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落書き帳

館山北条町

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[76253]2010年9月27日
白桃
[76264]2010年9月28日
Issie
[76273]2010年9月30日
hmt

[76253] 2010年 9月 27日(月)17:25:10白桃 さん
南で総なるの?
淡水魚さんは、飛行機をチャーターして寒い所に行かれたようですが、私も「大」恩師を偲ぶ会のため、昨日から新幹線をチャーターして山陽地方の政令指定都市に行ってきました。そう、昨年オフ会があった都市なんですが、ハバちゃんより行政区の人口は多いけれど、街並みは相変わらず貧相です。
それはともかく、会席で隣にいた後輩が館山市館山出身なので、「市制施行前に館山北条町を名乗っており、しかも当時は旧北条町の人口が多かったのに、どうして館山市と言う名前になったの?」と、どうでも良い質問をしてみました。ま、予想通りはっきりした回答はいただけませんでしたが、どうやら、北条が実(市役所)をとり、館山が名(市名)をとったというのが真相なのでしょう。
[13631]でken さんが南総里見八犬伝について
安房のお話なのに「南総」。
と仰っていますが、これも不思議です。
[76264] 2010年 9月 28日(火)22:35:16【1】Issie さん
館山
[76262] 白桃 さん
しかし、安房のもとは阿波だったとは・・・アワワ・・・

馬琴さんもそう言っているし,古代にこの地を支配した「阿波国造」の由来もそのようになっている,とても古い時代からの言い伝えなのですが,それが歴史上の「事実」かどうかは必ずしも定かではありません。
もちろん,過去に hmt さんが何度も紹介されているように,たとえば紀州と房総の間に密接なつながりがあったであろうことは多く指摘されていることですから,さらに足を延ばして四国の阿波とのつながりがあっても不思議ではないのですが。

[76253]
「市制施行前に館山北条町を名乗っており、しかも当時は旧北条町の人口が多かったのに、どうして館山市と言う名前になったの?」

館山駅も当初は「安房北条駅」という名前でした。北条にありますからね。1946年に「館山駅」と改称されたようです。「館山北条町」が「館山市」になるのが1939年だから,戦争をはさんで7年(正確には6年半)のタイムラグがありますね。

なぜに「北条」ではなく「館山」が選ばれたか,という問いに対する館山市の公式の答えがあればいいのですが,私はそれを知らないので勝手な憶測をすると,たぶん,「北条」よりも「館山」の方が知られた地名だったのではないか,と考えます。

まず,館山は戦国時代の里見氏の城下町でした。「里見」などというローカルな戦国大名,普通はみんな知らないはずですが,それを馬琴さんが空前のベストセラーで世間にあまねく知らしめてくれました。ただし,「南総里見八犬伝」はあくまでもフィクションであって,史実とはだいぶかけ離れているようです。でも,史実をフィクションが凌駕することはよくある話で,少なくとも「八犬伝ゆかりの地」として「館山」はそれなりに知られていたのではないか,と思います。あくまで,南房総ローカルな中心地である「北条」よりも。
ちなみに,戦国末期に房総の覇者であった里見氏は豊臣・徳川の両者から支配圏を狭められて安房一国に押し込められ,江戸時代最初の年号(慶長)が変わらないうちに改易されてしまったので,館山が近世城下町であった期間は最初期のごく短い間だけでした。田沼時代の天明年間に「館山藩」が復活しますが,それは1万石ほどの極小藩(里見氏の時代は安房一国で12万石)。これが廃藩置県まで続くけど,“城下町館山”とは言い難いものがあります。

もう1つ。「館山」は海軍航空隊の基地として知られていました。時代が時代ですから,こちらの要素の方が大きかったかもしれません。
航空隊が設けられたのが1930年。その後も館山には海軍の施設の集積が進んでいきました。北条ではなく,もっぱら館山に。
そんなわけで,むしろこちらとの関連で「館山」の地名が広く知られていたものと思います。

「館山市」の誕生は,実は中国で苦戦していた陸軍に比べて,まだ海軍は無傷で元気だった1939年。「名」という点では,館山の方が北条よりもずっと上を行っていたのではないか,と推測しています。
[76273] 2010年 9月 30日(木)17:53:30【1】hmt さん
名前が売れているのが 世帯主
[76253] 白桃 さん
市制施行前に館山北条町を名乗っており、しかも当時は旧北条町の人口が多かったのに、どうして館山市と言う名前になったの?
[76264] Issie さん
たぶん,「北条」よりも「館山」の方が知られた地名だったのではないか,と考えます。
「館山」は海軍航空隊の基地として知られていました。時代が時代ですから,こちらの要素の方が大きかったかもしれません。
[76265] 白桃 さん
三田(対:三輪)、三次(対:十日市)、岩国(対:麻里布)なんかも館山に似たような経緯があったのではないかと思います。

この後の皆さんの反応を含めて、興味深く拝見しています。

話題になった各自治体の名称は、主として20世紀中頃に行われた合併の際に選定されたものですが、町村制施行に先立つ 1888年の 山縣内務大臣訓令[37482]による原則は、この時代になっても考慮されたものと思われます。

第6条 合併の町村には新に其名称を選定すべし
 旧町村の名称は大字として之を存することを得
 尤も大町村に小町村を合併するときは其大町村の名称を以て新町村の名称となし或は互に優劣なき数小町村を合併するときは各町村の旧名称を参互折衷する等適宜斟酌し勉めて民情に背かさることを要す
 但町村の大小に拘はらす歴史上著名の名称は可成保存の注意を為すへし

この条文は、折衷(合成)自治体名の根拠にもなっているのですが、それは 優劣ない町村を合併する際に、やむを得ず選ぶ手段であり、第一原則は「大小」です。
そして、「歴史上著名の名称は可成保存の注意を為すへし」という但し書きが付けられています。

今回の事例について言うと、町村の大小を判定する基準が「人口」なのかどうかはさておき、いずれも「歴史上著名の名称」が保存された事例であるように思われます。

館山北条町 1933(S8)年4月18日新設、館山市 1939(S14)年11月3日新設/市制
一旦は連称地名を採用したものの、市になった機会に長い名前に決別したのですね。先輩の「宇治山田市」が 伊勢市に改称するよりも前でした。しかし、その後も懲りずに、大湊田名部市や 山陽小野田市という連称市名が誕生しています。

岩国市 1940(S15)年4月1日新設/市制
[76270] にまん さん
あの辺りの中心は一貫して岩国です。というか、麻里布は基本的に文化期以後の開拓地で、明治から大正にかけて、岩国駅の設置と工場建設により急激に発展をとげたところです。
[76272] Issie さん
「麻里布市」が選ばれることは,…まず選択肢にはなかったでしょう。要は人口(稼ぎ)だけで物事が決まるのではなく…

他の3ケースは、川を隔てていても 市街地が隣接した双子の町ですが、麻里布は 岩国の城下町から少し離れており、別々の町であったと思います。岩国駅から西岩国駅まででも4km。錦帯橋や吉香公園はもっと先です。

自治体としては岩国とは別の「麻里布」でしたが、産業施設としては 岩国の一部として機能していました。
[76272] Issie さん による 鉄道 もその一例ですが、瀬戸内海の良港である 岩国港も 麻里布にあり、臨海部に出現した 帝国人造絹糸(1925)・山陽パルプ(1939)などの工業地帯も、岩国と認識されていました。
興亜石油(現JX日鉱日石エネルギー)麻里布製油所のように「麻里布」を名乗る施設もありますが、岩国市発足後の 1943年で、所在地は和木村(町)ですから、自治体名の麻里布町を使ったわけではありません。

短絡線は1934年に徳山まで全通し,こちらが 山陽本線,従来の海岸経由が 柳井線 と改称されました。
それなのに,山陽線の特急・急行列車は山越えを嫌ってせっかくの短絡線(山陽本線)を通過せず,従来のまま海岸(柳井線)経由で運転され,「岩国駅」には停車せず(通らないのだから),「麻里布駅」にばかり停車していました。

岩国・徳山間の山陽本線短絡線は、欽明路トンネルで山を克服したので、急行列車に嫌われることはありません。開通したのは、丹那トンネル開通と同日の 1934年12月1日でした。当時、日本全国で3本しかなかった特急の「富士」と「桜」は、この両トンネルによってスピードアップしました【注】。「岩国駅」は通過ですが、「桜」は「麻里布駅」に停車しました。
岩国の駅名は 岩国市街最寄の短絡線に譲っても、鉄道の基幹駅はやはり麻里布でした。
岩徳線が 幹線の地位を維持できなかったのは、勾配ではなく、複線化(と電化)に対応していなかったためです。

【注・追記】
1934年12月ダイヤ改正時には、岩国・徳山間だけでなく、全国的な改良が行われました。東海道本線・山陽本線以外にも、長崎本線が有明海沿いの新線になりました。7両+水槽車で御殿場を越えていた特急「燕」も、10両での8時間運転(神戸行ですが大阪までの所要時間)を実現しました。

三次市 1954(S29)年3月31日新設/市制
三次町は 1889年の町村制当初から、十日市町の町制は 1917年です。かつて郡名や藩名にも使われた「三次」が、差をつけていました。
しかし、1915年に 現在の西三次駅まで開通した 芸備鉄道により、巴橋の南側にある 十日市地区は、北側に比べて 発展が約束されました。
昭和大合併では、名が売れていた方の 「三次市」になり、「備後十日市駅」[72157]から 三次駅に改称された 芸備線が貫通する 十日市町が、三次の中心になっています。巴橋北側の 旧三次町地区に 鉄道が伸びたのは 1955年で(三江南線)、江津からの三江北線とつながったのは、ずっと後の 1975年でした。

三田町 1956(S31)年9月30日新設(1958年市制)
[76269] ぺとぺと さん
旧三輪村域に造られた駅の名は「三輪」ではなく、武庫川を隔てた町の名である「三田」。(中略)郡役所が廃止された後も、駅名や旧制中学校の存在などにより、「三田」の名のほうがメジャーであり続けたのではないでしょうか。

こちらも、明らかな知名度の違いがあったようですね。
九鬼氏の三田陣屋が、明治になってから 三田県庁>有馬郡役所を経て、現在の法務局出張所に続いているのでしょうか。


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