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落書き帳記事集区制度の変遷


記事#記事日付
記事タイトル
発言者
[74320]2010年3月10日
♪「むらさき」匂いし 武蔵の野辺に 日本の文化の 花 咲き乱れ hmt
[74334]2010年3月13日
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (1)第一世代の区 hmt
[74335]2010年3月13日
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (2)三大都市の「区」は市域内に移行 hmt
[74354]2010年3月14日
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (3)旧・市制 第60条による 3種類の「区」 hmt
[74376]2010年3月18日
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (4)沖縄県区制 と 北海道区制 hmt
[74736]2010年4月6日
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (5)明治44年「市制」による区 hmt
[74867]2010年4月11日
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (5.1)六大都市区域の拡張 hmt
[74793]2010年4月9日
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (6)東京都制による35区 hmt
[74935]2010年4月14日
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (7)敗戦直後の大都市改革 hmt
[74956]2010年4月16日
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (8)金沢市の「連区」 hmt
[74958]2010年4月16日
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (9)姫路市の区 hmt



[74320] 2010 年 3 月 10 日 (水) 22:29:18【2】 hmt さん
 ♪「むらさき」匂いし 武蔵の野辺に 日本の文化の 花 咲き乱れ
hmt 区制度の変遷

3月10日と言えば 105年前(明治38年)の 奉天大会戦[59385]と、65年前(昭和20年)の 東京大空襲です。
米軍機が東京付近に現れたのは 1945年3月9日の夜でしたが、警戒警報も解除されて ほっとした市民の上に 房総沖から再び飛来した 325機のB29爆撃機が 38万発の焼夷弾・爆弾の雨を降らせたのは 日付が変って3月10日になった直後でした。

この大空襲の際には 既に東京都 35区になっていたのですが、その2年前には「東京市」でした。
市の変遷 に集録された「東京市」を見て、10年間ほど「東京市民」であった者として、ひさしぶりに「東京市歌」を思い出しました。
タイトルは 1926年に作られたこの歌の冒頭です。

[74303] オーナー グリグリ さん
市に関わる以下の変更種別についても情報を追加しました。
勅令市(勅令指定都市)、省令市(省令指定都市)、政令市、中核市、特例市、区設置

東京市 1889.5.1 区設置 麹町区, 神田区, 日本橋区 ……

麹町区以下は、「郡区町村編制法」によって設けられた「東京府15区」が、「市制町村制」によって設けられた「東京市」と共存していたものであり、東京市に“設置”された「区」ではありません。

便宜上“共存”と書きましたが、実質的には 明治22年3月23日に制定された いわゆる「三市特例法」(市制中東京市京都市大阪市ニ特例ヲ設クルノ件)により「東京市」は有名無実の存在であり、実質的な行政機能は「東京府15区」にありました。

このあたりの事情は、[53890] 「六大都市制度」の生い立ち(1)六大都市前史に記してありますので、ご参照ください。

1898年10月1日 三市特例法廃止

この日付こそが、「自治体としての東京市」の実質的な誕生日であり、「東京市の変遷」に記録されるべき日です。
東京の「都民の日」10月1日はこれに因んでいます [33692]

三市特例法廃止の際にも “従来ノ区” は存続し[10997]、まさに「市と区の共存状態」になりました。
だから、[7772] Issie さんの記事にあるように、
「区」が元々独立した行政単位であったので市制施行後も「市」と「区」の権限をめぐって,両者には微妙な関係がありました。

この三大都市と「区」との関係に 決着をつけたものが、明治44年(1911)の法律全文改正です。
「市の中に設置された区」であることは、「町村制」とは別の法律になった「市制」 の第6条 “勅令ヲ以テ指定スル市ノ区ハ之ヲ法人トス”や第80条【区長は市有給吏員で市長が任免】で明確に示されました。

だから、「東京市の変遷」の中で、「区設置」は、この勅令指定都市の段階で記すのが法律的には適切なように思われます。
しかし、東京市役所東京市史編纂係「東京市十五区全図」(明治40年4月発行 裳華房)[33692]に見られるように、“微妙な関係”[7772]ではあったものの、三市特例法廃止の明治31年以後は、実質的には「東京市の15区」と認識されていたようでもあります。

そこで、改めて明治31年の三市特例法廃止時点を調べてみると、この法律廃止で失なわれた「三大都市の区の存在根拠」を含めて、旧「市制」第3条の改正が行なわれていました。明治31年法律第20号
第3条に左の1項を追加す
東京市京都市大阪市に於ては従来の区を存す 其区は財産及び営造物に関する事務其他法律命令に依り区に属する事務を処理するものとす

なるほど。三市特例法廃止後の区の存在根拠は 引き続き“従来の区”という表現ですが、後段に記された 区の処理する事務 は限定されており、その内容は 明治44年「市制」第6条後段 を先取りしています。
また、第72条への追加もあり、“区長は市長…の指揮命令を受け…”区内に関する市の事務を管掌することになり、市に対する区の従属性は明らかです。
つまり、この時点で「実質的には市の中に区が設置された」状態が実現したと理解できます。

「東京市の変遷」の中に記載すべき「15区設置の日付」について、それが 1895.5.1(名目上の東京市発足)でないことは明らかですが、実質を重視して 1898.10.1(三市特例法廃止)とするのか、法律に明記された 1911.10.1(市制の全面改正)とするのか、グリグリさんの判断にお任せしたいと思います。

以上 東京市について記しましたが、京都市・大阪市についても、同じことが言えます。

[74334] 2010 年 3 月 13 日 (土) 19:43:13 hmt さん
 同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (1)第一世代の区
hmt 区制度の変遷

新企画「市の変遷」デビューを機に、「区」(特にその明治時代の変遷)に目が向きました [74320]
既に多くの方の書き込みがありますが、根拠となる法令を軸に、「区の変遷」を整理してみます。

「区の変遷」は、1889年に始まる「市の変遷」よりも11年前に遡ります。
明治11年太政官布告第17号 郡区町村編制法 に基づいて「第一世代の区」が生まれました。
第1条 地方を画して 府県の下 郡区町村とす
第2条 郡町村の区域名称は 総て旧に依る
第4条 三府五港其他 人口輻湊の地は 別に一区となし 其の広濶なる者は 区分して数区となす

“別に一区となし”の意味は、「郡町村の区域外」という意味ではなく、旧に依り全国をカバーする郡町村という区分 とは別の次元で、商業活動の盛んな地域に限り 「区」を設ける という趣旨のようです。いわば「経済特区」。

これれを裏付ける資料:明治11年7月22日太政官達 郡区町村編制府県会地方税両規則 施行順序

少し長いですが、その第3項は「区」を設けた趣旨をよく説明しているので、全文を引用しておきます。
--------------------------------------
三 郡村制置の外都府港市の地人民輻湊貿易繁昌の所は郡村と其利益情態を異にするを以て一般の郡制と概行すへからす 故に郡に拘らす別に区となし市政を以て治むるを要すへしと雖も其郡を変更して更に某区を置くにあらす 即ち某郡にして其中に某区あるあり 又某区某々の郡に跨るある等地理上に於いては総て旧に依らしむべし 又市井一円を以て一区として統治すべきあり 或は其広闊にして統治に難きを以て分て数区となすある等各地の便に従ふべし 其分て数区とするもの或は第一区第二区と称し或は某区(其地方固有の名称を用ゆるが如し)と称する等其便に従ふ 要するに制度に拘はり便宜を妨けさる様心得へし
--------------------------------------

東京府における具体例: 明治11年11月2日東京府布達甲第55号
本年府庁甲第49号布達区郡編成の儀は 行政上区郡の区域相立候儀にて 地理上に於ては区の域内といえども 従前の通郡界相存じ候儀と心得へし 且区の域内に係る南北豊島郡の儀は江戸川神田川を以て其経境界に相定候条此旨布達候事

東京府15区の名称は、ここに出てきた甲第49号布達【同じリンク文書の359コマ】に登場します。
--------------------------------------
本年太政官第17号公布に依り従前の大小区劃を廃し区郡名称区域別冊の通相定候条此旨布達候事
(別冊)
麹町区 旧郭内、神田区 旧郭内 外神田、日本橋区 旧郭内、京橋区 旧郭内、芝区 三田 白金 桜田 高輪、麻布区 飯倉、赤坂区 青山 渋谷、四谷区、牛込区 市谷、小石川区 小日向 関口 高田 雑司ヶ谷 巣鴨、本郷区 湯島 駒込 根津、下谷区 谷中、浅草区、本所区 中ノ郷 小梅 柳島 亀戸、深川区
【これに続いて次の要領で町名を記載】
麹町区 代官町 明治12年4月甲第43号を以て東代官町西代官町を合併し代官町と改称す
--------------------------------------

「地理的には郡と重複するが、行政的には郡部と区別された特別地域」である「区」。
その具体的な指定に関する全国的な資料は、明治13年5月5日の 太政官第22号布告別冊 で見ることができます[62795]
明治11年7月第17号布告郡区編制法に依り 従前の一郡を分割し 或は新に郡名を設け 又は区【傍点】を設置するもの 別冊の通に候条 此旨布告候事
(別冊)(「 」中の文字は朱筆)【区名にはすべて傍点】
府県:東京、国:武蔵、郡区:「豊島の内」麹町区 神田区 日本橋区 (中略11区) 深川区
【以下、区の部分の抜き書き】
京都府山城国 「愛宕葛野の内」上京区 下京区 「紀伊の内」伏見区
大坂府摂津国 「四成【ママ】の内」東区 南区 西区 北区
神奈川県武蔵国 「久良岐」横浜区、兵庫県摂津国 「八部の内」神戸区、長崎県肥前国 「彼杵の内」長崎区、新潟県越後国 「蒲原の内」新潟区、堺県和泉国 「大島【ママ】の内」堺区、愛知県尾張国 「愛知の内」名古屋区、宮城県陸前国 「宮城の内」仙台区、石川県加賀国 「河北石川の内」金沢区、岡山県備前国 「御野上道の内」岡山区、広島県安芸国 「安芸沼田の内」広嶋区、山口県長門国 「豊浦の内」赤間関区、和歌山県紀伊国 「名草海部の内」和歌山区、福岡県筑前国 「早良那珂の内」福岡区、熊本県肥後国 「飽田託摩の内」熊本区

[74335] 2010 年 3 月 13 日 (土) 19:57:34【1】 hmt さん
 同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (2)三大都市の「区」は市域内に移行
hmt 区制度の変遷

今回から、明治21年法律第1号「市制・町村制」 の時代の「区」です。

[62662]88さん の記事にあるように、上記の法律(旧・市制町村制)は 大部分の府県について 翌1889年に施行されました。
また、かなり多くの府県では 1891年から1898年にかけて 明治23年法律第36号「郡制」が逐次施行されました。

これにより、「郡区町村編制法」で設けられた「区」と「町村」の多くの地域は、新制度に取って変わられることになりました。
事実「郡制」施行の地では、これに抵触する郡区町村編制法を廃止するという規定もあります[62732]
しかし これは郡部の話で、大都市においては、郡区町村編制法で設けられた“従来の区”が、意外にしぶとく生き残っていたのでした。

それを端的に示しているのが、いわゆる三市特例法 こと 市制中東京市京都市大阪市ニ特例ヲ設クルノ件(明治22年法律第12号)です。
第1条 東京市京都市大阪市に於ては 市長及び助役を置かず 市長の職務は府知事之を行ひ 助役の職務は書記官之を行ふ
第4条 東京市京都市大阪市に於ては 従来の区を存し 毎区に区長1名及書記を置き 有給吏員と為し…

三大都市において行政機関として機能していたのは、有名無実の存在である(第1条)「市」ではなく、“従来の区”なのでした。

実は 前回の記事で紹介した 明治11年東京府布達第49号による 15区の名称区域 は、“明治30年12月現行”という「東京府布令類編纂」に掲載されたものであり、東京市発足後のこの時代でさえも、「15区」を説明するにあたり 明治11年の布達に 大きな修正をする必要がない と考えられていたことがわかります。

市制町村制の施行対象は、明治22年東京府令第26号【上記文書429コマ】では、
当府管下 東京 に市制を、荏原郡外5郡 町村 に町村制を施行す
と、一体的な市街地“東京”の領域が意識されており、“15区”とも“1400町”とも記されていません。
この市街地“東京”を領域として、地理的存在の「東京市」が誕生。但し、行政的には骨抜きの存在。

実際には、例えば「従来の芝区」だけでなく、荏原郡白金村の大部分も「新しい芝区」に編入されました。
[64891]は、市制施行の際に郡部から編入された区域を次の通り列挙しています。
荏原郡白金村(編入先:芝区)の他に、南豊島郡から下渋谷村(麻布区)・原宿村(麻布区と赤坂区)・千駄ヶ谷村(四谷区)・牛込早稲田村(牛込区)。北豊島郡からも小石川・雑司ヶ谷・巣鴨・高田の各村(小石川区)、東の方で下駒込・日暮里・谷中・千束その他の各村が本郷・下谷・浅草の3区に編入。
南葛飾郡に属していた須崎・押上・亀戸・大島などの村々は本所・深川の両区に編入。(以上 新旧対照市町村一覧 18〜21コマ)

このように、三市特例法では“従来の区”としか書いてなかったものの、東京市発足の 1889.5.1 には、白金・原宿・早稲田などお馴染みの地域が、地理的存在ながら「東京市」の領域内になったのでした。1920年の内藤新宿町編入以上の大きな変化ですから、これを無視するわけにはゆきません。

「東京市の変遷」において、“区設置”となっている 1889.5.1の変更種別欄は、“区移行、編入等”とでも記したらどうでしょうか?
“区移行”の意味は、「区」は 行政的には東京府直轄体制 であることに変化はないものの、地理的には 市域内【東京市の領域内】に移行した という意味です。
“編入等”は、同時に 郡部町村の編入 などがあったことを示します。

[74354] 2010 年 3 月 14 日 (日) 23:09:05【2】 hmt さん
 同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (3)旧・市制 第60条による 3種類の「区」
hmt 区制度の変遷

始めに記号の説明。今回、「市制の下での区」に説明上の記号B1〜B3を付すにあたり、「市の前身である区」にもAで始まる記号を付けることにしました。

[74334]では 郡区町村編制法により設けられた「第一世代の区」(A1)について、そして[74335]では、明治21年の法律(旧・市制)が施行された時代になってからも 三大都市に居座っていた“従来の区”について記しました。後者は、本質的にはA1の遺物ですが、別の特例法で残されているので、A2と呼ぶことにします。

(旧)市制に基づく 本来の「区」は、第60条第1項に規定されています。【明治33年改正後[63761][72207]
凡市ハ 庶務便宜ノ為メ 市参事会ノ意見ヲ以テ 之ヲ数区ニ分チ 毎区区長及其代理者各一名ヲ置クコトヲ得
区長及其代理者ハ名誉職トス
但東京京都大阪【及人口二十万以上ノ市】ニ於テハ区長ヲ有給吏員ト為スコトヲ得

便宜上3文に分けて記しましたが、これによって3種類の「区」を区別することができます。
B1 三大都市(東京京都大阪)の区【第60条第1項第3文】
B2 人口二十万以上ノ市の区【1900年改正後の第60条第1項第3文】
B3 一般の市【第60条第1項第1文“凡(およそ)”で、市一般に適用、第2文により区長は名誉職】

三大都市については、1889年以来の9年半は、三市特例法で残された“従来の区”(A2)が続いていました。
特例法廃止に伴なう 1898年改正の市制第3条にも まだ“従来の区”という言葉が残っていますが[74320]、3条後段、72条など他の規定も設けられ、区が市域内に移行するにあたり 郡部から一部の町村も編入されるなど、区の中身は様変わりしています[74335]

要するに、三市特例法廃止の 1898.10.1に至り、“凡そ市は(中略)之を数区に分ち 毎区区長…を置くことを得”という第60条第1項の規定通りに、「三大都市の中に区が設置された」(B1)ものと認められます。

この見方は、この時に出された 東京市、京都市、大阪市の区についての勅令 にも矛盾するものでないと思います。

人口二十万以上ノ市の区(B2)に関しては、2003年に [10991] Issie さんの記事がありました。
1900年に「市制」が改正されて人口20万以上の「市」には,市域を分割して「区」を設置し,市の職員(吏員)である「区長」を置くことができるようになりました。

2008年になって、今度は 勅令第98号として話題に登場しました。
[63657] むっくん さん
区制の項目に東京市京都市大阪市を除く外人口二十万以上の市の区に関する件(M33.3.31勅令第98号)第2条を付け加えた方がさらに充実すると私は考えます。

これに対するレス[63761] 88 さんで、勅令を発した元の 明治33年の市制60条改正も再発掘され、この一連の法律・勅令により区が設置された「二十万市」(B2)は、名古屋市の4区設置(1908)が 最初で最後であったことも示されました。
2年前のこの記事によると、ちょうど区制 100周年 ということで、さまざまな記念行事があったようです。
その後、[72201][72207]にも 88さんのレビューがあります。

一般の市の区(B3)というものが、制度上存在する可能性がある段階に留まらず、現実に存在していたことは、[72214] むっくん さんによる金沢市や仙台市の実例で知り、驚きました。

この他にも一般市の区(B3)の存在可能性はありますが、その実態は不明。変遷情報でも無視されています。
金沢市街統計表(M27.8.11)の吏員の欄に記載された「区長 7人」[72215]は、“区長…ハ名誉職トス”という法律と矛盾しないのか?

ついでに、(旧)町村制第64条 にも類似の規定がありました。
「町村の区」が存在していた可能性もあります。

[74376] 2010 年 3 月 18 日 (木) 16:00:15【3】 hmt さん
 同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (4)沖縄県区制 と 北海道区制
hmt 区制度の変遷 hmt 琉球の歴史

市の変遷 がデビューした機会に、これと深い関係を持つ「区制度の変遷」に関する情報を整理しています。

明治初期、最初は戸籍編成のために設けられた「区」は、やがて土地人民に関する事件一切を取扱う行政機構になりました。
区に大小を付けるところも多く、明治5年大蔵省布達第164号で大区小区制が原則になりました[58214]

[37785]
【島崎藤村誕生の地は】正確に書けば「筑摩県第八大区五小区馬籠村」でしょうが、…
[62550] [62613]
明治初年の地図を眺めてみると、明治8年 「東京四大区小区分絵図」の11小区の西側(第八大区四小区)に「朱引外」の字
【漱石の】父・夏目小兵衛は明治5年には第四大区の御用掛(明治6年12月区長)になっています。

しかし、この大区小区は 「市の変遷」に登場する区とは あまりにもかけ離れた存在 であるので、当面無視し、「市」の直接の前身と考えられる郡区町村編制法の 36区から このシリーズを始めました[74334]

実は [74334]で書き落していたのですが、明治11年の郡区町村編制法は、北海道では一足遅れて明治12年に施行され(おそらく明治12年7月23日 開拓使乙第4号布達[62816] 未確認、北海道には 2区(札幌区・函館区)が誕生して、郡区町村編制法の区(A1)は合計38区になったはずです。
但し、京都府伏見区は明治14年早々に 廃止

1889年施行の市制によって、37区のうち 14区はそれぞれ単独で「市」になりました。、三大都市にあった 21区は特例法により“従来の区”として存続しましたが、市域内に移行したので「A2」として区別しました[74335]。市制の対象外とされた北海道の札幌区・函館区だけが「A1」のまま。
1898年三市特例法廃止により三大都市の区は市制60条により市の中に設置された区になり(B1)、1900年の市制改正を受けて、1908年には「二十万市」である名古屋に4区が設置されました(B2)。[74354]

このように、市制に基づく区の制度は 1889年に一応はできていたものの、実際に発足したのは 1898年でした。
そして、この間に地域を限定して別の種別の区が発足していました。

それは、明治29年(1896)4月1日に施行された勅令第19号 沖縄県区制 です(C1)。
第1条 此の勅令は沖縄県に於て区と為す地に行ふものとす
第96条 此の勅令を施行する場合に於て初めて区と為す地は那覇首里の各区域とす

この区のために 全部で98条という 膨大な条文が作られていますが、その内容を見ると、議決機関(区会)はあるものの、県知事の強い監督下に置かれ、自治機能は弱かったようです。同日施行の勅令14号【261コマ】にあるように、那覇区長は島尻郡長が、首里区長は中頭郡長がそれぞれ兼任しており、本当に郡とは別なの?という感じです。
ここで、郡の名が出てきましたが、島尻・中頭・国頭・宮古・八重山の5郡も、同日施行の勅令第13号【260コマ】によるもので、沖縄県では「区」はもちろん、「郡」も史上初登場でした[64956]

地域限定による新種の区は、北海道にもでき(C2)、上記郡区町村編制法の区(A1)と置き換わることになりました。
明治30年(1897)5月29日公布の 北海道区制(明治30年勅令第158号) がそれです。

この北海道区制も、府県に施行された市制に比べて自治が制限されていたようです。助役は 明治32年改正 で導入されたものの、参事会は設けられず。

施行日は、一旦 拓殖務省令 で同年10月1日と定られたものの延期され、明治32年勅令第378号による助役制導入などの修正を経て、明治32年(1899)10月1日に 施行されることになりました。同年の内務省令第44号

[71731]では“ 議会を備えた自治制度への第一歩ということで準備期間が必要だったのでしょう。”と書きましたが、いろいろと複雑な事情があったものと推測します。ついでに言うと、北海道一級町村制も先の拓殖務省令の明治31年1月1日施行から 2年以上延期されています[63738]

このような波乱はありましたが、明治32年(1899)10月1日に実現した「北海道区制」は、自治体への第一歩でした。
最初の北海道区制施行地は 明治32年内務省令第46号 により、札幌区・函館区・小樽区が指定されました。

この勅令の公布から施行に至る2年間には、北海道特有の制度である (3代目)「支庁」制度 ができ、すぐに(1897/11/5から)施行されています。
支庁制度施行時点の北海道では、郡区町村編制法による札幌区・函館区が存続しており、この2区は郡と同列に支庁の管轄区域に入りました。というか、函館支庁の管轄区域=函館区(A1)でした。

北海道区制で指定された明治32年(1899)10月1日の函館区(C2)は、従来の函館区(A1)に加えて亀田郡亀田村の内がその区域に加わったということだけでなく、区が支庁の管轄区域外になったという違いがあります。

本来のテーマの「区」から離れますが、支庁制度改正勅令 が示すように、管轄区域の消滅により従来の函館支庁はなくなり、亀田支庁は支庁位置を七飯村から管轄区域外の函館区に移し、(新)函館支庁に改称 しました。

地域限定の区は、その後も北海道(C2)では旭川(1914)、室蘭(1918)、釧路(1920)と増殖した後、1922年に6区がすべて市制の市になりました。
沖縄県の区(C1)は 明治41年改正[64956]の前後共に 2区(那覇・首里)のままで、1921年に市制を迎えました。

沖縄県区制・北海道区制関連で、昔の記事を紹介。
市制施行日と市の誕生日は、アーカイブズ第3号 のURLが示すように この落書き帳の古典的な話題です。
グリグリさんの[40621]が決定版になり、その後[43070]で市名誕生日が追加されています。

…ということで今更なのですが調べ直してみたら、落書き帳の草創期に M.K.さんの発言があり、那覇市が 41番目、札幌・函館・小樽3市が 52番目を獲得している 置市時期順 が提示されていました。

[140][154] M.K. さん
全国市長会館が発行する『日本都市年鑑』(中略)では、札幌市や那覇市について、「北海道区制」「沖縄区制」に基づいて区となった日を「置市」の日と扱っていたようですが……
手持ちのデータを若干修正したのですけれど、ついでにそれをウェブページにもしてみました。【URL修正↑】

[159] Issie さん
視点を変えればこういう配列も「あり」だと思いますよ。
それぞれの「市」にとってみれば,こちらの日付の方が重要かもしれませんね。

[74736] 2010 年 4 月 6 日 (火) 16:49:55 hmt さん
 同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (5)明治44年「市制」による区
hmt 区制度の変遷

だいぶ間が開いてしまいましたが、区制度の変遷 を続けます。

市の変遷 の出発点は明治22年。
これより前から存在していた「区」は、明治11年郡区町村編制法にもとづく 37「区」(A1)でした。

明治22年以降に府県に施行された市制町村制の下では、4種類の「区」がありました。
A2 三府の 21区は 最初は特例法により“従来の区”として三市域内に移行し[74335]、1898年まで存続
B1 1898年の三市特例法廃止により、上記のA2は東京・京都・大阪市の中に設置された区になる[74354]
B2 1900年の市制改正を受けて、1908年には「二十万市」の名古屋に4区を設置[74354]
B3 金沢・仙台など一般市の区 区長は名誉職 多数の存在可能性はあるものの、その実態は不明

市制町村制が施行されなかった北海道と沖縄県では、同じ時代に別の制度を根拠とする3種類の「区」がありました。
A1 北海道では、1879年に郡区町村編制法で設置された 札幌区・函館区 が 1899年まで存続
C1 1896年の沖縄県区制[74376] 市よりも制限されているが、自治体への前段階 那覇・首里の2区
C2 1897年公布、1899年施行の 北海道区制[74376]も同様 札幌・函館はA1からC2へ 他に小樽など合計6区設置

区の制度においても大きな変化のあった明治30年頃は、従来からの行政区画「郡」に自治体的な役割も兼ねさせる「郡制」を施行するための準備として、郡の再編が行なわれるなど、地方制度に動きがあった時代です。
府県制と郡制とは、共に 明治23年の旧法 から 明治32年の改正法 に更新されました。施行日一覧 [62662] 88 さん

この法改正に裏付けされた「府県の性格」の変化。首長はまだ官選でしたが、国の出先機関の行政機構から脱皮して、直接選挙で選ばれた議員による議会と法人格とを具え、「自治体」の性格が強くなりました。
このような地方自治の進展は、自治体としては先輩格の「市町村」にも影響を与えたはずです。

府県制・郡制の改正よりも遅れますが、明治21年の法律「市制町村制」は 全面改正されて、明治44年「市制」と明治44年「町村制」と2つの法律になりました。

明治44年「市制」(法律第68号) で設けられた 3種類の「区」 D1〜D3を挙げておきます。

D1 勅令指定都市の区
勅令指定都市とは、“市制第6条の市の区”のことです。市制第6条には次のとおり記されており、その後段は 三市特例法廃止後の(旧)市制改正【明治31年法律第20号[74320]】により追加された 第3条第2項の後段と同じです。
勅令を以て指定する市の区は之を法人とす 其の財産及営造物に関する事務其他法令に依り区に属する事務を処理す

具体的に 東京市・京都市・大阪市 を指定した 明治44年勅令第239号 は、[72201] 88 さん にリンクされています。

この明治44年「市制」によって、三大都市の区は名実共に“従来の区”という言葉【上記改正旧法第3条第2項の前段】から開放されました。
実質的には後段により 市に所属する限定的な機関 になっていた B1[74354] を引き継いだものと言えます。

D2 省令指定都市の区
省令指定都市とは、市制第82条第3項 の規定により、内務大臣が指定することができる“区長を有給吏員と為すべき市”のことであり、勅令指定都市の区の規定が準用されます。具体的には 旧・市制の時代に既に人口二十万以上ノ市として4区(B2)を設置していた名古屋が、明治44年内務省令第14号 で指定され、その後昭和2年内務省令第32号による横浜市、昭和6年内務省令第14号による神戸市と続いています。[56763][72201]

D3 一般の市の区 
市制第82条第1項、第2項は、旧・市制第60条(第1項1〜2文[74354])とほぼ同様に、“処務便宜の為”区を画し“名誉職”の区長及其の代理者を置くとしています。
つまり、[72214] むっくん さんにより金沢市や仙台市の実例が紹介された旧制度の一般の市の区(B3)に対応。

今のところ市についての実例を調べていませんが、たまたま手近にあった資料には 村の「区」 があり、一般の市町村における 同様な区の存在を示す資料 はいくらでもありそうです。
参考:町村制
第68条 町村は処務便宜の為区を画し区長及其の代理者1人を置くことを得
   区長及其の代理者は名誉職とす…
第78条 町村長は郡長の許可を得て其の事務の一部を助役又は区長に分掌せしむることを得…

明治44年5月8日 埼玉県入間郡大井村会議事録(大井町史 資料編III-1, 248頁)
本村に区を設置するの件  本件は異議なく設置することに決議す
そして、大井・苗間・亀久保・鶴ヶ岡の4大字が4区になりました。

隣接する福岡村でも、大正7年3月4日「役場移転に関する区長会議」がありました。上福岡市史資料編3巻453

[74867] 2010 年 4 月 11 日 (日) 23:51:27 hmt さん
 同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (5.1)六大都市区域の拡張
hmt 区制度の変遷

先走って[74793] 東京都制による35区を先に書いてしまいましたが、その前に明治44年「市制」に基づく「区」[74736] が設けられた「六大都市」における「区域」の拡張について記すべきでした。そこで、枝番で処理します。

文政元年(1818)に幕府評定所で確定した江戸の範囲は老中決済を経て、「別紙絵図 朱引 ノ内ヲ御府内ト相心得」として公表されました。朱引は、町奉行支配境墨筋よりも拡張されており、主要部が墨筋の外だった新宿も朱引内になりました。墨筋突出の目黒は例外。

江戸に在勤していた諸藩の武士が明治になって引き上げると、東京は一時的に衰退しました。
荒れた武家地を桑畑や茶畑にして産業振興を図ろうとしたのが明治2年8月の「桑茶政策」参考pdf資料 です。朱引の範囲も、この時にかなり縮小されました[14798]

郡区町村編制法では、この明治の朱引線を目安として、朱引内に東京府直属の15区[74334]を、朱引外に6郡を設置しました。
明治22年に、形式的にせよ東京市が発足した際に、白金・早稲田など区域拡張があり A2の 15区になりました[74335]

勅令指定都市時代の東京市は、大正9年(1920)に 豊多摩郡内藤新宿町を四谷区に編入
新宿追分の京王線ターミナルも市内になったわけで、その後「四谷新宿」と改名したのも、区の名を誇りに思ったからでしょう。

このような区域の修正はあったものの、東京市の区域は概ね江戸の朱引内由来の15区のままであり、日本の産業構造の変化に伴う全国的な都市化の進行に合った行政区域になっていませんでした。

これに対して、大阪市では 1925年に区域の大拡張が行われ、京都市も 1931年に伏見市など隣接部を編入。
名古屋・横浜・神戸の3市も(省令指定より前を含めて)隣接部の編入を繰り返して、大都市行政の区域を拡張してきました。
その詳細は 変遷情報 で見ることもできますが、市の変遷にも抽出されています。

さて、市域拡張の遅れた東京市ですが、1923年に関東大震災に襲われた結果、比較的被害の少なかった郊外への人口流出が加速しました。それがもたらした小学校関係の経費が増大は、周辺町村の財政を圧迫し、都市計画区域において町村長が施行すべき道路・上下水道整備の進捗を遅らせることになりました。

1918年に五大都市に準用された東京市区改正条例(翌年 都市計画法制定)が「六大都市」の起源であることは[53893]で記しました。
この「都市計画区域」になっていたのは、東京市及び隣接5郡(荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾)、それに北多摩郡千歳村と砧村を加えた区域であり、東京以外の五大都市の周辺町村編入範囲も、それぞれの都市計画区域が基準になっていました。

現実に都市化したが財政基盤が弱いままの東京郊外部の町村。
これを救済するために東京市への編入が計画されますが、これは旧市域住民の負担増につながるという反対論がありました。

実は大都市を有する府県においては、府県財政を市部と郡部に分け、市部・郡部・市郡連帯の3方法により経費を支弁するという「三部経済制度」なるものが存在していたのですが(明治32年3月改正府県制付則第140条2項)、この制度は社会の実情に合わなくなっており、廃止の動きがありました。

ここで、東京市域拡張と三部経済制度廃止を同時に行うという案が出ます。
市域拡張による旧市域の負担増は、三部経済制度廃止のみを行う場合と大差なく、新市域が発展することによる税収増加等の利益は旧市域も享受できるという考えで理解が得られ、隣接5郡の一括編入 が 1932年10月1日に実現しました。

こうして実現した「大東京」には 20区が新設され、従来の 15区と合わせて 35区になりました。
続いて 1936年には 北多摩郡の2村も世田谷区に編入

子供の頃、それまで別の沿線と認識していた京王線の千歳烏山と小田急の千歳船橋とが、昔の村の名を共有していることを「発見」して興味をそそられた記憶があります。

[74793] 2010 年 4 月 9 日 (金) 21:39:17【1】 hmt さん
 同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (6)東京都制による35区
hmt 区制度の変遷

[74736] では、明治44年に全部改正された法律「市制」により、3種類の区の制度が設けられたことを記しました。
D1・ D2はよく知られた六大都市(東京市・京都市・大阪市・名古屋市・横浜市・神戸市)の区ですが、市制第82条第1項に基づく D3「一般の市の区」は殆んど知られていません。

調査の結果、D3の根拠条文は、戦後の 昭和21年法律改正 により削除されていました。20コマ
第82条第1項乃至第3項を次のやうに改める。
内務大臣の指定する市は市会の議決を経て処務便宜の為区を画し区長を置くべし
区長は市吏員とし市長之を任免す

明治44年「市制」の施行期間は、同年(1911)から地方自治法施行の昭和22年(1947)までの36年間でした。
区制度の変遷という観点からすると、B1〜B3を引き継いだ最初の段階が D1〜D3[74736]で、(実態は不明だが)D3「一般の市の区」の制度も大部分の期間は存続していたのでした。

時代は大正デモクラシーから戦時体制へと移り、1943年に「区制度」の分野でも目に見える大きな変化が ありました。

それは、言うまでもなく、従来の東京市35区(D1)が東京都35区(D4)になった 「東京都制」 です。

第140条(35コマ)
区は法人とす 官の監督を承け其の財産及営造物に関する事務並に都条例の定むる所に依り区に属する事務を処理す
区の区域及名称は従来の東京市の区の区域及名称に依る

第1項の条文は、明治44年「市制」第6条の条文[74736]をほぼ踏襲しているように見えますが、“官の監督を承け”という官治主義的な字句が入っています。
区の法人格(140条)、区会(144条)、区長(152条)など、見かけは大きな変化はなさそうですが、官庁的な性格の強くなった「東京都」の区(D4)になったことに伴い、1898年10月1日以来自治体として活動してきた「東京市」の区(D1)であった時代に比べて、区の実質的な権限は縮小したものと思われます。

私の通っていた東京市愛日国民学校[22003]【誤記訂正[53601]】の所在地は、東京市牛込区から東京都牛込区に変りました。
これに伴う新しい学校名は 東京都愛日国民学校 であり、特別区の名前を冠する現在の 新宿区立愛日小学校 とは明らかな違いを見せています。
なお、愛日小学校の歴史 の 1941年の欄には 国民学校への名称変更 が書いてありますが、この段階で頭に付いていたのは、もちろん「東京市」でした。

1943年7月1日 東京都35区(D4)発足 の時点で存在した他の「区」は、勅令指定都市である京都市の7区と大阪市の22区が D1、省令指定都市である名古屋市の10区、横浜市の7区、神戸市の8区が D2でした。パラレルワールドの神戸市[74381]も、湊西区と兵庫区が共存しているだけの違いで9区。

[74935] 2010 年 4 月 14 日 (水) 13:36:58【1】 hmt さん
 同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (7)敗戦直後の大都市改革
hmt 区制度の変遷

このシリーズ区制度の変遷 も、明治・大正・昭和前期を経て、いよいよ戦後になります。

第二次大戦は、「区」が設けられていた六大都市に、大きな変化をもたらしました。
戦時中に都政が施行された東京[74320]と、大阪・名古屋・横浜[65179]・神戸[43161]は大空襲により大きな被害を受けました。
戦争による都市機能の壊滅により、区部の人口は激減し、税収も減って都や市の財政力は低下しました。

しかし、戦争がもたらしたものは、破壊と荒廃だけではありません。
既存の都市が失われたことは、戦災復興を兼ねた都市の再生にとっては絶好の機会でもありました。

2本の100m道路に象徴される 名古屋戦災復興都市計画 は、その代表的な成果でした。名古屋市技監としてこの計画の中心となった田淵寿郎は、1966年に名古屋市の名誉市民第一号に選ばれました。
結果的には空襲を免れた京都でさえも、強制疎開[48995][49021]による防火帯から、御池通などの広い道路ができています。

ところが、戦災復興のチャンスを本格的に生かすことができなかったのが東京です。

1923年の大震災後に行われた帝都復興事業は、内務大臣後藤新平による30億円(国家予算の2倍)規模の大方針で企画されましたが、結局は6億円に縮小。
それでも昭和通りや隅田川の橋を含む復興事業は1930年に完成し、今の東京でも重要なインフラになっています。

敗戦後の1945年に内閣直轄の戦災復興院が発足し、全国115都市を戦災都市に指定しました。
前記の名古屋復興事業もこれを受けて具体化し、技術者の田淵が招かれたのでした。

では東京はどうだったのか。戦前に名古屋都市計画の基盤をつくった石川栄耀が、既に東京都建設局長として在職していました。彼は2万haの区画整理、延長500kmの幹線街路整備、3000haの緑地計画という大規模な計画を作成しました。

しかし、急激な人口増加・財政難は石川プランの実現を許しませんでした。東京復興事業
かつての帝都復興事業以上に厳しい見直し・縮小を余儀なくされ、実際に行われた区画整理は 1652haに留まりました。


そして地方制度の面でも、戦前や戦時中の体制を改革する動きが、戦後に始まりました。
日本国憲法・地方自治法施行(1947年5月3日)に先んじて、1946年9月27日に地方制度改革4法(昭和21年法律第26〜29号)が公布されました。
その1つである東京都制改正により、東京都の区民には参政権が与えられ、官庁の性格の濃い東京都庁の出先という立場になっていた東京都35区(D4)は、区条例・区規則の制定、課税や起債の権利が認められ、公選の区長を持つ いわば「市に準じる区」(D5)に変身しました。改正法27コマ、30コマ

付言すれば、この改正により、それまで官選であった東京都長官も公選になりました。
前記4法改正中の府県制改正で府県知事が公選になったのと同様です。
当選したのは官選都長官だった安井誠一郎。食糧難とインフレの時代で、「安いお米をせいいっぱい」という投票もあったとか。

都民の住宅の確保こそが最優先課題であるとの考えから、確信犯的行為として、上記 石川栄耀の大復興計画を握りつぶした都知事こそが、この人物でした。地方自治を掲げた戦後体制による民選知事が、内閣の機関である戦災復興院の意向をはねつけて、国と都の共同体制による復興事業を拒否した形ですが、後世から見ると、果してこれでよかったのか?

さて、上記昭和21年改正に続いて、東京都の区の整理統合問題が具体化しました。
昭和21年(1946)12月には、戦災復興と区の自治権拡張を目指して人口10万乃至30万を基準として整理統合する方針が出され、翌1947年3月15日に22区制発足(D6)。

これは、地方自治法施行の直前とも言える時期ですから、当然、特別区制度を見据えた措置でしょう。
地方自治法施行後の1947年8月1日に板橋区から練馬区が分離して、現在に続く23区が出揃いました。

都区のあり方議事録 の9/10コマによると、「都と区の制度的変遷に関する調査研究」という冊子が存在するようです。その要旨は、2つのpdf資料 特別区の区域の沿革について昭和22年の区域再編 とに紹介されています。

今回の記事を作るにあたっては、この資料を利用しました。

[74956] 2010 年 4 月 16 日 (金) 15:41:08 hmt さん
 同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (8)金沢市の「連区」
hmt 区制度の変遷

日本国憲法・地方自治法の時代(1947/5/3〜)に入る前に、旧制度、つまり「市制」時代の「区」につき、少し補足しておきます。

明治21年法律第1号「市制」の第60条第1項には次の規定がありました。[74354]ではB3という記号を付けました。
凡市ハ 庶務便宜ノ為メ 市参事会ノ意見ヲ以テ 之ヲ数区ニ分チ 毎区区長及其代理者各一名ヲ置クコトヲ得

この条文に基づけば、“どんな市でも、原則として「区」を設けることができたのですね。これは知らなかった。”[72205] と書いたところ、[72214] むっくんさん により 金沢市と仙台市の例 を示していただきました。
金沢市は、旧・市制施行直後の明治22年に13区、明治26〜27年に7区が存在したとのこと。

ところで、金沢に「校下」という言葉があることは、この落書き帳の記事[39941][40038][65596]で知ったのですが、校下と町会 という論文に、金沢市の「連区」に関係する次の記載がありました。少し長いですが pdf資料の6コマ から引用しておきます。
-----------------
校下という言葉は 1925(大正14)年ごろから使われているという。この前年から近接町村第一次合併(野村、弓取村を合併)があったため、それまで使用されていた連区制が廃止されている。明治以降、金沢の行政単位として採用されていた連区制では、1区あたり平均 80町、人口2〜3万人からなる 7区(通称7連区)がつくられており、この連区は、行政が行うべき道路整備、衛生、消防、土木工事といった活動を行うとともに、地域内住民の相互扶助、連帯の基盤となり、1918年の米騒動のときには民衆組織の中核的集団としての役割を果たすなど、明治、大正期における金沢市民の日常生活に欠かせない組織であった。
-----------------
文献として、橋本哲哉:近代石川県地域の研究【金沢大学経済学部研究叢書 1986】p.172が引用されています。

この文献では「連区」という言葉が使われていますが、金沢の7連区は、明らかに [72214]で紹介された旧・市制第60条第1項の区(B3)に由来し、明治44年市制第82条第1項の区(D3)へと引き継がれたものであると判断されます。

上記論文の 7コマには金沢市7連区の人口と町数(1919)が示されています。大正8年金沢市統計書 の現住戸口表には“旧第一連区”などと記されているので、連区はそれ以前に廃止されたのかもしれません。

いずれにせよ、旧制度の時代の金沢市には、B3やD3に分類される区が 大正時代まで存在し、学区としてだけでなく、広範囲な市民生活に関与する組織として機能していたようです。

市域の拡大に伴って公式には廃止され、「校下」に移行したとされる金沢市7連区。現在の使用例 もありました。

本題の「市制」時代の「区」から外れますが、「連区」という言葉が出てきた機会に、現代の「連区」を調べてみました。

現在、「連区」が一番使われているのは愛知県のようであり[65607] [65621]、一宮市HP内を検索したら、多数ヒットしました。
市長が 地域組織のあらまし を説明しています(広報一宮2005年7月pdf)。

旧一宮市は、16の連区に分かれ、525の町内会から連区長を選出。16連区のうち6つは市の中心部で、葉栗以下の10連区は1940年以降に合併した町村。旧尾西市は6地区、旧木曽川町は10区となっています。
呼び名は違いますが、それぞれほぼ小学校区をカバーする地域組織があったようです。

現在は 木曽川地域の議事録に、連区の各組織と市との関係 があり、旧木曽川町の区域も連区になっていると思われます。

[74958] 2010 年 4 月 16 日 (金) 18:37:59【1】 hmt さん
 同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (9)姫路市の区
hmt 区制度の変遷

「市制」の区【六大都市以外】を続けます。明治・大正時代の金沢市の7連区から、時代と場所がガラリと変ります。

1944年編集の米軍地図 飾磨・広畑・網干 は、[58792]牛山牛太郎さんが紹介してくれたものです。

戦時中の日本では「防諜」(スパイ対策)[28850] を理由として地形図の「戦時改描」をしていたものですが、敵が作っていた この詳細な地形図を見せられると、日本側の小細工で作られた「ウソの地図」など、何の役にも立たなかったことがよくわかります。

1941年に開通していた山陽電気鉄道網干線こそ抜けていますが、図の中央部には“1941年の概略配置”という注記を添えた 最新の広畑製鉄所 が描かれており、重要な目標物も敵に筒抜けでした。

姫路市周辺のこの地図を持ち出したのは、敗戦の次の年 1946年3月1日に、姫路市を含む2市3町3村が合併 した時に、6区が登場したからです。

この合併は、戦時中に姫路市長に就任した原惣兵衛が、戦後の日本に対する絶対的な権力を握っていた占領軍を利用して実現したもので、軍政官の名から「ラモート合併」と通称されます。[21922] またーり さん

それはさておき、ここで何故「区」が登場し、しかも五大都市のように市の全域ではなく、市の一部だけに設けられたのか? その理由が謎です。姫路市の「区」とは何か?

合併前の飾磨市、広畑町(飾磨郡)、網干町、大津村、勝原村、余部村(以上揖保郡)の区域が それぞれ1区になり、合計6区ができたのですが、姫路市と合併したのは 7町村。1つ足りません。
そうです、飾磨郡白浜町だった区域は、何故か白浜区になっていないのですね。

合併前の姫路市の区域は、1889年の市制施行以来 周辺の村を何度か編入して形成されたものですが、そこにも 区は設定されず、ラモート合併後に何度も行われた編入区域にも区は作られていません。

でも、ラモート合併当時の法律(明治44年市制)の市制第82条第1項には、
第六条の市【勅令指定都市】を除き 其の他の市は 処務便宜の為 区を画し 区長及び其の代理者1人を置くことを得
と書いてありました。だから、合併した旧市町村を「区」にすること自体は、合法的なのでしょう[72205]

区の根拠法が存在しても、わざわざ前例のない「区」を作ったのは何か理由があると思います。
こここら先は推測になりますが、「区」を作った理由を2つ考えてみました。

その1、合併相手、特に飾磨市への配慮。
飾磨市ができたのは1940年2月11日です。同じ兵庫県内の洲本市[49122][74036]と同日ですね。
せっかく「市」になったのに、6年後に姫路市の一部になって消えてしまうのは気の毒。
そこで、編入でなく対等合併の形にして、「飾磨市」だった旧市域を「飾磨区」にしてその名を残す。
町村だけなら市ほどの配慮を必要としなかったかもしれませんが、合併後5年の「広畑」など町村名も区として残す。

そうそう、「広畑」は、広村と八幡村とからの合成地名でしょう。>yamadaさん
【訂正】この件は間違い。[74965] 播磨坂 さんご指摘のように、合成でなく先祖返りでした[74977]

その2は、合併した市町村にそれぞれ独自の財産があり、その権利を保全する目的で「区」を設置したという考えです。
歴史のある港町の飾磨・網干、大規模製鉄所ができた広畑町などにも、町固有の財産があったかもしれません。

地方自治法には特別地方公共団体として財産区の制度があります。1946年には法律的には財産区の制度が施行されていなかったとしても、関係者は、当然財産区の考え方に影響されたはずです。近く実現する予定の財産区を先取りする。

こんな予想を抱いて姫路市例規集を覗いてみたら、いくつかの財産区がありましたが、6区の名は発見できず。
財産区であった可能性は小さいようです。

さて、上記「一般市の区」(D3)に関する規定は、昭和21年法律第28号(10月5日施行)で削除され[74793]、姫路市の6区は約7ヶ月で、「市制第82条第1項に基づく区」として存在する根拠を失いました。

では、どうするか。“「○○区○○」で一つの地名”という理屈にしたのですね。
旧市街地にある姫路市「新在家」との同名回避ならば、姫路市「網干区新在家」を姫路市「網干町新在家」に改めればOKとも思われますが、一度手に入れた「区」を手放したくなかったのでしょう。

姫路の雑学>姫路市の「区」でも、地方自治法以前の合併の名残、○○区というラベル付きで「一つの地名」、区役所なしの3点が強調されています。
姫路市には、…「区」が付く地名があります。これらの「区」は、東京都の特別区や政令指定都市の区とは違うものです。
姫路市の「区」は地方自治法が施行される以前の1946年3月に姫路市と…2市3町3村が合併したときの名残です。したがって、…○○区○○で一つの地名となります。
このような経緯から、…区役所などはありません。



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