讃岐
[81076]に次いで、明治13年共武政表の
相模 を眺めます。
明治13年共武政表と、ほぼ同時期である明治14年3月に内務省地理局から出版された『郡区町村一覧』の
神奈川県 もリンクしておきます。こちらは武蔵国に属する1区6郡(現在は横浜市と川崎市になっている久良岐郡・橘樹郡・都筑郡と「三多摩」)が、相模国9郡を併せて管轄していました。
その“神奈川県相”
[47125]という地域の前身は、明治9年に分割された足柄県でした。
再編成前の足柄県は、相模国プラス伊豆国(伊豆七島を含む)という、現在の石川県を思わせる南北に長い県でした。
この相模9郡の物産欄を見ると、「米、麦…」で始まる郡が続いています。
唯一の例外は hmtの出身地・津久井郡で、生糸に始まる山村の産物が、平野部を持つ郡との違いを示しています。
車両の数も最小ですが、少数ながら船舶もあり、相模川舟運が存在したようです。
讃岐で7つあった「戸数一千以上」の地名は、相模では小田原、横須賀、藤沢駅、浦賀の4つしかありません。
高座郡藤沢駅を見ると、
大久保町、坂戸町、鎌倉郡西富町、大鋸町 合1262戸 6235人 土俗藤沢駅と唱ふ
とあります。
[81020] 白桃 さん が、讃岐大川郡に記されている“土俗森ト唱フ”について疑問を呈しておられますが、その同類です。
落書き帳過去記事を調べたら、藤沢については
[49271] Issieさん による詳しい解説がありました。
藤沢は境川に架かる東海道の藤沢橋をはさんで高座郡と鎌倉郡とにまたがる宿場町で,西から順に高座郡側の「坂戸町(さかどまち)」「大久保町(おおくぼまち)」,鎌倉郡側の「大鋸町(だいぎりまち)」,そして遊行寺の周囲の「西村」の4つの地区を総称して「藤沢宿」と呼んでいました。
その後の改称やら合併やら複雑ですが、明治になってからも引き続いて 藤沢宿>藤沢駅という総称が用いられ、共武政表にも使われているということようです。
このような現地で使われていた総称の扱い。
藤沢のように現在の市名に採用された地名は問題ないのですが、森の場合は、当時の現地の呼び方が記録されないまま失われ、今となっては“そういう呼び方を聞いたことがありません。”ということになるのでしょう
また、総称が どこまで採用されているのかも、曖昧なのかもしれません。例えば三浦郡を見ると、三崎日ノ出町以下三崎を冠する8町が並んでおり、合計807戸になりますが「三崎」という単一の町場の名として扱われてはいません。
浦賀は、現在では横須賀市の一部になっていますから、現在相模にある 17市のうち「戸数一千以上」の地名に記録されたのは、僅かに3市ということになります。
藤沢より先に市になった平塚はと見ると、大住郡平塚駅と須賀村
[77631] とを合せても 1000戸になりません。
「戸数一千以上」に達しない 落選市の中の大物は、言うまでもなく相模原市。
「軍都」相模原が誕生するよりも 60年も前の陸軍が作った統計資料ですから、姿が見えないのも当然。
それでも、現在の相模原市域には、高座郡上溝村が 475戸と記録されています。