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[76135] 2010年 9月 3日(金)14:24:38hmt さん
3府72県へ (1)廃藩置県を踏切板とした 中央集権体制への飛躍
明治4年(1871)7月。
大久保利通が目指した組織改革は実現せず、三藩提携による中央集権化が機能しない政治空白状態に陥っていました。
これを打開すべく、薩長の謀議により、「廃藩置県」が断行されました(7月14日)。
公家出身の政府トップ(三条実美・岩倉具視)でさえも、直前の 12日になって知らされたくらいで、突然 知藩事の職を失った(元)殿様たちにとっては、まさに寝耳に水の出来事でした[76083]

廃藩置県断行は 膠着状態を打開し、意見が対立したままになっていた制度取調会議も再開されました。
そして、中央官制改革の基本が決まり、明治4年7月29日に、いわゆる 太政官三院制 が発足したのでした。法令全書第385号

太政官三院とは、本官である太政官を構成する 正院・左院・右院ですが、中でも正院は 天皇を輔翼する三職(太政大臣・左右大臣・参議)で構成される 最高機関であり、これを頂点とする 明治中央集権国家が誕生 したわけです。この官制は、8月に修正が加えらたものです。 法令全書第400号

正院の具体的なメンバーを見ると、太政大臣三條実美・(左大臣欠員)・右大臣岩倉具視。参議が西郷隆盛(薩摩)・木戸孝允(長州)・板垣退助(土佐)・大隈重信(肥前)の4人で構成されています。まさに薩長土肥ですが、板垣は西郷が、大隈は木戸が それぞれ 信任する仲間として 引き入れた参議ですから、やはりこの政権の中核は 廃藩置県謀議に加わった薩長だったわけです。

左院【188-189コマ】は立法機関ですが、国権の最高機関である現在の国会(日本国憲法第41条)とは異なり、正院に従属する存在でした。正副議長は後藤象二郎(土佐)と江藤新平(肥前)。

右院は各省長官で構成される各省の統括機関です。
「省」は、既に 版籍奉還後の明治2年7月8日に制定された 職員令(しきいんりょう)で、太政官に 六省(民部、大蔵、兵部、刑部、宮内、外務)が発足していました 法令全書第622 。もっとも 明治2年のこの制度は、祭政一致の古代に復帰する幻想を描いたもので 神祇官が太政官の上位にあるというものでした。明治4年の三院制の下では、神祇省・大蔵省・工部省・兵部省・司法省・宮内省・外務省・文部省の八省に改められています。八省の名は第387号達【189コマ】の宛先に見ることができます。

八省の中で注目すべき存在が、三院制発足直前(7月27日)に廃止した 民部省【184コマ375-376号】を統合して 巨大官庁になった大蔵省です。この改革は大蔵省次官井上馨が提案し、最終的には廃藩置県前の6月に大蔵省長官に就任していた大久保利通も同意したものとされます。
三院八省制度の建前から言えば 正院の配下にありますが、大久保大蔵卿と 井上大蔵大輔とが率いる 大蔵省は、財政はもとより、殖産興業・戸籍・地方行政と広い分野の実務を掌握し、内政の実権を握ることになりました。これも薩長コンビでした。

ついでに、他の7省トップを見ると、外務卿副島種臣と文部卿大木喬任とは肥前、兵部大輔山縣有朋と工部大輔伊藤博文とが長州、司法大輔佐々木高行が土佐。薩長土肥以外では、宮内卿徳大寺実則が公家、神祗大輔福羽美静が津和野藩の出身。

このようにして 地方行政を握った大蔵省は、明治4年10月28日から11月22日にかけて 11件の布告を出して、全国を 3府 72県に改めます。
これが「第1次府県統合」と呼ばれるもので、Issieさんのページ に 太政官布告の全文が収録されています。
これら 11件の布告は、“従来ノ府県被廃更ニ左ノ通府県被置候事”というスタイルで記されています。
つまり、第1次府県統合と呼ぶものの、編入方式の統合ではなく、すべての府県は 新設方式によって 生まれ変わりました。

新設75府県を対象に出されたのが、府県官制 と、県治条例 です。
府知事・県令(11/2県知事から改称)以下の上級官吏の任免権は 中央が握り、下級官吏の任免についても 中央への事後報告が 義務付けられました。こうして地方官は政府の統治下に組み込まれ、府県は中央政府の手足として働くことになりました。

県治条例は、中央の監督下での地方行政、県令の権限を示しています。
令(カミ)県内の人民を教督保護し条令布告を遵奉施行し租税を収め賦役を督し賞刑を判じ非常の事あれば鎮台分営へ稟議し便宜処分するを掌る 但県内互市場あれば貿易事務を兼掌す 管内の事務不挙あれば上下に対し其責に任ず…

248コマの「県治事務章程」には、中央に決済を求める上款31条、県内で処理可能な下款16条が列挙されています。

こうして、10月14日の廃藩置県を踏切板として、11月の第1次府県統合・府県官制・県治条例によって、地方行政についても中央集権体制への飛躍が実現したのでした。

付言すると、第1次府県統合が行なわれた最中の明治4年11月12日、大久保大蔵卿は 岩倉使節団の一員として 横浜を出港 しています。
つまり、大久保を含む密議から始まった廃藩置県を踏切板とした 中央集権体制への飛躍は、留守政府(地方行政に関しては井上馨)の手によって遂行されたのでした。
[76179] 2010年 9月 9日(木)23:48:29【1】hmt さん
3府72県へ (2)“いわゆる”第1次府県統合-実は「統合」でなく「リセット」
都道府県フォーラム[1]、都道府県落書き帳[17]という名で始められたこのサイトは、筑波山オフ会2010で 満11年を迎えます。
1943年の「東京都制」によって「都道府県」が出揃ってからでも 67年。但し、同名でも 現在とは異なる制度です[228][75405]
「都道府県」の前身とも言える「府県」そのものは、既に 143年目に入っています。

しかし、慶応4年以来 新政府直轄地となった元幕府領など 800万石の地域に設けられた「府県」は、3000万石とされる日本全国の中で、一部の地域だけを対象とする統治組織でした。明治2年の版籍奉還により、諸侯は 274人の「知藩事」に名が変りましたが、「殿様」による地方統治は、明治になっても、府藩県三治制という名で、まだ続いていました。

明治4年(1871)7月14日 廃藩置県断行。
政府トップの三條右大臣でさえ 決行直前に知らされた薩長の謀議は、殿様たちにとり 全くの 寝耳に水 でした。
これにより 日本全国は 国の直轄地になり、従来の3府41県に加えて、261藩が県になり 3府 302県になりました[76083]
ここに至る4年間のプロセスを、hmtマガジンの特集 「府県」の誕生から廃藩置県まで として、まとめました。

この廃藩置県は、中央集権国家体制への踏切板であり、新たな飛躍は 7月29日からの 太政官三院八省制の下で実行されました[76135]
「府県」については、明治4年10月28日から11月22日にかけて行なわれた 府県の再編成により、3府72県に整理され、現在の都道府県の原型とも言える「県域」が見えてきました。

この時の府県再編成は、しばしば「第1次府県統合」と呼ばれ、実は私自身も前回まで、何となくこの言葉を使っていました。

しかし、太政官布告 には、例えば次のように記されており、「統合」又はそれに類する言葉はありません。
今般摂津国従来ノ府県ヲ廃シ更ニ左ノ通府県被置候事
兵庫県
摂津国 八部郡 兎原郡 武庫郡 川辺郡 有馬郡 外当分管轄 元兵庫県管轄 淡路国津名郡ノ内

つまり、摂津国内の従来の府県である兵庫県・尼崎県・三田県(及びその他の県の飛び地)を すべて一旦廃止して戻った白紙状態に、郡を単位として府県を再構成するという 完全な「リセット」なのでした。

兵庫県を例示したのは、兵庫県HPにある 県域の変遷図 が、明治4年11月の府県再編成を実感するためには、最も良い資料になっていると思うからです。これまでに何度か引用しています。

第1次兵庫県の図で 赤の部分が 明治元年(当時は慶応4年)5月の県域、うす緑が 明治4年4月の県域です。神戸など重複部は茶色に見えます。付近に見える尼崎・三田・明石等の文字は、当時存在していた藩の名です。

この虫食い状態の第1次兵庫県は、尼崎県・三田県と共に廃止され、摂津国5郡よりなる「まとまった領域」の第2次兵庫県が新設されました。
なお、上記M4/11/20布告(609号)には 淡路北部を当分管轄 と記されていますが、M4/11/15布告(600号)により、既に阿波・淡路一円に名東県が設置されました。
兵庫県HPの第2次兵庫県の図でも、第1次でピンクに着色されていた 淡路島の兵庫県域は消えています。
[76187] 2010年 9月 14日(火)13:03:25hmt さん
3府72県へ (3)40万石前後の規模で「まとまった領域」の府県 をデザインする
明治4年11月の府県再編成につき、先ず兵庫県の具体的な事例を、太政官布告と兵庫県HPの県域図とにより示しました[76179]
総論については 時間をちょっとだけ戻します。
廃藩置県の行なわれた明治4年7月に 民部省を統合して 地方行政を握った大蔵省[76135]は、全国を 76府県に改める案を 正院に上申しました。これが 9月2日ですから、府県再編成布告の2~3ヶ月前のことです。

廃藩置県前の藩の領域を引きずった 305府県を「統合する」のではなく、一旦 全国を白紙に戻して、国や郡を組み合わせた「まとまった領域からなる府県」に再編成する。
この大事業を必要とした理由の 第1として挙げるべき事情は、やはり 県の規模が小さすぎたことです。
約 150もあった 3万石以下の小藩を含めて、261藩すべてが県になったのですから、小さな県が軒並みと言えるほどに乱立していました。20万石以上の規模を持つ藩は 僅かに約20という有様では、財政負担能力は限られており、効率的な行政運営も困難です。

第2は 県の領域が分散していたことです。江戸時代の知行地の石数は、村や字という小単位の寄せ集めにより、所定の数値に合わせたものでした。第1次兵庫県の県域図が「虫食い状態」になっていたのは、寄せ集め知行地由来の故であったものと理解されます。
明治4年7月の 261県に引き継がれた「寄せ集めの領域からなる藩」には、広域に亘る飛び地もありました。
ここでは、17世紀から 武蔵国榛沢郡岡部(現深谷市)の陣屋を本拠としていた「岡部藩」を例として説明します。

大阪城勤務が多かった岡部藩安部氏は、慶応4年 新政府に恭順した際に、本拠を 三河国八名郡半原(現新城市)に移すことを嘆願し、認められました。こうして岡部藩改め 「半原藩」になり、廃藩置県では「半原県」になりました。
岡部藩の地元である 武蔵国(一部は上野国)の所領は 旗本時代に由来する 約5000石だけであり、加増で得た 三河国7000石、摂津国(現豊中市)8000石と分散した所領は、そのまま半原県に引き継がれていました。これでは、2万石の小さな県の県政を 効率的に行えるわけがありません。

明治4年9月の大蔵省案区画には3つの原則があったとされます。
大藩中心・国が基準・石高30~40万石(大島美津子1985,1994)。
40万石という数字は、全国 3000万石を 73国(北海道11国を除く)で割った値に近いものです。
大藩は この規模を越えていますが、大蔵省案では 金沢藩を3県、山口藩を2県、鹿児島藩を3県に分割しています。これは藩構成国(加越能・防長・薩隅日)の数と同じですから、結局は 平均 40万石の約 75府県というのが、再編成の基準だったとわかります。

この基準に照らせば、甲斐全国 31万石を管轄する 甲府県(甲斐県)は、そのまま 新設する県として通用しますが、県名は甲府の所在する 山梨郡 から名付けた「山梨県」と改められました。
ちょっと判らないのが、改称前の県名です。山梨県HP を見ると、“明治2年7月 甲斐府を廃し甲府県と改め”、“明治4年11月 甲府県を山梨県に改め” と記され「甲府県」です。しかし 法令全書668地方沿革略譜 いずれも「甲斐県」。
中央政府は 一旦は公式に 甲斐府改め甲斐県 としたが、すぐに現地で愛着のある?「府」の文字を使った「甲府県」に改められた ということでしょうか。

同じ基準から、大和国 50万石も、新設する県として適当な規模です。大和国には 廃藩置県前からの(旧)奈良県・五條県の他に、藩に由来する 郡山・小泉・柳生・田原本・高取・柳本・芝村・櫛羅の諸県がありましたから、事実上 10県を統合した形になります。新設県名には 県庁所在都市の 奈良 が使われました。

金沢藩があった加賀・越中・能登の3国には、3県が設けられることになりました。明治4年11月20日の石高 を見ると、金沢県 46万石・新川県 68万石・七尾県 46万石。石高の多い越中国は、射水郡を 七尾県所属とする 調整を行っています。3県合計 160万石は、金沢・富山・大聖寺の3藩合計 122万石より だいぶ多くなっています。

鹿児島藩があった薩摩・大隅・日向3国にも、鹿児島県 32万石・都城県 43万石・美々津県 14万石(合計 89万石)の3県設置。鹿児島県管轄 に琉球15島が記されていますが、この中には、大島など 奄美五島が含まれています。3国と3県とは、加越能のケースよりも大きな食い違いがあります。

山口藩のあった周防・長門2国は、大蔵省案で 豊浦県と三田尻県の2県になっていました。 M4/11/15に 防長2国で89万石余 という数字は、山口藩 36万9千石余に 岩国6万石・徳山4万石・豊浦5万石・清末1万石を加えた 53万石という数字よりもずっと大きく、これだけ規模ならば、2県案も当然と思われます。
しかし、最終的には山口県になりました。大久保・木戸の外遊中に、大蔵大輔の井上馨が 山口県を復活させてしまったのか?

同様に 原案では 高知県・中村県の2県になっていたのが統合され、土佐全国管轄に変ったのが 高知県49万石。
逆に、原案の彦根県が 分割されたのが 近江国で、大津県 45万石と 長浜県 40万石の 2県になりました。もっとも、翌年初めには 滋賀県と犬上県とに改称され、更に9月には統合して滋賀県になっていますから、1国2県時代は10ヶ月でした。でも、この過程を経て、譜代の大藩だった 彦根は 県の名から消された だけでなく、県庁所在地の地位も失いました。

結局のところ、大蔵省の 76府県案は、2減1増の結果、タイトルの3府72県になったわけです。
[76243] 2010年 9月 25日(土)14:39:40hmt さん
3府72県へ (4)6県が合併した弘前県は、すぐに青森県になった
基本的には 明治4年7月14日に断行された 廃藩置県 ですが、これを中央集権国家による地方統治という 本来の目的に沿った制度にするためには、「適当な規模」と「まとまった領域」との2要件を満たすようにする 府県再編成 が必要でした。そして、その一応の成果が、明治4年11月の「リセット」を通じて出来上がった 3府72県でした。

実は、3府73県の大蔵省原案が正院に上申された明治4年9月2日の前後から、一部の地域では、早くも再編成が始まりました。
その第1号と思われるのが、天童県の山形県への合併(M4/8/29) です。9月4日の 太政官布告(458) では、佐賀県庁が伊万里に移り 伊万里県と改称すると共に、厳原県(対馬)を合併しています。

翌日の布告で、七戸県・八戸県・斗南県・黒石県・館県が 弘前県に合併と、大規模な統合が始まりました。
もっとも、ここ迄は「合併」という言葉が使われているように、府県の統合であり、10月末から11月にかけて行われた「リセット」ではありません。

本州の北端で行われた この再編成に伴い、ちょっと別の動きもあったので、少しフォローしてみます。
すなわち、同じ9月のうちに県庁は青森に移り、青森県と改称しました。布告(481) の文言は次のとおりです。
弘前県 青森へ相移り 改めて 青森県と称され候事

「○○県」という言葉が、現在慣れ親しんでいる「県の領域」ではなく、「行政組織」とか「役所」の名前という感覚で使われていることがわかります。 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る 参照。

青森県の誕生 には、地域間の経済格差や、歴史的・文化的背景の違いを乗り越えるための提言から、この広域合併が実現し、県庁の位置も、南に偏りすぎている弘前から、県のほぼ中央に位置する青森に移った と記されています。
歴史的・文化的背景とは、言うまでもなく、津軽(弘前藩・黒石藩)と南部(盛岡藩・八戸藩)とによる分割統治であり、戊辰戦争の際の対応も、各藩で異なりました。藩政時代が図1、戊辰戦争後に会津から移された斗南藩が成立した時点の6藩時代が図2に色分け図示されています。黒石藩と斗南藩とはそれぞれ2領域に分離しています。

青森県になった M4/9/23 が 図3で、北海道の一部(松前)は、明治5年9月に開拓使に移管されました。
本州分も、旧八戸県に属していた九戸郡を含むなど、現在の領域と異なる点がありますが、ともかくも、藩政時代には津軽と南部とに分かれていた両地域を統合した 現在の青森県の原型が、明治4年9月には誕生したのでした。

青森県だけ先行した大規模再編は、2ヶ月後の11月2日には奥羽7ヶ国全体に及びます。今回は下記文言のように「リセット」なので、太政官布告566 には、新設された 11県につき、従前の「34県」ではなく、「7国」と必要に応じて「郡」によって その領域を規定しています。
引用では国郡名を省略し、再編前に同名の県が存在した場合は、便宜上2というような番号を付して区別しました。
今般三陸両羽磐城岩代諸国従前ノ諸県被廃更ニ左ノ県々被置候事
平県・二本松県2・仙台県2・若松県2・一関県2・盛岡県2・秋田県2・青森県2・山形県3・置賜県・酒田県2

青森県について、地方沿革略譜 の「置県」の項目は、
青森県1を廃し、更にこれ(青森県2)を置く
という 記述であり、これだけでは、同じ名の青森県の領域にどのような変化があったのか把握できません。しかし、青森県2の管轄区域には「陸奥全国及松前地方」と記され、二戸郡を取り込み九戸郡を手放したことがわかります(前記「青森県の誕生」の図3→図4)。
[76252] 2010年 9月 27日(月)15:20:45【1】hmt さん
3府72県へ (5)4県に分かれた江刺県
廃藩置県の2~3ヶ月後に行われた、明治4年10月28日から 11月22日にかけての府県再編成は、従来の3府302県を「統合」して3府72県に改めたものではなく、「組替え」て「リセット」する作業でした[76179]
単純な「統合」でなかった実例として、このプロセスにより、4県に「分属」することになった 江刺県の事例を紹介しましょう。

2006年に 水沢市などと合併して 奥州市 になった江刺市。
昭和合併前の町名は、岩谷堂箪笥 で知られる 岩谷堂で、ここが「江刺郡」の中心地でした。
ところが、明治初期の府県のことを調べていると、この地から遠く離れた場所に「江刺県」という名が出没します。

江刺県は、明治2年8月18日の布告748 により、戊辰戦争終結後の奥羽に新設された 10県の1つであることが、法令全書に記されています。つまり、福島の板倉氏が三河に移され[7123]、白石に移された南部氏は盛岡への復帰が認められ[75949]、会津の松平氏も下北半島での再興への道筋がついたところで、福島県・白石県・若松県などと共に、江刺県も誕生したわけです。

岩代国の前記3県は賊軍藩を退去させた跡地ですが、江刺県など三陸の5県は、減封された南部藩や仙台藩の旧領との差分に該当するものでしょう。
岩手県の誕生 には、8月に“松本藩取締地が江刺県に変った”と記してありますが、同じページの 明治4年7月の図を見れば、江刺県の範囲は、江刺郡周辺やその東側の陸前国気仙郡(元は仙台藩)、閉伊郡南部(上閉伊)だけでなく、(新)盛岡県の東側にある 広大な閉伊郡北部(下閉伊)にも及んでいることがわかります。

明治4年7月の図には、現岩手県域の北西部(陸奥国二戸郡)に 江刺県の飛び地が描かれています。
“(明治2年11月)…斗南藩が成立し、三戸県が江刺県へと合併になりました”と記されている地域がこれです。
この三戸県は、元の黒羽藩取締地に明治2年8月にできた九戸県が、9月に八戸県を経て三戸県と改称したものです。

[76243]で引用した「青森県の誕生」には、残念ながら図2の直前に相当する三戸県の時代が 図示されていないのですが、三戸県は旧盛岡藩領北部で、現在の青森県東部から岩手県・秋田県の一部に及んでいた県です。
明治2年8月の 10県新設布告には“陸中国九戸県”と記されていますが、翌月には八戸県(八戸藩と紛らわしい)を経て三戸県と改名しています。実際の管轄地域に合わせて 県庁を陸奥国に移したのでしょう。

短期間しか存在せず、しかも慌しく改名した三戸県ですが、その領域は 旧盛岡藩領の北端(下北半島)に及んでいたはずです。
三戸郡は県庁所在地だったと思われ、その南に続く二戸郡も三戸県の領域でした。
二戸・三戸と下北半島との間には、後の上北郡に相当する地域があります。ここには 明治2年8月の県設置より少し前に 七戸藩が成立しているので、三戸県は、七戸藩の南と北との2つの領域に分断されていたものと思われます。

三戸県について もう一つ。秋田県公文書館企画展 の一番下に、秋田県の成立を示す チャートがあります。
ここに示されているように、かつての盛岡藩領 陸中国鹿角郡(湯瀬オフ会2008)は、隣接する陸奥国三戸郡・二戸郡と共に三戸県の南の領域を形成しており、三戸県廃止後は江刺県を経て、明治4年11月の「府県組換え」で秋田県になりました。

戊辰戦争から岩手県成立へ) にも、“江刺県は遠野に本庁を置き、気仙・江刺・閉伊・九戸の一部・鹿角・二戸の各郡で構成されていた”と、鹿角郡への言及があります。
この資料にも、前記「岩手県の誕生」と同様の 廃藩置県後3府302県時代の 江刺県が描かれた地図がありますが、現岩手県域でない鹿角郡が、やはり描かれていないのは 残念なことです。

このような資料を材料として、三陸地域における明治2年の「県」の変遷を、8月と11月を転機として3段階にまとめると、次のようになります。

戊辰戦争で敗れた旧盛岡藩[75939]の領域のうち、岩手郡など盛岡付近には 13万石に減封された 新盛岡藩[75949]が成立したが、旧盛岡藩と新盛岡藩との差分は、同様に減封された 仙台藩の差分と共に 政府直轄地になり、当初は官軍諸藩の取締地とされていた。
官軍諸藩取締地には、取締県名が付けられたようである。後に三戸県になった黒羽藩取締地は、明治2年6月頃「北奥県」と呼ばれたらしい。「岩手県の誕生」に出ていた盛岡県(松代藩取締)・花巻県(松本藩取締)・伊沢県(前橋藩取締)、[75516]で言及した涌谷県(土浦藩取締)・栗原県(宇都宮藩取締)も同類と思われる。桃生県(高崎藩取締)も?

明治2年8月18日になると、太政官布告により、正式に九戸県・江刺県・胆沢県・登米県・石巻県が新設された。
旧盛岡藩北部の北奥県を引き継ぐ九戸県>>三戸県は、八幡平から下北半島に及ぶが、その領域は、県設置の少し前にできた七戸藩により、南側(三戸・二戸・鹿角の3郡)と北側(下北)とに分断されていた。

間もなく、明治2年11月に 旧会津松平家の家名存続が許され、三戸県内に 斗南藩3万石ができることになった。
こうなると、三戸県として残る政府直轄地は、南西部の 陸中国鹿角郡と陸奥国二戸郡の大部分だけ になるから、この2郡を江刺県に編入して、三戸県を廃止した。

これが、本来の「江刺郡」から遠く離れた「江刺県の飛び地」が生まれた経緯であると考えます。

明治4年11月の全国的な「府県組換え」では、江刺県の飛び地にある陸中国鹿角郡は秋田県2に、陸奥国二戸郡は青森県2に組み込まれました。
そして、江刺県の本体側の陸中国、すなわち 閉伊郡・江刺郡・和賀郡東部(黒沢尻)は 盛岡県2に、陸前国気仙郡は 一関県2になりました。

3府302県時代に例外的に大きな県だった江刺県は、3府72県体制の下では、盛岡・一関・青森・秋田の4県に分属することになったわけです。
もっと後まで書いてしまうと、二戸郡と気仙郡とは、明治9年5月に岩手県に戻っているので、現在の所属は2県です。

[23318] Issie さん 奥羽の境界
奥羽北部の4大藩である伊達・南部・津軽・佐竹(秋田)の領域(支藩を含む)と明治2年に奥羽再編で新設された陸前・陸中・陸奥3国の領域,そして現在の宮城・岩手・青森・秋田4県の領域が,いずれも少しずつずれているのがどのような事情なのか,興味深いものがありますね。

鹿角郡・二戸郡・気仙郡など、江刺県の周辺部にあった地域は、このような所属変遷の歴史・境界のずれを示す実例です。
四国4県にも変遷史がありますが、こちらは主として国単位の併合分割であり、郡単位で動いた奥羽4県の変遷史に比べると 動きは単純です。


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