「1880年の全国都市リスト」
[81072]の中で、現在は大都市の一部になっている地名を拾っています。
最も目立つのは摂津国で、地名表には大阪四区に続いて 天王寺以下、大阪近郊の町場が並んでいます。
共武政表の時代の地形図としては、陸軍の作った迅速測図がありますが、大阪付近のもの【明治17年
[44237]】を掲載することができなかったので、町村制施行後になりますが、 Old Map Roomを利用します。
こちらには、明治22年(1889)から翌年にかけて湊町-奈良間が開業した大阪鉄道(現・関西本線)が描かれています。
天王寺番外編 で、明治31年測量の地形図を表示してください。天王寺村と書いてありますが、鉄道よりも北の地域は、明治30年の第1次市域拡張で大阪市(南区)に編入されている筈です。停車場の付近には殆んど人家がなく、少し離れた四天王寺を取り囲むように、門前町が形成されているのを見ることができます。
こんな時代でも、鉄道は オープンカット工法により 道路との立体交差を実現しているところは立派。
もっと広範囲の様子を知りたいところですが、この地図でも、大阪とは市街地が連続していない近郊の門前町であった天王寺村の様子をうかがうことはできると思います。
逆に言えば、市街地でなかったからこそ、鉄道敷設が可能だったのでした。
続いて記された 北平野と 西玉造は、大阪城付近から その南にかけての町場と思われます。
これらの町は、町村制施行後には東平野町と玉造町になりましたが、
明治30年の大阪市拡張 によって、郡部から大阪市(東区、現・中央区)になりました。
町村制施行で南隣の阿部野村を合併していた天王寺村は、この明治30年に また南北が別れたのですが、四天王寺のある北半分は大阪市東区に変ったのに、天王寺村の名は阿部野神社のある南半分に残りました。
この不自然な状態は、大正14年(1925)の分区により 四天王寺のある側に 天王寺区が生まれ、四天王寺のない天王寺村は 大阪市に編入されて住吉区(更に1943年の分区で阿倍野区)になり解消。
明治30年に戻ると、大阪の東側と同様に、他の三方向にあった 西成郡の木津(南区)、難波(南区)、上福島(北区)、曽根崎(北区)、北野(北区)も、すべて明治30年には大阪市に編入されました。括弧内は編入後の区名です。
大阪鉄道の湊町よりも一足先の 1885年に開通した 阪堺鉄道
[61108](1898南海鉄道)の 難波ターミナルも、ここ西成郡難波村が 鉄道敷設可能な限界地(大阪四区に最も近い市街地周辺)にあったことを示しているのでしょう。。
西成郡南町は、
郡区町村一覧 にも見当たらず不明ですが、おそらく 大阪の北側で、西中島南方駅あたり(南方村)でしょうか? 大阪日報(M13/5/2)は“府下南町の坂井傳平が巨費にて製靴所設立”と
報道し、共武政表は南町の物産に「靴」と記しています。大阪は、藤田伝三郎
[67425]以来 靴作りの盛んな地でした。
住吉郡の「平野」は、東区平野町や前記東成郡東平野町とは別の
平野郷 のことです。
7町村が合併してこの町名になったのは
町村制施行時 でした。
大阪から少し離れた位置の住吉郡平野郷町は、天王寺以下9つの町場と違い、明治30年には市内に編入されていません。
郡制施行に先立ち 明治29年に行なわれた郡再編
[62662]による
新たな東成郡 を経て、大正14年(1925)の第2次市域拡張で
大阪市(新設された住吉区)になりました。東住吉区(1943)を経て、1974年から平野区。
1880年の都市リストの中に 17も挙げられていた摂津の町場の内 11(大阪を含む)は、このようにして大阪市になりました。
そして、菟原郡御影は神戸市に編入。池田・伊丹・尼崎・西宮はそれぞれ市になっています。