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東京臨海

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[75307] 2010年 6月 6日(日)21:43:57hmt さん
東京臨海部の陸地化 (1)水に囲まれた江東区
少し前になりますが、JOUTOU さんが紹介された江東区北端[75128]である柳島橋付近に関する記事[75130]を書きました。
ここは、北十間川と横十間川との交点で、江東区が「くさび形」に墨田区の中に入り込んでいる場所です。
江東区HPの中に 江東区の地理と地名 という町名を図示したページがあり、この「くさび形」がよく示されています。
今回は、最初に この江東区町名図をリンクしておきます。

この図を見て最も目を引くのは、江東区は、その南半分が、運河で隔てられた多くの埋立地で構成されていることです。
昭和22年に江東区が誕生した時点の南限は、豊洲(豊洲ふ頭を除く)・枝川・潮見の線であり、その面積は 18.42km2でした。
現在の面積は、その2倍以上の 39.94km2となっており、約60年間に 20km2以上の埋立地が加わったことになります。

実は、この地域における臨海部の陸地化は、江戸時代から続けられており、現在の江東区の殆どが近世以降に海上に現れた土地と言ってよいくらいです。

もちろん、東京湾の埋立地は江東区特有のものではなく、東京都の臨海6区、更には千葉県と神奈川県にも及んでいます。
国土庁大都市圏整備局によると、東京湾全体の埋立面積は 1990年現在で 約250km2、うち東京都は、江戸時代の埋立が 27km2、明治以降が 60km2だそうです(東京湾-人と水のふれあいをめざして 1993)。

京浜工業地帯[49270]では大正時代から盛んに埋立地が作られ、戦後は千葉県の東京湾岸で大規模な埋立地造成が行なわれ、工業用地・流通業用地・住宅地・遊園地など多彩な目的に役立っています。
統計局の長期統計 で 1950年と 2000年の面積を比較したところ、東京都は 49.64km2増加、神奈川県は 54.28km2増加、千葉県は 124.03 km2増加でした。

境界変更や面積測定基準の変更もあるので、上記の計算値が直接に埋立面積を示しているわけではありませんが、戦後の埋立の規模を知る参考になると思います。比較までに、海なし県の埼玉県の値は、同じ期間に 10.79km2減少でした。

明治以来の市区町村単位で考えた場合、比率では 浦安[25784]に負けるのですが,戦後だけでも 20km2以上という 埋立地面積の絶対値では 浦安をはるかにしのぎ、近世以降の累計で考えれば 約40 km2の大部分が埋立地というは、やはり特筆に値する江東区です。
# 東京湾に限らなければ、全部が干拓地という秋田県大潟村 170km2があります[37037][37058]

まず江東区を題材にして、東京臨海部の陸地化を見て行きたいと思います。

リンクした江東区町名図をご覧ください。西に隅田川、北東に旧中川と記され、その南に「荒川」とあります。
荒川の部分は、1910年の大水害を契機として掘削された「荒川放水路」(幅500m、長さ22km、1965年に荒川と改称)の河口部で、昔は中川の河口部でした。
つまり、東京低地を形成した利根川の3本の流れのうち、中川から隅田川の東岸までの間の河口部が江東区です。

大きな2つの川に囲まれた「隅田川の東」=「江東」区ですが、区内にも 縦横に掘割が通じています。
すなわち、「くさび形」の江東区北端から南に向かって真っ直ぐ引かれた線、この江東区を東西に二分する線が「横十間川」です。その西の線は「大横川」。

これと交差する東西方向の掘割も何本かあります。その中で最も明瞭なのは、常磐・高橋・森下・猿江・大島(おおじま)と、清澄・白河・・北砂・東砂との間にある横線の「小名木川」です。
その南側で、清澄・平野・千石と佐賀…東陽との間が「仙台堀川」。
小名木川の北で亀戸と大島との間の横線は、西に伸びて墨田区両国の南で隅田川に出る「竪川」です。現在は首都高速7号小松川線が上空を走っています。

竪川・横十間川・大横川の名は、北を上に描く地図に慣れた現代人にとっては、たて横逆転と感じますが[29720]、江戸の地図は、御城のある西を上に描くのが標準的[33199][33296]だったのでした。
# 墨田区内の竪川沿いにある町名「たてかわ」は、1967年に表記が竪川から立川に変りました。
[75315] 2010年 6月 7日(月)16:54:30hmt さん
東京臨海部の陸地化 (2)江戸時代の江東
東京湾臨海部に たくさんある埋立地。代表選手の江東区から始め、区内を「縦横」に走る掘割にも触れました[75307]
東西方向が縦なのか横なのかはさておき、歴史的に最も重要なである「小名木川」について記しておきます。

ここで 江戸初期の推定図 をリンクします。
利根川下流が分れて海に注いでおり、大きな流れは西から隅田川【角田川】・中川【古利根川】・(現)江戸川【利根川】の3本で、現在の江東区北部は図の左下あたりです。

徳川家康は 1590年の江戸入府直後に、江戸城と隅田川とを結ぶ道三堀を開き、引き続き隅田川の東、中川との間に小名木川を開削させました。
この水路は、江戸と塩の産地・行徳(図の右下)との間を結ぶもので、幅20間余(36m)、深さ6尺の規模。小名木川開削の浚渫発生土により作られた堤防は、水路の北側に広がる地域(現在の江東区北部と墨田区の一部)を海から守る防波堤として機能しました。
つまり、小名木川開削は、当時の利根川河口域における最初の本格的土地造成事業でもありました。

江戸初期の推定図では、左下の海岸線付近に小名木川があります。
前回リンクした現代の 江東区町名図 における小名木川の位置が、区役所より北にある「海辺」より更に北、扇橋と猿江の間だったのですから、400年間の水陸境界の移動は驚くべきものがあります。

小名木川により海と仕切られるより前の半陸地状態の江東区北部地域は、江戸川河口洲 「沖の百万坪」[25826] のような姿だったと想像します。

新編武蔵風土記稿によると、深川の開発は、慶長元年(1596)に摂津の人・深川八郎右衛門に始まるとか。
寛永6年(1629)には同じく摂津出身の8人により、現在の清洲橋から門前仲町付近が埋め立てられて深川猟師町8町ができました。彼らは江戸前の魚を幕府に献上したり、舟に関する役務を負担する代わりに、年貢免除の特権を得ました。

さて、江戸の都市構造を一変させたのが明暦の大火(1657)です。江戸を復興して防災都市に作り替える過程で使われたのが、北条氏長(正房)による「万治年間江戸測量図」(2600分の1)でした[56610]
それまで防衛上の見地から架橋を許さなかった隅田川にも両国橋が架けられ(万治元年=1658)、隅田川を越えた本所や深川の開発が進められました。
[75307]で記した竪川・横川などの人工河川も、低湿地の排水と交通のために、万治2年から整備が進められたものです。

両国橋。葛飾郡の南西部は江戸時代初期から武蔵国になっており、武蔵下総両国の境界ではなかったが、地名としての「両国」が伝えられており、橋の名になったものと思います。というか、隅田川の橋が一つだった時代には、「大橋」で通用したのでしょう。
だから元禄6年(1693)にできた2番目の橋は「新大橋」。この近くの居住者が詠んだ一句です。【深川芭蕉庵】
ありがたや いただいてふむ 橋の雪

そして、3番目の永代橋(元禄11年)で、深川は江戸の中心部と直結し、急速に発展しました。
元禄15年の師走に 本所一つ目の吉良屋敷に討ち入りした 赤穂浪士は、警戒の厳しい両国橋を避けて 永代橋を渡り、泉岳寺に向かったと伝えられます。
吉良の屋敷が 呉服橋門内から 本所に移されていたのは、高家職辞任に伴い 江戸城内の社宅を追い出されたためでしょうが、この時代の本所には、既に多くの大名・旗本が屋敷を構えていたことを物語っています。

明暦大火後の市街地再編成で、陸地化が進行すると共に江戸の倉庫地帯になった深川。
正保図ではまだ海だった富岡八幡宮も、貞享5年(1688)には社殿建立。門前仲町は、富岡八幡の別当寺である永代寺の門前に由来する町名です。富岡八幡の祭礼は大変な賑わいで、文化4年(1807)には見物の群衆が集まった永代橋が落下する事故がありました。
# 2001年の明石花火大会歩道橋事故の時に、これを思い出しました。
[75329] 2010年 6月 10日(木)15:19:43hmt さん
東京臨海部の陸地化 (3)越中島・平井新田・洲崎・東陽町
最初に[75315]の誤記を訂正。2行目の“重要な掘割である「小名木川」”の掘割脱落に加えて、新大橋開通後の芭蕉の句の漢字違い。「霜」を「雪」と書いていましたが、「雪」は橋が完成する前の句でした。
【完成前】 初雪や かけかかりたる 橋の上
【完成後】 ありがたや いただいて踏む はしの霜

蛇足ですが、ゴッホが模写した浮世絵の一つ、歌川広重が幕末に描いた名所江戸百景 大はしあたけの夕立 の「大はし」は 新大橋です。「あたけ」は深川側の地名で、幕府御舟蔵に置かれていた御座船の名に由来するとか。
なお、木橋時代の新大橋は、現在の斜張橋(1977)や 明治村 に一部保存されている 1912年の鉄橋[33199]よりも、少し下流に架けられていました。

それはさておき
江戸時代から明治にかけて(およそ17~19世紀)の埋立により、江東の陸地は小名木川から約2km南まで拡大しました。

深川が、明暦大火後の江戸再編成で開発が進んだことは、[75315]で記しました。

永代橋よりも南の越中島につき、江東区の地名由来 には、
隅田川河口にできた寄り洲だった。播州姫路の領主榊原越中守の別邸があったので、俗に越中島と呼ばれた。
と記しています。
江戸東京学事典には“明暦・万治の頃”とあるので、榊原康政の孫の榊原忠次ということになりますが、この殿様は越中守に任官していません。越中守は通称なんでしょうか?
波による屋敷の流失を繰り返しながらも砂洲は次第に成長していったようです。
明治になると、越中島には練兵場や商船学校ができました。

ここで「越中島駅」につき記しておきます。
戦前にに国鉄は亀戸(正式には新小岩)からの貨物線を作り、1929年小名木川駅開業。戦後になると、ここから 晴海や豊洲ふ頭への臨港鉄道(専用線)が 東京都により建設されましたが、越中島駅までの区間は 1958年に国鉄に編入されました。
この駅の所在地なんですが、戦後にできた この駅のための埋立地 です。
上記のような江戸時代からの歴史のある土地ではないのに、越中島のネームバリューを借りたのでしょうか。
1990年に JR京葉線が東京駅に乗り入れる際に、今度は本当の越中島に 地下旅客駅ができました。そして、こちらが「越中島駅」を名乗り、従来駅は「越中島貨物駅」と改名しました。

少し脱線しましたが、隅田川の永代島・越中島、中川の宝六島のような河口のデルタがもとになり、陸化の進行と共に倉庫・問屋・木場・大名屋敷・社寺・その門前の歓楽街などが江東地区に生まれました。

[75307]で引用した 江東区町名図 でいうと、扇橋から千石にかけての5町は主として享保年間の造成地で、「十万坪」と呼ばれたとか。仙台堀川の南は現在の東陽6・7丁目が「六万坪」、西側の木場2~5丁目が「十五万坪」という具合で、「○万」コレクションは江戸時代から始まっていたのでした。

江戸時代最後の大規模埋立は、明和年間(1764-1772)の「平井新田」で、海岸線はこれで ほぼ現在の永代通りの線になりました。
平井新田は 塩浜 として開発されたものの、間もなく廃止。明治の地図を見ると、深川東平井町(江東区役所を含む現在の東陽4丁目一帯)には養魚場が広がっており、陸地化したと言っても水面です。深川西平井町も東側は養魚池ですが、西側は陸地。そこに弁天社と東陽小学校があります。

名所江戸百景の 深川洲崎十万坪 に名を記す「洲崎」は、この平井新田のあたりです。

「洲崎橋」は交差点名として近年まで永代通りにあったと思いますが、現在は東陽3丁目。その南側の洲崎弁天町(現在の東陽1丁目)は、明治の埋立地でしょう。[66539]では大正時代と書いていましたが、これは間違いで、明治時代の海岸線は 現在の町名で言うと 東陽や木場の南縁、つまり汐浜運河の線まで進出しました。

明治の地図では 土手で囲まれた一角が見えます。城郭の「曲輪」にも例えられる この別世界に びっしり立ち並んだ施設 は遊郭です。一隅には病院も。深川洲崎警察署[24746]も、この施設の取締が目的でした。
根津遊郭が深川洲崎に移転したのは、明治20年代とのことです。洲崎橋から北にある「大門通り」という名も、最後には「赤線」という名で1958年まで存在したこの種の施設の痕跡を伝えています。

[66539]は初期のプロ野球が行われた洲崎球場のことも記しています。1937年修正測図の地形図 を見ると、満潮時にグラウンドに海水が入りコールドゲームになったという珍事があったことも納得します。

地形図の上端には錦糸堀・ 水神森からの城東電気軌道が見えます。3つある停留所の真ん中が四ツ目通りを南下してきた市電猿江線と合流する東陽公園前。現在の東西線東陽町駅です。左端の停留所が日本橋から永代橋を渡って来る東京市電の洲崎で、大正初期に開通した最も古い路線です。城東電車は昭和初めにここまで延長され、市電も東陽公園前まで乗り入れました。城東電車は戦時中に市電に統合。

明治の地図では養魚池だった東陽町近辺。本当の陸地になったのはずいぶん遅かったようですが、こんな具合にして、昭和初年には東京南東部における交通の要衝になっていました。小田急の創業者利光鶴松が計画した環状線[34571]の終点も「洲崎」だったし、東西線の前身とも言える東京成田芝山電気鉄道の起点も「東平井」でした。

その「洲崎」も「平井」も江東区の地名から消えました。
「玉ノ井」が東向島になったのと同じ理由で、「洲崎」は過去帳入りすることになったのでしょうか。
江東区役所も東京メトロ東陽町駅も、その所在地は江東区「東陽」4丁目になっています。
これは 1967年の統合・住居表示実施によるもの。
1964年以来部分開通を積み重ねて 1967年に「東陽町」以西が全通した営団東西線の駅名は、それ以前からの深川東陽町に基き「町」という字が入っており、現在までこの名で通しています。

江東区役所 は “東陽の地名には諸説があり定かでない” としていますが、「東陽小学校」に由来するという説が有力で、地名コレクション にも収録されています。この学校は、明治の地図では 深川西平井町(現在地よりも西)にありました。

明治時代の学校には、安易に番号や地名を付けるのでなく、漢語を使った個性的な名を多く見ることができます。
[62333]に記した雑感に現れた学校名。愛日・聚楽・待賢・教業・明倫・日彰・成祥・立誠・郁文・格致・成徳・豊園・開智・永松・醒泉・修徳・柳池・銅駝・鳴鶴・盛隆。地名の組合せですが、豊玉や三福もありました。そして忘れることができないのが「酒呑学校」。
「東陽」学校も、東から昇る朝日になぞらえた瑞祥名と思われます。
[75350] 2010年 6月 13日(日)23:20:12【2】hmt さん
東京臨海部の陸地化 (4)深川の町名 過去の分断地名「葛飾」
東京臨海部には約90km2もの埋立地があり、その3割は江戸時代に作られました。
日比谷入江など江戸城に近い重要地もあるのですが、大きな面積を占める深川地区を中心に、その様子 を記してきました。

このシリーズで毎回参照してきた 江東区の地名 に示されているように、江東区には45の町(便宜上、丁目による分割を無視)があります。
内訳は、明治以前の深川区が27、昭和に東京市に編入された城東区が6、新しい埋立地が12ということになり、横十間川以西に古くから開けた深川区域が多数の町に分かれていることがわかります。

[74334]で触れたように、郡区町村編制法を受けて、明治11年11月2日に東京府布達第49号(郡区名称区域) が出されています。
402~407コマには、東京府深川区になった約100の町名(これも“佐賀町二丁”のようにまとめている)が列挙されています。現在の27町を多いと書きましたが、これでもかなり統合された結果であることがわかります。

明治22年東京市新設の変遷情報 には、市制町村制施行前の町村名等が列挙されています。その最後の方に記されている(深川区)深川佐賀町一丁目から(南葛飾郡)千田新田までは、上記明治11年東京府布達との対比により、大部分が一致していることがわかります。

一部ですが、一致しない町もあります。例えば現在の江東区役所が置かれている東陽4丁目近辺は、明治11年布達では既に深川東平井町として記されているのですが、変遷情報では見当たりません。変遷情報には“南葛飾郡平井新田の一部”が記されています。
類似の不一致は、深川本村町・深川千田町・深川西平井町・深川古石場町など、深川の中でも東部や南部に見えます。
【追記】
この件に関しては、[75351] むっくん さんにより不一致の理由を説明していただきました。
引用した資料は、ご指摘のように明治30年12月の「現行東京府布令類纂」に収録されたもので、東京市になってから後に成立した町名が追加されていたのでした。自分でも[74335]を書きながら、この事実に気が回りませんでした。

郡区町村編制法で、深川区になった区域は、事実上横十間川以東の南葛飾郡と分離することになりました。
昭和になって東京市に隣接する5郡には20区が新設され、南葛飾郡には城東区、江戸川区、葛飾区が誕生(1932)。
亀戸町・大島町・砂町から作られた城東区は、戦後の1947年に深川区と統合して江東区に。

江東区域の歴史を振り返ると、必然的に「南葛飾郡」という地名が出てきます。近くには「葛飾区」も現存します。
この「葛飾」こそは、[75298] オーナー グリグリ さんの、自治体越えの地名に関する発言
私の趣旨は、「同一地域を表す地名が自治体境によって分断された地名」にありました。
の代表例です。
アーカイブズ なぜ「葛飾」は複数の都県にまたがっているのか? があります。
もともとは下総国葛飾郡が、近世初期に概ね利根川以西が武蔵国になり分断。

明治になると、武藏國の葛飾郡は東京府南葛飾郡と埼玉県北葛飾郡の管轄になり、元々の下総国も千葉県東葛飾郡だけでなく、茨城県西葛飾郡と埼玉県中葛飾郡の管轄さえもでき、5つに分断されました。
[62795]でもリンクしておきましたが、郡区町村編制法を受けた 明治13年太政官布告第22号別冊 の68~69コマに出ています。


石川県の4自治体に分散する「湖東、湖西、湖南、湖北」の例[75173]よりも雄大な「葛飾郡」は、分断地名として張出横綱格の存在ではないかと思われるのですが、地名コレクションでは、現存の地名という縛りのために正式の土俵入りは難しいことになるのでしょうか。
なにしろ、本家本元の千葉県東葛飾郡でさえ消滅してしまい、現存地名といえば東京都葛飾区と隣接していない埼玉県北葛飾郡が辛うじて残るのみ。

同様に遠い関係になっているのが、東京都足立区と埼玉県北足立郡の残存部。
佐賀県と長崎県に分断されている4つの松浦郡は、現在でも辛うじて残っていますが、これも隣接は失われています。南松浦郡は五島列島ですから、元々隣接は無理なのですが。

というわけで、現存地名コレクションとしては元々無理筋の郡名なのですが、埋立地>江東区の話を、無理やり自治体越え地名の話にまで結びつけたお粗末の一席。

【追記2】
原因不明なのですが、6箇所あったテキストリンクが すべて消失していたので、とりあえず復活しておきます。
[75365] 2010年 6月 17日(木)19:07:03【1】hmt さん
東京臨海部の陸地化 (5)江戸湊・江戸前島
東京臨海部の陸地化について、17~19世紀の 江東 から始めました。
20世紀以降、つまり東京港築造と連動した埋立事業については後にして、江戸の本体に移ります。

江戸・東京が都市として発展する きっかけ は、全国制覇まで関東と奥羽を残すだけとなっていた豊臣秀吉が、天正18年(1590)に行った「小田原征伐」でした。
小田原への参陣を迷っていた 奥州の伊達政宗も 服属するなど 世の中の大勢は決まり、北条氏降伏(7月)による結末を前に定められた 統一政権に依る全国支配体制の構想。

そのポイントの一つに、東海を本拠として成長してきた実力者・徳川家康の関東移封がありました。

秀吉と家康との話し合いにより、関東を支配する武家政権の新たな本拠地は、北条氏100年の小田原ではなく、また頼朝以来300年の鎌倉(室町時代も関東公方)でもない 江戸 に決められました。
その記念行事が、小田原城を見下ろす石垣山からの 「関東の連れ小便」。
時代劇に登場する そんなシーン の真偽はさておき、秀吉による全国統一の完成直後の 天正18年八月朔日(ついたち) = 「八朔」が、徳川家康による 江戸開府の記念日になりました。

最初に、地図を3つ挙げておきます。ほぼ同じ時代を推定した図ですが、水系がそれぞれ異なっています。
A図:縄文と江戸の地勢図 1590年頃の江戸
B図:神田川のページ 太田道灌の江戸湊開発から家康入城まで
C図:大手町の歴史 家康入城当時の江戸図

A図の中央部(下の方)には「江戸湊」と記されています。
もっとも、最初の文献(吾妻鏡)に現れた「江戸」は地名ではなく、「江戸太郎重長」という人名でした。源頼朝が挙兵した際に、平家方として三浦氏[41805]の衣笠城を攻撃した武士です。
平川西岸に1457年に作られた太田道灌の江戸城(A図)は江戸氏の居館跡とされ、ここは江戸城本丸を経て、現在は皇居東御苑になっています。

この江戸氏は、「阪東八ヶ国の大福長者」と呼ばれるほどの経済力を持つ豪族とされます。その経済力の根源は、入江の戸口=江戸における流通業にあり、水軍的な性格を備えたこの武士団が、江戸を名字として名乗ったのではないでしょうか。

B図には地名が記載されていませんが、右側の不忍池から南下する(旧)石神井川の河口が江戸湊であり、ここには北西方向から平川も流れ込んでいます。江戸湊は、この2つの川の河口である入江に立地するものと理解されます。「戸」=「門」(と)については「津」の転化とも言われます。[35860]参照。

A図には、(旧)石神井川の名残[58642] である藍染川(谷田川)[61069] が描かれていますが、不忍池から江戸湊へと南下する流れがなく、平川も日比谷入江へ直行しており、水系の様子はB図と大いに相違しています。
C図の水系は両者の中間で、旧石神井川の河口に尼店と記された入江があります。

A図により隅田川から西の地形を もう少し眺めましょう。隅田川西岸の自然堤防上にある浅草の観音様や鳥越は古くからの陸地ですが、その後背地には、千束池・姫ヶ池などの水面を含む湿地帯が広がっていました。

A図北西には上野・本郷・小石川の台地。台地の間には藍染川(谷田川)・不忍池と小石川(谷端川[41575])。
そして、平川の谷を隔てた A図南西にも、牛込・麹町・麻布方面の台地。

南から深く入り込んだ日比谷入江の東には、本郷台地の続きが南東に向かい、日本橋から南西に向きを変えて連なる微高地が半島状に伸びています。この陸地が江戸前島と呼ばれていました。

徳川家康が江戸入府後に最初に手をつけた工事は、この江戸前島の付け根を切り通して、江戸湊から江戸城に物資を直接運搬できる舟入堀の開削でした。
幕府典薬頭の屋敷に由来するという「道三堀」の位置は、現在の東西線大手町駅付近で、明治の地図を見ると、堀の北側に道三町・東京特許局陳列場・銭瓶町などがあります。
御城近くのこの堀は1909年に埋立られましたが、一石橋[33433]から下流は、首都高速道路下という日陰の身になりながらも、日本橋川として現存しています。

「東京まで○km」という道路標識。東京都庁ではなく、日本橋を基準点にしています。
中央に「日本国道路元標」が埋め込まれている現在の日本橋[63949]は、慶長8年(1603)の初代木橋から数えて 20代目だそうです。東京オリンピックを大義名分に掲げた首都高速道路のために空を失っていますが、1911年建造の二連アーチ橋石橋は、来年100歳になります。

1603年というと、八朔の1590年から13年も後です。道三堀を渡って江戸前島に通じるローカル交通のための橋はもっと前からあったのかもしれませんが、本格的な幹線道路として江戸前島の中央を貫くルートが整備され、「日本第一の橋」が架けられたのが、江戸幕府が開かれたこの年だったのだと思います。

1604年に、日本橋は「五街道の起点」と定められました。道路元標が各市町村に置かれたのは大正時代だそうですが([65682] じゃごたろ さん)、日本橋の場合は 400年の歴史の重みがあったのです。
もちろん、A図の時代と異なり、日本橋・京橋地区は既に半島でなくなり、京への最初の橋である「京橋」を過ぎた東海道は、芝口橋(後の新橋)[74436]で汐留川を渡り南へ通じていました。

この日本橋・京橋・銀座を貫く現在の中央通り。京橋方面から見ると正面にスルガ銀行があり、日本橋を境に向きが変っていることが実感されます。これほど顕著ではないですが、京橋でも少し曲ります。
現在は国道4号・15号になっている中央通り、江戸時代の通り町筋は、江戸前島の尾根筋に沿っているそうです。江戸の道路と地形

ブラタモリ[73190]の着眼点にもなっていた「高低差」。
その微妙な高低差により導かれる水流を利用すべく、尾根筋に幹線道路と上下水道とを配した日本橋から銀座への町並み。これこそが、江戸前島の自然地形を正確に把握した都市計画の成果なのでした。


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