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落書き帳記事集相模川


記事#記事日付
記事タイトル
発言者
[7962]2003年1月20日
甲州街道小原宿 Issie
[18537]2003年7月22日
垂直方向の上下地名 Issie
[22588]2003年12月7日
河岸段丘「上段」から Issie
[23576]2004年1月9日
道志と横浜をつなぐ道 Issie
[24389]2004年2月2日
相模原市田名 Issie
[25159]2004年2月22日
両国橋、三郡橋、国界橋、郡界橋 稲生
[31481]2004年8月7日
桂川 Issie
[34770]2004年11月3日
近代水道 事始めの三井(みい)村 hmt
[41660]2005年5月27日
砂利鉄道(相模川編) hmt
[41805]2005年6月1日
三浦半島の小地名→三浦一族の名字→相模川上流に津久井城→そして「津久井県」などの地名 hmt
[42974]2005年7月12日
「相模川(桂川を含む)」という括弧つき正式名称の川 hmt
[43001]2005年7月14日
相模川水系・コレクションに集められた5つのダム湖 hmt
[43357]2005年7月23日
ダム湖あれこれ hmt
[46257]2005年10月28日
水道水の話〜横浜編 みかちゅう
[48782]2006年1月27日
月夜野 Issie
[58450]2007年5月14日
手前味噌ですが アルバトロス
[58458]2007年5月14日
相模川 稲生



[7962] 2003 年 1 月 20 日 (月) 20:32:16 Issie さん
 甲州街道小原宿
hmt 相模川水系

[7958]Firo さん
与瀬宿と吉野宿の間か、吉野宿の先(たぶん、こっちだったと思うんですが、)
に小原宿というのもあったみたいですね。

八王子から小仏峠を越えて相模川の谷間に出てきたところが「小原(おばら)宿」,その隣に「与瀬宿」,そこからダム湖(相模湖)の底に降りて今は水没している「勝瀬(かっせ)」集落(宿場ではない)を経て再び段丘上に登って「吉野宿」,現在の小淵小学校の手前の「関野宿」を過ぎて国境を越え,甲州に入って「上野原宿」と続きます。
 小仏峠→小原宿・与瀬宿→吉野宿→関野宿→上野原宿→…
という順番。

このうち「小原宿」と「与瀬宿」はお互いに隣接してつながっているのですが,ここは両宿で“1つの宿場”を構成していました。一方が「江戸から甲州方面用」,もう一方が「甲州から江戸方面用」,つまりそれぞれ「上り」「下り」用に役割を分担していました。
ただし本陣があったのは「小原宿」の方で,こちらが与瀬よりは上位に置かれていたようです。
(なお,甲州街道には「小原・与瀬」のように2宿セットで上下の役割分担をしていた宿場がいくつかあります。たとえば,「下高井戸・上高井戸」「国領・下布田」「駒木野・小仏」「下鳥沢・上鳥沢」などのように。)

それから、吉野にしても、沢井にしても、青梅市の山間部に、同じ地名がありますね。

青梅周辺との関連はわかりませんが,相模湖町のHPには,小原(←大原)・与瀬(←八瀬)・千木良(←千本松原)・嵐山のように,この周辺の地名は京都の地名と関連がある。山深い地域の常としてここにも落人伝説があって,それらの地名も都からの移住者が持ち込んだ,なんて趣旨の説明がされています。
本当のところはどんなものだか。

[18537] 2003 年 7 月 22 日 (火) 18:59:14【1】 Issie さん
 垂直方向の上下地名
hmt 相模国津久井県、神奈川県津久井郡

入間郡(上)福岡については,特に情報を持ち合わせていないのですが…

[18524] スナフキん さん
土地の高低から「上」を付けたものと理解しています。

そういえば,神奈川県の相模原市には「上田名」という地名があります。
「かみたな」ではなくて,「うえだな」。
相模原市(大字)田名(合併前の高座郡田名村)の中の字で,バス停の名前になっています。意外な“難読バス停”ですね。
旧田名村は,相模川に面した自然堤防(?)上の集落(「久所(ぐぞ)」,バス停名は「水郷田名」)から河岸段丘上の集落まで,大きく見て3段の平坦面にわたって広がっているのですが,「上田名」はそのうちの“最上段”に位置する集落の1つ。相模川に架かる高田橋から段丘崖を上ったところにあります。久所集落から見た「上」という意味でしょうかね。
農協(支店)や小中学校のある,旧田名村の中心地区です。

もう少し上流の(大字)大島地区(旧高座郡大沢村の一部)には「上大島」「下大島」という字名のペアーがあります。…が,これは少しアンバランス。
「上大島」は「かみおおしま」と読みます。橋本駅からのバスの終点にもなっていますが,これは段丘上に広がっている「大島地区」の中で北端(最上流側)に位置をすることから,順当な命名と思われます。
ところが「下大島」は「しもおおしま」ではなくて「したおおしま」と読みます。
大島地区のあたりでは相模川が段丘崖の直下を流れていて相模原市側に河原がほとんどないのですが,その貴重な河原と中州(←これが「大島」の地名の由来,とも言われている)が,上大島地区から段丘崖の急坂(「大島坂」と呼ばれる)を標高差にして40mほど下ったところに広がっています。「大島河原」とも呼ばれていますが,ここの字名が「下大島(したおおしま)」。
大島地区の本体から見れば「下」にあるから,なのでしょうね。

津久井郡津久井町の西端(最上流側)に位置する「青根」地区(旧津久井郡青根村)は,道志川南岸にわずかずつ分布する河岸段丘の平坦面に集落が分散する山間地区ですが,地区の中心集落(東野)から道志ダム(奥相模湖)に下りる道に沿って平坦面ごとに「上原(うわはら)」「下原(したはら)」という地名が分布しています。

ところで,この地域では川沿いの低地や谷戸にある“親”集落から見て一段高い台地(段丘)上に開かれた“子”集落に「原」を冠する例があります。
相模川沿いの「当麻(たいま)」に対する「原当麻」(相模原市),恩田川(鶴見川の支流)支谷の谷戸に位置する「本町田」に対する「原町田」(町田市)等々。
城山町にある「原宿」というのも,相模川に合流する谷戸の中に位置する「久保沢」という宿場集落に対して台地上に新たに開かれた宿場集落ですから,この例の変種と言えるかもしれません。

[22588] 2003 年 12 月 7 日 (日) 10:26:34 Issie さん
 河岸段丘「上段」から
hmt 相模国津久井県、神奈川県津久井郡

相模原台地(の西半)も典型的な河岸段丘です。
厳密には細かく分類されるのですが,大雑把には「上段=相模原面」「中段=田名原面」「下段=陽原(みなはら/みなばら)面」,そして相模川沿いの沖積面=氾濫原という構造。
厚木(駅)や海老名から(もちろん,茅ヶ崎からでもいいけれども)橋本まで相模線の電車に乗ると,このあたりの地形をよく実感することができます(ただし「下段」は通過しない)。
あたしんちは「相模原面」の上にあります。

念のために申し添えておくと,河岸段丘と扇状地とは「排他的」な関係にはありません。
典型的な段丘地形である相模原台地や武蔵野台地の北西部(上流側)は扇状地であったものが台地化したものです。「隆起扇状地」と呼ばれます。
梓川が松本盆地に流れ込むあたりにも見事な河岸段丘が発達しています。この各平坦面もまた元は扇状地であったものです。しかし,この段丘地形は梓川が盆地を横断する間に目立たなくなり,松本市街北方で奈良井川と合流するまでにほぼ完全に消滅します。
それは松本盆地では「糸魚川・静岡構造線」の一部を構成する盆地東縁の断層を境に西側(盆地側)が継続的に“沈み込ん”でいて(東側が“持ち上がって”犀川丘陵となる),つまり過去の堆積面である段丘もろとも沈み込んで,その上を今の梓川や奈良井川が埋めているからです。
そして今,梓川は奈良井川合流点に向かって「最新の扇状地」を作りつつあるわけです。

河岸段丘は平野特有の地形ではありません。

[22578] 両毛人 さん
海水面の変動は、ほぼ一律に起こりますから、日本の諸河川において概ね同じような特質を持った河岸段丘が形成される傾向にあります。

…というものですから,当然,山間部にも見られることがあります。
関東平野西側の関東山地ではこのような地形形成が盛んであるために,ここを横断する相模川(桂川)や道志川,多摩川やその支流に沿って,深い谷間の両側に過去の平坦面=河岸段丘の断片が点在します。
そしてその平坦面上に集落が分布する,というのがこの地域の基本パターン。中央線の上野原駅のはるか上方の平坦面に乗っかっている山梨県の上野原市街がその典型です。

扇状地も河岸段丘も日本列島では珍しい地形ではありません。
ただし継続的に沈み込むような力の働いている地域では,過去の堆積面が沈み込んでその上を現在の堆積面が覆ってしまっているために,ここでは河岸段丘は見られない,ということになります。

[23576] 2004 年 1 月 9 日 (金) 18:47:40 Issie さん
 道志と横浜をつなぐ道
hmt 相模国津久井県、神奈川県津久井郡

[23564] N-H さん
このため野毛山近くになるとものすごい急坂の連続。

組合の用事で本部に行くとき,何より億劫な区間です。特に真夏には。

この道はさらにさらに伸びて,城山町の小倉橋のたもとまで続いています(ただし,小倉橋寄りの1kmほどは今は水道管の上ではありません)。
これこそが道志村と横浜市とを結びつける絆である「横浜水道」。
実は取水口があるのは道志村ではなくて,道志川が相模川(津久井湖)に合流する少し上流の津久井町青山。「三太物語」の里です。

小倉橋から段丘崖の雑木林の中のダラダラ坂(この区間が上で述べた「旧水道道」。現在の水道は城山ダムの堰堤の中を通り,段丘上を通過しています)を登って段丘上に上がった水道道は,相模原市の大島から相模原台地の広漠な畑の中を通り,小田急線沿いの住宅地を通り,境川をサイホンで越えて横浜市郊外の丘陵地帯へ入り,はるばる野毛山へ…。
現実の給水ルートは必ずしもこのまんまではないようなのですが,ずーーーーーーーーーっと1つながりに続く長い道です。

終点にあるのは,「戦後」の匂いのする市営野毛山プール。

[24389] 2004 年 2 月 2 日 (月) 00:15:25 Issie さん
 相模原市田名
hmt 相模川水系

[24367] くはさん
[24386] Firo さん

「田名」は,江戸時代に野州烏山藩の飛び地領であった時期から全体で1つの「田名村」を構成していました。それがそのまま,1878年の郡区町村編制法で「高座郡田名村」となり,1889年の町村制施行の際にも隣接する村と合併することなく,1941年の高北(高座北部)2町6村合併による「相模原町」発足を迎えました。
そのため「田名村」時代には“大字”を編成することなく,「相模原町」の一部となったときに旧村自体がそのまま「大字田名」となったものです。

郵便やピザの配達には非常に苦労する

江戸時代以来の「字」という区分があって,昔はこれで十分に間に合っていたんでしょうけどね。でも現在は「字」が使用されることはほとんどありませんから(バス停や信号の名前になっているくらい),地元に昔から住んでいて屋号で呼びあっているような人たちはともかく,それ以外の人には全く見当のつけようがありませんね。
若い地番は,相模川に面した崖下の「久所(ぐぞ)」地区にあるようです。確認はできなかったのですが,「1番地」もここにあるのではないかと思います。
そして,くだんの「11982番地」もまた,久所河原最下流の突端に。

それなりに面積があって,しかも多くの耕作者によって耕地化されている(後に宅地化,あるいは工業用地化した区域も含む)大字では,かなり大きな地番がありそうですね。

[25159] 2004 年 2 月 22 日 (日) 02:04:08【1】 稲生 さん
 両国橋、三郡橋、国界橋、郡界橋
hmt 相模川水系

[25129]牛山牛太郎さん
[25133][25146]Issie先生
[25138]まるちゃんさん
[25139][25143]両毛人さん

橋のことなら、任せてくださいな。
と言っても、三遠南信・静岡県・山梨県に限りますが・・・

まず、Issie先生ご指摘の道志渓谷の両国橋は、甲斐・相模の境界ですから、すなわち山梨・神奈川の県境ですね。昨年5月に郵便局など廻りながら、しっかり写真に収めて来てあります。
ただ今‘山梨県の県境’について鋭意編集中ですので、その証拠写真の閲覧については、もうしばらくお待ちください。

南アルプスの麓から下ってきた釜無川が、甲武信ヶ岳を水源とする笛吹川と合流する直前に三郡西橋と三郡東橋があります。
写真付きでどうぞ↓
三郡西橋  http://www3.tokai.or.jp/inou2002/fujikawa/fuji-hasi-2/fujikawa-syasinn-2.htm#kagaminakajoubasi
三郡東橋  http://www3.tokai.or.jp/inou2002/fujikawa/fuji-hasi-6/fujikawa-syasinn-6.htm#toyodumibasi
これは、中巨摩郡・南巨摩郡・西八代郡の三郡だと思われますが、実際には南巨摩郡には接していません。

甲斐・信濃の境となる国界橋は有名ですよね。
静岡県から長野県にスキーに出かける時には、必ずといっていいほど立ち寄ったのが‘ドライブイン国界’でした。ここでトイレ休憩をすませつつ、いよいよここからが信州なのだと、ワクワクしたものです。・・・今は、セブンイレブンになってしまっています。
http://www3.tokai.or.jp/inou2002/fujikawa/fuji-hasi-1/fujikawa-syasinn-1.htm

遠州から見ればもっと手前にあたりますが、国道52号の静岡・山梨県境となる川(境川)に架かるのが、甲駿橋です。

郡界橋は、もう山とあります。
たとえば、私の住む浜北市の小さな小川(馬込川支流の五反田川、別名・郡界川)に架かる橋が郡界橋です。引佐郡と浜名郡の境界だった橋と川です。今はどちらも浜北市に所属していますが・・・
それから、昨年北設楽から東加茂へ郡域変更した愛知県稲武町と足助町の境界に架かる橋も郡界橋です。
http://www3.tokai.or.jp/inou2002/syoumetu/syoumetu-2/inabu/inabu.htm
北設楽郡と東加茂郡の境界だった橋ですが、ともに東加茂郡になった今も、郡界橋のままです。

[25156]牛山牛太郎さん
随分調べが早いことですね。
浜北市の郡界大橋は平成になってから出来た国道152号線の橋、私が取り上げたのは県道に架かる郡界橋でした。

[31481] 2004 年 8 月 7 日 (土) 01:01:44【2】 Issie さん
 桂川
hmt 相模川水系

[31479] みかちゅう さん
では、相模国を流れる「相模川」はどうでしょう。上流の山梨県内では「桂川」で、下流の神奈川県内に入ると名前が変わってしまいますね。

こちらは甲州ではなく「相摸」で使われているのだから,素直に「相摸を横断(縦貫?)する川」という意味でしょうね。
つまり,命名法には2つのパターンがあるように思われます。

ところで,「桂川」と「相模川」の境目は通常,山梨・神奈川県境と理解されています。
けれども神奈川県側の相模湖町では「桂北」という地区呼称が行われています。
川,というか相摸湖の北側の与瀬・小原両地区を総称する呼称です。

もう1つ。
相摸ダムから少し下流の,相模湖町千木良と若柳の間には「桂橋」という橋が架かっています。昔は少し谷を下りたところに架かっていた歩行者専用の吊橋だったのですが,10年ほど前に車の通れるコンクリート橋がすぐ上流側に架けられて,こちらに「桂橋」の名前が譲られました。

どちらも,恐らくは「桂川」という呼称が頭にあるのでしょう。

もちろん,相摸湖なり,相摸ダムは人工のもので,相模湖町の与瀬から津久井町の方まで自然の境界となるべきものは見当たりません。
強いて言えば,相摸湖・津久井両町の境界の道志川との合流点か…。

そう考えると,どこが境目になるのでしょうねえ。

[34770] 2004 年 11 月 3 日 (水) 18:44:58 hmt さん
 近代水道 事始めの三井(みい)村
hmt 横浜2 都市横浜 hmt 相模川水系

[34657]Issieさんが明治の大合併から拾い出してくれた神奈川県の「合成地名」にある津久井郡三沢村。

小仏山地の南部、相模川北岸に隣接する三井(みい)村と中沢村が、1889年(明治22)に合併してできた三沢村ですが、旧2村を結ぶ山道は か細いもので、相互の交流も少なかったことと思います。クルマ社会(と言っても自動車ではなく、「馬力」と称する荷車)が到来し、太井(おおい)村(1925中野町)荒川経由の相模川に沿った新道が開通した20世紀には、三井と中沢の「隣接」は、単に地図上で繋がっているにすぎない状態といえたでしょう。

…と、ここまで書いて思い出したのが中郷村[34572]合併協議会HPの一番下にある地図を見ると、辛うじてぶら下がっています。ここは三井と中沢の間よりもはるかに険しい大毛無山など1000m以上の稜線。新井市側に南葉山林道がありますが、通りぬけできないのではないかな?

それはさておき、三沢村が、昭和大合併の際に、旧三井村が中野を中心とする津久井町へ、旧中沢村が久保沢を中心とする城山町へと分裂したのは当然の成り行きでしょう。

三井への交通体系は、昭和合併後に建設された城山ダムにより、また一変します。江戸時代には荒川番所が設けられていた かつての交通結節点・荒川は、1965年に津久井湖の底に沈むことになりました。湖上には赤い三井大橋(ランガー橋)が架けられ、ダムが完成して国道413号が堤の上を通行できるようになる前には、中野と橋本を結ぶ臨時のメインルートとして使われた時期もありました。

その三井村。明治大合併前の1887年、イギリス人技師パーマーにより、横浜水道の取水口が設けられました。相模川からポンプで揚水し、横浜の野毛山浄水場まで11里4町(約44km)を導水した、日本最初の近代水道(濾過、常時加圧給水)です。

これが [23576] Issieさんの“道志と横浜をつなぐ道”ですが、最初は道志川からの取水でなく、合流点から下流の相模川からの取水であり、事業主体も神奈川県でした。
1890年水道条例制定に伴い、水道事業は市町村が経営することになって横浜市に移管され、給水能力増強のため、合流点から3km上流の青山村で道志川からの自然流下方式により取水することになりました。この工事は1897年完成。

20世紀に入って1907年、山梨県全域が大水害に襲われ、水害対策の一つとして県内の御料地が県有地として下賜されました。水源確保問題をかかえていた横浜市は、これに注目。水源涵養の造林計画を立てて山梨県に運動し、1916年、道志村の3分の1以上の面積を占める恩賜県有林の買収に成功しました。
昨年、道志村から横浜市への県境越え合併問題が話題になった頃に、[19727]てへへ さんの記事があります。

水源を確保した横浜市は、更に串川村(1909年青山村他2村が合併して成立)青山地内で取水設備の変更や拡張工事を進め、戦後、神奈川県が実施した水利事業で、道志川から相模湖への導水や城山ダムによる水道管橋の水没などの影響は受けましたが、現在も道志川の水を横浜に送り続けています。

この横浜水道は、世界中から集まる船乗りに「赤道を越えても腐らない」との好評を得ていましたが、人口が増えた現在では、道志川系統の取水は、全体の10%にもならない状況になっているようです。 http://www.city.yokohama.jp/me/suidou/ja/mizu/suigen.html 参照。

ついでに合成地名コレクションに以前から収録されていた神奈川県中井町。
中村と井ノ口村の合併により成立ですから、「井ノ口」に対応する「もとの地名」は「中村」でなく、「中」になるのでしょうか。

[41660] 2005 年 5 月 27 日 (金) 19:37:03 hmt さん
 砂利鉄道(相模川編)
hmt 相模川水系

[41599]で、1891年に始まり、特に1908年からの20年間に各地で勢力を伸展した、多摩川の砂利鉄道を概観しました。その続きとして、神奈川県・相模川の砂利鉄道を紹介します。

相模川沿岸で,砂利採取と鉄道経営を最も大規模に行う企業として登場したのは相模鉄道です。
相模鉄道の最初の路線は、1921年開通の茅ヶ崎−寒川間の他に、寒川〜川寒川間の貨物支線があります。
このことから、当初から相模川の砂利採取と輸送が重視されたことがわかり、また川寒川支線廃止が1931年であることから、砂利鉄道の繁栄がこの頃に終わったことがわかります。

ようやく厚木までの延長を果たして、2ヶ月前に厚木に一番乗りしていた神中鉄道と接続したのが、1926年7月。厚木駅とは言うものの、相模川右岸にある“本当の厚木”=本厚木[25271]ではなくて、対岸の河原口(海老名市)にあります。橋本までの全通は、更に5年後の1931年。

厚木で接続した神中鉄道は、現在の相鉄線ですが、旅客主体の鉄道ならば、当然に横浜側から伸ばして行くべきだと思われるのに、最初(1926)の開業区間が相模川左岸(厚木)と二俣川の間であったというあたり、砂利鉄道の本質が見えてています。
西横浜(1929)、平沼橋(1931)を経てようやく横浜駅に乗り入れすることができたのは、1933年のこと。

相模川から東京への砂利輸送ルートは、茅ヶ崎経由飯田町と、小田急経由東北沢が主なもので、神中鉄道ルートは横浜市内向けだったようです。横浜駅西口駅前の広大な砂利置き場は、1953年頃まで使われました。その後の横浜駅西口[27546]の開発・発展に、この土地が大きな役割を果たしたことは言うまでもありません。

時代は戻りますが、相模鉄道の経営は、昭和産業を経て1941年に五島慶太の手に入り、既に五島慶太の手に入った神中鉄道と合併することになりました(1943)。
存続会社が相模鉄道ということは、この時点での評価が、神中線(現・相鉄線)よりも相模線の方が上だったということです。

それも束の間、1944年に、東海道本線と中央本線を連絡する重要路線と位置づけられた相模線は、戦時買収によって「運輸通信省線」になり、五島(東急グループ)の手を離れました。
相模線の私鉄経営が続いていたら(大都市に直結する神中線との地位逆転はあったにしても)電化(1991)や沿線開発がこれほど遅れることはなかったであろうと思うと、相模線にとり気の毒な出来事でした。

東急グループの相模鉄道として残った神中線は、戦時中には、東京急行電鉄の委託経営で、厚木線[28910]として運行していましたが、大東急解体の前年(1947/5/31)に相模鉄道の直接経営に戻りました。
相模鉄道という会社は、それまでの間、鉄道会社でなく、砂利会社だったわけですね。

なお、相模鉄道の横浜−二俣川間は、かつて600Vでした。朝に厚木を出たが、電車が途中でエンコして、横浜に着いたのは夕方だったという伝説(京王線[38371]のように本当でしょうか?)は、電力供給の不安定を物語っていたのか、ボロ電車を伝えていたのか。東急時代の1946/12/26に全線の1500V化が完了し、二俣川での乗り継ぎも解消しました。

後半は、本来の砂利の話から離れて、鉄分濃厚な記事になってしまいました。

[41805] 2005 年 6 月 1 日 (水) 18:45:36 hmt さん
 三浦半島の小地名→三浦一族の名字→相模川上流に津久井城→そして「津久井県」などの地名
hmt 相模国津久井県、神奈川県津久井郡 ARC 地名と姓名の遥かなる関係

[41743] 百折不撓 さん
少なくとも、信長以前の姓で地名と同じ場合は、地名が先と考えるのが妥当なのではないでしょうか。

征服した各地にアレキサンドリア(アラビア語でイスカンダル[7333]、アフガニスタン戦争の時にニュースに出たカンダハルも同じ)という都市を作りまくった「歴山大王」の伝統を受け継ぐ西洋と異なり、日本人は概して、地名に人名を付けることには慎重でした。
地名由来の名字が多いのに比べて、人名由来の地名は少ないようです。

そんなことを考えながら過去ログを見ていたら、アーカイブズ地名と姓名の遥かなる関係に行き当たりました。
その中には、下総相馬郡出身の相馬氏が、源頼朝の奥州征伐に参加して、与えられた領地が「相馬領」と呼ばれて定着したとか、甲斐国巨摩郡南部郷から出た南部氏が奥州北部で頭角をあらわし、その地の地名を生んだというような Issie さんの記事がありました。

このように、「地名→人名→別の場所の地名」 という類型があり、hmt として身近な実例は「津久井」です。
改めて過去ログを探ると、さすがに
[1617] Issie さん が
小さなところでは神奈川県の「津久井郡」は中世領主の津久井氏に由来するけれど,津久井氏は三浦半島南部の津久井庄(横須賀市)が本来の領地だった。
と、既に言及されています。
せっかくなので、津久井氏の出自である三浦一族のことなど。

12世紀、鎌倉幕府ができる少し前の東国の武士に、三浦義明という人物がいました。官職は「相模介」ですが「三浦大介」(みうらのおおすけ)で通っています。
この三浦大介義明は、弟や息子などの一族を三浦半島の各地に配し、彼らは、名字としてそれぞれの地名を名乗りました。三浦氏の惣領家の三浦義明の部を見ると、三浦の他に、杉本、和田など地名からの名字が多数出ています。後に鎌倉幕府侍所別当になったが、北条義時と対立して滅ぼされた和田義盛と、和田合戦の時に北条方についた三浦義村は、いずれも義明の孫です。
大介義明の弟、津久井次郎義行も、三浦半島の津久井庄(現・横須賀市)由来の名字です。これも地名先行の例。

ところが、津久井次郎義行の息子・為行(津久井太郎次郎義胤)が、現在の津久井町根小屋の宝ヶ峰に築城し、付近一帯を津久井領としたのが「津久井」の地名の起源と伝えられます。今度は人名先行です。

この城が歴史の舞台に登場するのは戦国時代。小田原北条氏が甲斐の武田氏に備えて、内藤景定を城主として「津久井衆」という家臣団を編成した後のことです。1569年には、付近の三増峠で両軍の激突がありました。その後、秀吉の小田原攻めの際(1590)には、「小田原評定」を続けている間に、津久井城も落城。

江戸時代初期には、「慶安三年(1650)相州津久井領絵図」が示すように「津久井領」と呼ばれていましたが、元禄4年(1691)に愛甲郡と高座郡とに分属していた津久井領が両郡から独立した際に、「津久井県」と命名されました。
命名者である代官・山川金衛門貞清は、漢学者だけに、この地は、郡と称するにはあまりに弱小と考えたのでしょう。
[1196]Issie さん や、森鴎外の「寒山拾得」にもあるように、
本来は「県」よりも「郡」の方が大きい区画です。

実際問題としては、日本にはミニサイズの郡がいくらでもあったので、わざわざ「津久井県」を名乗る必要もなかろうと思いますが、とにかく「津久井県」は「近世日本で唯一の県」になり、この公式名称は明治3年に「津久井郡」になるまで続きました。
「津久井町」は、1955年昭和合併の産物。

最初に挙げた三浦大介義明のエピソード。
彼は、治承4年(1180)に源頼朝の挙兵に応じ、平家打倒に立ち上がりましたが、両軍が合流を果たす前に、頼朝が石橋山で敗れてしまったので、衣笠城に引き返して平家の追撃を防ぎ、一族を脱出させました。89歳の大介はその際に討死しましたが、三浦一族は頼朝軍に加わって功績を挙げ、鎌倉幕府の要職につきました。
大介の死後17年、頼朝は、義明の功績をたたえて生けるが如くに扱ったので、三浦大介は 89+17=106歳までの長寿を保ったとされるようになりました。

厄払いに曰く。
「アーラ目出度いな目出度いな。目出度きことにて払いましょう。
鶴は千年、亀は万年、東方朔は九千年、浦島太郎は三千歳、三浦大介百六つ。」
川柳の “厄払い さて短命は三浦なり” は、このセリフを踏まえています。
#東方朔は、漢の武帝の宮廷にいた人物。西王母の桃を三つ盗み食いしたので長命との伝説あり。

[42974] 2005 年 7 月 12 日 (火) 15:39:50【1】 hmt さん
 「相模川(桂川を含む)」という括弧つき正式名称の川
hmt 相模川水系 ARC 信濃川と千曲川 〜場所によって名前の変わる川〜

焼島潟[42835]関連で 阿賀野川/阿賀川の記事[42945]が先行しましたが、
同じ川が場所によって名前が変わる例
という話題の発端は、「保津川、大堰川、桂川」[42933] YSK さんでした。

同じ名前を持つ「桂川」ですが、こちらは京都ではなくて、富士山北麓・山中湖や忍野八海を水源とする桂川。
甲斐の国から相模の国に入ると、「相模川」になります。信濃の国を離れて越後の国に入ると「信濃川」([77] Issieさん)とは逆。

…で、公式の名前は? と、国土交通省関東地方整備局 相模川の歴史 を見ると、次のように記してありました。

相模川は正式名称を「相模川(桂川を含む)」とされており、山梨県内では現在でも「桂川」という呼称がとられています。…
桂川と相模川
 相模川は一般に呼び習わされているこの名称のほかに「桂川」という名称を持っています。この2つの名称は「相模川(桂川を含む)」として、昭和44年に一級河川に指定された時に正式名称として登録されました。これは、相模川が山梨県内の区間においては桂川と呼ばれ、この名称が古くから親しまれており、この名を残したいという希望が強くあったためです。現在でも相模川の山梨県内の区間は「桂川」という呼称がとられています。

写真を見ると、「一級河川・相模川・山梨県」という標識板の上に「通称・桂川」とという標識板がついています。

このことから、「相模川(桂川を含む)」という括弧つきの「正式名称」は、山梨県内の現地呼称「桂川」と神奈川県内の現地呼称「相模川」とを勘案して登録された「河川管理用の名称」であって、公文書には用いられるものの、「地名」としての「桂川」や「相模川」を置き換えるものではなく、河川標識も従来の名前によっているいことがわかります。

話は少し飛びますが、同様に「さいたま市」は「行政管理用の名称」であり、「地名」としての「浦和」や「大宮」に取って代わるような性格のものではないと考えます。ところが、現実には道路標識の行先をわざわざ「さいたま」に書き換えてしまい、この落書き帳でも話題になりました。
例えば、[37066] ただけん さん
たぶん所沢市街だったとおもうのですが、
さいたま← →さいたま
という標識(ただし記憶はあやふやですが)をみてビックリした記憶があります。

なお、この件については、総務省の行政苦情救済推進会議によると、
道路管理者に改善を求めたところ、「さいたま」と表示していた道路案内表示の一部は、行先の方面を分かりやすくするため、「旧浦和」、「旧大宮」、「旧与野」の文字を追加して表示することになりました。
により、一応は解決したようです。

[1271] オーナー グリグリさんも、
「小倉(北九州市の新幹線停車駅)」「八戸(本八戸駅がより市の中心に近い)」といった説明を加えれば済むことです。
と、発言されていますが、括弧つきの正式名称「相模川(桂川を含む)」は、この趣旨に沿ったものでしょうか。

相模川に戻ると、その河口部には、「馬入川」という名もあります。
建久九年(1198)の暮、橋供養に訪れた源頼朝の馬が暴れて水に入ったのが由来とされています。この時に落馬したと伝えられる頼朝は十数日後に死亡。働き盛りの権力者を襲った突然の事故と あっけない死。義経や平家の怨霊に祟られたという説が流布した所以です。関東大震災の際に、現在の馬入川から約1.2km離れた(現)茅ヶ崎市内で地上に現れた橋脚がこの事件の現場ではないかと推測され、史跡「旧相模川橋脚」に指定されています。

河口に近い部分だけに特別な通称名があるという点では、六郷川[20031]と共通します。
隅田川も、以前は荒川下流部の通称名とされていましたが、放水路が荒川の本流になった現在は、荒川の支流(派川)の名になりました。隅田川の河口部には「大川」[33296]の名もありましたが、現在は「大川端リバーシティ」などに用いられている程度でしょう。

さて、[42940] ゆう さんの記事にあるように、生活圏の異なる人々が暮らして、それぞれの地域での呼び名を伝えてきた大きな川では、同じ川が場所によって名前が変わるのは自然なことでしょう。一方、河川管理者にとっては、あちこちで名前が変るのは困る。というのが河川名称の悩み所です。

公式名称は下流の「渡川(わたりがわ)」だった川[20034]が、「四万十川」の知名度が上がり公式名を「渡川水系四万十川」変えてしまったり(1994/7/25)、一度は「新宮川」を公式名称にしたが[10360]、実態と離れすぎていたので「新宮川水系熊野川」に変更[42935](1998/4/9)とか。
スナフキん さん[20031]によると、過去に建設省が河口から源流に至るまで、徹頭徹尾名称は通すという方針をうち立てたものの、信濃川で例外を認めたことでほつれが生じ、今は事実上サジナゲ状態に陥っているとのこと。総元締めにフラフラされると国土地理院も大混乱で再三括弧の中身が入れ替わり、スナフキん さんもお困りの様子。

[43001] 2005 年 7 月 14 日 (木) 13:53:40 hmt さん
 相模川水系・コレクションに集められた5つのダム湖
hmt 相模国津久井県、神奈川県津久井郡 hmt 横浜2 都市横浜 hmt 相模川水系

[42974]で登場させた相模川水系の流域は、hmtの出身地を含みます。もう少し続けさせてください。

桂川の源流部は、宇津湖という湖だったものが、富士山の溶岩流によって山中湖と忍野湖に分かれ、更に忍野湖は干上がって、8つの湧水口のみが残り、現在の忍野八海(おしのはっかい)になったとされています。
「海なし県」にも「海」があったのですね。海コレクションにも収録されています。
個々の名前は○○池なのに、集まると なぜか八海?

相模川水系の水は、利水と発電に高度に利用されています。
明治20年(1887)から給水を開始した「近代水道事始め」の横浜水道については既に[34770]で記しました。
水道敷設の目的は、明治10年代に流行したコレラなどの伝染病感染防止にありました。少し後のことになりますが、東京の淀橋浄水場建設も同じ動機でした[36207]

高電圧長距離送電の草分けとして技術史に残る駒橋発電所(1907、現・大月市)を始めとして、明治から大正にかけて建設された数多くの発電所の電力は、京浜地区の工業化に役立ちました。駒橋発電所の下流にある日本三奇橋のひとつ「猿橋」に隣接し、観光客の目に触れる「八ツ沢発電所一号水路橋」(1912)も、発電に付帯する施設です。

明治・大正時代に水道局や電力会社の個別の事業としてスタートした相模川の利水・発電は、昭和になると、神奈川県が主体となった「相模川河水統制事業」へと変わってゆきます。これは、アメリカ合衆国のTVAの成功などの影響を受けた、ダムによる河川開発の一環で、1937年当時の内務省を中心に、全国17河川で実施されたとのことです。

具体的には、与瀬町(現・相模湖町)に相模ダムを造って発電を行い、下流の水量を安定させるための調整池(沼本ダム)から久保沢方面に導いて、横浜市と川崎市の水道用水および相模原台地の灌漑用水を分水し、残りを「谷ヶ原」(相模川の谷に臨む台地)から本流に還元する際生ずる落差により再び発電をするという計画でした。

相模ダムは、日本最初の本格的な多目的ダムです。勝瀬部落を中心とする136世帯の水没地区住民の反対も強権発動ともいえる圧力で押し切られた「ご時世」の中、1940年着工。第二次大戦の影響を受けて 戦後(1947)にずれ込んだ完成式典には、昭和天皇が臨席し、ダム湖は「相模湖」と命名されました。
1955年には、支流の道志川に道志ダム(奥相模湖)が作られ、発電と秋山川を経由した相模湖への導水に利用されます。

戦前に計画されたこの河水統制事業には、農業用水が含まれていました。そして、食糧増産を目指して、大戦後の1948年から相模原台地に大規模な農業用水路の建設が開始されました。しかし、日本の復興に伴ない、相模原台地の畑の一部は工場用地に転用され、次いで都市化の波が訪れ、1963年完成の時には、この「大規模畑地かんがい」の用水路は使われなくなる運命が待ち受けていました。

ところで、相模川総合開発事業は、1960年に決定された城山ダム建設によって、次の段階を迎えます。
これは、洪水調節、水道及び工業用水の供給、日本初の大規模揚水式発電を目的とするもので、付帯設備として上流調整池の本沢ダム(城山湖)と、支流・串川からの取水路も作られました。

このダムで水没することになった285世帯の中心・荒川地区は、江戸時代には「荒川番所」[34770]が設けられていた かつての交通結節点です。
江戸時代末期に嫁入りした曽祖母の実家は、ここ太井村の名主でした。私も子供の頃、バスでよく荒川橋を通り、老朽化した木製の吊り橋を、乗客を下ろした木炭バス(実際には薪を使用)が空車で渡ってしのいだことも経験しました。

この由緒ある集落の住民も、度重なる移転補償交渉の末、相模原市二本松地区等に移り、1965年3月にダムが完成。
その5月には台風6号により 満水の津久井湖が出現しました。

更に次の段階は、2001年 支流の中津川に完成した宮ヶ瀬ダムです。
国内最大級の重力式コンクリートダムによって支えられる宮ヶ瀬湖(貯水容量183百万m3)は、相模湖(40百万m3)や津久井湖(54百万m3)をはるかに超える大きな水がめですが、支川(中津川)の集水面積は小さいので、単独で貯水するのにかなりの時間を要します。一方、相模湖や津久井湖は流域面積の大きい本川と道志川の水を集める反面、貯水能力が十分でなかったので、水資源を有効に利用できなかったきらいがありました。

そこで、道志川の奥相模湖から宮ヶ瀬湖へ8kmの道志導水路、宮ヶ瀬湖から津久井湖へ5kmの津久井導水路を設けて、宮ヶ瀬湖の貯水能力を道志川および相模川本川と連携させ、総合運用する仕組みになっています。
宮ヶ瀬湖による水没は281世帯。水没面積が広い(490ha)せいもあるが、意外に多いです。住処を追われたのは住民だけでなく、サル・イノシシ・クマなどにも及んでいるはずですが、彼らに対する補償はなし。

このようにして、ダム湖コレクションの相模川水系の部に集められた、相模湖、奥相模湖、津久井湖、城山湖、そして宮ヶ瀬湖という 5つのダム湖は、相互に連携して働く存在なのです。

この話題の発端、川の名前についての補足。
山梨県内の桂川、神奈川県内の相模川、河口部限定の馬入川の他に、古名の「鮎川」がありました。
昔ほどではないでしょうが、相模川は 今でも鮎釣りにとっては 知られた川です。厚木で 中津川と共に本川に合流する「小鮎川」という支流もあります。
1940年代後半、通学の帰路によく通った この三川合流の河原には、砂利採取船[41599] が稼動していました。[41660]参照。

[43357] 2005 年 7 月 23 日 (土) 18:29:28 hmt さん
 ダム湖あれこれ
hmt 相模川水系

[43330] yamada さん  早池峰湖
Yahoo!地図(マピオン系)では完成図が描かれていませんが、ウオッちずでは、水が貯まった状態で描かれています。

写真で、水が貯まって「ダム湖」が出現している状態を確認しました。

[43323] 美濃織部 さん
「谷中湖」、ダム湖コレに追加しました。

所在地は、一部ですが栃木県野木町にもかかっています。

「一部かっている」と言えば、宮ヶ瀬湖も、ダムサイト付近で、ほんの僅かですが 神奈川県愛川町にかかっています。
…と書いて、見直したら、宮ヶ瀬湖の所在地では、神奈川県津久井町も落ちていました。
宮ヶ瀬湖の北部、虹の大橋から上流の早戸川の谷と、落合の下流・ダムサイト直前までの北岸は津久井町です。

ダムサイトに近い南山(みなみやま)南麓の帰属について、江戸時代に紛争がありました。元文5年(1740)に天領の青山村(現・津久井町)と下野烏山藩領の半原村(現・愛川町)との間で起こった南山秣山の境界争い(南山入会事件)です。

余談ですが、相模の国には、小田原藩主大久保氏の流れである下野烏山藩の飛び地がありました。例えば田名[18896] [24389] Issie さん や厚木。ついでに、下野の桜町に陣屋のあった 旗本の宇津氏も 大久保氏の流れでした。だから、桜町領の財政再建に 二宮金次郎が登場し、現在も 栃木県に 二宮町があるわけです。

それはさておき
この裁判は 天領と藩領の争いという管轄問題があるために、幕府の最高裁判所である 評定所で審議されました。双方の言い分をまとめて 評定所に提出した4畳半くらいの大きさの立会絵図面の 裏面には、翌 寛保元年(1741)の判決文が残されており、青山村が勝訴しました。「大越前」(寺社奉行大岡越前守)など、三奉行を含む裁判官の記名捺印があります(串川財産区史)。
毎日新聞1992/5/23は、この「大岡裁き」のおかげで、津久井町には水没補償金20億円が入ったと伝えています。

ところで、上野原市・桂川橋の下流に通称「島田湖」という水溜りがあり、島田湖と記載している地図もあるそうです。この湛水域は、直接に人工のダムで支えられた湖ではないのですが、下流に相模湖ができて流れの勢いが弱くなったために、盆地から流れ出る口に土砂が溜まり、2次的に生成した自然の隘路によるものと思われます。
はっきり「ダム」とは言えず、「湖」というにも浅すぎるし、釣人の間で生れたらしい名が どこまで定着しているかも不明なので、コレクションには推薦できませんが、参考まで。

[46257] 2005 年 10 月 28 日 (金) 19:09:27 みかちゅう さん
 水道水の話〜横浜編
hmt 相模川水系

[46221]matsuさん、[46256]烏川碧碧さん
私の勤務先の人が都庁に行った帰りに「東京水」なるものを買ってきました。皆さんご存知ですか?
「東京の水道水はまずい」と固定観念を植え付けられていましたが、近年は変わりつつあるのですね。烏川碧碧さん添付の記事によれば、「配水途中で水道管の錆や貯水槽の汚れが混入するので、蛇口までこのおいしさが保たれるわけではない」のが実情のようですが、蛇口の水がおいしいならばペットボトルの「高い」水は売れなくなるわけで・・・。

で、水道水でわりとおいしいと言われているのが我が横浜市。どの区も5系統あるさまざまなルートの水がブレンドされているようなので、どこの区がおいしい水なのかはよくわかりません。かつて道志村にゴルフ場開発が浮かんだ時には、横浜市民の「水源が汚染される」との反対運動によってつぶされたとか。水源となっているゆえに秋には市民を対象とした公募による道志村の植林ツアーも企画され、私も行ったことがあります。そういえば道志村が横浜市との合併協議の申し入れをしたこともありましたね。

これ以上の詳しい話は横浜市水道局道志村ホームページをご覧ください。横浜市では「はまっ子どうし」なるペットボトルの水を100円にて販売しています。東京都のとは異なり「水道の水」というわけではないようですが、たぶんおいしいと思います。地域の防災訓練の際に参加者に配布されることがあったような気がします。


こんなわけで横浜市と道志村の関係はけっこう強いものなのですが、いかんせん道志村の訪問は自家用車でないと不便すぎます。いつかは行ってみたいと思っているのですが、土休日、学校の長期休暇中の大削減ダイヤではなかなか踏み切れません。各自治体訪問の一環で道志村に行くことを考えている方は、それなりの調査をしてから行かれるのをお勧めします。

[48782] 2006 年 1 月 27 日 (金) 20:29:27【1】 Issie さん
 月夜野
hmt 相模川水系

昨日,うちの同僚と無駄話をしていて,「そう言えば,群馬県にも“月夜野”ってところがあるよね」なんて話題になりました。

[48774] みかちゅう さん
・[神]津久井町青根・[山]道志村月夜野のほぼ県境で路線は接続。

ここのことです。
群馬県の方が,普通の人にははるかに有名なんだけどね。
神奈川県側から県境の 両国橋 を渡った山梨県側のたもとにあって,同じ折り返し場を神奈中と富士急(今はどちらも子会社になっているけれど)で共用しています。
昔は神奈中側では「両国橋」と呼んでいたけど,今ではどちらも「月夜野」バス停という名前になっています。

実は,うちのHP(今年末が開設10周年)の当初のメインコンテンツはこの辺り(相模原・津久井郡・上野原)のバスや列車の時刻表だったのでした。特に神奈中が自社HPで時刻表検索サービスを始めたこともあって,このコンテンツからは撤退しました。代替コンテンツは2004年7月以来「開設準備中」です。

さて,月夜野での乗り継ぎはつい3〜4年前まで毎日可能で,うちのHPでも「津久井(三ヶ木)・藤野駅〜月夜野〜道志〜都留市駅・富士吉田駅 乗り継ぎ時刻表」なるもの掲載していたのですが,以前は1時間に1本もバスを運行していた神奈中(津久井神奈交バス)が大幅な減便を行い,もともと1日に数回しか月夜野に乗り入れていなかった富士急(富士急都留中央バス→富士急山梨バス)もさらに減便を行って,乗り継ぎは事実上不可能になりました。
神奈中が大幅減便をした2002年当初は,青根線(三ヶ木〜東野〜月夜野)で土・日全便運休という思い切ったものでしたが,いつのまにか朝1往復・昼1往復が復活したようですね。

・なお、甲州街道で藤野〜上野原をつなぐルートは14年ごろに廃止、代替交通もなし。

こちらも同じときに上野原から撤退しました。しばらくはそれでも県境を越えて藤野町最西部の佐野川地区の入口にあたる「藤野台団地入口」(という名前だけど,所在地は山梨県上野原町[当時])まで走っていたのですが,結局藤野駅以西は廃止されてしまいました。

…つまりね,藤野町佐野川地区の西半分は山梨県の上野原に道路がつながっていて,ここを走る富士急山梨バスの路線(上野原駅〜佐野川〜井戸)も 山梨県上野原市→神奈川県藤野町→山梨県上野原市 と,県境を2度越えるのでした。

[58450] 2007 年 5 月 14 日 (月) 17:58:26 アルバトロス さん
 手前味噌ですが
hmt 相模川水系

[58410] 稲生 さん
ところで、私・稲生は、本日は相模原市の高田橋から相模湾河口までの橋めぐりをしてきました。

相模川の橋めぐり如何だったでしょうか、ところで、高田橋ですが一週間早ければ、TVでも紹介されたこともありますが、毎年四月29日から五月5日まで高田橋の河原で「泳げ鯉のぼり相模川」が催うされており、多数の鯉のぼりを見ることができたはずです。但し、混雑を覚悟の上ですが。(笑)
また、高田橋の上流にもう一つ橋があります。神奈川の景勝50選に選ばれている、小倉橋と新小倉橋です。小倉橋は、幅が狭くすれ違うのにも大変でしたが、数年前新小倉橋が出来ました。旧城山町、今は相模原市の所在です。
手前味噌ですが、機会がありましたらどうぞ訪れてみてください。一見の価値はあるとおもいます。

  

[58458] 2007 年 5 月 14 日 (月) 23:56:56【1】 稲生 さん
 相模川
hmt 相模川水系

[58450]アルバトロスさん
高田橋の河原で「泳げ鯉のぼり相模川」が催されており
貴重な情報をありがとうございました。
また、ご紹介の小倉橋と新小倉橋も趣きのありそうな橋ですね。

私・稲生は、皆様も薄々お気づきかと思いますが、自家用車で色々と「巡る」のが好きでして、最近のメインは郵便局めぐりとなっております。それに加えて、毎年1つの河川(主に1級河川)をターゲットにして、最上流から河口までの建造物(橋・ダム・堰・水管橋など)を写真に収めております。実は、今年のターゲットが相模川(桂川)なのです。
ざらっと下調べしたところ、約120の橋などがあるようでして、幹川流路延長が109qと、私の旅の原点となった天竜川の213qの半分ほどの長さにもかかわらず、天竜川の橋とほぼ同数であることが判りました。(細かく見ていくと、山梨県の大月あたりまでが、結構多いようです。)
そのため、起点の山中湖から上野原あたりまでで1日、上野原あたりから小倉橋までで1日、そして高田橋から河口までで1日という3区分しての橋巡りを予定しました。先日は、その1回目というわけです。

ちなみに、2002は天竜川、2002と2003にまたぎ豊川、2003は富士川(釜無川・笛吹川)、2004は矢作川、2005は大井川、2006は安倍川を、それぞれ巡ってきました。

※15日早朝、若干文章を推敲しました。



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