[42974]で登場させた相模川水系の流域は、hmtの出身地を含みます。もう少し続けさせてください。
桂川の源流部は、宇津湖という湖だったものが、富士山の溶岩流によって山中湖と忍野湖に分かれ、更に忍野湖は干上がって、8つの湧水口のみが残り、現在の忍野八海(おしのはっかい)になったとされています。
「海なし県」にも「海」があったのですね。
海コレクションにも収録されています。
個々の名前は○○池なのに、集まると なぜか八海?
相模川水系の水は、利水と発電に高度に利用されています。
明治20年(1887)から給水を開始した「近代水道事始め」の横浜水道については既に
[34770]で記しました。
水道敷設の目的は、明治10年代に流行したコレラなどの伝染病感染防止にありました。少し後のことになりますが、東京の淀橋浄水場建設も同じ動機でした
[36207]。
高電圧長距離送電の草分けとして技術史に残る
駒橋発電所(1907、現・大月市)を始めとして、明治から大正にかけて建設された数多くの発電所の電力は、京浜地区の工業化に役立ちました。駒橋発電所の下流にある日本三奇橋のひとつ
「猿橋」に隣接し、観光客の目に触れる「八ツ沢発電所一号水路橋」(1912)も、発電に付帯する施設です。
明治・大正時代に水道局や電力会社の個別の事業としてスタートした相模川の利水・発電は、昭和になると、神奈川県が主体となった「相模川河水統制事業」へと変わってゆきます。これは、アメリカ合衆国のTVAの成功などの影響を受けた、ダムによる河川開発の一環で、1937年当時の内務省を中心に、全国17河川で実施されたとのことです。
具体的には、与瀬町(現・相模湖町)に相模ダムを造って発電を行い、下流の水量を安定させるための調整池(沼本ダム)から久保沢方面に導いて、横浜市と川崎市の水道用水および相模原台地の灌漑用水を分水し、残りを「谷ヶ原」(相模川の谷に臨む台地)から本流に還元する際生ずる落差により再び発電をするという計画でした。
相模ダムは、日本最初の本格的な多目的ダムです。勝瀬部落を中心とする136世帯の水没地区住民の反対も強権発動ともいえる圧力で押し切られた「ご時世」の中、1940年着工。第二次大戦の影響を受けて 戦後(1947)にずれ込んだ完成式典には、昭和天皇が臨席し、ダム湖は「相模湖」と命名されました。
1955年には、支流の道志川に道志ダム(奥相模湖)が作られ、発電と秋山川を経由した相模湖への導水に利用されます。
戦前に計画されたこの河水統制事業には、農業用水が含まれていました。そして、食糧増産を目指して、大戦後の1948年から相模原台地に大規模な農業用水路の建設が開始されました。しかし、日本の復興に伴ない、相模原台地の畑の一部は工場用地に転用され、次いで都市化の波が訪れ、1963年完成の時には、この「大規模畑地かんがい」の用水路は使われなくなる運命が待ち受けていました。
ところで、相模川総合開発事業は、1960年に決定された城山ダム建設によって、次の段階を迎えます。
これは、洪水調節、水道及び工業用水の供給、日本初の大規模揚水式発電を目的とするもので、付帯設備として上流調整池の本沢ダム(城山湖)と、支流・串川からの取水路も作られました。
このダムで水没することになった285世帯の中心・荒川地区は、江戸時代には「荒川番所」
[34770]が設けられていた かつての交通結節点です。
江戸時代末期に嫁入りした曽祖母の実家は、ここ太井村の名主でした。私も子供の頃、バスでよく荒川橋を通り、老朽化した木製の吊り橋を、乗客を下ろした木炭バス(実際には薪を使用)が空車で渡ってしのいだことも経験しました。
この由緒ある集落の住民も、度重なる移転補償交渉の末、相模原市二本松地区等に移り、1965年3月にダムが完成。
その5月には台風6号により 満水の津久井湖が出現しました。
更に次の段階は、2001年 支流の中津川に完成した宮ヶ瀬ダムです。
国内最大級の重力式コンクリートダムによって支えられる宮ヶ瀬湖(貯水容量183百万m3)は、相模湖(40百万m3)や津久井湖(54百万m3)をはるかに超える大きな水がめですが、支川(中津川)の集水面積は小さいので、単独で貯水するのにかなりの時間を要します。一方、相模湖や津久井湖は流域面積の大きい本川と道志川の水を集める反面、貯水能力が十分でなかったので、水資源を有効に利用できなかったきらいがありました。
そこで、道志川の奥相模湖から宮ヶ瀬湖へ8kmの道志導水路、宮ヶ瀬湖から津久井湖へ5kmの津久井導水路を設けて、宮ヶ瀬湖の貯水能力を道志川および相模川本川と連携させ、総合運用する仕組みになっています。
宮ヶ瀬湖による水没は281世帯。水没面積が広い(490ha)せいもあるが、意外に多いです。住処を追われたのは住民だけでなく、サル・イノシシ・クマなどにも及んでいるはずですが、彼らに対する補償はなし。
このようにして、
ダム湖コレクションの相模川水系の部に集められた、相模湖、奥相模湖、津久井湖、城山湖、そして宮ヶ瀬湖という 5つのダム湖は、相互に連携して働く存在なのです。
この話題の発端、川の名前についての補足。
山梨県内の桂川、神奈川県内の相模川、河口部限定の馬入川の他に、古名の「鮎川」がありました。
昔ほどではないでしょうが、相模川は 今でも鮎釣りにとっては 知られた川です。厚木で 中津川と共に本川に合流する「小鮎川」という支流もあります。
1940年代後半、通学の帰路によく通った この三川合流の河原には、砂利採取船
[41599] が稼動していました。
[41660]参照。