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落書き帳

粟島浦が粟島浦村に改称した時期についての考察(落書き帳記事集)

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[69162]2009年4月8日
むっくん
[69163]2009年4月8日
MI
[78806]2011年7月22日
MI
[84254]2013年10月23日
YT

[69162] 2009年 4月 8日(水)18:19:10むっくん さん
新潟県岩船郡粟島浦村への改称年月日
[68959]MIさん
「粟島浦」から「粟島浦村」へについては、新潟県立文書館や県立図書館に何度も足を運んでおりますが、いまだにその日付を特定できていません。情報がありましたら是非お知らせいただきたいと思います。
まず明治23(1890)~30(1897)年の市町村の廃置分合や改称については、内務省告示の巻末に記載があります。
内務省告示第30号(明24.7.8)・・・明治23(1890)年中の廃置分合
内務省告示第29号(明25.7.15)・・・明治24(1891)年中の廃置分合
内務省告示第37号(明26.7.27)・・・明治25(1892)年中の廃置分合
内務省告示第95号(明27.7.25)・・・明治26(1893)年中の廃置分合
内務省告示第98号(明28.7.31)・・・明治27(1894)年中の廃置分合
内務省告示第58号(明29.8.1)・・・明治28(1895)年中の廃置分合
内務省告示第63号(明30.10.16)・・・明治29(1896)年中の廃置分合
内務省告示第92号(明31.9.13)・・・明治30(1897)年中の廃置分合
#これらの内務省告示においては、内務省が市町村の廃置分合や改称の許可を出した日を基準として記載しているようで、実際の廃置分合や改称は、その数日~1ヶ月程度後の県令や県告示等でなされたと考えるのが良いものと思われます。

そして明治31年12月31日から大正7年12月31日の市町村の廃置分合や改称については、内閣統計局が下記の資料を出しています。
郡市町村廃置分合一覧表(明治31年12月31日-明治36年12月31日)(著・出版:内閣統計局、明39.2.8)
郡市町村廃置分合一覧表(明治36年12月31日-明治41年12月31日)(著・出版:内閣統計局、明42.12.10)
郡市町村廃置分合表(明治42年1月1日-大正2年12月31日)(編著・出版:内閣統計局、大4.3.9)
郡市町村廃置分合表(大正3年1月1日-大正7年12月31日)(編著・出版:内閣統計局、大9.3.31)

お尋ねの「粟島浦」から「粟島浦村」への改称については上記のいずれにも記載されていません。
次に当時の新潟県が発行した資料を見てみます。
新潟県統計書明治30-31年(著・出版:新潟県、明34.4.6)では粟島浦と記載されています。
新潟県統計書明治36年(著・出版:新潟県内務部、明38.4.10)では162コマ638コマで粟島浦村と記載されています。
新潟県岩船郡治一斑(著・出版:新潟県岩船郡役所、明32.6.26)でも粟島浦村と記載されています。

さて、以上から判断すると、内務省からこの改称の許可が降りたのはおそらく明治31(1898)年であると私は推測します。そして県令もしくは県告示が出たのはその後ですので、明治31(1898)年~明治32(1899)年6月の新潟県県令もしくは新潟県告示を調べればおそらく見つかるのではないでしょうか。
[69163] 2009年 4月 8日(水)22:03:40MI さん
粟島浦と粟島浦村
[69153]88 さん
これにつきましては、3つの資料のようにM42(1909)に改称があったのか、あるいは、上記の2件と同様にM22(1889).4.1付けの市制町村制施行時から「粟島浦村」であってM42(1909)にはその正誤表が出たのか、なお詳しい資料を発見できればお教えいただければ幸いです。それまで、暫時保留とさせていただきます。

[69162]むっくん さん
さて、以上から判断すると、内務省からこの改称の許可が降りたのはおそらく明治31(1898)年であると私は推測します。そして県令もしくは県告示が出たのはその後ですので、明治31(1898)年~明治32(1899)年6月の新潟県県令もしくは新潟県告示を調べればおそらく見つかるのではないでしょうか。

 ご検討やアドバイスを有難うございます。特に むっくん さんから整理いただきました近代デジタルライブラリーについては、必要部分を pdf にダウンロード済でしたが、改めて状況がよく把握できました。
 明治22年から大正初年にかけての「新潟県公報」「新潟県報」は、すでに一通り県公文書館で目を通しています。その中で「石地町村」「北大瀁村」についての正誤が判明し、また南魚沼郡杤窪新田から杤窪村への改称(明260609県告示445)や北蒲原郡蓮潟新田から蓮潟村への改称(明270518県告示182)なども明らかになったのですが、粟島浦についてのみが見つからないのです。
告示はしっかり確認したつもりですから、正誤で見逃しているのがあるのかもしれません。

 全国の市町村変遷をまとめる上で、地元以外の府県告示を調べるのは困難ですから、ここ数ヵ月は週末に県立図書館で官報をひたすら捲り、市町村変遷について記された広告を拾っています。今度もう一度県報も確認してみようと思います。
[78806] 2011年 7月 22日(金)06:14:58MI さん
日野宿か、あるいは日野村か
[78790] オーナー グリグリ さん
[78794] むっくん さん
[78797] 88 さん
[78798] hmt さん

 私も自作の市町村変遷データベースを構築するに当たり、「駅」「浦」には頭を悩ませたものでした。集計上「町」や「村」でカウントさせるための便法として、「府中駅_町」「粟島浦_村」のような表記を採用しております。ご参考までに。
 さて日野宿について、当方のデータではこれまで「日野宿_町」としておりました。それは「神奈川県町村合併誌上巻(昭330330発行)」p83以降に掲載された
県令第九号
各町村の内内務大臣ノ認可ヲ得明治二十二年三月三十一日ヲ以テ別冊ノ通リ分合改称ス
 明治二十二年三月十一日
  神奈川県知事 沖 守固
(別冊)
 町村分合改称表
新町村名 旧町村名
  (中略)
日野宿  日野宿 西長沼村飛地 平山村飛地 栗須村飛地
によったからです。さらに近代デジタルライブラリの「神奈川県各市郡改町村名大字役場位置表(明治241001出板(ママ))」にも「日野宿(ひのじく)」とあり、その構成も「日ノ、西長沼飛地、平山飛地、栗須飛地」で一致しています。
 
 皆様のご発言を読み、「神奈川県県治一斑」や「神奈川県町村合併誌上巻」での町村数を確認しまして、あらためて手許にあるものやネット上の史料を照合して驚きました。明治22年時点で「日野村」となっているものが複数見つかったのです。
 「神奈川県改定区画傍訓町村名鑑(明220406出版)」には「日野村(ヒノ)」とあり、たしかに南多摩郡は1町19村になっています。
 「新旧対照市町村一覧(明221113出版)」も「日野村(ひの)」ですが、日野宿、西長沼村飛地、平山村飛地、栗須村飛地とで構成されています。
 「現行東京府布令類纂(明310425発行)」の日野町の項が、
日野宿、西長沼村飛地、平山村飛地、栗須村飛地ヲ合村
明治廿六年告示第四十七號ヲ以テ日野村ヲ日野町ト改稱ス
 1行目の「合村」、2行目の「日野村ヲ」と明記してあります。
 ちなみに同書の府中町の項、
府中驛、是政村飛地ヲ合併
明治廿六年告示第四十七號ヲ以テ府中驛ト改稱ス
と見比べますと、その違いは明瞭です。

 この上は明治26年の神奈川県告示第47号の原文(およびその別冊)にあたる必要があると思います。私の過去の調査で、明260704官報附録p001にも同内容のものが報告されていることは分かっていますが、原文までは記録しておりませんでしたので、これも再確認が必要だと思います。
[84254] 2013年 10月 23日(水)19:11:45YT さん
粟島浦/粟島浦村改称問題
このほか新潟県岩船郡粟島浦村 (新潟県#242)の改称時期に関しても色々調べました。今頃になって過去に[68959][69163][78806]などでMIさんが調査されていて、結局これに関しては結論が出てないことに気付きましたが、一応参考になる情報も提供できるかと思い、自分が調べた内容を以下まとめます。

変遷情報では明治42年(1909年)中に粟島浦から粟島浦村へ改称したことになっており、同様の記述を平凡社の『日本歴史地名大系』と新潟県総務部地方課編『新潟県市町村合併誌 下』(1962年)の1576頁で確認しましたが、『自明治42年1月1日至大正2年12月31日 郡市町村廃置分合表』には記載がありません。

1898年9月13日の官報の「明治30年12月31日市町村現住人口調」では「粟島浦」となっているのに対し、『明治31年日本帝国人口統計』『明治30-31年新潟県統計書』(人口は明治32年12月31日現在;ただし別のコマでは[69162]でむっくんさんが指摘されているように「粟島浦」)やそれ以降の官報、日本帝国人口静態統計等では「粟島浦村」となっていることから、実際には明治31年(1898年)中に改称されたものと推測しました。

しかしながら『新潟県市町村合併誌 上』の549頁以降収録の「市制・町村制施行から明治三十四年まで 町村分合及び町村名改称一覧表」(明治34年の新潟県の町村の大合併よりも前のもの)、及び843頁以降の「明治三十五年から明治四十五年まで 町村分合及び町村名改称一覧表」(明治34年の新潟県の町村の大合併よりも後のもの)には、粟島浦の改称に関する官報告示・県報告示が全く載っていません。本書は新潟県総務部地方課によって編集されたもので、
市町村制施行以前と違って町村数も少なく、かつ県の公示機関も整備されており、大きなミスはないはずである。
との断りがあることからも、記載漏れの可能性は低いと思われ、過去に[68959][69163][78806]でMIさんが示唆しているように、粟島浦の改称は官報や県報で告示されたことがないようです。となると町村の呼称に関する規則の改訂等で自動的に「~村」に変わったのでしょうか?現状では明治31年に関しては状況証拠だけ、明治42年に関しても法令等を確認できず、改称時期に関しては保留にするしかないようです。

なお『新潟県市町村合併誌』の方は『新潟県史』、『新潟県百年史』等から引用を辿っていくうちに存在を知りましたが、過去にむっくんさんが[80724][83139]で既に紹介されていました。


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