都道府県市区町村
落書き帳

朱引




[7439] 2003年 1月 7日(火)16:43:01ken さん
re:re:24番目の区を考える
[7425] の私の書き込みは、[7409] ヒロオ さんのご提議に対し、一見ちょっと批判的な物言いになってしまいましたが、
「現23区は異常な状態にある」というご主旨には大賛同なのです。

要は
「都市東京」を如何なる存在と定義し、その行政機構としてどういうものが相応しいか。
もはや単なる現行23区の離合集散では解決できる次元ではないのではないか、ということなんです。

例えば、江戸時代の「本郷もかねやすまでは江戸のうち」、「ご朱引きの内」という時の「江戸市中」の朱引きは、何を基準に判断し、どう行政手続化されたのか。
 (参考「かねやす」http://www.travelsite.co.jp/oedo/001.htm

・南葛飾郡を下総国のままでは不都合で、武蔵国に変更すべきと考えたのは何故だったのか。
当時、深川、本所、向島はともかく、砂村や小松川村などは、純農漁村であって、市中になったわけではないのに。
しかし、江戸市中を囲むある一定の周縁部のバッファー地帯は、江戸と同様の武蔵国内にすべき、という発想があったからこそ、付け替えが行われたのであろう。

・当初の東京15区の範囲は如何なる根拠で、東京市と定められたのか。

・1932年の周辺部の新20区の編入、35区化は如何なる判断で、行われたのか。
 当時渋谷町などは8万人を超える人口を持ちながら市制を敷かなかったのは何故?
(関東大震災の影響は十分考慮しなければなりませんが)
<参考>大昔の書き込みですが
[3327] ゆっさん

・1936年北多摩郡の砧村、千歳村を世田谷区に編入、この判断は、何故、誰が、どのように行ったのか?
・これの裏返しとして、同じ北多摩郡のその他の町村は、何故、その後、市街地の拡大にも関わらず、東京市に編入されることがなかったのか?
この点は瑣末ですが重要で、北多摩郡のこの2村が東京市に入れられたということは、旧豊多摩郡、北豊島郡、荏原郡、南足立郡、南葛飾郡の5郡は東京市にして、「北多摩郡は、府下にしておこう」という発想・判断基準は無かったことを意味します。

・1947年、板橋区を分区したのは何を判断基準に行ったのか?
・1947年、都心部を中心に合区をしたのは何故か?

都府県界は(歴史上も)アンタッチャブルではないですし、
現23区の領域自体、都市の発展とともに変遷・拡大してきたものである。(ある時期まで)

東京市は
1889年 15区にて東京市成立
1932年 20区を加え35区
1936年 北多摩郡砧村、千歳村を世田谷区に編入。現領域に。
1947年 都心部を中心に合区22区に再編。
1947年 板橋区を板橋区と練馬区に分区、23区に。
この間約58年間に以上4回の見直しが行われているが、一方1947年意向は
なんと56年間も、何の変更も加えられていない。
(この間の地域実態の激変については改めて述べるまでもないと思いますが)

単純比較にはなりませんが、横浜市の例を対比してみれば
1889年 横浜市誕生
1927年 鶴見区・神奈川区・中区・保土ヶ谷区・磯子区の5区設置
1939年 都築郡内の9村を編入し港北区に、鎌倉郡内の1町7村を横浜市に編入し戸塚区に。現市域に。
1943年 中区より南区分区
1944年 中区より西区分区
1948年 磯子区から金沢区分区
1969年 南区から港南区分区、保土ケ谷区から旭区分区、港北区から緑区分区・戸塚区から瀬谷区分区
1986年 戸塚区から栄区分区、泉区分区
1994年 港北区+緑区から青葉区・都筑区新設し4区に再編
と18区体制ができるまでにほぼ10年に一度は見直しが行われています。

10年一昔と申します通り、都市の発展と地域行政の見直しが、10年単位くらいでは必要になってくる一例だと思います。
56年間も、その激変にも関わらず、一度も手が入れられていない東京23区は、異常と言えます。
その歴史の前半で出来ていたことが、ある日を境に出来なくなった一因は、「特別地方公共団体」という、異形の自治体となってしまったことも影響しているでしょう。普通地方公共団体であれば出来たことが「特別」であるために出来ない。
その影響度の大きさに比べ、権限が非常に制限されている。
「身長2.2m体重250kgの1歳児」の如き奇形の自治体とでも言いましょうか。「特別」は普通でないということで、良い意味にも悪い意味にもなリ得ますね。

新東京の都市行政を真面目に考えるなら、東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県の都県界を一度完全に廃し、上尾市、さいたま市、上福岡市、所沢市、立川市、府中市、多摩市、町田市、川崎市、横浜市、習志野市、八千代市、船橋市、鎌ヶ谷市、柏市、流山市、吉川市、越谷市、岩槻市、といった範囲に括られる内側を新「東京都」、あるいは新「東京市」とし、その内部は他の道府県の市町村とは違った、新たな発想の行政区分に再編すべき、
残部の東京都は、現行の都道府県制を継続するなら、埼玉県もしくは神奈川県(これは足柄県にでも名称変更必要ですね)に統合、あるいは、両者に分割。千葉県の残部は千葉県として存続。
(野田市、関宿町は、まあ、ご随意に、という感じですが、すみません。)
という感じです。
[14722] 2003年 5月 5日(月)20:32:14ありがたき さん
華のお江戸は八百八町(by平次)
[14611]special-weekさん

ところで江戸の範囲ってどこまでだろう?

江戸は拡大し続けた街(町)なので、時期や見方で異なるんでしょうが、例えば「御府内」という江戸の「市街地」の範囲とされる言葉がありますね。
化政文化の真っ只中のお話で、文化元年(1804年)の幕府の定義では、江戸城を中心に四里四方の範囲とされていたそうです。
その後、文政元年(1818年)に目付牧野助左衛門から出された「御府内外境筋之儀」をうけて幕府が地図上に引いた「朱線」で正式に府内外を区別したそうです。おおよその範囲は、南から時計回りに目黒川、神田上水、荒川・石神井川下流、中川で、囲まれた域だそうで。
また「墨引」で町奉行支配の範囲も示され、町奉行・勘定奉行・寺社奉行の「行政上」の区分けがされたとのことです。

ここの皆さんの中にも読んだ方も多いんではないでしょうか、日本実業出版社の「東京の地名のわかる事典」という本で上記のお話に地図入り解説があります。ご参考までに
[14798] 2003年 5月 6日(火)21:52:53【1】Issie さん
本郷もかねやすまでは江戸のうち
[14611] special-week さん
[14722] ありがたき さん

「江戸の範囲」については,タイトルのような有名な川柳があります。
「かねやす」というのは当時有名な商店の名前で,1986年当時も化粧品・小間物屋として営業中だったそうです(平凡社『アトラス東京 -地図でよむ江戸~東京』,1986年)。だいたい,現在の本郷3丁目交差点のあたりですね。
一般的な認識としては,中山道口の「かねやす」に加えて,甲州街道口の「四谷大木戸」(現四谷4丁目交差点),奥州街道口の「小塚原」(骨ヶ原;現大関横町交差点=地下鉄三ノ輪駅付近),東海道口の「高輪大木戸」(札の辻=現三田3丁目)あたりが「江戸の極まり」というところだったのではないでしょうか。

江戸時代の行政機構というのは,近代以降の行政システムとは根本的な部分から違う原理で営まれていたので,現代の「東京都」なり「23区」なりと同じ感覚で「江戸の範囲」を規定することはできません。
さしあたり,江戸の「町人町」の区域は「(江戸)町奉行」の管轄,郊外の農村部は「勘定奉行」の管轄,という区分があるわけですが,このあたりの線引きは必ずしも体系的ではない。場合に応じて,かなりの異同があったようです。
「江戸」の市街地内でも,お寺や神社の境内は「寺社奉行」の管轄であり,旗本・御家人屋敷は「目付」の支配,大名屋敷は大名自身を介して「大目付」の管轄,というわけで,一体的・一円的な行政が行われていたわけではありません。
「町」というのは本来,町奉行支配下の町人町の区域での「自治」単位の呼称でした(だから,町人町ではなかった武家屋敷地区には「町名」がなかったのです)。
そのようなわけで,「江戸の範囲」というのは時により場合により,さまざまに変動するものでした。

…といっても,それではあまりに不便なので,江戸時代後期になると「江戸の範囲」をある程度確定しておこう,という動きが生じます。
そうして指定されたのが [14722] で ありがたき さんが紹介されている「朱引き内」であり,「墨引」という線でした。
1989年に東京都が発行した「江戸復元図」によれば,1869(明治2)年の「朱引き線」は,以下の点を通過しています(*印は現在の地名)。

芝札の辻~麻布三之橋~麻布仙台坂~*日赤病院下交差点~*青山学院大学キャンパス~*青山通り~*外苑前交差点~*神宮外苑西縁~*新宿御苑東縁~*市谷富久町交差点~*靖国通り~*市谷住吉町交差点~*地下鉄若松河田駅~*大久保通り~*牛込若松町交差点~*地下鉄早稲田駅~*都立新宿山吹高校~江戸川橋~護国寺外縁~*不忍通り~*千石2丁目バス停~*白山下交差点~*白山1丁目交差点~*日本医大病院南縁~*藪下通り~*団子坂上交差点~*谷中小学校角~*日暮里駅~*下谷柳通り交差点~*千束1丁目交差点~*西浅草3丁目交差点~*浅草馬道交差点~*東浅草1丁目交差点~山谷堀~吾妻橋~北十間川~横十間川~小名木川~大横川~仙台堀川~富岡八幡宮外縁~永代橋

…というわけで,品川宿や内藤新宿(新宿)はもちろん,巣鴨や駒込,新吉原(千束)や洲崎(東陽町)の遊郭や岡場所までもが「江戸の外」なのですね。佃島や石川島も「朱引き」の外なのですが,ここは別扱いだったのでしょう。

江戸,というよりも「東京」の範囲がある程度確定するのは明治維新後,「大区・小区制」を経て1878(明治11)年の郡区町村編制法で「東京15区」の範囲が定められてからのことです。
このときの「15区」の外縁は,1889(明治22)年の「市制・町村制」施行による「東京市」の外縁よりもかなりの凹凸のあるものでした(「15区」の外縁は概ね“朱引き線”よりも外側を通過しています)。
たとえば,市制施行後の「東京市深川区」は横十間川をもって南葛飾郡下の亀戸・大島・砂各村に境することになるのですが,それ以前の「深川区」は竪川や小名木川に沿って東へ延びる区域がある一方,横十間川の西側にも「南葛飾郡」に属する村が存在していました。
下谷の根岸や谷中,牛込と早稲田,青山と渋谷の境界や麻布の外縁についてもかなりの出入りがありました。
したがって,「東京市」の各区を編成するにあたって,旧15区の範囲がそのまま継承されたわけではなく,“郡部”に属していた村々の一部が「東京市○○区」に編入される一方で,「東京市」の範囲からはみ出た「旧○○区」の一部は反対に周辺の郡部各町村に編入されています。

そのような意味では,「東京」の範囲が明確に固定化したのは,ようやく1889年の市制施行時点ということになるのかもしれません。
[14804] 2003年 5月 6日(火)22:30:32ありがたき さん
情報も 相互に動いて 役に立つ
[14797]まがみさん

市・町関連条例の要約ありがとうございます。便利な記事検索もありますが、こういうお気遣いもまた大変に助かります。

[14798]Issieさん

江戸関連のフォローありがとうございます。
江戸末期~旧朱引内50区(番組)・郷村部6区~大区・小区制(11大区・103小区)~東京市制移行(15区・周辺6郡)~周辺郡部東京市編入(35区)~都制・22区再編~23区(練馬区分区)
の流れはたいへん複雑ですが、興味深いですよね。また機会あればつまんでお話展開したいですね
[33164] 2004年 9月 21日(火)02:26:46ryo さん
お~江~戸っ!(古っ!)
[33148]太白 さん
地図は「西が上」

西が上というのはその方向に天皇の在する京があるという意識のあらわれなのでしょうか?本当は日光の方角(=北)に向けたいと思っていたが、さすがにおそれおおくて・・・私の勝手な想像です。
ちなみに鳥瞰図で書かれた江戸図絵では、西向きに書くことで御城のバックに富士山を描けるなんてメリットがあると聞いたこともあります。

「江戸」の範囲

古い書き込みの引用になりますが、[14798]Issie さん [14722]ありがたき さん あたりが述べておられます。

簡潔にまとめると、江戸の範囲に関して「朱引内」という用語があります。ソース
それまで行政系統(町奉行・寺社奉行など)で解釈がまちまちだったのですが、文政期(1818)に公式見解を定めました。その地図で、朱線で引いた内側を「江戸」と定めたことに由来します。
なお、その地図には墨引の黒線で町奉行の管轄地域も示されています。おおかた朱引より少し狭い範囲ですが、何故か目黒付近で朱引をはみ出しているのが目を引きます。
それにしても、役所のタテ割り行政は今も昔も変わらないようで・・・

話は少し変わりますが、新宿の語源である「内藤新宿」とは、信州高遠藩(絵島事件とコヒガンザクラで有名な)の内藤家の屋敷(現新宿御苑)の一部を用地として開設された、まさに「新」宿であることはここに来る皆様なら常識だと思います。私も知っていました。
しかし、ここは一度廃止された歴史があることまでは知りませんでした。1718(享保3)に民間の要請で開設されたのですが、20年ほどで廃止され、1772年(明和9)に再開されるまで約50年の空白があったとのこと。理由は風紀が大いに乱れたからとのことで、歌舞伎町の源流ここに見る気がします。もっとも、新宿の地名は西遷し、「淀橋」(ヨドバシカメラのヨドバシです)を呑み込んでしまっているので場所は離れていますが。
ソース
[33199] 2004年 9月 21日(火)22:51:03【2】hmt さん
Re:江戸時代の地図を読む
[33148]太白さん
この地図が表現する「江戸」の範囲
[33164] ryoさんが「朱引内」のソースとしてリンクされた東京都公文書館のHPには 江戸朱引図 があります。この図には 朱引線(御府内外境)と 町奉行支配境墨筋 とが記載されています。
この「墨引」範囲をたどってみると、東は猿江村のあたり [都営新宿線住吉駅付近] が張り出しているが、その他はほぼ大横川 [三ツ目通りの東の運河] の線です。北は駒込村、西は柏木村・千駄ヶ谷村までが墨引内。そして南は 下高輪町と北品川村の間に墨筋が引かれています。
太白さんの記述はこの「墨引」範囲を指しているようです。

リンク画像は「文政元寅年八月に江戸の範囲確定を評定所で評議し、十二月に老中決済を受けた」という趣旨のことが書いてある右端が切れているのですが、それでも「別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得」という勘定奉行の公式見解を読み取ることができます。

江戸東京博物館の図録「大江戸八百八町」に収録されている「旧江戸朱引内図」(上記リンク画像と同じ)から、朱引の内側に記入されている村の名を読みとってみました。
南品川町、下大崎村、上大崎村、白金村、中豊沢村、上豊沢村、上渋谷村、隠田村、代々木村、角筈村、鳴子宿、戸塚村、上落合村、長崎村、上板橋村、下板橋村、瀧川村、堀ノ内村、上尾久村、下尾久村、町屋村、三河島村、小塚原町、千住町組中川町、木下村、木下川村、葛西川村、亀戸村、小名木村、萩・又兵衛新田、中里新田村、八郎衛門新田、太郎兵衛新田

ryoさんもご指摘になっていますが、朱引の外にある中目黒村と下目黒村だけが町奉行支配の「墨引内」として突出しています。

ところで、[14798] Issieさんが紹介された
1989年に東京都が発行した「江戸復元図」によれば,1869(明治2)年の「朱引き線」は,以下の点を通過しています
の範囲は、文政元年の朱引の範囲より明らかに縮小されています。「御一新」による見直しがあったのでしょうか?

西が上になります。この描き方は、江戸時代の江戸の地図に共通しています。
上記の江戸朱引図は、東が上になっていますね。
もっとも、同じく東京都公文書館の「江戸府内朱引図」 (乾と坤)は、西が上です。こちらは墨引線がありません。
江戸切絵図は、御城の方角が上になっているものが多いように思いますが、そうでない図もあります。

石川島に人足寄場が設置された18世紀末
鬼平で知られる長谷川平蔵宣以が、1790年に開設した石川島の人足寄場は、技術習得、精神教育、資金提供を通じて収容者の社会復帰を図る施設でした。

新大橋は歴史がある
両国橋の「大橋」に対して「新大橋」と命名されたのですが、それが元禄6年(1693)のことですから、隅田川でも古参ですね。
1912年にカーネギー社の鉄材を使った橋が、木橋時代よりもやや上流の現在位置に架けられました。間もなく市電も開通。
1923年の関東大震災の折に避難の道として多数の人命を救ったこの橋も、1977年に現在の斜張橋に架けかえられ、旧橋の一部は、博物館明治村に保存されています。

溜池は池だった
溜池は江戸時代が始まって間もない1606年に浅野幸長が江戸城外堀として築造したとも伝えられますが、もともと四谷方面から流れていた川の水が自然に滞留する沼地だったのでしょう。
自然のままでは汐が逆流する可能性もあったことから、堰を造って溜池とし、上水の確保にも利用しました。ダムから勢いよく溢れ出る水が流れる下流は汐留川と呼ばれるようになり、汐留は現在は かつて河口があった付近の地名になっています。
明治8年(1875)の東京第二大区小区分絵図ではしっかり水を湛えた池が描かれています。池の下手にある工学寮が1877年に工部大学校に改称されたのですから、工部大学校を建設するために溜池が埋め立てられたわけではありません。

余談ですが、工部大学校址碑は会計検査院の横にあります。その敷地は、ここから文部科学省、霞が関ビル、更には現在の外堀通りの向う側に及んでいた日向延岡藩内藤家の上屋敷跡です。溜池から外堀に落ちた水は延岡藩邸に沿って左折し、虎の御門の前で右折し新橋に向いました。商船三井ビルと虎の門三井ビルのL字形配列は、この左折した外堀の跡です。現在の道路は鍵の手を避けて特許庁前(溜池の跡)から虎ノ門交差点へとカーブしているので、千代田区霞が関三丁目の一部が外堀通りの右側(港区側)に取り残されています。(実は、ここにかつてhmtの職場があったのです。)

それはさておき、
人文社の「明治の東京」(1996)p.60には、明治10年に堰の石を60cmほど除いたら、あれよあれよという間に干上がって、池が小川になってしまったと記されています。
というわけで、明治16年参謀本部測量の5千分一図ではここは湿地になっています。明治20年に埋め立てられました。
昭和になってからここに地下鉄が通りましたが、やはり溜池の跡は地盤が悪かったようで、営団は溜池山王駅開設の前に、地下構造物を造り直す大規模改良工事を行なったようです。

弁天島は陸続き…東側からの参道…19世紀の時点ですでに「池中参道」があったようにうかがえます。
[32193]hmtでリンクした不忍池の最後の項目には「寛文の末(1670)に陸道が築かれ、木橋が架けられ」と記されています。
 ア! [33170]KMKZさんが既にレスしておられましたね。
東側からの参道は17世紀から存在したのですが、架橋なので陸続きではないと考えています。
[32231]は西側からの長い「池中参道」についての疑惑に答えたものですが、短い東側についても同様である旨、言葉を添えておくべきだったかもしれません。
[56611] 2007年 2月 3日(土)19:39:34hmt さん
江戸の市街地図(2)江戸・明治・現代比較図、復元江戸情報図
[56540] 敷守ほむら さん
Yahoo!地図情報 - 古地図で東京めぐり
[56563] アルバトロス さん
この手のものは好きですね、はまります。期間限定といわづずっと続けてほしいものです。

実は、30年前から 「はまって」 いるのです。
1977年、平凡社から「太陽コレクション・地図・江戸明治現代」の第1号として「江戸・東海道」が刊行されました。
# 本稿を書くにあたり参照しようとしたのですが、手元に見当たりません。
江戸の切絵図のいくつかの地点について、明治の東京地図、現代の地図と並べて示し、対比するというもので、今回ネット上で行なわれている企画の直接の先祖でしょう。
幕末の江戸切絵図が、あまりにも大幅なデフォルメがなされており、明治や現代の地図と重ね合わせるのは無理があることは、この時に認識しました。

1977年の時は江戸府内のいくつかの地点を取り上げただけでしたが、その後、点から面へと進み、「江戸東京大地図、地図にみる江戸東京の今昔」(平凡社1993年)では、およそ明治16~17年陸軍測量局測量・東京五千分一図の全域にわたり、江戸切絵図(尾張屋板)・明治測量図・現在の地図・航空写真の並置が試みられています。新宿・渋谷など五千分一区域外は、明治42年一万分一により補足。

1994年になると、江戸図の世界に新たな動きがありました。
グラフックデザイナーの中川惠司氏が、江戸史研究者の吉原健一郎・俵元昭両氏の参画を得て安政3年(1856)の江戸を復元した地図を発表したのです。「復元・江戸情報地図」(朝日新聞社1994年)

幸いにも平和裏に行なわれた江戸開城により、江戸の町は大規模な改変を免れて、武家屋敷の地割りと旧政権の文書は概ね明治の東京に引き継がれました。幕末文書に収められた武家屋敷の面積情報、居住者情報などを、近代測量技術による明治の地形図の位置情報と組み合わせることで、幕末の江戸市街図を再現することができました。
基本資料として使われたのは、「諸向地面取調書」というリスト、前記の「御府内往還其外沿革図書」「御府内場末往還其外沿革図書」という図面その他です。参考文献リスト

1994年の「復元・江戸情報地図」は、36面のグリッド分割地図で、主として尾張屋板切絵図の表現法を使っています。色分けでは公儀用地の紫を追加、大名の家紋なども同じように付いています。範囲はおおよそ朱引き内。現代の東京地図を単色で重ねることにより、位置を対比しています。

2001年にエーピーピー・カンパニーによって製作されたCD-ROM「江戸東京重ね地図」では、この江戸地図と東京地図とが、重ね合わせたレイヤによって連続的に移行 できるようになりました。シームレスな地図をスクロールにより移動できることと共に、デジタル時代の地図の便利さに感心したものです。

更に2004年には、明治40年(1907)の東京地図が加わった「江戸明治東京重ね地図」がDVD-ROMで市販されています。
商品一覧紹介記事

市販品のことはさておき、せっかくなので無料のYahoo! 古地図を拝見。
今回、Yahoo!が公開している「古地図」は、上記のように、20世紀の末頃に復元された江戸図というわけです。
新旧の対比が「重ね地図」方式でなくて並置切り替え方式であること、江戸・明治・現代に加えて航空写真を含めていることは、1993年の「江戸東京大地図」(平凡社)に近いものと言えるでしょうか。

辛うじて朱引き内ですが、西のはずれに近い新宿。
明治の新宿駅を見ると、青梅街道に面した専売局工場の隣に「甲武線電車乗降場」あります。甲州街道口と青梅街道口との“二つあった新宿駅”の双方に電車が停車した時代です[36207]
所在地の「字渡辺土手際」を江戸時代に遡ると、「火消役・渡辺図書助」。五千石ですが、甲州街道に面した大きな旗本屋敷です。その甲州街道には玉川上水が流れ、天竜寺の横から千駄ヶ谷・原宿[48334] [48626]への分水。
内藤新宿の追分から北に目を転じると、「三光院」とあるのが現在の花園神社。三光町の名の由来ですね[44124]。その北側を流れているのが蟹川で、明治に切り替えると「字新田裏」[44006] と書いてあります。

新宿近辺の歴史に関する記事は、アーカイブズ新宿・角筈散歩[48626]の中でリンクした「角筈・三光町・新田裏」にありますが、このような江戸・明治の地図を参照しながら見ると、一段と興味深いことと思われます。

所は変って「ソメイヨシノ」にその名を残す江戸の園芸センター・染井[27015]
無料のYahoo!古地図は花見の季節が到来する前に終了しそうですが、豊島区駒込6丁目に現存する西福寺付近の藤堂屋敷門前から西にかけて並んだ11軒の植木屋を、江戸の地図で確認することができます。
1994年の本では“此辺染井植木屋多し”と書いてあるだけでしたが、その後他の資料により書き入れたのでしょう。
明治の地図では「字染井」や藤堂邸はあるが、植木屋は消えています。
[62550] 2007年 11月 17日(土)17:12:15【1】hmt さん
夏目漱石誕生の地・明治の朱引
本題の「都道府県スレッド」 からは脇道に入りますが、夏目家への復籍届を紹介したついでに、漱石誕生の地付近の地理を少々。

漱石の本名は夏目金之助。明治になる前年・慶応三年正月5日(1867/2/9)に江戸牛込馬場下横町の名主・夏目小兵衛直克の5男として誕生しました。現在の新宿区喜久井町[24294]。東西線早稲田駅から若松町方面へ登る「夏目坂」[62372]の坂下です。

私の家の定紋が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものから教わったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。…
父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。(硝子戸の中23)

誕生の地・喜久井町1番地は、現代の地図 の中央やや左、そこから南東に続く道が夏目坂です。

「馬場下」という地名は、江戸時代に穴八幡神社(地図の北西端)横の坂を北西に登った先にあった「高田馬場」に由来します。
もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内か朱引外か分らない辺鄙な隅の方にあったに違ないのである。
坂を下り切った所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。…堀部安兵衛が高田の馬場で敵を打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒を飲んで行ったという履歴のある家柄であった。(硝子戸の中19)

朱引内・朱引外という言葉が出てきたので、「朱引・墨引」に関する記事 をリンクしておきます。
江戸の拡大に伴ない、「御府内」の範囲の解釈がまちまちになり、幕府は統一見解を示すことになりました。その結果が文政元年(1818)の朱引図(札懸場境筋並に寺社方勧化場境筋)で、同じ図に墨引で示された町奉行所支配の範囲(突出した目黒付近は例外)よりもだいぶ広くなっています。
【追記】
[33199]でリンクしておいた東京都公文書館のHPにあった「江戸朱引図」のURL切れに気がつきました。
次のページの末尾にあります。江戸の範囲~天下の大江戸、八百八町というけれど

ところで、この絵図は 東が上 になっていることにご注意ください。
江戸や明治時代の東京の地図が、一般的に 西が上 になっているのに対して、極めて例外的です。
下町から御城の大手側を仰ぎ見る形の市街絵図と、東側の大手門を上に据えた為政者の絵図という 立場の違い の反映でしょうか。【追記終】

江戸図で調べてみると、穴八幡の下を東西に墨引線が見えますが、文政の朱引線はずっと西の戸塚村、上落合村に引かれています。漱石が「硝子戸の中」で“朱引内か朱引外か分らない辺鄙な隅の方”と書いたのは間違いか?

ところが、明治になると江戸は一時的に衰退し、市街地の範囲が縮小されました。
「江戸東京学事典」(三省堂1987)345頁には、明治2年(1869)に維新政府が市街地を朱引内、郷村地を朱引外とし、朱引内は田畑を禁じ、朱引外の住民を朱引内に移転させて「市在の境界」を設けようとしたとあります。
この明治の朱引は、東は本所扇橋川筋、西は麻布・赤坂・四谷・市谷・牛込、南は品川との境から高輪町裏通り・白金台町二丁目・麻布本村町通り・青山、北は小石川伝通院・池ノ端・上野・浅草寺・橋場町を結ぶ線の内部となっています。
[14798]でIssieさんが紹介された“1869(明治2)年の朱引き線” とは、これだったのですね。

朱引と言えば江戸府内の境界を示すものと思っていましたが、東京になってからも存在していたことに驚きました。
しかも、ずっと縮小された範囲に 引き直されている!

更に「明治の東京」(人文社1996)17頁には、明治6~7年に東京府を朱引内外に分け、朱引内を第一~第六大区に、朱引外を第七~第十一大区に区分したとあります。
というわけで、改めて明治初年の地図を眺めてみると、明治8年 「東京四大区小区分絵図」の11小区の西側(第八大区四小区)に「朱引外」の字がありました。現在の新宿区山吹町。新宿山吹高校の北半分です。

なるほど、漱石が“朱引内か朱引外か分らない辺鄙な隅の方”と書いたのは、“江戸絵図”ではなく、(現在の早大通りと早稲田通りの間あたりにあったらしい)「明治の朱引」に基づく判断だったのでした。

Mapionの右下の緑色(早稲田南町7番地)。ここには、明治40年9月に本郷区西片町10番地から転居した「漱石山房」がありました。この転居前の4月に教職を辞して、京橋区滝山町(現在の銀座六丁目)の東京朝日新聞社[35106]に入社し、「虞美人草」を発表していますが、転居後の10年間に「三四郎」・「門」・「心」・「道草」などを書き続けた場所です。
大正5年「明暗」の執筆中に胃潰瘍により没しました。享年50歳。この漱石終焉の地は、現在新宿区立漱石公園になっています。


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