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落書き帳

明治13年共武政表

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[81072] 2012年 7月 11日(水)16:58:29hmt さん
明治13年共武政表を眺める (1)はじめに
[81018] YT さん
陸軍参謀局が編纂した『共武政表』ですが、とうとう全巻を近代デジタルライブラリーで閲覧可能となっていました。

白桃都市人口研究所[26898]は、本業の材料が増えて、“嬉しくもあり、悩ましくもあり”という状況[81020]
私も これに釣られて 明治13年の共武政表 を眺めてみました。
こちらは野次馬ですから、体系的な研究などではなく、気の向くままの雑感を記すつもりです。

最初に目に着いたのが、全国戸数一千以上地名表 なのですが、「1880年の全国都市リスト」ともいうべき この地名表 に入る前に、[62939]と同様に各国トップページへの リンクINDEXを作成しておきます。

直接リンクしている各国毎の記事は、「各郡表」と、それに続く「人口一百以上輻湊地」とから構成されています。
上巻には、五畿・東海道・東山道の合計33ヶ国、それに東海道の「附」として伊豆七島と小笠原島も収録されています。
下巻には、北陸道から西海道までの5道38ヶ国と壱岐・対馬の二島、沖縄県が発足した琉球、北海道11ヶ国を収録。
郡区町村編制法 では島嶼についての例外規定がありますが、「郡」のなかった琉球・小笠原などの島嶼も、共武政表の対象になっています。

上巻又は下巻の中で 各国を渡り歩いて調べる場合は、国名の後に記したコマ番号により移動するのが便利でしょう。

上巻
五畿山城 17大和 22河内 28和泉 32摂津 35
東海道伊賀 44 伊勢 46志摩 53尾張 54三河 60遠江 65駿河 69伊豆 74伊豆七島 76小笠原島 77
甲斐 78相模 83武蔵 88安房 102上総 107下総 115常陸 127
東山道近江 137美濃 148飛騨 156信濃 158上野 168下野 176岩代 181磐城 198
陸前 210陸中 219陸奥 228羽前 276羽後 284
下巻
北陸道若狭 5越前 7加賀 25能登 50越中 59越後 75佐渡 85
山陰道丹波 87丹後 91但馬 96因幡 100伯耆 108出雲 117石見 124隠岐 129
山陽道播磨 130美作 137備前 141備中 147備後 152安芸 157周防 163長門 169
南海道紀伊 175淡路 185阿波 187讃岐 195伊予 201土佐 213
西海道筑前 229筑後 238豊前 243豊後 249肥前 257肥後 257日向 281大隅 287薩摩 290
二島壱岐 294対馬 295
琉球国琉球 297
北海道渡島 301後志 309胆振 315石狩 317天塩 320日高 322十勝 324北見 325釧路 327根室 328千島 330
[81076] 2012年 7月 12日(木)19:14:43hmt さん
明治13年共武政表を眺める (2)讃岐の人口輻湊地
[81073] 白桃さん
讃岐には、志度、高松、宇多津、丸亀、多度津、琴平、観音寺と7つも出てきますが、もう一邑出てきてほしい

「戸数一千以上地名表」ですが、讃岐だけ「戸数500以上」に緩めて拾い上げてみました。
8位以下は、大内郡三本松村 香川郡仏生山町 那珂郡榎井村 三野郡仁尾村の内字仁尾ノ町 香川郡中ノ村内字東西中村 阿野郡坂出村の内字通町 小豆郡土庄村 豊田郡和田浜の内字浜 大内郡引田村 香川郡岡村の内字香西。

期待通りの結果になりましたが、人口では三本松が仁尾に負けて9位。

戸数や人口のことはさておき、私が大いに関心をそそられたのが物産欄です。
三本松には「煎鰯 砂糖」と記されていました。
讃岐三白[80930]の一つである砂糖だけでなく、いりこ(煮干)の生産地だったのですね。

三白とその加工品が記されていたのは、木綿が観音寺、砂糖が三本松と坂出。
塩は坂出だけでしたが、加工品の醤油は、高松・仁尾・和田浜・土庄と多くの町が関係していました。

讃岐の人口輻湊地が、「米、麦…」というお定まりの物産でなく、特産物を生かした町づくりをしていた様子に感じ入りました。
[81089] 2012年 7月 13日(金)23:35:26hmt さん
明治13年共武政表を眺める (3)相模国
讃岐[81076]に次いで、明治13年共武政表の 相模 を眺めます。

明治13年共武政表と、ほぼ同時期である明治14年3月に内務省地理局から出版された『郡区町村一覧』の 神奈川県 もリンクしておきます。こちらは武蔵国に属する1区6郡(現在は横浜市と川崎市になっている久良岐郡・橘樹郡・都筑郡と「三多摩」)が、相模国9郡を併せて管轄していました。

その“神奈川県相”[47125]という地域の前身は、明治9年に分割された足柄県でした。
再編成前の足柄県は、相模国プラス伊豆国(伊豆七島を含む)という、現在の石川県を思わせる南北に長い県でした。

この相模9郡の物産欄を見ると、「米、麦…」で始まる郡が続いています。
唯一の例外は hmtの出身地・津久井郡で、生糸に始まる山村の産物が、平野部を持つ郡との違いを示しています。
車両の数も最小ですが、少数ながら船舶もあり、相模川舟運が存在したようです。

讃岐で7つあった「戸数一千以上」の地名は、相模では小田原、横須賀、藤沢駅、浦賀の4つしかありません。

高座郡藤沢駅を見ると、
大久保町、坂戸町、鎌倉郡西富町、大鋸町 合1262戸 6235人 土俗藤沢駅と唱ふ
とあります。

[81020] 白桃 さん が、讃岐大川郡に記されている“土俗森ト唱フ”について疑問を呈しておられますが、その同類です。

落書き帳過去記事を調べたら、藤沢については [49271] Issieさん による詳しい解説がありました。
藤沢は境川に架かる東海道の藤沢橋をはさんで高座郡と鎌倉郡とにまたがる宿場町で,西から順に高座郡側の「坂戸町(さかどまち)」「大久保町(おおくぼまち)」,鎌倉郡側の「大鋸町(だいぎりまち)」,そして遊行寺の周囲の「西村」の4つの地区を総称して「藤沢宿」と呼んでいました。

その後の改称やら合併やら複雑ですが、明治になってからも引き続いて 藤沢宿>藤沢駅という総称が用いられ、共武政表にも使われているということようです。

このような現地で使われていた総称の扱い。
藤沢のように現在の市名に採用された地名は問題ないのですが、森の場合は、当時の現地の呼び方が記録されないまま失われ、今となっては“そういう呼び方を聞いたことがありません。”ということになるのでしょう
また、総称が どこまで採用されているのかも、曖昧なのかもしれません。例えば三浦郡を見ると、三崎日ノ出町以下三崎を冠する8町が並んでおり、合計807戸になりますが「三崎」という単一の町場の名として扱われてはいません。

浦賀は、現在では横須賀市の一部になっていますから、現在相模にある 17市のうち「戸数一千以上」の地名に記録されたのは、僅かに3市ということになります。
藤沢より先に市になった平塚はと見ると、大住郡平塚駅と須賀村[77631] とを合せても 1000戸になりません。

「戸数一千以上」に達しない 落選市の中の大物は、言うまでもなく相模原市。
「軍都」相模原が誕生するよりも 60年も前の陸軍が作った統計資料ですから、姿が見えないのも当然。
それでも、現在の相模原市域には、高座郡上溝村が 475戸と記録されています。
[81118] 2012年 7月 15日(日)22:28:03hmt さん
明治13年共武政表を眺める (4)武蔵国
明治 13年共武政表[81072]武蔵 を眺めます。
武蔵国には、東京府6郡 + 神奈川県6郡 + 埼玉県 17郡 = 29郡があり、戸数 52万2012、人口 230万3122人。

「戸数一千以上」に該当する地名は、東京15区(712,457人)を1つに数えて 19あり、越後の 20に次ぐ大国です。

横浜区(72,630人)も目立って大きな町ですが、これに次ぐクラスは、人口1万人余の八王子、忍、神奈川駅となり、内藤新宿は人口1万人を切ります。

幕末の開国に際して 開港場の 名前だけを貸した 形になった 東海道宿場町の「神奈川」[54351]も、1901年には 横浜市の一部になりました。
内藤新宿(1920年)に続き、品川・板橋・日暮里(金杉村)・千住と東京外周部の7つの町は1932年の隣接5郡一括編入[74867]の一環として、東京市になりました。

「戸数一千以上」の町場のうち、残りの9つは それぞれ別の市になりました。
明治13年当時の人口の多い順に列挙すると、八王子、行田(忍)、川越、熊谷、幸手、岩槻、越谷(越ヶ谷宿・大沢町他)、春日部(粕壁)、本庄です。

このグループの中では、八王子が 1917年に最初に市になったのは順当ですが、明治13年に1万人余の人口があった忍町が 行田市になったのは、戦後の 1949年と ずいぶん後のことです。

三本松と同様に「戸数一千以上」の基準に達しなかったために、明治 13年のリスト には選ばれなかった地名。
その中で、現在は「政令指定都市」になっている地域が、武蔵には2つありました。

相模原市[81089]と違い、武蔵国の該当分は宿場町です。
東海道の 橘樹郡川崎駅は 749戸・3214人。
中山道では 北足立郡浦和宿 902戸・3920人と 大宮宿 405戸・1962人。

川崎市も さいたま市も、これらの宿場町が核になって発展してきた都市ですが、現在の市域は大幅に拡大されており、かつての宿場とは無関係の地区が、大きな人口を抱えています。

なお、2005年に岩槻市編入があったので、現在のさいたま市域の一部は明治 13年の「戸数一千以上」リストに含まれていました。
[81146] 2012年 7月 20日(金)23:33:20【2】hmt さん
明治13年共武政表を眺める (5)「1880年の都市リスト」から 現在の「町」を探す
明治13年共武政表を眺める を続けます。

明治13年共武政表[81072]には、 全国戸数一千以上地名表として 324の町場が列挙されています。
この地名リストを一見して受ける印象は、(当然のことですが)現代の「市」の母体になっている地名が多いことです。
例えば、相模国高座郡「藤沢」という地名から、これが現在の神奈川県藤沢市に対応することを容易に推察できます。

しかし、本文 を見ると、“(高座郡)大久保町、坂戸町、鎌倉郡西富町、大鋸町 合1262戸 6235人 土俗藤沢駅と唱ふ”と記されており、折角の都市リストなのに、何か正式の地名でないような印象も受けます。「土俗…ト唱フ」については、[81020][81100]参照。

明治14年1月1日調の本籍人口[81018]とのことなので、内務省が作成した 郡区町村一覧 が、共武政表と同時代の資料であることがわかります。ところが、内務省の資料では 高座郡「藤沢宿」となっており、大久保町等の名はありません。

陸軍の調査による共武政表に記された「大久保町」以下の地名は、郡区町村編制法施行前(大区小区により戸籍を管理した時代)の地名だったのでしょうか。

それはさておき、明治13年、つまり約 130年前の 都市リストに記された 324の町場について、現在の地名を調べてみると、讃岐国寒川郡「志度」が香川県「さぬき市」に変っているように、合併などで名前が変った事例も含め、「市」の数は全国で 225市ありました。

“もう一邑”が惜しかった 明治 13年の讃岐七大都市?[81073]には、現代も「町」である自治体が、琴平・宇多津・多度津と3つもランク入りしていました。
全国的には少数派ですが、由緒ある町が多そうなので、このような町場を 324件のリストから探し出してみました。。

五畿:該当なし
東海道:尾張国知多郡内海(愛知県知多郡 南知多町)、尾張国海東郡蟹江本町(愛知県海部郡蟹江町)、常陸国東茨城郡磯浜(茨城県東茨城郡大洗町)

東山道:近江国蒲生郡日野(滋賀県蒲生郡日野町)、美濃国羽栗郡笠松(岐阜県羽島郡笠松町[75499])、磐城国田村郡三春(福島県田村郡三春町)、陸前国遠田郡馬場谷地(宮城県遠田郡涌谷町[63503])、陸奥国西津軽郡鰺ヶ沢(青森県西津軽郡鰺ヶ沢町)、羽前国西村山郡谷地[22178](山形県西村山郡河北町)

北陸道:越後国三島郡出雲崎(新潟県三島郡出雲崎町[16050]
山陰道:石見国鹿足郡津和野(島根県鹿足郡津和野町)
山陽道:周防国大島郡久賀(山口県大島郡周防大島町)

南海道:紀伊国有田郡湯浅(和歌山県有田郡湯浅町[57891])、讃岐国鵜足郡宇多津(香川県綾歌郡宇多津町[24696])、讃岐国那珂郡琴平(香川県仲多度郡琴平町)、讃岐国多度郡多度津(香川県仲多度郡多度津町[22108]

西海道:肥前国西松浦郡有田皿山(佐賀県西松浦郡有田町)、肥後国玉名郡長洲(熊本県玉名郡長洲町)
北海道:渡島国檜山郡江差(北海道檜山郡江差町)、渡島国津軽郡福山(北海道松前郡松前町)

合計 20町。
すべて [75064]白桃さんが、明治19年の人口3000人を基準に選定した“平成に残る「明治の名邑」”の 74町に含まれています。

多くは同一の地名で続いていますが、馬場谷地→涌谷町のように、隣接地名が使われている事例もあります。

このような 町場名・近世村名・町村名の関係については、千本桜さんが事例を挙げて考察された 記事 が多数あります。
上にリンクしたのは一例で、マガジンの形にまとめて利用できればよいと思うのですが、私は手を出せずにいます。

千本桜さんの視点による 新マガジンの創刊を期待しています。

【追記】
白桃マガジン に、新テーマ:昼間人口の特集3編がアップされています。
まだ落書き帳での告知が出ていなかったので、ついでで失礼ですが、お知らせしておきます。
[81154] 2012年 7月 21日(土)15:42:21hmt さん
明治13年共武政表を眺める (6)京都市に編入された伏見と柳原
[81146]で、「1880年の都市リスト」 に記録された 324の町場のうち、現在も「町」である 20町を列挙しました。
「町」として残らず、225市にも数えられなかった 79地名の大部分は、その後 拡大した大都市の一部として 飲み込まれた町場です。

リストの冒頭には、山城国京都二区(愛宕葛野両郡に跨る上京区と 愛宕郡下京区)に続いて、愛宕郡柳原と 紀伊郡伏見とが記されています。

郡区町村編制法初期の伏見は、119町よりなる 伏見区 でしたが、明治14年1月10日布告で廃止[74376]されました。
共武政表では 紀伊郡伏見駅 となっています。これが 1889年の町村制による統合で紀伊郡伏見町。
1929年には伏見市になったものの、1931年 京都市拡張 に際して編入され、自治体でない 伏見区 に変りました。

現在の伏見区の区域は、元の伏見市だけでなく、周辺部を大幅に編入して形成されたことが指摘されています [3419]
また、京都市と旧伏見市とが、市街地としては一体化しておらず、旧深草町を介して辛うじて連続していることも指摘されています[6414]

京都の「柳原」という地名については、私は全く知識がありませんでした。

共武政表では 愛宕郡の下京区に続いて 柳原庄1017戸 とあります。
変遷情報により、1889年の町村制で愛宕郡柳原庄から紀伊郡柳原町になり、 1918年に京都市に編入された ことが判明。
なお、郡区町村一覧は 愛宕郡・紀伊郡のいずれにも 柳原が見当たらず。

調べてみると、場所は京都駅の東側、河原町七条あたりで、室町時代から続いた河原者に由来する町とわかりました。
柳原銀行記念資料館 崇仁地区の歴史年表。
現在は柳原でなく、崇仁(すうじん)という地名 が使われているようです。
[81176] 2012年 7月 24日(火)15:40:55【1】hmt さん
明治13年共武政表を眺める (7)大阪市に編入された10の町場
「1880年の全国都市リスト」[81072]の中で、現在は大都市の一部になっている地名を拾っています。
最も目立つのは摂津国で、地名表には大阪四区に続いて 天王寺以下、大阪近郊の町場が並んでいます。

共武政表の時代の地形図としては、陸軍の作った迅速測図がありますが、大阪付近のもの【明治17年[44237]】を掲載することができなかったので、町村制施行後になりますが、 Old Map Roomを利用します。
こちらには、明治22年(1889)から翌年にかけて湊町-奈良間が開業した大阪鉄道(現・関西本線)が描かれています。

天王寺番外編 で、明治31年測量の地形図を表示してください。天王寺村と書いてありますが、鉄道よりも北の地域は、明治30年の第1次市域拡張で大阪市(南区)に編入されている筈です。停車場の付近には殆んど人家がなく、少し離れた四天王寺を取り囲むように、門前町が形成されているのを見ることができます。
こんな時代でも、鉄道は オープンカット工法により 道路との立体交差を実現しているところは立派。

もっと広範囲の様子を知りたいところですが、この地図でも、大阪とは市街地が連続していない近郊の門前町であった天王寺村の様子をうかがうことはできると思います。
逆に言えば、市街地でなかったからこそ、鉄道敷設が可能だったのでした。

続いて記された 北平野と 西玉造は、大阪城付近から その南にかけての町場と思われます。
これらの町は、町村制施行後には東平野町と玉造町になりましたが、明治30年の大阪市拡張 によって、郡部から大阪市(東区、現・中央区)になりました。

町村制施行で南隣の阿部野村を合併していた天王寺村は、この明治30年に また南北が別れたのですが、四天王寺のある北半分は大阪市東区に変ったのに、天王寺村の名は阿部野神社のある南半分に残りました。
この不自然な状態は、大正14年(1925)の分区により 四天王寺のある側に 天王寺区が生まれ、四天王寺のない天王寺村は 大阪市に編入されて住吉区(更に1943年の分区で阿倍野区)になり解消。

明治30年に戻ると、大阪の東側と同様に、他の三方向にあった 西成郡の木津(南区)、難波(南区)、上福島(北区)、曽根崎(北区)、北野(北区)も、すべて明治30年には大阪市に編入されました。括弧内は編入後の区名です。
大阪鉄道の湊町よりも一足先の 1885年に開通した 阪堺鉄道[61108](1898南海鉄道)の 難波ターミナルも、ここ西成郡難波村が 鉄道敷設可能な限界地(大阪四区に最も近い市街地周辺)にあったことを示しているのでしょう。。

西成郡南町は、郡区町村一覧 にも見当たらず不明ですが、おそらく 大阪の北側で、西中島南方駅あたり(南方村)でしょうか? 大阪日報(M13/5/2)は“府下南町の坂井傳平が巨費にて製靴所設立”と報道し、共武政表は南町の物産に「靴」と記しています。大阪は、藤田伝三郎[67425]以来 靴作りの盛んな地でした。

住吉郡の「平野」は、東区平野町や前記東成郡東平野町とは別の 平野郷 のことです。
7町村が合併してこの町名になったのは 町村制施行時 でした。

大阪から少し離れた位置の住吉郡平野郷町は、天王寺以下9つの町場と違い、明治30年には市内に編入されていません。
郡制施行に先立ち 明治29年に行なわれた郡再編[62662]による 新たな東成郡 を経て、大正14年(1925)の第2次市域拡張で 大阪市(新設された住吉区)になりました。東住吉区(1943)を経て、1974年から平野区。

1880年の都市リストの中に 17も挙げられていた摂津の町場の内 11(大阪を含む)は、このようにして大阪市になりました。
そして、菟原郡御影は神戸市に編入。池田・伊丹・尼崎・西宮はそれぞれ市になっています。
[81182] 2012年 7月 25日(水)15:32:26hmt さん
明治13年共武政表を眺める (8)伊勢・尾張で他の都市の一部になった町場
「1880年の都市リスト」 に記録された 324の町場のうち、現在では他の都市の一部になっている地名を確認しています。
合計で13(京都2、大阪10、神戸1)あった京阪神[81154][81176]に続いて、今回は東海地方を見ます。

伊勢国一志郡 松崎浦。変遷情報により 明治22年松ヶ崎村、昭和29年松阪市に編入。
伊勢国度会郡の 宇治と山田
共武政表では2つの町場として扱われていますが、変遷情報を見ると、町村制施行により宇治山田町[79347]に統合される前は、宇治8町、山田22町もの町があったようです。宇治山田市(1906)を経て、現在は もちろん伊勢市(1955)。

尾張国では 名古屋と同じ 愛知郡 の熱田駅、下ノ一色村、鳴海村、それに西春日井郡の 下小田井村の4地名が 現在の名古屋市域に入っています。
熱田は 神宮の門前町でもあり、宿駅でもあります。
同じく東海道宿駅である 鳴海の物産として 絞り があるかと思いましたが、有松を含めて物産欄に記載なし。

変遷情報では 下之一色村は単独で町村制の村になり、下之一色町を経て 1937年に名古屋市(南区)に編入。同年の分区で中川区になっています。
下小田井村は、町村制で西枇杷島町になり、2005年に清洲町, 新川町と共に「清須市」新設。

西春日井郡下小田井と 愛知郡下之一色については、白桃都市人口研究所所長の白桃氏が苦闘しているとの記事[67791]がありましたが、問題は解決したのでしょうか?

知多郡には、1郡だけで7つもの地名が並んでいます。
この中で、醸造業が盛んな成岩(ならわ)村は、町村制発足後 間もなく成岩町となり、1937年に 北側の半田町、亀崎町(リストの乙川村・亀崎村)と合併して半田市になりました。なお、半田村は1880年の戸数が 1000に僅かに及ばず、リストから漏れています。

常滑は、知多半島東岸の半田・武豊に対する 西岸の町ですが、最近は 中部国際空港セントレアで 名古屋都市圏の玄関になりました。
常滑も難読ですが、「とこなめ」という読み仮名を必要としないくらい有名な陶器。
しかし共武政表でたくさん列挙されている物産の最後ですね。
常滑自身はそのままの名で「市」になっていますが、リスト中の大野村(町村制で大野町)が 1954年に常滑町他と合併で常滑市の一部になったので、ここに書き出しました。

結局、知多郡の中では成岩(半田市)・常滑・横須賀(東海市)・内海(南知多町)を現在の自治体の核と考え、乙川・亀崎・大野の3地名を他の市域に入った町場として扱いました。
尾張国全体では、熱田・下ノ一色・鳴海・下小田井を加えて7地名。
伊勢国は松崎・宇治(伊勢市の核は山田とする)の2地名が 他の市域に入りました。京阪神からの累計 22。
[81187] 2012年 7月 26日(木)13:17:34【1】hmt さん
明治13年共武政表を眺める (9)都市圏の一部になった地名 関東編
明治 13年共武政表を眺める を続けます。

「1880年の都市リスト」 に記録された 324の町場のうち、関八州で 他の都市の一部になった地名は 11あります。
地域としては[81118]などと重複しますが、近くの大物が核となって都市圏を広げたために、現在はその一部になっている地名という視点で再度記します。

海防の重要性が認識された幕末以来、江戸防衛の拠点として重要視されていた 相模国三浦郡 浦賀 は、横須賀と拮抗する約6000の人口を持つ町でした。
Issieさん[81097]によると、三浦按針が仕えた徳川家康の時代に 海外貿易の候補地にもなったとか。
共武政表の時代には まだ横浜にあった 東海鎮守府[29190] が横須賀に移転してから後は、軍都・横須賀が発展。
戦時中の 1943年には 浦賀町も 横須賀市に編入 されました。

武蔵国4郡に跨る 東京十五区 に隣接する 荏原郡北品川宿・南品川宿、北豊島郡下板橋宿と金杉村、南豊島郡内藤新宿、南足立郡千住中組・千住北組。
もちろん拡大する東京都市圏に飲み込まれましたが、このうち、内藤新宿[38354]だけは 一足先の 1920年に 東京市四谷区に編入 されました。
北豊島郡金杉村は、町村制で 日暮里村(1913日暮里町) になっています。これを含めた6つの町場は、1932年の 隣接5郡一括編入で ようやく東京市内になりました[74867]

東京が 周辺の町場を飲み込むよりも ずっと前の明治34年(1901)に 横浜市内に編入されたのが、武蔵国橘樹郡 神奈川駅(町村制前に神奈川町) です。
県の名になった 「神奈川」 は、市の名にはなれませんでした。
神奈川区を含む横浜市で最初の5区が誕生したのは 昭和2年(1927)になってからでした。

武蔵国南埼玉郡岩槻。これは一度は「独立の市になることができた」地名ですが、現在は さいたま市岩槻区 と区名になっているので、「他の都市圏の一部になった地名」の仲間に加えておきます。
さいたま市の核となっている 北足立郡 の浦和宿(902戸)・大宮宿(405戸)・与野町(274戸)は 1000戸未満のためリストから落ちています。

関東の最後に、常陸国東茨城郡 上市と下市
統合後の自治体名は、もちろん明治22年の市制で最初の市として誕生した水戸市です。

東海道諸国では、伊勢の松崎から常陸の下市(水戸市の核は上市とする)まで 20の町場が他の都市圏の一部になりました。
[81195] 2012年 7月 28日(土)19:04:11hmt さん
明治13年共武政表を眺める (10)岐阜都市圏に飲み込まれた 加納
戸数一千以上を擁する 「1880年の都市リスト」 には、324の地名が挙げられていました。
これに対応する現在の自治体の数は、225市20町ですから[81146]、79地名が「都市圏の一部になった地名」という計算です[81154]

そこで、京都近くの柳原・伏見に始まり、大阪付近[81176]・東海[81182]・東京付近[81187]と、都市圏の一部になった地名を巡ってきました。済んだのは、畿内13、東海道20の合計 33ですから、まだ 79の半分にもなりません。少し先を急ぎましょう。

…とか言いながら、東山道諸国に足を踏み入れたら、最初に現れたのが「岐阜」と「加納」でした。
美濃国厚見郡 を見ると、上加納を含めて3つの町が並んでいます。戸数は、岐阜町1596, 上加納村725, 加納駅1073。

岐阜町だけに「官庁6」とあり、ここが行政中心地であると知れます。明治4年に笠松に置かれた岐阜県庁は、今泉村[4082]の西本願寺仮庁舎を経て明治7年には小熊村[20742]に 2代目の県庁舎が開庁。現在の岐阜市司町で、共武政表では「岐阜町」に含まれていますが、町村制施行前の正式行政地名では、まだ岐阜51町ではなく“隣接4村”[79386]に県庁があったのですね。木造畳敷きの庁舎で、下記3代目県庁舎の南側にありました。

大正13年に鉄筋3階建で建設された3代目県庁舎(現・岐阜総合庁舎)までは市役所の北の司町にありました。
しかし、昭和41年に移転した現在の4代目岐阜県庁舎は、岐阜市内とはいうものの、岐阜市役所から遠い郊外の「薮田」にあり、多くの都道府県が 便利な市内中心地に庁舎を置いている中で 特異的です。県庁舎の歴史 参照。

落書き帳記事 岐阜・加納 は、県庁舎だけでなく、3つの町に関する Issieさんの記事も収録しています。

戦国大名・斎藤氏の支配拠点として現れた 城下町の井ノ口[39531]→織田氏の岐阜[4082]
関ヶ原の戦で西軍に与した織田秀信【清州会議では秀吉に抱かれ、信長の嫡孫であることをアピールされた 幼名三法師】の改易により 岐阜城が破却された後は、城下町ではなくなったものの、長良川水運の拠点である岐阜は、近世にも 商業都市として生き続けました[39561]
その稲葉山下・長良川南岸の市街地・岐阜は、明治4年の新政府による府県統合で、美濃国を管轄する「県の名」に使われ、行政中心としての地位回復が約束されました。
暫定的に笠松[75944]に置かれた県庁も、明治6年には岐阜(今泉仮庁舎)に来ました。

戦国時代の山城である岐阜城を廃した徳川家康は、中山道の要衝を放置しておいたわけではなく、亀姫の夫の奥平信昌をして、岐阜の南の加納に築城させました。その後は譜代大名の城下町として、濃尾平野北部に重きをなした加納。
[4082] Issie さん
【明治6年岐阜県庁が今泉村に移転した】この段階で「岐阜」と「加納」とはお互いに独立した都市でした。

長良川の「岐阜」と中山道の「加納」との間を取り持ったのは、第3の交通機関・鉄道でした。
文明開化の世になり計画された中山道幹線鉄道。明治15年にできた敦賀港(金ヶ崎)・長浜間の路線によって建設資材を送り込みながら、明治20年には加納に到達しました[61303]

明治20年に加納停車場のできた地が「上加納村」で、加納城と城下町とが作られた「下加納村」よりも岐阜寄りの北側にありました。その2年後の市制町村制施行時の変遷情報を見ると、“上加納村の一部”が岐阜市内に編入されていますが、これが Issieさんの [20736]上加納村岐阜駅前というタイトルの地名なのでしょう。

[79395]によると、最初に作られた当時から加納にあった岐阜駅は、大正になってから、更に南に動いたとのことです。
岐阜と加納の間の上加納に鉄道の停車場ができて、互いに独立していた2つの町場の間が市街化し、その岐阜駅が南に動いたことが駅前市街地の南側への拡大を更に進めというプロセスで、加納の町は岐阜都市圏の一部として飲み込まれていったように思われます。

先を急ごうと言った舌の根も乾かぬまま、オフ会最有力候補地[80767] の意識も手伝い、思わず長文。
[81262] 2012年 8月 6日(月)14:45:47【1】hmt さん
明治13年共武政表を眺める (11)東山道で都市圏の一部になった地名の残りは 松代と土崎
1880年に戸数一千以上だった 324都市 を現在の226市20町と対比し、都市圏の一部になった78地名を確認しています。

下記[81146]の記載と1市違っています。
合併などで名前が変った事例も含め、「市」の数は全国で 225市ありました。
これは、この段階になって「桐生市」が抜けていたことに気がついたからです。
その原因は1880年の上記リストにおいて、「上野国山田郡桐生新町」とあるべき箇所が「…相生新町」になっていたからです。
「桐生」の近く(渡良瀬川の西)に紛らわしい字の「相生」という地名【相老とも書く】が実在することも手伝い、共武政表の誤記を見落して、桐生市を数え落としていました。

…というわけで、岐阜市の一部になった加納[81195]に続いての町場は、長野市の一部になった 信濃国埴科郡松代
真田氏の城下町から昭和大合併の時代までは独立の松代町を保っていましたが、1966年に長野市・篠ノ井市などと新設合併して、拡大された長野市の一部になりました。

松代と言えば ♪象山佐久間先生も皆此国の人にして♪(信濃の国)と共に思い出すのが「松代大本営」。
67年前に原爆攻撃を受けた後、本土決戦ということになり、これが役立つ事態に至らなかったのは幸いでした。

その次はずっと北に飛んで、羽後国南秋田郡土崎。土崎湊町 2309戸の物産は「茶」とあります。これは意外。
久保田城下町を支えた雄物川河口の港町。北前船関連で落書き帳アーカイブズにも少し登場。
南秋田郡土崎港町が秋田市に編入されたには1941年(昭和16年)ですが、これは大正から昭和初期にかけて行なわれた大規模な河川改修と関係するものなのでしょう。城下町秋田 新旧地形図の比較考察
[81275] 2012年 8月 8日(水)13:15:27hmt さん
明治13年共武政表を眺める (12)都市圏の一部になった地名 北陸道編
タイトルの「都市圏の一部になった地名」とは、1880年に戸数一千以上だった234都市 の中で現存する 229市【注】20町 の中核になっていない町場のことです。
【注】[81262]で225→226に改めたばかりですが、数え落しを発見して再修正。
東山道では 加納[81195]・松代・土崎[81262]と3つしかなかったが、北陸道については 13もありました。

若狭国遠敷(おにゅう)郡 西津
明治13年当時は滋賀県でしたが、明治14年2月には福井県。都に近い日本海側の要港・小浜の隣接地です。
例の“但西津村湊村…合1234戸6272人 土俗西津と唱ふ”に現れる地名を見ると、南川・北川などを隔て 小浜の北に隣接した市街地 の総称であったことが分かります。町村制施行時には、これが雲浜村と西津村になり、小浜町に編入されたのは1935年。
現在の写真 川の右側が西津です。

越前国阪井郡 阪井港 2037戸
九頭竜川河口の 三国港を指していると思われます。[81263] 白桃さん により福井の外港として挙げられています。
共武政表では 丸岡 1022戸より大きな町になっていますが、現在の坂井市の中心市街地は 丸岡であろうと考え、阪井港はこちらに分類しました。

加賀国石川郡 美川町と金石町
金沢の外港・金石(かないわ)も [81263]にあります。金石町は戦時合併[80427]で金沢市に編入(1943)。
美川町は平成大合併で白山市新設(2005)。
「美川」という地名については、[70733] 千本桜 さんのコメントがあります。

越中国 婦負郡八尾 2005年に新設合併した富山市[79563]の一部になりました。おわら風の盆

越中国 上新川郡 水橋と東岩瀬
東岩瀬は富山の外港[81264]でもあります。そして、表に名を連ねた「滑川・水橋・東岩瀬」から私が思い出したものは 越中富山の薬売り(配置薬) でした。しかし、リストの物産欄には 何故か「売薬」の記載はありません。
富山の薬と直接の関係はなく、共武政表とは時代も違うのですが、陸軍に関連した薬と言えば、日露戦争における装備品の「征露丸」が有名です。

越後国中蒲原郡 沼垂・白根・村松
かつては信濃川と阿賀野川とが合流していた河口の 沼垂(ぬったり)は 難読地名ですが、左岸の新潟よりもずっと古い港町で、町村制の時代になっても新潟市とは別の町でした[889]。新潟市に編入されたのは大正3年(1914)です。

大凧合戦 が行なわれる 白根(しろね)の 中ノ口川は 中蒲原郡と西蒲原郡との境界でした。
1933年から 1999年まで存在した 新潟交通白根駅は、中蒲原郡白根町>白根市の対岸にありました。ここは西蒲原郡味方村でしたが、その前身も白根村でした[7507]。つまり、白根は 「自治体越えの地名」 であったわけです。
2005年に白根市と味方村とを編入した新潟市では、両岸地名(白根と西白根)は 共に南区に属しています。

越後国三島郡 与板と寺泊
直江兼続が城主だった与板は、信濃川の河港でした。寺泊は、佐渡への旅の出航地。寺泊の魚市場は、現在も海の幸を求める客を集めていますが、共武政表の物産欄にも水産物が並んでいます。
与板町も寺泊町も、共に 2006年長岡市に編入。

越後国中頸城郡 直江津
直江津は 越後国府や国分寺のあった地で、高田よりも先に開けた土地でしょうが、近世以降は頸城(くびき)地方の中心は城下町の高田になり、直江津は その外港[81269] という関係になりました。明治時代(1911)に市制を施行した高田に対して、直江津市の誕生は戦後(1954)と遅れています。昭和46年(1971)2市合併で、伝統ある2つの地名は「市名リスト」から消えました。

上越市「直江津区」も存在するのですが、住所地名としては使われていないので、その存在は地元以外には殆んど知られていないでしょう[75709]
「直江津駅」は鉄道の拠点でもありましたが、新幹線ルートから外れてしまいました。
このようにして、直江津の知名度が次第に薄れてゆくとしたら、残念なことと思います。


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