡していた

地図の「蝿帽子峠」という奇妙な文字。いわれがありそうな地名と感じましたが、法師が這い登った険しい峠道でしたか。

大河原村から北に向かう2手の峠道が描かれた 天保美濃国絵図
村々は郡により色分けされていて、東(青色)が本巣郡、真ん中(褐色)が大野郡、南西(桃色)が池田郡。

明治22年の町村制で、峠から南東の大野郡6村は 大野郡西根尾村になりました。根尾川の谷沿い、約6里もある ほぼ一本道の細長い村でした。

その2年後、1891年に岐阜県・愛知県などが大地震に襲われました。M8.0という内陸では最大級の 濃尾地震 です。
それから10年近く後の鉄道唱歌にも、次のように歌われた大災害でした。
♪……地震のはなしまだ消えぬ 岐阜の鵜飼いも見てゆかん

地震の後で、西根尾村の水鳥(みどり)に6mもの崖が新たに現われたことを知った小藤文次郎は、この崖を作った急激な断層運動こそが地震の原因であると考え、1893年に発表しました。論文掲載写真

国指定の特別天然記念物となっている 根尾谷断層 の現状。樽見鉄道の終点一つ手前の水鳥駅近くです。

この大野郡西根尾村は、明治30年(1997)の郡再編制の時に根尾谷の東部と同じ本巣郡になり、明治37年(1904)に根尾村として統合されました。ちょうど100年後の2004年には、根尾川東岸沿いの下流域と共に本巣市が成立。

国絵図に戻ると、山を隔てた西側の揖斐川上流部にも、徳山村など大野郡の村々がありました。しかし、その支流沿いは池田郡です。
大野郡の本体は、根尾川が揖斐川に合流する濃尾平野の一角(大きな野)にあるので[68491]、この郡は2つの川に挟まれた地域ということで、黒い線で示されている境界線が引かれているのでしょう。
しかし徳山村のような上流部になると、大野郡本体との一体性は失われています。

明治22年になると、揖斐川最上流部の徳山村など4村は大野郡から池田郡に変更の上、池田郡徳山村 として統合、町村制が実施されました。
池田郡は、明治30年になると大野郡(本巣郡になる西根尾村を除く)と合併して揖斐郡に再編制され、現在に至ります。

時代は移り、第二次大戦後。揖斐川上流部には、1957年以来電源開発用のダムも検討されましたが、最終的には 1976年に水資源開発公団の事業による多目的ダム建設計画となりました。
巨大なロックフィルダムにより、日本一の貯水量(6.6億m3)を持つ人造湖を作る計画です。よく使われる浜名湖の2倍という容積はウソではないにしても、浅くて広い、しかも淡水でない浜名湖と比較するのが適切と言えるかどうか?

湛水面積13km2は諏訪湖クラスで、徳山村の全集落466戸が水没することになりました。
1983年に移転補償交渉が妥結して、住民は根尾川下流の糸貫町などに移転を開始。
1987年に徳山村の区域は藤橋村に編入されて98年間の歴史を閉じました。2005年揖斐川町。

2008年2月、ダム湖の名前は「徳山湖」になったそうです。>「ダム湖」コレクション の美濃織部さん
[68557] 2009年 2月 5日(木)18:21:50hmt さん
美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (4)天領・高山は 飛騨国大野郡
それぞれが独立に生まれたと思われるが隣接している3つの大野郡[68491]
現在は石川県になっている「白山麓十八ヶ村」(の大部分)にまで拡大していたという越前国大野郡[68519]
郡の名は平野に由来するのに、何故か山間部の2村を話題にしてしまった美濃国大野郡[68549]
これに続いて、飛騨国大野郡の登場です。

飛騨国大野郡の中心であり、郡名の由来とも思われる「大きな野(盆地)」である 高山。

[68545] MasAka さん
先月19日、歴史まちづくり法に基づく「歴史都市」の第1号として金沢市ほか4市が認定されました。
その認定第1号が金沢市、高山市、彦根市、萩市、亀山市の5市というわけです。いずれも西日本の城下町というのが共通点といえるでしょうか。

天正13年(1585)、羽柴秀吉の命を受けて飛騨国を平定した金森長近。それに引き続いて、彼は高山に城と城下町を建設しました。(旧勢力の松倉城も高山)
それは事実なのですが、どうも高山は「城下町」という言葉が他の4市のようには しっくり きません。

城下町時代でさえも、商業経済活動に重点を置いた高山では、武家地を上回る面積を町人町が占めていたと伝えられます。
(多くの城下町では、武家地は町人町の2倍以上であったとされています。)
元禄5年(1692)、金森氏が出羽上山に転封された後の天領時代になると、森林や地下資源を経済基盤とする飛騨にとって、大勢の武士が常駐している必要はなくなりました。

飛騨郡代(1777年までは飛騨代官)をトップとして江戸から出向している武士(高山在番は)は僅か25人。
その倍ほどの地役人を加えても「小さな政府」です。
大名の権威を示す「御城」の存在意義はなくなり、維持管理費用がかかるだけの城郭・武家屋敷は、石垣さえも残さずに破却されました。
政務をとる場所は、町の中にある 高山陣屋 で十分です。

「歴史都市」高山の存在の背景には、何よりも天領時代 177年の間、飛騨の経済活動の中核的存在は、高山の町人であったという歴史があります。
そして、近代の交通路整備から取り残された(文明開化の象徴である鉄道開通は1934年)ことも手伝い、多くの歴史遺産が温存されたという事情もあると思われます。
例えば高山陣屋は、明治になってから短期間存在した高山県の庁舎にも利用され、更に 1969年まで岐阜県の事務所として使用されてきました。

歴史を伝える町・高山の実力の一端を示すのが人口データです。
明治8年の共武政表における 飛騨国大野郡高山町の人口 は1万3081人。これは美濃国の岐阜町1万0800人、大垣町1万0158人よりも大きな数字です。もっとも加納駅などを加えれば、岐阜の方が町の人口は多くなるのですが…

町村制実施の頃の飛騨国大野郡高山町の 現住人口 でも1万5462人であり、岐阜県の中では 岐阜市2万6233人、安八郡大垣町の2万0103人に次ぎます。
岐阜県内では、この3都市が他を大きく引き離しており、その次は郡上郡八幡町を抑えた吉城郡国府村が6734人と、飛騨国が健闘して4位を獲得しています。

白桃さんの領域を侵してはいけないので、ここでやめます。

織田信長時代からの金森長近の所領は、越前国大野郡でした。
でも、もちろん彼が「大野郡」の名を飛騨に持ち込んだわけではありません。
飛騨国大野郡は奈良時代から存在し、平安時代初期の870年に、北部の大野郡と南部の益田郡に分離しました。
[68561] 2009年 2月 6日(金)23:12:19hmt さん
美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (5)1897年に誕生したのは 揖斐郡大野村
いつたび大野郡について。
「みたび、よたび」と「ななたび、やたび」を結ぶ言葉は「いつたび、むたび」だろうというわけで上記のように書いてみました。
しかし、現代語の中では「nたび」は通じにくくなっていますね。
「ごたび」という重箱読み。「いつたび」よりは「5」がイメージしやすくなったとしても、違和感は増します。
要するに、現代では、わざわざ「nたび」という表現を使う必要がない ということでしょう。
現代でも通用する独立の言葉として成熟しているのは、「ふたたび」で、その表記も「二度」から「再び」に変化しています。
“ななたび探して人を疑え”という成句は残っているのかな?
「たびたび」という言葉も通用していますね。

本題の大野郡。
[68491]で、岐阜県揖斐郡大野町に関して、“もとは 大野郡 でした。” と書きましたが、内心では、“もとは 大野郡大野村 でした。”と「大野」を強調して書きたかったのです。

市区町村変遷情報都道府県別一覧 岐阜県 の #89(1897.04.01)には、“大野郡大野村”と記されています。

その根拠を示す 明治30年岐阜県告示第58号 の記載は、次の通りです。
町村制第四条に依り各郡町村中明治30年4月1日より左の通廃置分合す
美濃国大野郡黒野村相羽村下方村六里村及麻生村を合し其の区域を以て大野村を置く

普通に解釈すれば、合併後の大野村の所属も美濃国大野郡となります。

しかし、この告示(1897/3/31)の前年に公布された 岐阜県下郡廃置及郡界変更法律(明治29年法律第86号) (施行は、翌年の明治30年4月1日)によって、既に
岐阜県美濃国池田郡を廃し其の区域と大野郡を廃し其の区域の一部(…黒野村六里村麻生村相羽村下方村…)とを以て揖斐郡を置く
ことが定められています。
岐阜県に属する郡の再編制(正式の用語は「郡廃置及郡界変更」)が行なわれた1897.04.01は、町村の廃置分合日と同日です。

つまり、1897年の合併で生まれた大野村は、告示だけからは大野郡だったように思えたとしても、同日施行の法律により揖斐郡に変ることが約束されており、「大野郡大野村」としての存続期間は実質的にゼロであり、「揖斐郡大野村」として誕生したのでした。

これが、大野町の区域が「大野郡であったのは、実質的には明治30年3月まで」という意味を込めて、あえて4月に成立した大野村の名を削った理由です。

近年の市区町村変遷情報において、このような「町村の廃置分合」と同日に行なわれた「郡の再編制」がある場合の取り扱いを調べてみました。こちらでは廃置分合は「新設」・「編入」などに細分され、郡再編制には「郡設置」という用語が使われています。

最も新しい例は、北海道一覧表 #703です。
種別「(市町村の)新設」、自治体名「新ひだか町」ですが、両者の間の列に新しい郡名「日高郡」が表示されています。
次の行 #704には、静内郡と三石郡とから日高郡になったレコードがあります。「新しい郡の設置」ですが、種別は「郡設置」と記され、市町村の廃置分合の一態様を表す「新設」とは別の用語で区別されています。

北海道一覧表 #687の二海郡八雲町も、同様に新しい郡名「二海郡」が表示されています。
50年遡った昭和大合併時代の三重県安芸郡芸濃町(三重県 の#178)も同様です。

岐阜県に大野村が生まれ、美濃国大野郡が消えた明治30年当時は、地方自治法による現代とは法制度が異なります。
町村の廃置分合は(明治21年)町村制第四条に基づく県告示、郡の再編制は(明治23年)郡制第一条に基づく法律 と 別々の法令によっていた時代であり、公示の文面も現在とは異なっていました。

しかし、実務上「町村の廃置分合」と「郡の再編制」とが連携して実施されたという事情は現代と同じです。
同日に実施された場合、別々に公示されたものであっても、「町村の廃置分合」レコードに「郡の再編制」の結果を反映させた統合データとして市町村変遷情報に入力するのが適切であろうと思います。

要するに、最初に示した一覧表に示されていた 1897.04.01 の “大野郡大野村” は、 “揖斐郡大野村” に改めた方が実態にかなっているのではないかという提案です。
大野村詳細データ には、廃置分合関係に加えて、“同日付で揖斐郡に変更”というような記載を追加することになります。
[68580] 2009年 2月 9日(月)18:48:42hmt さん
美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (6)美濃国大野郡は明治30年廃止され、概ね根尾川を境に2つの郡に
[68561]でリンクした岐阜県下郡廃置及郡界変更法律
岐阜県美濃国池田郡を廃し其の区域と大野郡を廃し其の区域の区域の一部(揖斐町…【43村列挙】…)とを以て揖斐郡を置く
岐阜県美濃国本巣郡及席田郡を廃し其の区域と方県郡に属せし区域の一部(10村列挙)と大野郡に属せし区域の一部(18村列挙)とを以て本巣郡を置く

市区町村変遷情報の 揖斐郡設置詳細データを見ると、“参加自治体:池田郡,大野郡の一部”となっており、“一部”がどの町村なのかを具体的に示す記載はありません。
池田郡は全域が揖斐郡になったからまだよいのですが、それまで大野郡に属した村、例えば合併で生まれた大野村[68561]や、この時には合併しなかった西根尾村[68442][68549]が、揖斐郡と本巣郡のいずれの郡になったのかという、変遷情報を知ることができません。

一つの対処法は、法律に列挙された44町村を追加記載することでしょう。
しかし、市町村変遷情報は、時系列を遡ってきたという構築の歴史があり、利用者の視点も現在に原点があります。
利用者にとっては、むしろ現在に近い時点からの遡及利用に便利な記載の方がありがたいと思われます。

すなわち、過去の大野郡に属した村々がどうなったかよりも、明治30年4月に新編制された揖斐郡の各町村が、同年3月以前に何郡・何村だったのかを知りたいのです。

具体的には、揖斐郡設置詳細データには、下記文案のように記載して、その関係を説明したらどうでしょうか。
--------------------------------------------------------------
(1)大野郡から単独で揖斐郡になった町村:横蔵村、北方村、揖斐町、清水村、豊木村、
(2)池田郡から単独で揖斐郡になった村:徳山村、春日村
(3)大野郡内の合併を伴なって揖斐郡になった村:長瀬村、谷汲村、大和村、西郡村、鶯村、富秋村、大野村、川合村
(4)池田郡内の合併を伴なって揖斐郡になった村:久瀬村、坂内村、小島村、養基村、宮地村、本郷村、八幡村
(5)池田郡内の村と大野郡の村との合併:池田村
---------------------------------------------------------------

(1)と(2)、つまり明治30年に合併を伴なわずに郡だけが変更された7町村、例えば大野郡揖斐町→揖斐郡揖斐町については、上記のように記載するにより、本来は必要と思われる「郡変更」のレコード( 例:安代町 )を省略することができるでしょう。
(3)~(5)に列挙した村(合計16村)については、廃置分合に関する個別詳細データが入力済みで、これを参照することにより、合併前の村を知ることができます。個別詳細データの側に“揖斐郡に変更”を追加することは前報[68561]の末尾に記しました。

揖斐郡23町村から逆行して、明治30年以前の95町村(大野郡44町村、池田郡51村)とを関係付ける。
上記のスタイルの資料は、原資料(法律や県告示)の単純な引き写しからでは困難であっても、Excelを使う 88さん の作業手順[67517]ならば、実現は可能であると期待しています。

同様に、(旧)本巣郡(65町村)・席田郡(8村)・方県郡の一部(10村)と大野郡の一部(18村)からなる、(新) 本巣郡設置詳細データ に記載する説明案。
旧101町村を列挙する代りに、新23町村で示しています。

(1)本巣郡のまま単独を維持した町村:文殊村、北方町
(2)大野郡から単独で本巣郡になった村:西根尾村
(3)方県郡から単独で本巣郡になった村:網代村、七郷村
(4)本巣郡内の合併を伴なった村:中根尾村、東根尾村、外山村、山添村、一色村、土貴野村、真桑村、生津村、本田村、穂積村、船木村、牛牧村
(5)大野郡内の合併を伴なって本巣郡になった村:弾正村、川崎村、鷺田村
(6)方県郡内の合併を伴なって本巣郡になった村:西郷村、合渡村、
(7)席田郡全体が合併して1村になり本巣郡になった村:席田村

結局のところ、美濃国大野郡は、概ね根尾川を境に西側が揖斐川上流域の池田郡と共に揖斐郡へ、根尾川東岸を主とする一部が(新しい)本巣郡へと、2つの郡に分割統合されました。
本巣郡に移行した区域のうち、大野郡最南端の平野部が上記(5)です。弾正村は真正町を経て本巣市に、川崎村と鷺田村は巣南町になっています。
上流部では、揖斐川との分水嶺が郡の境界になり[68549]、根尾川西岸の西根尾村が本巣郡になりました。上記(2)。


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