小笠原回収
[26683]に端を発する太平洋上の島々の本土化プロセスの流れで誕生した東京都の4支庁
[71887][71888]。
次は、日本列島の中における町村制との関係という観点で、隠岐・対馬・奄美3地域の島庁・支庁を追ってみます。
もちろん島庁・支庁は府県の組織であり、町村制そのものと 一応は別の体系 に属するものです。
しかし、明治22年勅令第1号「町村制を施行せさる島嶼指定」は、「島の支庁」を考える上で欠かすことができない環境を作り出しています。
「島嶼指定」と、その段階的緩和については、法令引用を含む制度の変遷が むっくん さん により紹介され、それを受けて 88 さん が2つの表の形で整理されています。
関係3記事
その表を簡略化したようなものですが、島嶼指定からその解除に至る過程を 施行年順 に記すと次の通りです。
島嶼指定(1889):小笠原・伊豆七島・隠岐・対馬・奄美(注1)(注2)・沖縄(注3)
町村の制度に関する法令の規定を適用:隠岐(1904)
島嶼町村制(1908):対馬・奄美・伊豆大島(注2)・八丈島
町村の制度に関する法令の規定を適用: 対馬(1919)・奄美(1920)・沖縄(1920)
島嶼指定解除(1921):隠岐・対馬・奄美・沖縄
島嶼指定解除(1940):小笠原・伊豆七島【八丈小島・鳥島などに島嶼指定が残る】
(注1)奄美と別にトカラも島嶼指定。1896年大島郡編入。この表では 便宜上 トカラを奄美に含めて扱います。
(注2)「大島支庁」では区別がつかないので、この表では便宜上奄美や伊豆という地名を使用。
(注3)便宜上 沖縄も加えてあります。
この表で歯切れが悪いのが、「町村の制度に関する法令の規定を適用」という項目と、「島嶼指定解除」との使い分けです。
M37勅令63第一条 島根県管下隠岐国の町村に町村制其の他町村の制度に関する法令の規定を適用す
という条文の趣旨は「島嶼指定の解除」であると思われるのに、
[64955] むっくん さんのコメント
島根県管下隠岐国の町村は内地と同じ町村制が施行されはしたのですが、明治22年勅令第1号の『町村制ヲ施行セサル島嶼指定ノ件』の指定からは外れません。
にあるように、島嶼指定は解除されていないのです。
上記条文と島嶼指定とを両立させているものは何か?
私は、引用が省略されている第一条の但し書きに存在する「郡参事会」という言葉に注目しました。
つまり、この段階の隠岐国では郡制に基づいて設置される郡参事会が存在しなかったのではないか?
従って、「町村の制度に関する法令の規定」は適用されるが、郡参事会の意見を反映させる自治体制を取るとことはできない島嶼指定にある隠岐国では、“内地と同じ町村制の施行”状態に、完全にはなっていなかったと思われます。
1889年の島嶼指定により適用がお預けになっていた町村会などを要素とする近代的町村自治制度。
1904年になって、ようやく「町村制」などの“同じ法令が適用される”ことになりましたが、郡参事会によるチェック機構が働かない島司専制の部分もある、いわば「町村制もどき」の体制でした。これが1904年から1921年までの島根県隠岐島庁時代の姿であったと推測します。
長崎県対馬国と鹿児島県大島郡(奄美)。
この地域は隠岐よりも遅れて、1908年までの島司専制時代の後に「島嶼町村制」の時代がありました。
更に対馬は1919年・奄美は1920年から短期間の「町村制もどき」体制を経て、1921年にようやく島嶼指定が解除されて“内地と同じ町村制が施行”されることになりました。
これが上記の簡略化されたリストから理解することができる島庁時代の変遷です。
島庁から支庁に変った1926年には、町村制に関しては既に正規の状態になっていますから、専ら県の側の体制整備と見てよいでしょう。
隠岐支庁、対馬支庁はずっと存続し、戦後の地方自治法体制でも県条例で支庁が設置されました。
対馬支庁が2005年に対馬地方局、本年4月から対馬振興局と名を変えたことは
[71553]で記しました。
これに対して、奄美には、敗戦の結果 日本政府の統治の及ばなくなった時代がありました。
1946/10/3臨時北部南西諸島政庁>1950/8/4奄美群島政府>1951/4/1琉球臨時中央政府>1952/2/10トカラ復帰>1952/4/1琉球政府>1953/12/25奄美返還
奄美返還後は、改めて地方自治法に基づく鹿児島県の大島支庁を設定。