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江東区

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[75130] 2010年 5月 17日(月)18:38:13hmt さん
江東区北端の「くさび形」
[75128] JOUTOU さん
わたしの住む東京都江東区において、北は亀戸3丁目(北十間川と横十間川の交点)すぐ近くの歩道橋が、スカイツリーの撮影スポットになってます。

墨田区の中に江東区が「くさび形」に入り込んでいる場所ですね。城東区だった戦前から私にとり気になっていた形です。
この機会に、江戸明治東京重ね地図[56611]で、この柳島橋付近を探ってみました。

明治の地図では東京府南葛飾郡亀戸町大字柳島。横十間川の西は本所区柳島元町。北十間川の北は南葛飾郡吾嬬村。
このことから、鋭角に交わる2つの水路が明治の区町村の境界になり、もともと柳島の一部だった問題の「くさび形」の地域が、亀戸町の一部に編入された結果生じたものと推測されます。

重ね地図で江戸時代を見ると、「くさび形」の先端は、越後村松藩堀丹波守直央の下屋敷です。
その少し南に津軽藩抱屋敷、亀戸天神。この亀戸天神門前に墨筋があり、この部分だけ町奉行支配地が突出していました。
なお、朱引 の東端は中川です。

堀丹波守という名から思い出したが[72155]です。
防寒室内着の「丹前」は、堀丹後守屋敷前にあった遊女風呂から流行したファッション

官職名が少し違います。江戸時代後期の越後村松藩主は丹波守でしたが、前期には丹後守も多かったので、堀様の上屋敷(黄金餅に登場する下谷広小路)が丹前風呂に由来になったのは、昔の話なのでしょう。
こちらは江東区北端にあった下屋敷とは別の場所なので、完全に脱線。
[75307] 2010年 6月 6日(日)21:43:57hmt さん
東京臨海部の陸地化 (1)水に囲まれた江東区
少し前になりますが、JOUTOU さんが紹介された江東区北端[75128]である柳島橋付近に関する記事[75130]を書きました。
ここは、北十間川と横十間川との交点で、江東区が「くさび形」に墨田区の中に入り込んでいる場所です。
江東区HPの中に 江東区の地理と地名 という町名を図示したページがあり、この「くさび形」がよく示されています。
今回は、最初に この江東区町名図をリンクしておきます。

この図を見て最も目を引くのは、江東区は、その南半分が、運河で隔てられた多くの埋立地で構成されていることです。
昭和22年に江東区が誕生した時点の南限は、豊洲(豊洲ふ頭を除く)・枝川・潮見の線であり、その面積は 18.42km2でした。
現在の面積は、その2倍以上の 39.94km2となっており、約60年間に 20km2以上の埋立地が加わったことになります。

実は、この地域における臨海部の陸地化は、江戸時代から続けられており、現在の江東区の殆どが近世以降に海上に現れた土地と言ってよいくらいです。

もちろん、東京湾の埋立地は江東区特有のものではなく、東京都の臨海6区、更には千葉県と神奈川県にも及んでいます。
国土庁大都市圏整備局によると、東京湾全体の埋立面積は 1990年現在で 約250km2、うち東京都は、江戸時代の埋立が 27km2、明治以降が 60km2だそうです(東京湾-人と水のふれあいをめざして 1993)。

京浜工業地帯[49270]では大正時代から盛んに埋立地が作られ、戦後は千葉県の東京湾岸で大規模な埋立地造成が行なわれ、工業用地・流通業用地・住宅地・遊園地など多彩な目的に役立っています。
統計局の長期統計 で 1950年と 2000年の面積を比較したところ、東京都は 49.64km2増加、神奈川県は 54.28km2増加、千葉県は 124.03 km2増加でした。

境界変更や面積測定基準の変更もあるので、上記の計算値が直接に埋立面積を示しているわけではありませんが、戦後の埋立の規模を知る参考になると思います。比較までに、海なし県の埼玉県の値は、同じ期間に 10.79km2減少でした。

明治以来の市区町村単位で考えた場合、比率では 浦安[25784]に負けるのですが,戦後だけでも 20km2以上という 埋立地面積の絶対値では 浦安をはるかにしのぎ、近世以降の累計で考えれば 約40 km2の大部分が埋立地というは、やはり特筆に値する江東区です。
# 東京湾に限らなければ、全部が干拓地という秋田県大潟村 170km2があります[37037][37058]

まず江東区を題材にして、東京臨海部の陸地化を見て行きたいと思います。

リンクした江東区町名図をご覧ください。西に隅田川、北東に旧中川と記され、その南に「荒川」とあります。
荒川の部分は、1910年の大水害を契機として掘削された「荒川放水路」(幅500m、長さ22km、1965年に荒川と改称)の河口部で、昔は中川の河口部でした。
つまり、東京低地を形成した利根川の3本の流れのうち、中川から隅田川の東岸までの間の河口部が江東区です。

大きな2つの川に囲まれた「隅田川の東」=「江東」区ですが、区内にも 縦横に掘割が通じています。
すなわち、「くさび形」の江東区北端から南に向かって真っ直ぐ引かれた線、この江東区を東西に二分する線が「横十間川」です。その西の線は「大横川」。

これと交差する東西方向の掘割も何本かあります。その中で最も明瞭なのは、常磐・高橋・森下・猿江・大島(おおじま)と、清澄・白河・・北砂・東砂との間にある横線の「小名木川」です。
その南側で、清澄・平野・千石と佐賀…東陽との間が「仙台堀川」。
小名木川の北で亀戸と大島との間の横線は、西に伸びて墨田区両国の南で隅田川に出る「竪川」です。現在は首都高速7号小松川線が上空を走っています。

竪川・横十間川・大横川の名は、北を上に描く地図に慣れた現代人にとっては、たて横逆転と感じますが[29720]、江戸の地図は、御城のある西を上に描くのが標準的[33199][33296]だったのでした。
# 墨田区内の竪川沿いにある町名「たてかわ」は、1967年に表記が竪川から立川に変りました。
[75315] 2010年 6月 7日(月)16:54:30hmt さん
東京臨海部の陸地化 (2)江戸時代の江東
東京湾臨海部に たくさんある埋立地。代表選手の江東区から始め、区内を「縦横」に走る掘割にも触れました[75307]
東西方向が縦なのか横なのかはさておき、歴史的に最も重要なである「小名木川」について記しておきます。

ここで 江戸初期の推定図 をリンクします。
利根川下流が分れて海に注いでおり、大きな流れは西から隅田川【角田川】・中川【古利根川】・(現)江戸川【利根川】の3本で、現在の江東区北部は図の左下あたりです。

徳川家康は 1590年の江戸入府直後に、江戸城と隅田川とを結ぶ道三堀を開き、引き続き隅田川の東、中川との間に小名木川を開削させました。
この水路は、江戸と塩の産地・行徳(図の右下)との間を結ぶもので、幅20間余(36m)、深さ6尺の規模。小名木川開削の浚渫発生土により作られた堤防は、水路の北側に広がる地域(現在の江東区北部と墨田区の一部)を海から守る防波堤として機能しました。
つまり、小名木川開削は、当時の利根川河口域における最初の本格的土地造成事業でもありました。

江戸初期の推定図では、左下の海岸線付近に小名木川があります。
前回リンクした現代の 江東区町名図 における小名木川の位置が、区役所より北にある「海辺」より更に北、扇橋と猿江の間だったのですから、400年間の水陸境界の移動は驚くべきものがあります。

小名木川により海と仕切られるより前の半陸地状態の江東区北部地域は、江戸川河口洲 「沖の百万坪」[25826] のような姿だったと想像します。

新編武蔵風土記稿によると、深川の開発は、慶長元年(1596)に摂津の人・深川八郎右衛門に始まるとか。
寛永6年(1629)には同じく摂津出身の8人により、現在の清洲橋から門前仲町付近が埋め立てられて深川猟師町8町ができました。彼らは江戸前の魚を幕府に献上したり、舟に関する役務を負担する代わりに、年貢免除の特権を得ました。

さて、江戸の都市構造を一変させたのが明暦の大火(1657)です。江戸を復興して防災都市に作り替える過程で使われたのが、北条氏長(正房)による「万治年間江戸測量図」(2600分の1)でした[56610]
それまで防衛上の見地から架橋を許さなかった隅田川にも両国橋が架けられ(万治元年=1658)、隅田川を越えた本所や深川の開発が進められました。
[75307]で記した竪川・横川などの人工河川も、低湿地の排水と交通のために、万治2年から整備が進められたものです。

両国橋。葛飾郡の南西部は江戸時代初期から武蔵国になっており、武蔵下総両国の境界ではなかったが、地名としての「両国」が伝えられており、橋の名になったものと思います。というか、隅田川の橋が一つだった時代には、「大橋」で通用したのでしょう。
だから元禄6年(1693)にできた2番目の橋は「新大橋」。この近くの居住者が詠んだ一句です。【深川芭蕉庵】
ありがたや いただいてふむ 橋の雪

そして、3番目の永代橋(元禄11年)で、深川は江戸の中心部と直結し、急速に発展しました。
元禄15年の師走に 本所一つ目の吉良屋敷に討ち入りした 赤穂浪士は、警戒の厳しい両国橋を避けて 永代橋を渡り、泉岳寺に向かったと伝えられます。
吉良の屋敷が 呉服橋門内から 本所に移されていたのは、高家職辞任に伴い 江戸城内の社宅を追い出されたためでしょうが、この時代の本所には、既に多くの大名・旗本が屋敷を構えていたことを物語っています。

明暦大火後の市街地再編成で、陸地化が進行すると共に江戸の倉庫地帯になった深川。
正保図ではまだ海だった富岡八幡宮も、貞享5年(1688)には社殿建立。門前仲町は、富岡八幡の別当寺である永代寺の門前に由来する町名です。富岡八幡の祭礼は大変な賑わいで、文化4年(1807)には見物の群衆が集まった永代橋が落下する事故がありました。
# 2001年の明石花火大会歩道橋事故の時に、これを思い出しました。
[75329] 2010年 6月 10日(木)15:19:43hmt さん
東京臨海部の陸地化 (3)越中島・平井新田・洲崎・東陽町
最初に[75315]の誤記を訂正。2行目の“重要な掘割である「小名木川」”の掘割脱落に加えて、新大橋開通後の芭蕉の句の漢字違い。「霜」を「雪」と書いていましたが、「雪」は橋が完成する前の句でした。
【完成前】 初雪や かけかかりたる 橋の上
【完成後】 ありがたや いただいて踏む はしの霜

蛇足ですが、ゴッホが模写した浮世絵の一つ、歌川広重が幕末に描いた名所江戸百景 大はしあたけの夕立 の「大はし」は 新大橋です。「あたけ」は深川側の地名で、幕府御舟蔵に置かれていた御座船の名に由来するとか。
なお、木橋時代の新大橋は、現在の斜張橋(1977)や 明治村 に一部保存されている 1912年の鉄橋[33199]よりも、少し下流に架けられていました。

それはさておき
江戸時代から明治にかけて(およそ17~19世紀)の埋立により、江東の陸地は小名木川から約2km南まで拡大しました。

深川が、明暦大火後の江戸再編成で開発が進んだことは、[75315]で記しました。

永代橋よりも南の越中島につき、江東区の地名由来 には、
隅田川河口にできた寄り洲だった。播州姫路の領主榊原越中守の別邸があったので、俗に越中島と呼ばれた。
と記しています。
江戸東京学事典には“明暦・万治の頃”とあるので、榊原康政の孫の榊原忠次ということになりますが、この殿様は越中守に任官していません。越中守は通称なんでしょうか?
波による屋敷の流失を繰り返しながらも砂洲は次第に成長していったようです。
明治になると、越中島には練兵場や商船学校ができました。

ここで「越中島駅」につき記しておきます。
戦前にに国鉄は亀戸(正式には新小岩)からの貨物線を作り、1929年小名木川駅開業。戦後になると、ここから 晴海や豊洲ふ頭への臨港鉄道(専用線)が 東京都により建設されましたが、越中島駅までの区間は 1958年に国鉄に編入されました。
この駅の所在地なんですが、戦後にできた この駅のための埋立地 です。
上記のような江戸時代からの歴史のある土地ではないのに、越中島のネームバリューを借りたのでしょうか。
1990年に JR京葉線が東京駅に乗り入れる際に、今度は本当の越中島に 地下旅客駅ができました。そして、こちらが「越中島駅」を名乗り、従来駅は「越中島貨物駅」と改名しました。

少し脱線しましたが、隅田川の永代島・越中島、中川の宝六島のような河口のデルタがもとになり、陸化の進行と共に倉庫・問屋・木場・大名屋敷・社寺・その門前の歓楽街などが江東地区に生まれました。

[75307]で引用した 江東区町名図 でいうと、扇橋から千石にかけての5町は主として享保年間の造成地で、「十万坪」と呼ばれたとか。仙台堀川の南は現在の東陽6・7丁目が「六万坪」、西側の木場2~5丁目が「十五万坪」という具合で、「○万」コレクションは江戸時代から始まっていたのでした。

江戸時代最後の大規模埋立は、明和年間(1764-1772)の「平井新田」で、海岸線はこれで ほぼ現在の永代通りの線になりました。
平井新田は 塩浜 として開発されたものの、間もなく廃止。明治の地図を見ると、深川東平井町(江東区役所を含む現在の東陽4丁目一帯)には養魚場が広がっており、陸地化したと言っても水面です。深川西平井町も東側は養魚池ですが、西側は陸地。そこに弁天社と東陽小学校があります。

名所江戸百景の 深川洲崎十万坪 に名を記す「洲崎」は、この平井新田のあたりです。

「洲崎橋」は交差点名として近年まで永代通りにあったと思いますが、現在は東陽3丁目。その南側の洲崎弁天町(現在の東陽1丁目)は、明治の埋立地でしょう。[66539]では大正時代と書いていましたが、これは間違いで、明治時代の海岸線は 現在の町名で言うと 東陽や木場の南縁、つまり汐浜運河の線まで進出しました。

明治の地図では 土手で囲まれた一角が見えます。城郭の「曲輪」にも例えられる この別世界に びっしり立ち並んだ施設 は遊郭です。一隅には病院も。深川洲崎警察署[24746]も、この施設の取締が目的でした。
根津遊郭が深川洲崎に移転したのは、明治20年代とのことです。洲崎橋から北にある「大門通り」という名も、最後には「赤線」という名で1958年まで存在したこの種の施設の痕跡を伝えています。

[66539]は初期のプロ野球が行われた洲崎球場のことも記しています。1937年修正測図の地形図 を見ると、満潮時にグラウンドに海水が入りコールドゲームになったという珍事があったことも納得します。

地形図の上端には錦糸堀・ 水神森からの城東電気軌道が見えます。3つある停留所の真ん中が四ツ目通りを南下してきた市電猿江線と合流する東陽公園前。現在の東西線東陽町駅です。左端の停留所が日本橋から永代橋を渡って来る東京市電の洲崎で、大正初期に開通した最も古い路線です。城東電車は昭和初めにここまで延長され、市電も東陽公園前まで乗り入れました。城東電車は戦時中に市電に統合。

明治の地図では養魚池だった東陽町近辺。本当の陸地になったのはずいぶん遅かったようですが、こんな具合にして、昭和初年には東京南東部における交通の要衝になっていました。小田急の創業者利光鶴松が計画した環状線[34571]の終点も「洲崎」だったし、東西線の前身とも言える東京成田芝山電気鉄道の起点も「東平井」でした。

その「洲崎」も「平井」も江東区の地名から消えました。
「玉ノ井」が東向島になったのと同じ理由で、「洲崎」は過去帳入りすることになったのでしょうか。
江東区役所も東京メトロ東陽町駅も、その所在地は江東区「東陽」4丁目になっています。
これは 1967年の統合・住居表示実施によるもの。
1964年以来部分開通を積み重ねて 1967年に「東陽町」以西が全通した営団東西線の駅名は、それ以前からの深川東陽町に基き「町」という字が入っており、現在までこの名で通しています。

江東区役所 は “東陽の地名には諸説があり定かでない” としていますが、「東陽小学校」に由来するという説が有力で、地名コレクション にも収録されています。この学校は、明治の地図では 深川西平井町(現在地よりも西)にありました。

明治時代の学校には、安易に番号や地名を付けるのでなく、漢語を使った個性的な名を多く見ることができます。
[62333]に記した雑感に現れた学校名。愛日・聚楽・待賢・教業・明倫・日彰・成祥・立誠・郁文・格致・成徳・豊園・開智・永松・醒泉・修徳・柳池・銅駝・鳴鶴・盛隆。地名の組合せですが、豊玉や三福もありました。そして忘れることができないのが「酒呑学校」。
「東陽」学校も、東から昇る朝日になぞらえた瑞祥名と思われます。


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