現在東京メトロ副都心線で渋谷駅まで乗り入れている東武東上線・西武池袋線ですが、来週の土曜日 2013年3月16日から東急東横線・横浜高速みなとみらい線への乗り入れも始まることになっています。
私の居住地からは遠いと感じていた「横浜みなとみらい21」ですが、これで少しは身近になるかと思っていたら、電車の直通運転開始後3日後の3月19日
「みなとみらいトンネル」開通の記事 が落書き帳に現れました。
…というわけで、「MM21」とも略称されるこの地域について、少し調べてみました。
この地域の歴史を語る上で欠かすことができないのが造船所です。
渋沢栄一が地元の財界人と協力して横浜船渠を設立したのが明治22年(1889)。市制町村制と同じ年です。
三菱重工業に合併したのが1935年。占領下の財閥解体時代には、東日本重工業と名乗ったこともあります。
その後、船舶の大型化が進むと、横浜という立地ではこれに対応することができず、歴史あるドックも使われなくなり、横浜造船所自体も1980年以降に本牧・金沢地区に移転しました。
ところで、横浜市の本来の中心地は関内ですが、明治5年に開通した鉄道は この地区に入ることができず、初代横浜駅は町の手前で行き止まり。日本を東西に結ぶ幹線鉄道が東海道と決められた後も この事情は変らず、スイッチバックで凌いだりした時代を経て作られた 3代目の現・横浜駅
[49808]の位置は、神奈川との境界付です。
こうなると、横浜駅付近には新たな都心部が形成されてきて、都心部の二分化をもたらします。
1965年 横浜市の飛鳥田市長は、分断された横浜都心部を一体化する再編成を提案したのですが、当時は盛んに仕事をしていた横浜造船所や鉄道貨物施設を移転させることができませんでした。
経済状況の変化を受け、「横浜市都心臨海部総合整備計画」が発表されたのは、1979年の細郷市長時代。
1983年の横浜造船所の移転完了と共に「みなとみらい21」事業がスタートしました。
造船所跡地に建設された横浜ランドマークタワーは 296mで、1993年に日本で最も高いビル(未開業の阿部野橋ターミナルビルは300m)としてオープン。石造の第2号ドックを復元したドックヤードガーデンも作られています。
なお第1号ドックは、これに先立ち「日本丸メモリアルパーク」(1985)として保存されています。
「みなとみらいトンネル」がその地下を通っている
横浜臨海道路(パシフィコ横浜前付近)を中心とする地図 を見ると、ドックのあった海岸線よりも数百m沖であることがわかります。
参考までに、
横浜市三千分一地形図新港町(昭39) をリンクします。左端中央付近に第1号ドック(注記なし)があります。新港ふ頭の北西にあるMM21の主要部が海面であったことを、この地図で確認することができます。
なお、みなとみらい地区の北部には、高島駅や高島埠頭など 横浜造船所や海面とは異なる歴史を持つ土地もあります。
[81986]で紹介された新聞記事によると、横浜市の臨港幹線道路は、神奈川区恵比寿町―中区本牧ふ頭間を結ぶ全長10.5kmの市道として、1982年度に策定された港湾計画によるもので、今回のトンネルはその一部です。
トンネル開通発表資料 には 「開削トンネル」と記されていましたが、実は将来の交通量増大を見越して、海面埋立の土地造成に際して地下トンネルになる大きなコンクリ箱を埋めておいた「沈埋トンネル」であったようです。
はまれぽ記事
20世紀末(1986-1999)に 約300億円(はまれぽ)をかけた 先行投資によるトンネル。
4車線構造のうち 当面は2車線のみ使用だが、ようやく生きることになりました。
もっとも、今回開通したのは大部分が道路の「地下路線」(一部に換気用の開口部)であり、水底部分は ほんの僅かです。
一部だけが水底になっている鉄道の「地下路線」(JR東京トンネルや東京メトロの各線)を除外している 前例 からすると、「水底トンネル」コレクションへの収録は難しいかもしれません。